ピピピピ、と音を立てる携帯に起こされてのそりと顔を上げる。黒いシーツに埋めていた身体を億劫ながらも動かして、着信の相手を見てがばりと起き上がった。寝起きのもどかしい手つきでフリップを弾きピッと通話を繋げる。
『おそよう恭弥』
「…おはよ。何か用事?」
 待ち望んでいた連絡だったのに、僕の口から出たのは素っ気ないいつもの調子の言葉だった。不器用すぎると自分に歯噛みしながらベッドを軋ませて足を下ろす。電話の向こうの相手はそんな僕を気にしたふうもなく『今日さ、デートしない?』なんて言うのだ。危うく立ち上がりかけた足が滑ってベッドに逆戻りするところだった。
 どきどきとうるさい胸を片手で押さえる。急な誘いすぎて、頭が追いつかない。
「どうしたのさ、急に」
『最近恭弥と出かけてないなーって。嫌?』
「嫌じゃ、ないよ。行く」
 歯切れの悪い返事をしつつ、頭の中がデートの言葉で埋め尽くされた。電話で起こされたときは気だるかった身体が、今はもう騒ぎ出している。クローゼットを開け放って今日の服を吟味しながら「どこへ行けばいいの」と問えば、電話の向こうの相手は小さく笑った。
『駅前で待ち合わせ。映画観ようよ。俺観たいのがあるんだ』
「…そう。いいよ、別に」
 映画館か。デートらしい選択だった。最近すっかり連絡が途絶えがちだったから、余計に心が浮き足立つ。
 彼は人気者で、老若男女問わず人に困らない。相手に困らないほど周りに人がいる。だから彼の隣に立つ誰かはいつも違う。
 それが苦しくないわけがない。僕は彼のことが好きだから。彼も、僕のことを好きだと言ってくれる。
 その言葉をまっすぐ信じて疑いが一つもないわけじゃない。前のデートから二週間、メールしても電話しても返事がなくて、心が壊れそうだった。砕けそうだった。信じたくて信じ続けたのに、その分ずっと苦しくて、切なくて、本当はもう答えなんて出てるんじゃないのかと気付きながら、認めたくなくて、思考を放棄して、日々をぼんやり過ごしていた。
 信じたい。だから信じる。この想いを貫きたい。だから捧げ続ける。それがこの身を蝕む行為だったとしても。
 彼に心を奪われたそのときから、もうずっと決めていた。その決意を今更変える気はない。
 は、と息を切らせて待ち合わせの映画館に辿り着けば、約束の場所に、彼はちゃんといた。のんびり文庫本を傾けている。その隣には誰もいない。それが嬉しくて、また走った。ブーツを慣らしながら走っていって彼の前で足を止める。は、と息を切らせる僕に顔を上げた彼は笑った。「久しぶりだ」と。伸びた手が長くなっている僕の前髪を緩く弾いた。
 そんな彼の動作一つ一つを噛み締める。しっかりと。忘れてしまわないように、想い出にしてしまわないように。
「行こうか」
 ゆるりと歩き出した彼の隣に並ぶ。変わらない背丈と変わらない横顔を眺める。「何観るの?」「愛の勝利を」「は?」「そーいう映画だよ」愛って言葉に過剰反応した僕に彼は口元を緩めて笑った。かあと顔が熱くなる。彼の口から愛って言葉を聞いただけで、何を、こんなに。
 顔を俯けて、題名から考えられる内容を想像してみた。…どう考えても愛って言葉には行為がくっついてくる。露骨にそういう映画ではないだろうけど、どうしてチョイスがそれなんだろう。別にいいんだけど。彼が見たいものなら僕だって見てみたいし。
 休日で混み合う映画館で、彼がチケットを取ってくるというから大人しく任せた。
 その間、他に何をするでもなく、僕は彼の背中を眺めていた。
 ああ、本当に僕だけと一緒にいてくれてるんだなと思ったら、嬉しくて、どうにかなりそうだった。

 二週間も連絡がなくて、いきなり電話してきて、デートしようなんて。もうちょっと常識ってものを考えてほしい。僕がもし嫌だって言ったらどうしてたんだろう。それでも誘ってきてくれたろうか。ごめん恭弥って謝ったろうか。二週間も連絡をくれなかった理由を話してくれただろうか。
 家に押しかければよかったのか。ストーカーみたいに彼に付き纏えばよかったのか。そんなことして嫌われたらどうする。そんな賭けみたいな行為、僕にはできない。

「お金」
「いーよ。俺が誘ったんだから持ちます」
 戻ってきた彼に財布を引っぱり出せば、僕の手に彼の掌が重なった。その体温に全身が熱を帯びたように熱くなる。「いい、の?」「いーよ」やんわり笑った彼に、大人しく財布をしまう。奢ってもらってしまった。デートらしくて、余計に心がふわふわする。
 ゆるりと視線を上げた彼が「腹減るかな。なんか買っておこうか」とフードコーナーに足を向ける。「恭弥何がほしい?」と訊かれて少し考えて「カフェオレ」と言ったら彼は笑った。「食べ物は?」「いいよ別に」「そー? じゃあ二人でつまめるもの…ポップコーンあたりかなぁ」一人ごちた彼が財布を引っぱり出すから、「今度は払う」と訴えると、またやんわり笑いかけられた。
「今日は俺が出すよ。恭弥は隣にいればいいんだから」
 その言葉に、頭が沸騰した。好きな相手に優しくされて舞い上がらない奴がいたら会ってみたい。
 彼が注文待ちの列に加わった姿から視線を逸らして、片方の掌で顔を覆う。
 こんな調子で大丈夫なのか僕は。今日は二週間ぶりに会ったんだから、もっとかわいく…あれ、僕はかわいく、でいいのか。男なのに。かっこよく見せたとして、それで彼が喜ぶとも思えないけど。どっちかって言えばかわいい僕の方がいいんだろうけど。でも僕は男だし、今日の格好も普通に男だし、髪もいつも通りだし。
 ぐるぐる考えていると、ポップコーンとジュース二つを持った彼が戻ってきた。「行くよー恭弥」「あ、」歩き出す彼に慌てて追いつく。両手が塞がっているので彼が口でくわえていたチケットを僕が受け取って、二人で入場する。
 愛の勝利を、とプリントされたチケットの半券を見つめながら、暗い通路を歩く。
「ねぇ」
「ん?」
「どうしてこの映画なの。もっとポピュラーなものもあったでしょ」
 訊いてみると、彼は笑った。「ポピュラーなのじゃつまんないじゃん」と。僕が首を捻ると、彼はこう言う。
「ありきたりのもの観たらありきたりな感想しか抱けない。せっかく二人で観るんなら、普段と少し違う感情を抱くぐらいの内容がいいと思わない?」
 …そういうものなんだろうか。僕は彼以外と出かけることがないし、よく分からない。
 彼と一緒に小さな劇場に入って、一番後ろの真ん中の席に座る。他に人はあまりいない。
 愛の勝利をなんて題されてる映画を男二人で観に来てる僕らは、おかしな組み合わせに見えるのかも。そんなことを思ってカフェオレをストローですすったとき、隣の彼が携帯を取り出した。パチンとフリップを弾いた姿を何となく窺う。携帯は横から見えないように覗き見防止のシールが貼ってあって、誰からの連絡なのか僕には見えない。
 いや、そもそも。二週間も僕には連絡をくれなかったのに、普通に携帯を開いて、メールを打ってる。その姿にじくりと心が痛くなった。どうして、僕には連絡をくれなかったくせにと心が騒ぐ。獣が暴れる。どうしてどうしてと声を張り上げる。
 僕といるときくらい携帯見ないでよ。僕のことだけ見てよ。僕は君が連絡をくれない間もずっとずっと君のことだけを考えていたのに、ずるいじゃないか。僕は君のことをずっと待ってたんだよ。
 膝の上のポップコーンをつまんだ彼の手が、僕の目の前で止まった。携帯から僕へと視線を移した彼がやんわり笑う。
「あーんして」
 小さく口を開けると、彼の指が僕の口にポップコーンを入れた。指先が少し唇に触れる。そして離れる。その指がまたポップコーンをつまんで僕の前に持ってくる。パタンと携帯を閉じた彼が頬杖をついて僕を眺めた。その視線に急かされるようにポップコーンを噛んで口を開ける。同じようにポップコーンを口に入れられて、唇に彼の指が触れて、意識が全部持っていかれる。
 さっきまであんなにざわついていた心が、たったそれだけのことで、静かになっていく。
「少し痩せたね。恭弥」
 ポップコーンを噛んでから「そうかな」と漏らせば、彼は浅く頷いた。それからふっと意地悪な笑みを浮かべて「まぁそれもソソられるけど」なんて言うから顔が一気に熱くなった。
 映画を観たあとはどうするんだろうとか思っていたけど、この分だと、もしかしたら、なんて思う。映画の内容からしたってその想像が外れているとは思えなくて、気恥ずかしさに彼から顔を背けて、落ちた照明に視線を上げた。
 もう始まるようだ。でも人は少なかった。マイナー路線の映画なのだろう、きっと。
 暗闇の中、映画を観るときはのお決まりの文句から始まって、他の映画の宣伝が始まる。
 視界の端には光が見える。携帯の画面の光が。彼はまた携帯を見ていた。それに胸が騒いだ。どうして、と騒いだ。
 パタンと携帯を閉じてポケットに捻じ込み、ポップコーンをつまんで食べ始める。その姿を視界の端でずっと追う。映画が始まったらそっちに意識を向けよう。せっかく彼が選んだ映画なんだから、まともに感想も言えないようじゃいけない。きっと幻滅させてしまうから。
 ず、とカフェオレをストローですすったとき、伸びた手が僕の手に重なった。どきりと心臓が跳ねて危うくカップを落とすところだった。そろりと顔を向ければ、暗闇の中でこっちを見ている彼がいる。
「ねぇ恭弥」
「な、に」
 彼が僕に顔を寄せる。少しだけ背中を反らせて距離を取ってしまう。だけどすぐ詰められて、キスをされる。
 二週間ぶりのキスだった。時間としては、五秒くらい。
 顔を離した彼がスクリーンからの光に横顔を照らされながら言うのだ。僕の大好きなやわらかい笑顔といつもより少し低い声で「愛してる」なんて、この二週間何度も何度もほしいと思った言葉を、ひどくあっさりと、僕に告げるのだ。
 本気だった。叶わない恋だなんて思ってなかった。ルールは壊すためにあるようなものだし、一つ一つのルールを壊さずに生きてる人なんてこの世にはいない。誰かしらどこかでルールを侵して生きている。それが人間だ。僕も人間だから、生きてる限りどこかしらでルールを侵す。
 たとえば、横断歩道を赤で渡ってはいけないのなら、僕はもう何度そのルールを侵したか分からない。
 これも同じだ。世間一般に敷かれているルールから少し逸れただけで、ものすごく悪いことをしているわけじゃない。罪悪感はある。少しの罪の意識はある。けれどそれすら、世間一般という世界によって植えつけられた、思い込みに等しい意識だ。
 本気だった。一生背負うつもりでいるくらいの、恋だった。愛だった。
「あ、はっ、うァ…っ」
「恭弥、力抜いて」
「や、ん…っ、できれば、苦労、しな…ぁっ」
 ベッドの軋む音と、自分の甘ったるい声と、彼の甘い声とが合わさって、一つの音楽になる。
 愛しい人に愛されて、二週間ぶりに抱いてもらって、何もかもが新鮮で、でも懐かしくて、涙が止まらないくらいに気持ちよくて、どこにも力が入らないくらい、僕は人形のように彼に抱かれ続けた。

 映画は題名から想像できる通り、愛の話だった。もちろん男女の、だけど。一人の女が自分の人生を捧げて愛を貫いた話。愛した男がすでに所帯持ちであると知っても男を追いかけ続け、自分を偽ることができなかった女の話。
 観ていて面白かったかと言われると微妙なところだった。どうして彼はこれが観たかったのかと不思議に思った。
 本当は、どこかで、この映画を僕と観たという事実に、思い当たるところがあったのに。僕はその可能性に蓋をして知らないフリをした。気付かないフリをした。
 彼にとって僕がこの女なのかもしれないなんて、気付かなかったことにした。

「あッ、だめ、だめッ、、も…っ、む、り…っ!」
 愛されて、貫かれて、揺さぶられて、打ちつけられて、揉み扱かれて、背筋を走った快楽の限界にびくんと身体が跳ねた。耐えるように片目を瞑っていた彼が「俺も、もう無理」と漏らして僕の腰を掴む。開いたままの口から唾液と吐息がこぼれて止まらない。
 息もできないくらいの激しい律動に悲鳴のような嬌声のような声が漏れて、止まらない。
 離れた片手が僕の半身に指を絡める。奥を深く抉るのと同時に、先端に爪を立てられて、前と後ろからの快感に一際大きく身体が跳ねて、背中が弓なりに反る。吐き出した欲望が彼の胸を汚した。そして、僕の奥を、彼の欲望が汚した。
「あ…っ、……ぅ」
 ひくん、と腰が震えてベッドに沈む。はぁと深く息を吐き出した彼が額にはりついた髪を払った。その手を僕に伸ばして視界にかかる前髪を緩く払う。
「恭弥」
「ぁ…んっ」
 引き抜かれて、体内を圧迫していたものが急になくなったことで、身体が楽になったような寂しくなったような錯覚を憶える。震える指先を伸ばして彼を求めた。「」声を上げすぎて掠れた声で彼を呼ぶ。ぎしとベッドに手をついた彼が僕の指に指を絡めて手を繋ぐ。「恭弥」といつもより低い声が降ってくる。
 ああ、僕は今彼に抱かれて、愛されて、奥に出してもらって、こんなに愛してもらって、幸せだ。幸せなんだ。
 は、と息をこぼす僕の唇に優しくキスをして、目尻を伝う涙を指先が拭っていく。
、」
「ん」
「好き。愛してる」
「…俺も好きだよ。愛してる恭弥」
 彼の声が僕に囁く。愛してると何度も。
 その言葉を僕は信じた。震える指先で彼の手を握り締めて、僕は彼の言葉を信じた。僕の目尻を舌で拭ってやんわり笑った彼の笑顔を信じた。疑いたくなんてなかった。僕に対して何も思うところがなかったらこんなふうに抱くことは不可能だし、だから、彼は僕に欲情しているし、犯したいと思うのだし、だから。だから。
 僕の額にキスを落とした彼が「ねぇ恭弥」と低い声で囁く。繋いでいない方の手が僕の足の付け根に伸びる。触れられて、ひくんと腰が震えた。「あ…ッ」緩く扱われて身体が弾ける。イッたばかりで敏感なのに、彼の指が遠慮なく僕の先端を爪先で弾いた。ひくんと腰が震える。駄目だ、そんなにされたらまた、
「もう一回してもイイ?」
「ん…ぅ、ぁ、はっ」
 僕が答える前に、彼の掌は僕を弄んでいた。びくびくと身体が震える。「ま、…っ、あッ」「待てない」するりと解放された手でどうにか彼を止めようとする。でも届かず、落ちた。
 彼に愛されて身体が跳ねる。今日だけでこんなにされたら、絶対に明日に響く。別にいいんだけど、意識を飛ばしてしまう気がした。それはしたくない。今日はずっと彼のことを見ていたいし彼のことを感じていたいし、できればもう離れたくない。
 それが無理だと分かっているから、できる限り今日一緒にいた彼のことを憶えていようと、僕は躍起になっている。
「あああッ、はっ、ァ…ふ、ぁッ!」
 愛されて。壊れた人形のように、身体が勝手に跳ねて、震えて、歓喜する。
 霞む視界を凝らす。天井しか見えない。力が入らないから頭を持ち上げて彼を見ることもできない。
 愛されて、吐息と嬌声を上げながら、僕はただ彼の気がすむまで彼に貫かれ続けた。
 それでよかった。それでいいと思いたかった。
 ベッドスタンドの上に置いたままの彼の携帯がひっきりなしに震えていたことに、気付いていた。その事実にすら蓋をした。
 僕はただ盲目に、彼に愛され、犯され、貫かれ、彼のための性欲人形に成り果てる。
 それでいい。これでいい。他人から見てどれだけ愚かな行いでも構わない。こうするしか、僕はもう生きられないのだから。