事前連絡もなく押しかけてきて、同棲みたいな生活を一週間過ごして、押しかけてきたときと同様、彼は突然僕の前からいなくなった。
 シングルのベッドで二人寝るのは狭いとあれだけ思っていたから、その日目が覚めて、嫌にベッドが広いと違和感を感じたのだ。はっとして起き上がったら彼はそこにいなかった。
…?」
 呼んでも返事はない。玄関に彼の靴はなかった。鍵は開いたままで、彼が出て行ったという事実をただ示していた。
 携帯を見ても連絡らしいものは何も来てなくて、テーブルの上に書置きがあるわけでもない。ふらりとやって来てふらりと出て行った。彼にとって、これはそれだけのことだった。
 雨の降る夜に突然やってきて、恭弥泊めてなんて言って、濡れた身体で僕を抱き締めて。あのとき僕がどんなに驚いてどんなに嬉しくてどんなに舞い上がったか、君は知らない。君が僕を頼ったのだという事実にどれだけ僕が舞い上がったかなんて。それが僕を都合のいい相手として転がしているんだとしても構わないと、僕は彼を受け入れた。
 ひっきりなしに震える携帯を開いては閉じてを繰り返す彼。寝ている間に何度その携帯を見ようと思ったか分からない。結局僕は意気地なしで、許可なしに彼の携帯を開くことなどできやしなかった。
 本来一人のはずの部屋で、一週間だけここにいた愛しい人を思い、身体が震える。泣きたいくらいなのに、不思議と涙は出てこなかった。
 携帯を開いて、彼宛にメールを作成する。だけど何をどう言えばいいのか分からなくて、結局何もしずに閉じた。
 彼の靴がなくなった玄関先で蹲る。膝を抱えてぎゅっと目を閉じる。
 たったの一週間だと言われればその通りだ。だけど僕には切なくて甘くて苦しくてどうしようもなく優しく幸せな一週間だった。夢見ていた彼と一緒にいる未来が現実になったようで、本当に幸せだった。
 信じている。今でも。信じたい。を。
 それがどれだけ馬鹿なことでも。愚かなことでも。彼の愛してるの言葉を信じたい。疑いたくない。疑ってしまったら、彼は僕からどんどん離れるだけだ。
 それでも、どうしようもなく胸が苦しくなる。信じると決めている分だけ、愛してる分だけ、胸は苦しくて仕方がない。
 そのまま朝を過ごし、昼頃になって動き出して、適当なものを食べて、夜になって、彼の帰ってこない部屋でぼんやりとベッドに座ってただ時間を潰した。
 彼がいないと、僕はまるで人形のように空っぽで、役立たずで、どうしようもなくなる。
…」
 ここにはいない愛しい人の名前を呟く。と何度でも彼を呼ぶ。それでここに戻ってきてくれるわけじゃないのに。
 今頃彼の隣にはかわいい女の子でもいるんだろう。それともお金のありそうな大人の誰かとか。想像すればそれだけ胸が締めつけられた。彼の隣に立とうとする誰かを全て押しのけて僕が隣に立ちたい。僕がそばにいたい。他の誰にも譲りたくない。それが本音。それが本当。
 祈るように携帯を握り締めて、彼から連絡が来ればいいと馬鹿みたいに願っていたその夜。暗闇に落ちた部屋の中にピピピピと携帯の音が鳴り響いてびくりと身体が震えた。恐る恐る顔を上げて携帯を握り締めたままの掌を開く。着信は、彼からだった。
 ぎくしゃくと固まる指でフリップを弾き、通話を繋げる。
?」
 切望するように彼の名前を呟いた僕の喉はからからに渇いていた。『恭弥』とノイズ越しの声にぎゅっと胸を締めつけられる。愛しさが溢れて、泣きそうになる。
『恭弥さ、今時間ある?』
「…あるけど。何」
『ちょっと駅前まで来てよ』
「今から?」
『そ』
 僕が何か言う前に、『待ってる』と甘い言葉を残して通話が途切れた。ツーツーと音を残す携帯からのろのろ顔を離してパタンと閉じる。
 目を閉じた。彼は用件も何も言わなかった。ただ今から駅前に来いと言っただけ。
 時刻を確認すると深夜の一時を過ぎていた。それでも身体は動き出す。彼を求めてワイシャツを脱ぎ捨てクローゼットを開ける。適当な服を選んで彼が買ってくれたストールを首に巻いた。コートを羽織ってひんやりとした夜の中外に出て、部屋を施錠して走り出す。
 彼が僕を求めてくれるなら、どんなことだって構わなかった。
 自分が彼にとって都合のいい駒でも、人形でも、構わない。
 愛してほしかった。好きだと言ってほしかった。必要としてほしかった。それがどんな形でもよかった。
 彼にとって僕が遊びでも、僕は本気だ。彼のために死ねと言われたら死ぬ覚悟もある。彼のために誰かを殺せと言われたら殺す覚悟もある。僕にとって今の世界はがいるのかいないのかであり、彼のいない世界は否定で、彼のいる世界だけが肯定だった。
 自分がおかしくなっていることになんて、とっくの昔に気付いていた。
 大学で偶然知り合った。いつも人に囲まれてやんわりとした微笑みをたたえている彼は、僕から見たら気に食わなかった。なんだあの笑顔、他人に媚びて、なんて思っていた。
 他人と笑う彼を睨んでいたら目が合った。一人きりの僕のところにやって来た彼が僕のことを認識した。雲雀恭弥、と僕の名前を呟いた彼がにこりと笑顔を浮かべる。次の講義一緒に受けようか恭弥と笑った彼に、手を差し伸べた彼に、僕の孤独を簡単に払いのけた彼に、心を持っていかれてしまった。
 彼の周りに人が絶えない。先輩も後輩も先生も講師も留学生も、とにかく人が絶えなくて、人付き合いが苦手な僕は遠くから彼を見ていることの方が多かった。だけどそんな僕に気付くと彼がこっちにおいでと手を差し伸べるから。恭弥と僕を呼ぶから。呼ばれる度に近くに行って、彼のそばに行って、彼の笑顔を間近で見つめて、ああ好きだ、と思って。
 僕だけを見てくれればいいのに。何度そんなことを思ったろう。僕だけになればいいのに。何度、そんな馬鹿なことを思ったろう。
 息を切らせながら駅に行くと、柱の一つに背中を預けて暗い空を見上げている彼がいた。
 は、と息を切らせながら足に手をやって俯く。全力で駆けてきたら膝が笑っていた。もう少し動かないと、これじゃあ駄目だ。少し整えた息で顔を上げて歩いて行けば、僕に気付いた彼がやんわり笑顔を浮かべて「やぁ恭弥」と言われて、視線が惑う。「来た、けど」ぼそっと言えば彼は笑った。
「悪い。こんな遅い時間なのに」
「…いいけど。どうかしたの」
「うん。ちょっと来て」
 ゆるりと歩き出した彼の合皮のジャケットの後姿を見つめて、結局ついていく。どこへ行くのか、何をしに行くのか、呼んだ用事は何なのか。訊けばいいのに、訊けない。何度か口を開いては閉じてを繰り返し、僕は結局何も言い出せずに彼の背中についていく。
 たとえば。どこか変なスタジオとかに連れ込まれたとして。それが彼の望みなら、僕はきっと払いのけることができないのだと思う。
 黙ってついていった先の道が憶えのあるものだと気付いたのは、だいぶ歩いたあとだった。
 住宅街に入って、憶えのあるアパートが見えてくる。の部屋があるアパートだ。目を凝らせば、彼の部屋には明かりが見えた。
 なんだ、家に行くのか。ちょっとほっとしたとき、それまで黙っていた彼が「今困ってるんだ」とこぼしてこっちを振り返って足を止めた。表情のない彼を見て、ほっとしかけた心が強張る。
「困ってる、って?」
「どうやらさ、過剰なストーカーっ娘が俺の部屋に居座ってるみたいなんだよね」
 …言葉の意味を理解するのにだいぶ時間がかかった。ゆるりと視線を自分の家に向けた彼は、そこでなぜか笑う。あの優しい笑顔で。「だから家に戻れなくてさ。困ってるんだ」なんて、全然困ってない顔でそんな言葉を吐く。
 ストーカーに狙われて身を隠すために僕のところに来たのだ、ということは理解した。熱りが冷めたろうと思って家に戻ったらストーカーが居座っていて、困ったな、と僕に連絡を。でもどうして僕に? ここは警察とか、そういうところに連絡した方が早いのに。

 本当は気付いていた。試されている、と。僕も、そのストーカーだという子もきっと、彼に秤にかけられて試されているのだと気付いていた。
 でも認めたくなかった。だから気付かないフリをしている、それだけ。

 震える手で拳を握る。「僕にどうしろって言うの」と言えば、彼はゆるりと視線を僕に戻した。目を細めて「恭弥さ、俺のためにどこまでできる?」なんて言う。
 その顔が少し、最初に会った頃に似ていた。だから僕も最初に会った頃のように彼を睨みつけて、「何だってできる」と返せば、彼は満足そうな顔で笑った。
 都合よく現実を理解した。携帯に連絡を入れても返事をくれないのは、間が悪いんだとか、そういうことにルーズなだけなんだとか、そう思い込んだ。
 彼の素っ気ない態度が心に穴を空けていく。彼の笑顔が心を裂いていく。針で小さく貫かれる痛みが降り積もり、そこを彼の笑顔が引き裂き、胸にはいつの間にか風穴が開き、そこを風が通り抜けていて、とにかく寒い。
 あたためて、と彼を求める。彼の温もりだけが僕を埋められた。彼によって開けられた穴は彼でしか埋められなかった。
 夢を見た。この穴はきっと君で埋まって、壊れる前よりもずっと強固なものになって、それが僕の未来へと続いていくのだと。
 好きだとキスをくれた彼に、愛してると僕を抱き締めた彼に、夢を見た。
 きっとこの人が僕の運命。だから全てを懸けよう。心も身体ももう君のものだ。好きにしてくれていい。
 だからお願い、僕を。お願いだから、僕を、僕だけを。
 は、と息をこぼす。包丁片手にに突進してきた女を僕が殴り飛ばし、動けなくなるまで暴力を加え、カランと包丁が転がる音がしてから我に返った。
 は、と息をこぼす。見るも無残な部屋の中に、見るも無残な女が転がっている。
 握り締めた拳が痛かった。蹴飛ばしたり殴り飛ばしたり全身を使ったせいで身体が熱い。
 死んでいるのか生きているのか分からない相手を凝視して、は、と息をこぼす。
 殺したろうか。まだ生きてるんだろうか。頭の中がその二つで埋まる。殺したなら後始末まで考えないといけない。生きているなら、救急車とかを、呼ぶべきだろうか。そうしたら僕は捕まるんだろうか。ここまでストーカー行為に走った相手が悪いのだと思うし、彼を殺そうとした方が悪いとは思う。これは正当防衛だ。でも。
 ぐちゃぐちゃになりかけた思考の中、ふわりと背中から抱き締められて、全てが弾けて消えた。ゆっくり振り返れば、僕に顔を寄せたが見えた。
「恭弥」
 甘い声に呼ばれて、握っていた拳を開いて、彼の手に掌を重ねる。頬に唇を寄せられて、キスされて、「ありがとう」なんて言葉に、泣きたくなった。
 この秤事で、残ったのは僕の方。それが分かってしまった。
 いつものようにやんわり笑って「帰ろうよ。俺家がないし」と囁く彼の声に、絶望していた思考が溶けて消える。
 手を引かれるままその場をあとにする。女が生きてるのか死んでるのか、もうどうでもよくなっていた。
 人を殴ったことで痛んでいる手も、彼の手に包まれれば、痛みよりもその温度を意識した。
 自分が彼の中で都合のいい人間で、人形で、誰かと比べられて残っただけの場所でも、それに束の間絶望しても、最後に残るのはただの幸福感。

 切望する体温の持ち主の名前を呼ぶ。握られている手を握り締めて、噛み締めて、味わって、引き寄せられて、キスをした。相変わらずの優しい顔で「恭弥」と僕を呼ぶ彼に、全てが堕ちる。僕を構成する全てのものが彼をなくしてはいけないと叫び声を上げる。「愛してる」と言われて、その言葉が麻薬のように僕に染み渡る。
 その言葉を聞くために何でもするつもりでいた。彼を疑いたくなかった。信じていたかった。もうどこかで分かっている現実でも、彼を信じていたかった。
 彼と手を繋いで家路を辿る。彼の隣に立っている自分は幸せだと思う。どこかで言い聞かせる。幸せなんだと。僕の大部分は彼という麻薬がなければ機能しない箇所ばかりで、無条件に彼という幸せを肯定していた。だけどどこかで、残っている僕が、幸せなんだと言い聞かせている。
 部屋に帰って、手を引かれて、ベッドに押し倒された。ぎいと軋んだ音が響く。僕の手を労わるように舌をゆっくり這わせて「痛い?」と囁く彼に緩く首を振る。本当は少し痛いけれど、大丈夫。君のためなら僕は何だってできるんだから。
 彼の瞳に映る自分は、恍惚とした表情で彼のことを見つめていた。
「愛してるよ。恭弥」
 首筋に埋まった唇。甘く噛まれて、目を閉じる。「僕も、愛してる」と囁くように告げる。肌を舐め上げるざらりとした舌の感触に身体が震えた。
 このまま。僕が擦り切れて使い物にならなくなるまで、彼は僕を弄ぶだろう。
 それで構わない。そうされても君を怒れないし憎めない。少し泣きたくなるけど、大丈夫。君を好きになって後悔したことは一度もない。愛を捨てようなんて思ったことはない。君に好きだと言われて、愛してると言われて、本当に嬉しかった。愛されて身体が歓喜した。何度犯されても物足りない。ぐちゃぐちゃにされていい。めちゃくちゃにされていい。痛くなるまでしてくれていい。ただ僕を求めて、愛してほしい。愛を囁いてほしい。
 だから僕は、自分で望んで、彼の操り人形として、彼のそばで息をし続ける。