ぽた、と握った拳から赤い色が落ちる。少し切った腕の傷口から伝ったものが拳まで到達したらしいと、絡んできた男を殴り飛ばしてから気がついた。
「あーあ…」
 ナイフなんて卑怯なものを使ってきた相手を一瞥する。蹴飛ばす殴るのサンドバックにしたせいか、もう立ち上がる気力さえないらしい。
 無様にあがいてる相手から視線を外し、ハンカチあったかなとポケットに手を突っ込むも見当たらず。あーあと溜息を吐いて、このままにしておくと出血がなと思って仕方なく転がってるナイフを手にしてTシャツを切った。ちょっとお腹が覗く辺りまで裂いて傷口を縛る。びりっとした痛みに片眉を顰めて耐えた。
 きらりと光るナイフを眺めて、咳き込んで転がってる男に向かってびっと投げた。
 計算通り、ナイフはかっと音を立てて地面に突き刺さる。男の顔面すれすれのところに。
「喧嘩は嫌いじゃないよ。でもさ、ソレはルール違反だろ」
 さくさく歩いていって青い顔をしてる男の胸倉を掴み上げる。「ひっ」と引きつった声を上げる男がでたらめに繰り出した拳を避けてその腕を叩き落した。相手の腹部を蹴り上げて地面に転がし、それきり身動ぎしかできなくなった相手から視線を外して歩き出す。
 ああ、無駄に疲れた。どうして夏の真昼に太陽の下で喧嘩なんてしないとならないんだろう。
 額に浮かんだ汗を手の甲で拭って空き地から抜け出すと、さらに暑くなる事態が待ち受けていた。男が全部で、何人かな。二桁に届いた辺りでもう数えるのをやめる。
 あーあと溜息を吐いて前髪をかき上げた。今度美容院に行って切ろう。自分でやるって言うと兄さんがうるさいから。
「ボクが雲雀の人間だって、知ってるんだろうねその顔は」
 バット、鉄パイプ、あるいはナイフ。各々凶器ってものを手にしてる目つきも顔つきも悪い体格ばかりいい男ばっかりに囲まれて、兄さんに会いたいなぁと整った顔を思い出しつつ腕をぶらつかせた。肩をくるりと回して準備運動してると、合図もなしに喧嘩は始まった。
 兄さんが心配するから、あまり怪我は作らないようにしないと。そう思っていても、多勢に無勢のこの状況では犠牲にしないとならない箇所っていうのも出てくる。紙一重でかわしたナイフが髪をかすったり、バットに打ちつけられている釘が表皮を抉ったり。少しこぼれた息で鳩尾を殴った男が倒れたところを遠慮なく踏んで蹴る。仲間を傷つけるかもしれないという躊躇いで振り下ろされることがなかったバット、その甘さが命取りだ。
 ボクにばかり気を取られていて、この人達は気付いていない。最も凶暴で美しい獣がこの場に現れたことに。
 兄愛用のトンファーからジャラララと音を立てて玉鎖が落ちた。その音に気付いた数人が振り返り、振り回された玉鎖に簡単に弾き飛ばされる。
 人が吹っ飛んで空いたアスファルトの路面に着地して、表情をなくしている兄にボクは笑いかけた。
「遅かったね。兄さん」
「そうだね。時間がかかった。怪我を…しているね」
 すっと細められた瞳がボクを離れて男達を捉え、「雲雀恭弥だ…っ」「どういうことだ、足止め役はどうした!」「まずいぞ、どうする」なんてざわついた連中が気圧されたように後退を始める。
 兄の表情はさっきから変わらない無だけれど、その怒りが振り切れていることを、ボクだけが知っている。
「全員、咬み殺す」
 兄はそうして獣から鬼神になって、ボクを囲んでいた男達を自慢のトンファーのエサにした。
 時間にすると、三分。なかった気がする。
 鮮やかな手並みにさすがは兄さんだなぁとアスファルトの上に胡坐をかいて見物していると、地面に崩れて血迷った一人がボクに向かってナイフを投げつけた。当たり前のように兄の玉鎖がナイフを叩き落し、その男の頭も叩き割った。
 ああ、あれは死んだかも。ぼんやり思いながら赤い色が咲いたアスファルトを眺める。
 死屍累々の夏の陽射しの下、揺らめく夏の空気を背景に兄が立っている。鈍く銀の光を放つトンファーから赤い色をしたたらせ、獣のように鋭く美しい瞳でそこに立っている。
「兄さん」
 呼べば、兄はボクを見た。きれいな目だ。目だけじゃなく兄は全てが整っていて美しい。ボクらは双子だから、ボクも兄と似通った容姿をしているのだけど、ボクは兄には何も敵わない。
 ああ、コミュニケーション能力なら兄より自信があるかな。兄より表情は豊かかもしれない。それくらいかな、ボクが敵うことは。
「帰ろうよ。暑い。ハーゲンダッツ食べたい」
「…はぁ」
 息を吐いた兄がトンファーを折り畳んだ。転がる男達を避けず、邪魔な奴は蹴飛ばして歩いてくると、ボクの前に膝をついて手を伸ばし一つ頬を撫でた。ナイフで切ったせいか兄の温度が肌に沁みる。
「遅くなって悪かったよ」
 他の誰にも見せない労わるような声と表情にボクは笑った。
 来てくれるって分かってたから、少し遅くなったくらい全然いいのに。こんなかすり傷と切り傷すぐに治るんだから、兄さんがそんな顔する必要はないのに。兄はボクにだけ本当に甘い人だ。
 喧嘩して汗をかいたからシャワーを浴びた。夏の陽射しの下真昼間に喧嘩をすれば、涼しい顔をしてる兄だって汗くらいかく。汗をかいたままは気落ち悪いだろうと思って一緒に入ってもいいと提案したけど兄には嫌だと却下された。
 傷に沁みるなぁと思いながら身体をきれいにしてついでに髪も洗ってバスルームを出た。下のジャージだけ引っかけてタオルで髪を拭いながら外に出ると、兄がいた。ボクを見ると顔を顰めて「上を着て」「暑いからいいでしょ。兄さんどーぞ」わしわし髪を拭いつつキッチンの方へ行く。兄は納得した顔はしていなかったけどさっぱりしたいという気持ちが勝ったらしく、バスルームへと消えた。
 冷凍庫を覗くとハーゲンダッツがちゃんと用意されていた。クリスピーサンドの抹茶味をかじりながら救急箱を引っぱり出す。一応手当てってものをしないと兄が怒る。
 消毒液に浸した綿をピンセットでつまんで、鏡を見ながらちょんと頬にくっつけた。痛い。沁みる。鏡の中の自分はあまりそういう顔はしていない。兄より表情豊かだと自負してたけど、そうでもないのかも。
 腕の傷に綿を押しつけつつクリスピーサンドをかじった。やっぱりおいしいなハーゲンダッツ。
 一通り傷の手当てを終えて、一番大きな腕の傷には大型の絆創膏を貼りつけておいた。
 これでいいだろう。夜お風呂に入ったらまた消毒して取り替えれば。
 クリスピーサンドをかじりつつクーラーの効いた部屋でぼんやりしていると、兄がやって来た。部屋着の黒い着物を着ている辺り、今日はもう外出しないんだろう。
 外出は多いのにあまり健康的な色をしてない肌とか、濡れていつもよりぺたっとしている墨のように黒い髪とか、あれだけ喧嘩をするのに細い身体を見つめてから視線を外した。鏡の中の自分は、兄よりも髪が短くて、兄よりも少し健康的な肌の色をしていて、兄より三ミリだけ背が高い。
「それおいしい?」
 顎でしゃくって示されたクリスピーサンドに「おいしいよ。兄さんのも入ってる」と冷蔵庫の方を指しても兄はそっちには行かず、ボクのところへ来た。着物の衣擦れの音を残しながら膝をついて絆創膏をしたボクの腕を細い指で撫でる。労わるように。
「痛かった?」
「そうでもないよ」
「もっと早く行ければよかったんだけど」
「気にしないでよ兄さん。来てくれるって分かってた。助けてくれてありがとう」
 こつりと兄の額に自分の額をぶつけて笑いかければ、兄は口を噤んだ。「また僕のせいで」ぽつりとこぼれた言葉は自分を責めているとも取れるもので、ボクはそれに吐息した。
 並盛という町を支配する兄の弱点がボクであると世間に広まっている以上、それは仕方のないことだった。
 兄が暗い顔をしているのが嫌で、両手で頬を挟んだ。普段は兄さんとしか呼ばない兄のことを「恭弥」と呼べば、持ち上がった視線がボクを捉える。「」とボクを呼んだ恭弥が自分からボクに口付けた。唇にやわらかく温度のあるものが当たる。
 恭弥の黒い髪を指先で撫でて梳くと、いいにおいがした。同じシャンプーを使っているなら、ボクの髪からも同じにおいがするのだろうか。
 誰よりも人として完成している兄は美しく、贔屓目を除いても、ボクは兄より出来た人間に出会ったことがない。
 家族愛を通り越してお互いを想うようになったのはいつからだったろう。
 鏡に合わせたように似通ったボクらだったから、お互いを利用したりお互いを庇ったりしながら生きてきた。恭弥がやりたくないと言った音楽のコンサートに代わりにボクが出たり、ボクがやりたくないと言った茶道の教室に恭弥が出たり。雲雀の家の遠い親戚まで招かれた毎年お正月の行事には揃って出席して、面倒くさいと陰で言い合いながら、両親が望むまま大人達にいい顔をして祭事の中心を務めた。
 双子であるボクらがいずれ雲雀の家を継ぐことになる。兄の恭弥か、弟のか、小学生のボクら相手にご機嫌取りをしようと必要以上の笑みを浮かべて接してくる大人は、ボクらにとっては敵だった。
 自分の娘息子を紹介して仲良くしてやってなんてよく言う。本当はボクらのことなんかどうでもよくて、目当ては雲雀の家の財産と地位のくせに。
 環境が環境だったから、ボクらの結束は強くなる一方で、離れるタイミングなんてものは存在しなかった。
 毎年お正月のその行事に痺れを切らしたのは兄だった。
 ボクにしつこく付き纏う親戚の女の子を突き飛ばして泣かせたことがきっかけになり、自分が中心となっている風紀委員って組織を駆使して家から親戚一同を追い出した。
 そこから兄の並盛への本格的な支配が始まった。
 そして、そうだ。そのときからボクは兄をただの兄弟だとは思えなくなったのだ。
 ボクに付き纏う女の子を突き飛ばした兄は、悔しそうな、かなしそうな、さびしそうな、そんな表情で女の子のことを睨みつけていた。ボクの手を掴んで歩き出した兄はひどくイラついていて、その勢いのまま部屋に連れ込まれてベッドに倒されて。部屋に鍵をかけた兄がどんどん叩かれる扉を無視して、いつも鋭い瞳を切なそうに揺らして、ボクに、好きだと。そう告げて。
「…懐かしい」
 ぽつりとこぼして兄の黒い髪を指先に絡める。心地いい肌触りを残して指先をすり抜けた髪はとてもきれいだった。
 ボクに折り重なるようにしている兄が「何が」と訊くから、「昔のことを思い出してたんだ」と呟くと兄が頭を持ち上げた。僅かに眉間に皺を寄せている顔は端整で、相変わらずきれいだ。顔だけじゃなく、兄は全ての造形が整っている。そういう彫刻品であるみたいに。
 お互い一糸纏わぬ姿で同じベッドの上にいて、重なっている身体はさっきまでベッドを軋ませる行為を続けていた。
 兄に好きだと言われたお正月のその日にキスをした。初めてではなかった。興味本位で兄とキスをしたことくらいはある。そういう年頃もボクらはお互いで埋めていたから。ただ、そのキスは冗談でも興味本位でもないもっと別のものだと兄の目が語っていた。だからボクは兄を兄とだけ見ることをやめた。
は」
「うん」
「君は、僕のものだ。他の誰にもあげない…」
 囁いた兄の声が胸に埋まって、肌を吸われた。くすぐったい感触に片目を閉じる。「恭弥もボクのものだ。他の誰にもあげやしない」と口にすれば兄が笑う。子供の頃そうやって笑ったように、ボクの前だけでは兄も笑ってくれる。
 無防備な笑顔に一度は落ち着いた身体が騒いで、その唇を奪った。口を塞ぐようなキスをして兄の口内へ舌を割り込ませ、歯列をゆっくりとなぞり、上顎を舌先で刺激すれば、もどかしいとばかりに舌を乞われた。求められたことに満足して兄の舌を絡め取り、熱い吐息をこぼしながら飢えた獣のように互いを貪った。
 ボクは喧嘩には本気になれないけど、兄に対しては獣になれるようだ。喧嘩してるときの兄のように美しい獣で在れているかは分からないけれど。
 身体の芯が熱くなっていた。兄もそれは同じようで、リップ音を残して顔を離すとぎしとベッドに手をついてボクの顔を見下ろした。「ねぇ」と囁く兄の声は艶があって色っぽく、熱に浮かされた瞳にはいつもの鋭い光はなく、人を殺すことさえできる掌がボクの胸をゆっくりと這った。
 兄さんから、恭弥から望むなら、ボクに異論はなかった。
「明日は大丈夫なの? 恭弥」
「大丈夫だよ。が加減してくれれば」
 小悪魔みたいに微笑む恭弥に「加減かぁ」と苦笑い気味に呟いて白い身体を緩く抱き締めた。ごろんと転がってボクが上に、恭弥が下になる。揺れる瞳に微笑んで前髪を緩く払って額にキスをした。頬に唇を寄せてキスをすれば「早くしてよ」と囁く甘い声にボクはまた笑ってしまう。
 喧嘩をしてるときの恭弥のようにきれいに在れているだろうか。まぁ、恭弥によく見えていればどうだっていいことだけど。
 加減をしろと言われるとこれが難しいのだけど、恭弥が喧嘩で加減を使い分けるのを知ってるんだから、真似をしよう。恭弥にできるのならボクにもきっとできるさ。
 声が外に漏れることを考えて恭弥の唇をキスで塞ぎながら、自分よりもきれいな身体を抱いて、お互いを汚して、ボクらは二人だけの世界へと堕ちていく。