不定形

 風邪を引いたからを理由に入院したら、先生であるには呆れた顔をされた。
「あのなぁ雲雀、ここは自分ちじゃないんだぞ。お前なら風邪くらい市販の薬飲んで家で大人しくしてれば治るだろ」
 腰に手を当てて、呆れた顔で呆れたような言葉を言われて、僕は眉間に皺を寄せてからベッドの上で寝返りを打って彼に背中を向けた。
 …伝わってないんだと思ったら、不覚にも目がおかしなことになったのだ。
 彼の言い分は最もだ。風邪をこじらせて入院したことは過去にもあるけれど、ただの風邪で入院する奴なんているはずがない。入院費も治療費も高くつくのだから当たり前と言えば当たり前の話だし、ただの風邪くらいで入退院されてたら病院側だってたまったものじゃないだろう。
 そんなことは分かっていた。彼の言いたいことは分かっていた。彼は仮にもこの病院の医師の一人なのだから、忙しい身だ。そんなこと分かってた。
 ……分かっていた、はずだった。呆れた顔をされることも呆れた言葉をかけられることも。それでもあなたに会いたくて、風邪を引いたを理由に入院することを選んだのだ。
 だから痛くなんてない。彼の言葉は予想していたものだ。痛くなんてない。
 すんと鼻を鳴らして布団を頭まで被る。何度でも言い聞かせるのに視界が滲んで治らないのが憎たらしい。
「雲雀? 俺もう行くよ。患者さん待ってるから」
「勝手にすれば」
 自分からここへ来たくせに、主治医を彼に指定したくせに、かわいげのないことしか言えない。そんな自分が嫌で唇を噛み締めたとき、被った布団が剥ぎ取られた。じろりと視線を上げれば、枕元に立っている彼が僕を見てまた呆れた顔をする。聞き分けの悪い子供にそうする大人みたいな顔でベッド脇にしゃがみ込んで「何泣いてるんだよ」と僕の頭を撫でた。その手を払いのけて「泣いてない」という言葉と一緒にいくつか咳を吐き出す僕は本当にかわいくない奴だ。本当に、自分で自分が嫌いになる。
 彼は呆れた顔を困った顔にして、もう一度手を伸ばして僕の目元に指先を触れさせた。
 そっとなぞるようなその指がくすぐったくて、滲んでいた視界は、だんだんと晴れていく。
「患者が、待ってるんじゃないの」
「んー。まぁあと五分くらいなら大丈夫」
 僕の涙を拭う彼の表情は、患者を診るときのそれとよく似ていた。冗談の欠片もない真剣な顔。その顔を眺めているとぱちと目が合った。目元を見ていた彼の視線が僕の視線と絡む。
 言ってやろうか。何も知らないあなたに。どうして僕が風邪引いたなんて言ってわざわざ入院するのか、主治医をあなたに指定するのか、その理由を。
 嫌がらせじゃないんだ。あなたはきっと僕のことなんて手のかかる奴だくらいにしか思っていないんだろうけど、僕は。僕は。
 口を開きかけたとき、また髪を撫でられた。「じゃあね雲雀。また夜に来るよ」と言ってやんわり笑った彼が立ち上がる。反射で手を伸ばして離れようとする彼の白衣を掴んだあとにしまったと思ったけど、もう遅い。きょとんとした顔で「何、どしたの」と屈む彼に、僕はまた唇を噛む。

「……先生に、訊きたいことがある」
「ん? 何」
「特定の条件で、だけど。胸が苦しくて、頭がぼうっとして、他に何も手につかなくなるときがあるんだ。それって何」
「ん…? んー、特定の条件ってのが気になるな。身体の調子が悪いときっていうんなら詳しい話聞かないとだし」
「調子が悪いとかじゃない。その……そうじゃなくて」

 言いにくい。どう言えば伝わるんだろう。口ごもる僕に彼は首を傾げてまたベッド脇にしゃがみ込み、僕を見上げるようにして「風邪辛い?」とか訊くから曖昧に頷いて返した。
(そうじゃない、違う。風邪で片付けてほしいわけじゃない)
 ぎゅっと彼の白衣を握って「先生、僕」と言いかけるものの、そこから先の言葉がなかなか出てこない。「ん?」と首を捻る彼は、きっと、いや、絶対に知らない。気付いていない。
 …だから言わなくちゃ、絶対、伝わらない。
「恋だと、思うんだ。胸が苦しくなったり、頭がぼうっとしたり、他に何も手につかなかったり。その人のこと思うと、すごく苦しくて、苛々して、でも嬉しいんだ」
「…へぇ。そうか、雲雀でも恋するんだな」
 一生懸命告白したっていうのに彼は感心したみたいな顔で頷いてみせただけ。
 僕の胸に苛立ちが生まれる。トンファーを振り回したいと思う。身体がざわつく。暴れたいと。
 ここまで言ってるのにまだ気付かないなんて。
 彼はうんうんと一人で頷いて「雲雀はちょっとやんちゃで手がかかるけど、健全な男の子なんだし、恋の一つや二つしてて普通だよ。というか、雲雀に告られて断る子っているのか俺は疑問だなぁ」とか笑う。こっちの気も知らないで。健全な男子が同性に恋するはずがないのにね。僕に告白されて断る子なんていないって言うけど、あなたは、僕の言葉を否定するかもしれないのに。
 白衣を思い切り引っぱった。バランスを崩した彼が「うおっと」とベッドに手をつく。避ける暇も言葉を言う暇も与えず、その手を捕まえて身を乗り出すようにして、自分の唇を彼の唇に押しつけた。
 ごし、と手の甲で口元を擦る仕種をさっきから何度してることだろう。
 今日の診察を終えてはーと息を吐いたのも束の間のことで、五分休憩したら担当の入院患者の病室を回らないといけない。いつものように時間がないから休憩時間を削るしかないのが毎日辛いところだ。俺だってたまにはゆっくりしたいんだけど。
 ブラックコーヒーの空き缶を空にしてゴミ箱に入れ、カルテを持って人の少なくなってきた斜陽に照らされる橙色の廊下を歩き始める。
 雲雀は風邪っぴきってだけだし、最後にしよう。唇に手の甲を押しつけてカルテをめくり、いい加減気にするのはやめようと息を吐いて意識して口元から手を離した。
(……雲雀にキスされてしまった)
 患者のカルテに目を通しつつ、頭の隅にそんな言葉が浮かんで消えてくれない。
 雲雀はどうやら俺のことが好きらしい、と気付いたのは、キスされて一方的に病室から追い出されて、呆然としながら仕事に戻って、だいぶ考えてからのことだった。
 キス以前にしていた会話が恋うんぬんだったから、多分そういうこと、だと思ってるんだけど。キスされたんだし、それで間違ってないとは思うんだけど。
 ぐるぐるする頭でカルテを眺めつつ病室に行って患者さんと会話して、身体に異常を感じないかどうかを確認して軽い会話を交わし、最後の最後に雲雀のいる個室の前に来た。その頃には夕陽は沈んでいて、薄い闇が東の方からじわりじわりと空を侵食していた。
 どうしようか、なんて悩んだけど特に何も思い浮かばず、コンと一度扉をノックする。
「雲雀、俺だけど。入るよ?」
 五秒待ったけど返事はなかった。寝てるんだろうかとスライド式の扉をそっと開けると、部屋の中はもう暗かった。寝てるのかもしれない。一応雲雀は風邪なんだし、病人には違いないから、寝てるなら起こすことは。そう考えて中に踏み出しかけた足を引っ込めたとき、「遅い」と一言ぼそっとした声で毒づかれた。どうやら寝てないらしい。首を竦めて「ごめん」と返しつつ病室に入って扉を閉めた。白いベッドと布団の隙間から恨めしそうにこっちを見てる雲雀がまるで拗ねてる子供みたいで、少し笑ってしまった。
「調子はどう? 薬出しといたけど」
「身体は普通」
「そっか。一応診せてね」
 ベッド脇にパイプ椅子を展開して広げ、腰かけて、聴診器の耳官を両耳に引っかける。のそりと起き上がった雲雀のパジャマの下に手を潜り込ませるようにして左胸にぺたりとチェストピースを当てた。「冷たい」と顔を顰める雲雀に「我慢」と返して意識を雲雀の心音に傾ける。
 うん。大丈夫そうだ。十秒くらい心音のみに耳を傾けてそう判断した。ふっと息を吐いて「うんだいじょーぶ。明日にはもう退院できると思う」「嫌だ」「…嫌って」苦笑いをこぼして左胸に当てていたチェストピースを浮かせた。手を抜こうと思ったらなぜかがしと手首を捕まえられる。パジャマの向こうの雲雀の肌のそのまた向こう、心臓にやっていた意識を引き戻して顔を上げてみる。雲雀は顰め面で俺のことを睨みつけていた。
「まさか僕が言ったこと忘れたの? 患者の診すぎで」
「いや、憶えてるよ。俺のこと好きなんだろ?」
 灰色の瞳に睨まれてそう言えば、なぜかその目が泳いだ。
「好きとは言ってない。恋してるって言っただけで」
 …それってつまり好きってことじゃないのか。首を捻って「じゃあ好きじゃないんだ」と言えばこっちを睨んだ強い瞳が「好きじゃなきゃ恋なんて言わないし、そもそもキスなんてしない」と断言するから、雲雀は何が言いたいんだろうなぁ、と俺はさらに首を捻るわけであって。
 ぐっと腕を掴む力を強くした雲雀が「は恋人はいるの」と訊いてきた。恋人がいそうに見えるんだろうか俺は。それ以前にそんな時間的心的余裕があるとでも。諦めた感じに笑って「いないよ」と言えば雲雀の眼光が少しやわらかくなった。「じゃあ僕を恋人にしなよ」それでしれっとそんなことを言うから「いや、いや待て雲雀、落ち着け」と深呼吸を促す俺。ちょっと逃げ腰になってる俺を逃がさないとばかりに腕を引っぱって「僕は落ち着いてる」なんて、嘘を言う。
 聴診器のチェストピースを落とした俺の手は雲雀の肌に触れているのだ。というか、雲雀が逃がすものかと俺の腕を捕まえて自分に押しつけているから、自然と心音その他が伝わってくる、というか。
 嘘ばっかりだ。落ち着いてなんてない。雲雀の心臓は今早鐘を打ってる。
 緊張、してるんだろう。そうは見えない無表情でしれっと言葉を吐くくせに、雲雀の心臓は悲鳴を上げているのだ。こんなにも平坦な顔で当たり前のように紡ぐ言葉は精一杯の虚勢で、その胸のうちは張り切れそうなほどにどくどくと脈を打っている。
(……不器用なんだな、雲雀って)
 拘束されてない方の手を伸ばして黒い髪に触れた。つやつやなのにさらさらな女の子みたいな髪だ。男子っていったらぱさぱさだったりばさばさだったりつんつんだったりするのに、この手触り。イマドキっぽくないなぁ雲雀って。ああ、雲雀は昔からイマドキなんてものには程遠い子だったか。
 知らず苦笑いしていたらしく、雲雀がぎりっと腕をつねってきた。「いて、痛いっ」「黙ってないでよ」「ごめんごめん、なんの話だっけ?」「…だから。僕を、あなたの、恋人に。しなよって話」ぼそぼそと、切実そうな声音で言われたって、俺に返せる言葉なんて決まってるのに。
「あのさ、俺は男を抱く趣味はないんだけど」
「知ってる」
 即答された。即答されたけど、言葉を吐き出した雲雀は辛そうだった。気に入らないって顔で床の辺りをぎりぎりと睨んでいる。
「…えっと。だから、雲雀とは、ねぇ」
「それでも僕はあなたが好きなんだ」
「う、うん」
 雲雀は俺が好きだ、ということは認めよう。頷こう。でもそれだけで話は終わってしまう気がする。雲雀が求めているその先へ、俺は一緒に行けない気がする。
 病室の窓の向こうはほぼ闇に飲み込まれていた。西の方に僅かに明るい橙のような色が見えるだけで、それもじき消える。
 消えそうな空の景色を背負って、雲雀の表情さえも、今は消え入りそうに切ない。

「僕を、好きになって」

 吐き出された言葉に俺は閉口した。
 捕まえていた手に掌が重なり、一本一本の指の感触を確かめるように指が絡まって手を握られる。強い力で、離すものかという力で。
 はぁと息を吐いて、ごつんと雲雀の額に自分の額をぶつけた。
 キスされたときと同じような距離。そのくせ照れくささのようなものを感じないのは、俺が先生と患者という形で人と触れ合ってきたせいだろうか。
 そういえばだいぶ、恋のドキドキ感とか、そういうものとは無縁なままだ。
「俺はそう簡単に落ちないよ?」
「落とす。絶対に」
 俺の予防線にもきっぱりと宣戦布告を突きつけた雲雀はいつもと同じだった。ちょっとやんちゃで手のかかる男子。健全な、っていう言葉が当てはまらなくなったけど、雲雀は雲雀だ。きれいめ男子。俺にとってはまだただそれだけの、俺のことを好きだという男の子。
 顔の近さに照れくささも戸惑いも覚えず、いつもの鋭さの取れた濡れたような瞳を見つめることにも抵抗を感じず、そのまま、自然な流れで唇を重ねた。
 自分からだったのか雲雀からだったのか、気付かないうちにキスしていて、気付かないうちに握られるばかりだった手を握り返していた。
 …つまり、まんざらでもないってことだと。キスしたあとに顔を伏せた雲雀の頬の朱色を見て思ったりした。