中学二年から三年になる春の、ある朝だった。
 家の電話が鳴った。そのとき家には誰もいなくて、誰だこんな朝に、と思いながら眠い目を擦って廊下の電話を取った。
 はいですが、と言うと電話の向こうの声は並盛中学の雲雀だと名乗った。まだ回らない頭でひばり、と相手の名前を繰り返して、それで用ってなんですか、と促すと、相手は少しの沈黙のあとにこう言った。

 宮前桜とその家族が交通事故にあった。ぶつかってきたのは居眠り運転をしていたトラック。どちらも高架橋の防音壁を突き破って転落、炎上。死者はあれど、生者はいない

 ……その、言葉を。理解するのに。五秒、十秒、いやもっとか。とにかく長いこと俺は何も言えなかった。雲雀の言葉に頭がついてこなかった。寝起きのせいもある。けど一番の原因は、信じたくない、というその現実に対しての心の拒絶反応のせいだった。
 死んだ。桜が。本当に?
 昨日は電話で、お土産買ったからね、楽しみにしててねって、普通に、笑ってたのに?
 ひばり、と声を絞り出す。受話器の向こうの声はただ平坦に何と応じた。その声に、さくらは、と縋るように訊ねる。雲雀は一秒あとに死んだよと告げた。容赦ない冷たい声が身体に染むと同時に、手から受話器が滑り落ちてがちゃんと音を立てる。
 部屋に取って返して適当なパーカを掴んで羽織った。寝起きで準備運動もなしで家を飛び出して走れば、すぐに息が上がり、しんどくなって、彼女の家に着く頃にはもう疲れ果てていた。
 それでも動く。震える手でピンポーンとインターフォンを押す。誰も出ない。もう一度インターフォンを押す。やっぱり誰も出ない。
 門扉を押し開けて玄関の扉を叩いた。ですと声を上げても誰も出ない。誰も。
 庭先に駆け込んで、カーテンでしっかり閉ざされた窓を叩く。
 俺だよ、だよ。桜。桜。いくら声を張り上げても桜は来てくれない。こんなに窓を叩いてるのに、誰も出てきてくれない。

 死者はあれど、生者はいない

 雲雀の冷たい声が頭の中に響いて。ばん、と窓を叩いた俺はその場に膝をついて崩れ落ちた。
 桜が。俺のガールフレンドが。その家族が。事故で、死んだ。
 じわじわと四方から俺を取り囲む現実が怖かった。
 頭を抱えて蹲り、桜、と彼女を呼ぶ。桜、と何度でも呼ぶ。何度でも。
 だけど彼女は来てくれない。
 現実に、潰されそうになった心で、さくりと地面を踏む足音に縋るように顔を上げた。そこにいたのは桜ではなくて、学ラン姿の。そうだ。電話かけてきた、雲雀。
 雲雀は嘆息して俺のところにやって来た。馬鹿だね、とこぼして俺の腕を取る。その手を振り払って、桜は、と訊けば、雲雀は無表情に何度も言わせないで。死んだよと告げてまた俺の腕を取った。

 葬式がいるだろう。家族が全員死んでしまったから親戚側に連絡をつけたけど、君だって行くだろ。通夜とか準備もある。自分にできること、しないの?

 そう言った雲雀が首を傾けた。
 葬式。通夜。その単語が並べられても俺には彼女が死んだなんて実感は湧かなかった。それでも雲雀が俺を促すから、できることをやるために、彼女の家を後にした。
 それから。通夜をすませて。葬式を挙げても。事故で損傷のひどい彼女と彼女の両親の顔は最後まで見ることのないままだった。
 だから、だろう。俺は彼女が死んでしまったということに実感が持てないままだった。
 それでも彼女はそばにいなかった。学校が始まっても彼女の席にその姿を見ることはなく、彼女の机には花瓶に花が添えられていた。それが現実だった。
 いつ訪ねても彼女の家には明かりはなかった。声も音も存在しなかった。それが現実だった。
 いくら電話をかけてもこの番号は現在使われておりませんとアナウンスが流れて、メールの返事は一つもないままだ。それが、現実だった。
 ふわふわした心地で、一緒に行くと約束していた夜桜祭りに一人で行く。人混みの中で彼女に電話をかけ、この番号は現在と続けるアナウンスを聞きながら彼女の姿を探した。
 ここに、桜は咲いているのに。一緒に見ようと約束した桜は咲いているのに。それなのに、君がいない。
 桜の木の根元にしゃがみ込んで呆けていると、そのうち祭りの時間が終わって、屋台が閉じられ、人が次第に減っていった。そんな中でも蹲って動かないままでいると、君は馬鹿なのか、という憶えのある声が聞こえた。
 誰だっけ。つい最近聞いたな。
 のろりと顔を上げると、俺の前に雲雀がいた。いつもの学ラン姿でそこに立っていた。
 何時だと思っているんだ、と言われて唇だけで笑う。そんなこと俺が知るはずない。
 膝頭に顔を埋めると、肩を掴まれた。思ってるより強い力で桜の幹に背中を押しつけられ、痛い、と思う。

 君まで死んでどうする。そんなこと誰も望んでない

 強い声に視線を上げる。雲雀がそこにいて、俺を見ている。
 ああ、そうだな。雲雀。その通りだ。分かってるよ。分かってるんだ。現実は痛いほど俺に食い込んだ。だからもう分かってるんだ。分かってるんだよ本当は。

 桜は、死んだんだな。もういないんだな。…どこにも

 ようやく認めた現実が唇からこぼれたとき、ようやく、涙も出てきた。ぼろぼろと涙をこぼす俺にぎょっとした顔の雲雀にがしっと抱きつくと、ちょっと、何するのと雲雀が抗議の声を上げる。どうにか俺を振り解こうとしている雲雀を意地で抱き締めながら、その肩に額を押しつけて泣いた。桜を想って桜の下で泣いた。泣いた。
 それから俺は無気力人形状態を何とか脱した。
 桜を失ったことは悲しいままだ。俺の隣に駆け寄る存在がもうどこにもいないのだと思うとひどく心が痛むのも事実だ。だけど、俺が止まっていては桜がきっと悲しむ。それは、雲雀に言われなくても分かってる。気付いてる。俺は歩き出さねばいけない。どれだけ悲しくとも、寂しくとも、辛くとも。
 それで、そんなことがあったからか、俺はあれから雲雀と時間を過ごすことが多くなった。
 これは正しい言い方じゃないか。もっと正確に言うと、俺が雲雀のところへ遊びに行くこともあれば、雲雀が俺に声をかけることもある。そんな感じで、合わせて考えると過ごしてる時間が多いかな、とね。
 その日は特に雲雀と接点なく過ごしてたけど、緑化委員の仕事が終わって帰ろうかなと下駄箱へ行ったら外が土砂降りの雨だった。もう梅雨なんだな、と意識しつつ、折り畳み傘なんて持ってない俺は溜息を吐いた。
 はい、と傘を差し出してくれる彼女を幻視してしまう。
 笑顔の彼女に手を伸ばしたところで幻は見えなくなった。霞んで、遠く遠くに消えてしまう。
 ふう、と息を吐いて、俺は仕方なく応接室に向かった。
「ひーばりー」
「…何。開いてる」
 カラカラと扉を開けると、雲雀はいつもの書机で風紀委員の仕事をしていた。「雲雀傘持ってる?」「傘?」眉を顰めて顔を上げた雲雀が背中側の窓を振り返って、ああ、と呟いて書机に向き直る。「あるけど」「わ、ホント? じゃあ一緒に帰らしてね」にこにこ笑って言ったら盛大に睨まれた。機嫌悪そうな雲雀にぱちんと手を合わせる。雲雀が入れてくれないと俺はこの雨の中走ってずぶ濡れで帰るということに。
「ね? お願い」
「…………はぁ」
 たっぷりした溜息を吐いた雲雀が「仕事が終わったらね」と言って意識を書類やら帳簿やらの方へ戻す。
 よかった許可が出た、とほっとした俺は黒い革張りのソファに座った。別にすぐ帰る用事もないし、帰ってしたいことがあるわけでもないし、ここで雲雀の仕事が終わるのを待つことにしよう。
 何かないかなーと鞄の中をあさって、提出期限のあるプリントを見つけた。四つに折ってあるプリントを広げると、進路調査、と書いてあった。
「んー…どうしようこれ」
 プリントを広げ、電灯の光にかざしてぼやく。
 高校か。俺は特に行きたいところなんてないのに。行かなくちゃ駄目かな。駄目だろうな。世の中の流れ的に学歴経歴が重要視される現代だから、高校、大学、と行かないと駄目だろうな。はぁ。
 目的なく生きるのってしんどいなーとぼんやり思った。
 ぱさ、とプリントをテーブルに落としてソファに寝転がる。
 進路。進路か。
 俺にはまだ未来があるんだな。彼女にはもう永遠にないものが、俺には。
 どさっ、という音に視線を天上からテーブルに移すと、書机で仕事してた雲雀が場所をこっちに移したらしい。テーブルに山三つに積まれた書類と帳簿を置いた雲雀が俺が手離したプリントをつまんで斜め読みする。
「進路か」
「そ。なんだかんだ言って中学三年だから、出さないとなーって」
、どこか行きたいところがあるわけ」
「いやぁ。特にない」
 あっけらかんと笑えば雲雀には呆れた顔をされた。「そういや雲雀は? あれ、そもそも雲雀の学年て俺と同じだっけ?」訊いておきながら今更の疑問に首を捻ると、雲雀は顔を背けた。「僕はいつでも好きな学年だよ」「何それ」笑ったら、また睨まれた。首を竦めて放られた進路調査の紙を改めて眺めて、顔に被せて、目を閉じる。
 ああなんかもうめんどくさいなぁ。
 高校なんて。行かなくたって息はできるし。大学なんて。行かなくたってバイトってものはできるし。それに、そこまでして生きるなんてこと、俺はもう。
 ごめんな、桜。俺やっぱり駄目かも。
 そんな暗い思考で彼女の笑顔を思い浮かべたとき、「並盛高に行きなよ」と、ぼそっとした雲雀の声が聞こえた。進路調査用紙をつまんで顔を上げると、雲雀が仕事をこなしている姿がある。灰の瞳は流れるように書面の上を滑り、黒い艶やかな髪が一房落ちて視界にかかって、鬱陶しいと髪をかき上げた雲雀がちらりと俺に視線を寄越した。かち合う。
「なんで?」
「近いから。そうレベルの高い高校ではないから、君も少し勉強すれば大丈夫だし、僕も行くから」
「雲雀も行くの? 高校? 並中にいるもんだって思ってた」
「うるさい。今決めた。だから君もそう書け」
 いつにない命令口調に首を竦めて「へーい」と返してシャーペンをノックする。希望進路。並盛、高校、と。
 …でも、そうか。雲雀も一緒に行ってくれるのか。それなら俺、まだ行ける気がする。まだ、もう少し先へと。