曇りのないその蒼が眩しくて

「お邪魔しまーす」
 誰もいないって言ってあるのに、律儀な相手はそう声を出してから気付いたように「あ、そっか、誰もいないんだった」とこぼして靴を揃えた。その独り言を流して「こっち」と廊下を行くと相手は斜め後ろをついてくる。物珍しそうにきょろきょろと家の中を見回して。
 …別に見られて困るようなものは何もないのだけど、なんとなく落ち着かない。
 冷蔵庫の前に行くと、さっそくビニール袋の中身をしまいだした。「キョーヤ、ご飯何時がいい?」と訊かれてついと視線を壁掛け時計に移す。現時点で十七時三十分過ぎ。…調理ってものがどのくらい時間がかかるのか知らないけど、ここは勝手知ったる家ではないんだし、それを考慮するなら今から作ってもらった方がいい。
 手を止めてこっちを見てくる蒼い瞳にぷいと顔を逸らして「お腹が空いた」と言うとなぜか笑顔が返ってきた。「ん、じゃあ今から作る」台所に立つスーツ姿の背中にちらりと視線をやって、また外す。でももう一回見る。意味は特にない。
 そもそも、だ。僕はどうしてこの人にうちにくればいいなんて言ってしまったんだろう。
 家に誰もいないのは本当だし部屋が余ってるのも確かだけど、僕にメリットがない。家事炊事なんでもできるっていう相手にじゃあ場所を貸す代わりにそれらをこなしてもらおうとは考えたけど、それにしたって何かおかしい。だってこれは群れる、だ。僕は群れるのは嫌いだし群れてる連中はもっと嫌いだ。それなのにどうしてこの人を家に入れてしまったんだろう。
 ぼうっとその背中を眺めていると、「キョーヤフライパンどこ?」「下の棚。右側」「あ、あった」フライパンを洗う背中を眺めて、エプロンがいるなと思った。っていうかあの人はスーツを着たまま料理する気なのか。絶対汚れる。
 エプロン、と頭の中でメモをしたところで「キョーヤ包丁は?」「………」頭の中をさらってみたけど思い出せなかった。仕方なく台所に寄って下の棚の扉を開ける。入ってない。ここにだいたい突っ込んであるはずなのに。
 二人一緒になって包丁を探していると、奥の方に転がってる小さな包丁を発見した。柄を掴んで引っぱり出すと少し埃を被っている。普通のサイズもあったはずなんだけどどこやったかな。
 僕の手から包丁を取り上げた手と、少しだけ肌が触れた。すぐに離れる。何事もなかったように立ち上がった相手を膝をついたままなんとなく見上げる。
「ボールはこれで、まな板はこれで、お皿がそこでーっと」
 すらりとしたシルエットのスーツを少し着崩してる相手はなんだか楽しそうにしていた。意味がわからない。僕にいいように利用されてるってわかってないんだろうか。
「…あなたさ」
ですー。何キョーヤ」
「……いい」
 顔を背けて立ち上がって自室に戻った。ぼふとベッドに倒れ込んで黒いシーツを見つめて目を閉じる。
 男の料理になんて期待しないけど、少しだけ楽しみにしておく。ってことにする。まずかったらトンファーで殴ってやろう。うんそうしよう。
「キョーヤ」
「、」
 呼ばれて目が覚めた。委員長か雲雀と呼ばれることの方が多いだけに、恭弥と呼ばれて目が覚めた自分に少し驚いた。
 視線をずらすと、こっちを覗き込んでいる蒼い瞳がある。茶色い髪は少し赤みがかっていて中途半端な長さ。すらりとしたスーツを着崩してる相手が「ご飯できたよ。眠い?」と首を傾げるからむくりと起き上がる。うつ伏せのまま寝るなんて僕らしくなかった。寝るというか気絶した気がする。そんなに疲れてるわけでもないのにどうしてだろう。
「食べる」
「ん」
 ぼそりと返すと相手は笑った。
 どうしてそんなふうに笑うんだろう。ぼんやりした意識でそう思いながらその人に続いて階段を下りる。居間に行くといいにおいが漂っていた。ハンバーグのにおい、だ。
 ふらりとテーブルに寄ると売り物みたいなハンバーグと野菜のソテーが載ったお皿があった。フランスパンがスライスされて別のお皿に並べてある。洋食だ、完璧に。僕はご飯の方がよかったんだけど。
 ご飯、と考えたところで炊飯器に視線を移す。ぱかりと蓋を開けてみたけどいじった形跡はなかった。
「…炊飯器」
「へ?」
「ご飯の炊き方、わからないんじゃないの」
「わかんない。あとで教えてキョーヤ」
「…仕方ないね」
 一つ吐息して座布団に座り込む。並べてあるナイフとフォークを手に取る。本当に洋食だ。僕は和食の方が好きなんだけどな。今度、そう言おうか。
 向かい側に座った相手が手を合わせて「では、おいしいと思うけど、キョーヤの口に合うことを祈ります」とか言うからそっぽを向く。慣れた手つきでナイフとフォークでハンバーグを切り分ける相手をちらりと見てから仕方なくフォークを手にする。
 おいしくなかったら殴ってやる、と思いながらナイフとフォークでハンバーグを切り分けて口に運んだ。
 期待するようにじっとこっちを見つめる蒼い瞳がくすぐったい。妙にくすぐったい。
 よく噛んで、しっかり味わって、ゆっくり飲み込んで、それからようやく感想を言う。
「おいしい」
「よっし!」
 ぐっと拳を握った相手はよく笑う。その笑顔から視線を外して二口めのハンバーグを口にする。おいしい。一流シェフのお店に行ったら並ぶものじゃないけど、二流か三流なら十分通る。おいしい。
 気付くと平らげていた。パンが残ってしまったからじっと睨んでいると、向かい側の相手はお皿に残ったハンバーグのソースをつけて食べていた。真似してみる。ああ、レストランとかだとこうするんだっけ。洋食はあんまり食べないからなんともいえない。
「紅茶淹れようか。買ってきたからさ」
「…好きにすれば」
「ん」
 立ち上がった相手がお湯を沸かしにいく。やかんに水を入れる姿を見ながら最後のパンを口に入れて咀嚼、飲み込んだ。「キョーヤポットどこ? カップとかも」「……」どうせわからないだろうと思ってから仕方なく立ち上がる。食器棚に寄って一番下を開け放って、ビニール袋に入ったままのポットと使ってないカップとソーサーを二組取り出した。
「ありがとう」
 いちいち笑う相手にそっぽを向いて居間に戻る。
 群れてる、自分がいる。でもあまり苛々しない。どうしてだろう。
 考えてる間にあの人は戻ってきた。「はいどうぞ」かちゃんと置かれたカップを一瞥して琥珀色の液体を睨む。「おいしいの?」「おいしいよ。向こうで飲んでたやつだから。渋くないし」「ふぅん」紅茶のことはよくわからなかったので、おいしいという言葉に仕方なくカップに口をつけた。まだ熱い。だけどこっちを見てる蒼い瞳がある。熱いからって飲まないのは何か子供っぽい気がして熱い液体を無理矢理飲み下す。おかげで味はちっともわからなかった。
 うんともすんとも言わない僕に、どうしてか相手は笑う。笑みを含んだ口元で紅茶をすすってなんだか満足そうな顔をしている。
 意味が、わからない。
 紅茶が熱かったせいだろうか。なんだか顔まで熱い気がする。
「キョーヤ?」
 不思議そうに首を傾げる相手から顔を背けて、熱い紅茶をまた無理矢理飲み下す。喉が痛い。でもこうする以外に彼から顔を背ける理由がない。「キョーヤ、熱くない?」「何が」「紅茶。ミルク入れようか?」「いい」子ども扱いされてるようでむっと眉根が寄る。意地で紅茶を飲み下してカップを空にしてがちゃんと乱暴にソーサーに戻し立ち上がった。ちょうどいいタイミングで携帯が鳴ってくれたのが助かった。
 蒼い瞳から逃げるように背中を向けてぴっと通話ボタンを押す。「僕だけど」『委員長お疲れ様です』電話は風紀委員からだった。名前まで知らないけどどうやら何か面倒くさいことになっているらしいというのを電話越しの会話で確認して一つ息を吐く。「どこ」『はっ、並盛商店街の中央広場近くです』「すぐ行く」ぶちと通話を切ってポケットに携帯を入れたとき、「キョーヤどこか行くの?」と声をかけられて肩越しに視線をやる。蒼い瞳がまっすぐこっちを見ている。
「商店街で調子に乗ってる連中がいるから咬み殺してくる」
「咬み…? 喧嘩?」
「違うよ。並盛の風紀が汚されてるから正しにいくんだ」
「ふーん…?」
 首を傾げる彼から視線を背けてさっさと居間を出た。
 喧嘩かと言われれば喧嘩だ。必要以上に群れてあまつ通行者に迷惑をかけているという風紀を乱す原因を排除しにいく。彼にとって僕の行動は喧嘩と映るんだろう。
 違うそうじゃない、と叫び出したい気持ちになりながらバイクに跨ってヘルメットを被る。熱いものを無理矢理飲み下したせいで喉がひりひりと痛い。
 ぶおんと唸り声を上げるバイクを駆り出し、僕は並盛商店街へ向かう。
 彼の首根っこを捕まえて、これは喧嘩じゃなくて並盛の風紀を正すための行動なんだ、と言いたくて仕方ないのはなぜだろう。あの人に僕の行動を理解してもらったとして、それが一体なんだというのだろう。これから一緒に暮らす人間だから理解してほしいと思うんだろうか。今日出会ったばかりの人に理解してほしいなんて思うんだろうか。そんなのおかしい。変だ。
 ああ、苛々する。
 向かう先には苛々をぶつける相手が待っている。今はそのことだけを思って僕はバイクを走らせた。