自分の考えてることがよく分からないまま、捜させたの住所を書いた紙を片手に、イマドキっぽい十五階建ての建物の前で車を降りた。「帰りは自分で帰る」と黒塗りの車を追い返し、どこにでもありそうなマンションを見上げる。
 昨夜、あれから彼がなんでか泣くから、僕はそんな彼を持て余して早々にあの店を出た。あれが夜の十二時だったっけ。
 それで今がお昼の一時過ぎ。君が仕事を終えたのは朝の七時。それから帰ってきて寝てるとしたらまだ眠ってるはずだ。
 ふ、と息を吐いて、マンションのエントランスホールへ行く。自動ドアをくぐり、管理人は無視して呼び出し用のインターホンを繋げ、の部屋番号を入力した。ピンポーンという音のあと、たっぷり一分くらい待たせてから『ふわい。どちらさまで』と眠そうな君の声が聞こえた。
「やぁ」
『……ん? もしかしてひばり?』
「当たり。入れてよ」
『え? ええ、ええっと、なんで? つか何しに…っていうかなんで住所知って』
「いいから入れて。ここ寒い」
 から、と下駄を鳴らす。羽織りは着てきたけどまだ寒さを感じる。今日の天気が曇りで温度が上がらないせいか、春の真昼にしては冷える。
 は渋々という感じで扉のロックを解除した。開いた自動扉を潜り抜けて、重そうなその扉が閉じれば、ガコン、としっかりロックのかかる音がした。
 それなりにいい場所に住んでいるようだ。管理人は常駐しているし、セキュリティもまぁ中の上くらいだろう、きっと。そして何より彼がいるのは最上階。マンションで一番上の階って言ったら一番高い部屋のことだ。そこに住んでいるのだから、君があの店で仕入れているお金っていうのもそれなりにあるのだろう。
 エレベータに乗り込んで15のボタンを押して目を閉じる。勝手に閉まった扉、人を乗せた箱がぐんぐんと階を追い上げ、すぐにポーンという軽い音と一緒に十五階への到着を告げた。瞼を押し上げ、箱から出て、長い廊下のわりに二つしかない扉の奥の方へ向かってからころ下駄を鳴らしつつ歩く。
 ここまで来ておきながらなんだけど。僕はどうして自分がこんなところまでやって来たのか、よく分からない。自分が何を考えているのかがよく分からない。
 昨日と、同じだ。
 がホストみたいと人に囃し立てられていたから少し気になって、君の今を調べて、本当にホストなんてしていたから(それも男相手に)余計に気にかかって、じゃあ確かめてみれば早いなんて思って思いついたまま君のいる店に行って。それで僕は。
 ピンポーン、とインターホンを押して、唇に触れていた指を離した。待ち構えていたように扉はすぐに開いた。ドアの向こうには君がいて、普段着なんだろうジャージとパーカ姿で僕を見て、よく分からない笑顔で「はよ」と挨拶をくれた。
 それで分かった。
 ああ、僕は、君にただ会いたかったんだな、って。
「あー、コーヒー淹れる。俺まだ眠いから目覚まし…」
「好きにしたら」
 一人で住むにはだだっ広いだけだろう4LDKの一室、リビングに通され、大きなテレビの前のソファにぼすんと座る。暖房は入っていなかったけど外よりは寒くなかったので羽織りは脱いでソファの背もたれに引っ掛けた。はキッチンの方でやかん片手にコーヒーを淹れる準備をしている。
 会いたかった。声が聞きたかった。それは分かった。でも僕はそのためだけにここへ来たのだろうか。
 自分のことがよく分からないまま天井を見上げる。見慣れない天井は自分が雲雀家以外にいるのだと教えてきたけれど、ここがの部屋であるってことは、まだ実感が湧かない。
「雲雀」
 呼ばれて顔を向けると、「ほい」とマグカップを手渡された。
 …カップを受け取るときに少し触れた肌を意識する自分がいる。
 熱いコーヒーを口に含み、味わうことなくほぼ流し込む。コーヒーの良し悪しは僕には分からないし興味もなかった。ただ、君が淹れたコーヒーだし全部飲んでおこうと思っただけ。
 が僕の隣に腰を下ろして、リモコンでテレビの電源をオンにした。ぷつっという音のあとに大きなテレビ画面に色が灯り、音が流れ、適度なBGMとしてだだっ広いリビングを満たしていく。
 しばらくコーヒーをすすったあとに、がぽつりと「で、なんで俺んち来たの」と言うから、僕は正直に「よく分からない。何となくだと思う」と返した。彼はそんな僕をよく分からない顔をして笑った。ず、とコーヒーをすすって「あんね、あのあと考えたんだけど」とこぼす彼がカップを膝の間で抱えた。
「俺は、雲雀にはきちんと恋してもらって、誰かを愛してもらって、それでセックスしてほしいんだと思う」
「…何、それ」
「ほら、俺ってそういうことはできないまま汚れたからさ。雲雀に同じようになってほしくはないんだよ」
 自分のことについて諦めたように笑った彼は、自分のことを汚れていると称した。それに僕はむっと眉根を寄せる。「僕は恋なんて知らないよ」と言う僕に彼は淡く微笑んで「うん、俺も知らない」と言う。「愛なんてもっと知らない」と言う僕に彼は笑って「うん、俺も知らない」と言う。
 自分で知りもしないものを僕に押しつけて僕を抱かなかった理由を正当化しようなんて、いい度胸じゃないか。
 睨む僕の視線を受けて、の目が少し泳ぐ。惑ってるみたいに。
「でさ、雲雀」
「何」
「今日の着物、似合ってるね」
「そう? 普段着に羽織り引っかけてきただけだよ」
「うん。そうだろうとは思ってる」
 外着の袴を穿いてない僕に彼の視線はまだ泳いでいた。惑っていた。昨日僕が脱ごうとしたのを止めたときみたいな目をしてる。
 昨日、君がスーツより着物の方が似合うって言ったから今日は着物を選んだ。理由はそれだけ。
 何となく逸らされる目に、僕を抱きたくないのかと訊いたらどっちかと言われれば抱きたいと答えた君を思い出した。
 興味本位で、君になら抱かれてもいいかな、と思ったのが昨日の話。
 そして今日の僕は、昨日できなかったキス以上を求めて、君に詰め寄る。
 慌てたように膝からコーヒーカップを持ち上げる君と、空にしたカップを床に転がす僕。
 逃げようとするパーカの襟元を掴んで引っぱり寄せる。
 君はやっぱりどこか引き気味で、昨日みたいにお酒が入ってるわけでもない僕らは、勢いに任せてキスすることもできずに中途半端な姿勢で動きを止めた。
 …はあくまで僕を抱く気がないらしい。そう分かって、がっかりした。それに自分でも少し驚いた。
「もういい」
 ぱっと襟首を離してソファに座り直す。適当な昼ドラを垂れ流すテレビは僕の頭にはあまり入ってこず、やっぱり来ない方がよかったのかな、という後悔に似たものだけが胸を支配していた。
 ことん、とカップがテーブルに置かれる音がした。視線だけ持ち上げて君を確認する。またよく分からない顔をしている。
「…雲雀さ、俺のこと好きなの?」
「はぁ?」
 その言葉に素っ頓狂な声を出した自分にびっくりした。「なんでそうなるの」といくらか普通に戻した声で訊ねれば、彼は視線を泳がせつつ「だってさ。普通どうとも思ってない相手の家捜して来て、キスしようとしたりはしない、と思う」と言うから、そんなものなのだろうか、と僕は押し黙る。自慢じゃないけどそういった色恋沙汰の経験がない僕には好きってことがどういうことかもピンとこない。
「……もし、僕がそうだって言ったら、君はどうするの」
 仮定して訊ねた僕に、は困った顔をした。「あー」とか「うーん」とかさんざん悩んで僕を待たせた挙句、最後には降参と両手を挙げた。
「あんまし苛めないでよ。俺あーいう店に勤めてるからさ、お客さんとの恋愛とか禁止なんだよ」
 そう言って笑った君に、僕は、君を手に入れられる可能性はゼロじゃないな、ということを理解した。
 とりあえず今日はもう寝さしてください。今日も俺仕事なんだよ、と手を合わせて謝る君に仕方なく僕が折れて、早々に彼の部屋をあとにする。適当な場所で待機していたらしい黒塗りの車を呼び出して乗り込み、彼のいるマンションを離れた。
 夜になって、どうしようかと迷った。
 は今日もあの店に出る。もしかしたら、昨日の僕のように、君のことを独占しようと大金を叩く奴がいて、君がそいつを抱くかもしれない。
 考えただけで胸がムカついたので、その衝動のまま僕はまたあの店に行き、驚いてるのか呆れてるのか分からないを指名して、個室に押し込んだ。
「雲雀、お金大丈夫?」
「あるよ。余計な心配はいらない」
 会話はそれでぷっつり途切れる。
 あまりいいとは言えない空気の沈黙の間に、隣の部屋から嬌声が聞こえた。微かだったけれど僕の耳にはそれが届いた。もちろん男のものだった。
 彼に抱かれたら、僕も、あんなふうに鳴くのだろうか。
 いやそれ以前に、セックスっていうのはそんなに気持ちいいものなんだろうか、と考える。喧嘩で相手を制したあのときよりも気持ちよくなるのだろうか。
 性感なんてほとんど意識しない日々しか送ってこなかった僕にはよっぽどしっくりこない話だ。それなのにになら抱かれてもいいとか考える自分がよく分からない。
 僕は、を独占したいのだろうか?
 僕が黙っていると、同じく黙っていたに「なんで今日も来たの」と問われ、差し出されたメニューにシャンパンを指差して二つという意味で二本指を立てつつ「ムカついたから」とぼやくと彼は首を捻った。「え、俺が?」「違う。誰かに指名されて、君が誰か抱くかもしれないってことがムカついたんだ」カチャン、とテーブルの上の受話器を持ち上げた彼がきょとんとした顔をする。そういう顔をした君を見るのは初めてだった。
「雲雀、俺のこと、好きなの…?」
 どことなく間抜けな顔をしている君に僕は肩を竦める。
 それについて、君のマンションをあとにしてここに来るまでの間に何度だって考えたんだけど、答えは出なかった。どうして会いたいと思ったのか、話したいと思ったのか、キスがしたいのか、抱いてほしいのか、全てが一つにまとまることはなかった。
 この欲望を『好き』って言葉でまとめてもいいのなら僕は君を好きだと言っていいのだろうけど、正直、君がきれいなものだと信じている『好き』を僕の欲望で染めたくはなかった。だから僕は君が好きなのかどうかはよく分からない、ということにする。
 受話器の向こうで注文を急かされたがようやく「シャンパン二つ」と短く告げて受話器を置いた。
「俺さ、恋愛ってよく分からないんだ。だからこーいう仕事が向いてるのかなってやり始めた。指示さえ取れれば給料もよかったしね。女相手だと色々面倒くさいから男相手に仕事始めて、きっぱり身体だけのお付き合いで、ここまでやってきたんだ」
「そう」
「ん。だから今もまだ分からない。恋とか愛とか、好きも、多分よく分かってないと思う」
 そう、とこぼした僕を見たはやっぱりよく分からない顔をして笑う。
「そんな俺にこだわると、雲雀、不幸になるかもよ? もっと違う子に恋して愛しなよ。その方が幸せになれる」
 その、言い方が気に入らなかった。まるで自分が人を不幸にしかできないみたいな諦めた言い方が気に入らなかった。
 ネクタイを掴まえて力任せに引っぱる。襟首を締め上げられたの苦しそうな顔に噛みついてキスをした。
 お酒で濡れている唇は舌に刺激を与えてきて、ピリピリする。
 間を悪くして入ってきた給仕は何も見てない顔でシャンパンを置いて黙って引き上げた。
 掴んでいたネクタイを外しにかかる手を止められる。ぐっと強く握られて、お酒も入ってないのに熱い眼差しを向ける君に、ごくんと喉が鳴った。自分が彼を求めていることを自覚する。口の中、からからだ。
「僕は、君を、好きになりたい」
 君の『好き』を汚さないように。でも、君に『好き』を伝えられるように、そっと言葉にした好きに、君は泣きそうになりながら笑った。
 運ばれてきたシャンパンには手をつけずに僕をソファへと押し倒し、熱い吐息が首筋に埋まって、スーツのジャケットのボタンが外され、ネクタイが解かれる。
 最初に思った通り、僕の身体は君を拒否することはなかった。熱い唇に肌を吸われても、細長い指にシャツの上から肌を撫でられても、嫌ではなかった。
 キスをしながらお互いのスーツを脱がしにかかる。
 直接肌に触れたい。触れ合いたい、という欲望のままに素肌を晒すことを選ぶ。
 誰にも触れさせることなどなかった場所に君の手が触れることを許す。

 そうして僕は彼に抱かれることにした。願わくばそれが、彼の言う『好き』であることを祈りながら。