くん、私のこと好きじゃないんでしょう?

 彼女は突然そう言い出した。ふいに、何気なく、そのくせ確信しているような鋭さを帯びた声で俺の偽物の笑顔をぶった切った。
 デートでその子の希望の遊園地を選んで、俺はまだ水族館とかの方がいいなぁと思いつつ合わせて笑って楽しそうを装っていたのに、見抜かれた。
 女の子ってのは鋭い。まさしくあれだ、女の感ってヤツ。こっちが感心するほどにそういう第六感が鋭く、そしてそれを信じ、貫く強さを持っている。こっちがそれに引き気味になってしまうほどに。
 結局その子とは口論になり、というか俺が一方的に責め立てられて、向こうが俺をフるという形で決着した。
 中学、高校と何度か彼女って存在を作ってはみたけれど、結局、長続きした例がない。
 あと、みんな言うんだ。俺に自分のことなんて好きじゃないんだろうって、怒ったり、泣きそうだったりしながら言うんだ。好きじゃないんでしょう、って。
 俺はその言葉に強く違うと言うことができなかった。だからみんな破局した。そこで言葉だけでも紡げばいいのに、知りもしない好きを口にすることができなかった。
 君の言う好きと俺の言う好きには絶対的な違いがあり、口にしたところで、君は満足するかもしれないけど、俺は君との距離をさらに広げるだけ。そう分かっていたせいもある。
 好きです付き合ってくださいという定例文句に誘われて、周囲がそうしているように彼女って存在を作り、上手くいかずに破局、また告られて恋人獲得、でも破局。付き合ってくださいと求めるのに終わらせるのもその子。俺はすっかり恋愛ってものに疲れ始めていた。まだ恋ってものを知らないだけなんじゃないかと思って期待しても、結局インスタントな恋事しかできなくて、恋を真似してるだけで、恋にはならなかった。今までは。

 僕は、君を、好きになりたい

 遊園地をあとにする彼女だった子の後ろ姿を見送る視界がその声によってじわりと歪み、じわりじわりと波紋が広がるように歪んで、水面を映す鏡のように、一つの景色を眼前に突きつけてきた。
 俺が、雲雀の細い腰を抱いて、よがらせて、鳴かせて、犯した風景。
 …雲雀は俺のことを好きになりたいと言ってくれた。
 俺は、雲雀を。そう言ってくれた雲雀を、好きに。なりたいんだと思う。
「……ふへ」
 我ながらおかしな第一声と共に目が覚めた。
 壁掛け時計で時間を確認するとお昼の一時だった。我ながら、早い起床だ。昨日も七時上がりで八時前後に寝たことを考えるにもうちょっと寝た方がいいんだけど。なんか目が冴えた。
 視界を腕で覆って、ちょっと暑いな、と布団を蹴り上げた。
 季節は完全なる春。夜が肌寒いとか思っていたのはもう過ぎし日々で、昼間はぽかぽかといえる陽気で満たされるような頃になった。
 そんなまどろんだ思考の中に、ダン、と大きな音が聞こえた。隣のリビングから。おかげで色々と醒めた。さっきのは夢だから俺。
 あたたかい気温の中でのそっと起き上がり、ベッドを出て、部屋を出る。リビングに直通するドアを開けるとテレビがついていた。視線を流してキッチンを見ると、難しい顔で包丁手にシンクに向かっている雲雀がいた。相変わらず黒い着物に赤い帯をしている。
「包丁、使うなって言ったろ」
「…料理くらいすぐ憶える」
「うん、その心掛けは嬉しいです。でもお前の手から包丁がすっ飛んで床に刺さるのはごめんです」
 もう三回くらいやってる失敗を挙げると、むぅと眉根を寄せた雲雀は包丁とまな板がダンと派手な音を出すくらい力んで野菜を切っていた。
 その勢いだと雲雀の手から包丁が吹っ飛んでそのうち俺に刺さりそうで本気で怖い。料理しようってそう思ってやってくれるのは本当に嬉しいんだけど、まず、包丁をちゃんと持てるようになってから調理に入ってほしいです。
 ふわあ、と欠伸を漏らしつつキッチンに入って包丁を離さない雲雀の手に掌を被せる。「はい、もういいから。俺やるから。何作るの?」「…ん」す、と細い指が示したタブレットにはスペイン風オムレツが表示されていた。
 具材を一センチ角に切るなんて、雲雀がそれに挑むと考えただけで恐ろしい。包丁が何度飛ぶだろう。その前に、そのうち雲雀が自分の指を切り落としそうで本当怖い。できれば雲雀には料理とかしないでほしいのが本音だけど、そんなこと言ったら雲雀の機嫌が降下することは確実なので、まだ言えてない。
「雲雀は卵溶いて。二つ分ね」
 渋々俺に包丁を譲った雲雀が冷蔵庫から卵を二つ取り出し、ボールに割り入れた。まだ眉間に皺が寄ったままなところを見るに納得してないんだろう。
 ふわあ、と欠伸が漏れた。霞む視界を擦ってタブレットに表示されてるレシピを睨みつけ、具材を一センチ角に刻み、フライパンを火にかけ、具材に火が通るまで軽く炒める。ふわ、と欠伸を漏らしつつ、スパイスを振りかけ、溶いた卵を入れた。
 眠い、と目を擦る俺を雲雀が睨んでる気がする。
「何ぃ」
「…眠いの?」
「そりゃあ。朝帰りだし。五時間くらいしか寝てないし…」
 火を小さくして、「ちょい顔洗ってくる」とあとを雲雀に任せて洗面所へ行く。俺のものじゃない歯ブラシと俺の歯ブラシが仲良くコップに突っ込んであるのを眺めつつ洗顔。化粧水エトセトラをすませて戻ると、雲雀が二つに割ったオムレツを皿に移していた。「火ぃ通った?」「うん」じゃあいいか。まだ眠いと訴える目を擦りつつ、コップを二つ用意して冷蔵庫の中の紙パックのジュースから今日はオレンジを選んで注いだ。
 俺のことを好きになりたい=俺を知りたい=一緒にいたい=じゃあ一緒に住む、という雲雀の方程式に当てはめられて、俺んちにはすっかり雲雀が居つくようになっていた。
 俺のことを好きになりたいと言ってくれた雲雀を邪険に扱うこともできず、どちらかといえば魅力的だったので、俺は雲雀のことを受け入れた。
 お互いもう成人してるんだし、お互いの家のことには口を挟まない。
 雲雀が家に帰らないことをどう説明してるのかは気にはなるけど、子供じゃないんだし、きっと上手くやってるんだろうと思ってる。
 そうして俺がこの4LDKのマンションで一人じゃない日々を送り始めて、そろそろ三週間になる。
「んー…」
 どうにも冴えないままの目でソファに座り、電卓で数字を打ち込む。書面を睨んで数字を弾き出してはメモすることを続けている俺とテレビとを暇そうに交互に眺めていた雲雀が「さっきから何してるのさ」とそばに寄ってきた。着物の裾を踏んづけて寄ってくるからだんだん合わせ目がズレて、白い腿が覗いたから慌てて目を逸らす。電卓を弾きつつ「ん、ローンの計算」「ローン?」隣に座った雲雀は何それと言いたそうな顔と声だった。苦笑いしながらココと部屋のことを指して「一括で買える金なんてあるわけないっしょ。毎月のお支払いってのがあるんだよ」言いつつ、修繕積立金と管理費用をプラスした。
 毎月稼いだお金から払える額だけ出してローンを返済してきた。おかげで本来なら何十年って返済を組むだろうローン年数は残り二桁を切って、この調子でいけば二十代で払い終えるな、という予定でいる。
 が。それはあくまで一人暮らしで最低限の生活をして弾いてた額であって、今家に雲雀恭弥という同棲者を抱えてしまってる俺は、この金額を修正しなくてはならないのだ。
 今月の納期まであと三日。それまでに銀行へ行って支払いを済ませないと。
(あー、店行ったらオーナーに今月どのくらい入るか訊かないと…。先月働いた分だから前とそう変わらないと思うんだけど。そしたらー…)
 電卓相手にローンの金利とかを計算し始める俺に、雲雀が退屈そうな顔をしている。ようやく乱れた着物の裾を直しながら、ぽつりと、
「お金がいるってこと?」
「そりゃあね」
「じゃあ、僕が用意しようか」
「…はい?」
 電卓を叩いてた手を止める。雲雀は欠伸を漏らして退屈そうな顔で俺の肩にもたれかかり、「いくらいるの」と訊いてきた。「いや、十万とか百万とかじゃすまないから」「いくらいるの」同じ問いが重ねられて、じろりと睨まれる。いいからさっさと答えろ、と言っている目に「えっと。…三千万くらい、だけど」濁しつつ答えると、雲雀は吐息して目を閉じた。「三千万でいいの? それくらいでいいならすぐ用意できる」とぶっ飛んだことを言う雲雀にがくっと脱力した。雲雀はそんな俺をクエスチョンマークを浮かべてそうな顔で見ている。
 いや、三千万をそれくらい、って。どうなんだその表現は。
 確かに俺も仕事が仕事だから金額の大きい話はよく聞くし、実際俺を一晩個室に押し込む奴はどっかの会社の社長だとか幹部だとかが多い。仕事の話や愚痴を聞くと自然とそーいう金額も出てきたりする。三千万。その感覚からすればそんなに大きな数字じゃない。大口の取引先を持ってる人の話なんか聞くと億単位で金が動いたりもするし。
 でも、一般的な感覚からすれば、それはとても大きな数字だ。それをあっさりすぐ用意できるとぶっ飛んだことを言う雲雀を例えるなら、あれだ、有名企業の跡継ぎでありながら仕事をせずにぶらついているドラ息子みたいな。
 ごほん、と一つ咳払いをして電卓を置く。
「いいかい雲雀。お前んちがどれだけお金持ちなのかとか俺は知らないけど、ここは俺んちで、俺が長く住もうと思って買った部屋なわけだ」
「そうだね」
「俺と雲雀は、なんだ、一緒に住んでるけど、お金の貸し借りするのはよくないと思うんであってね」
 自分で喋っててちょっと変だなと思った。イマイチ歯切れが悪い。そんな俺をあっさり見抜いた雲雀が「貸し借りじゃないよ。あげるって言ってるんだ」とかまたぶっ飛んだことを言う。
 ああ、頭が痛くなってきたぞ。
 こめかみに指を添えてぐりぐり刺激しつつ、ぽむ、と雲雀の頭に手を置く。曖昧にくしゃくしゃと撫でた。雲雀の黒髪は一度も染めたことがないようで、少しも傷んでおらず、いつまでも触っていたいくらいふわふわの艶々のサラサラだった。
「気持ちは嬉しいよ。でもお金のことは持ち出したくないんだ、俺。それでトラブルになるのヤだから」
 仕事が仕事だけに、そういうトラブルごとも何度か見舞われている俺は、しみじみそうこぼした。間違っても雲雀とお金のことでもめたりしたくなかったのだ。
 雲雀は「そう」とこぼしただけで、これについては引き下がってくれた。
 自分がいることで多少なりともお金がかかっているのなら出すと言ってくれたけど、迷って、まだいいよと返した。
 なんだ。ほら。立場的に、多分俺が彼氏で、雲雀は彼女ってヤツだから。と、思うから。本当に困ったってときには言うけど、今はまだ大丈夫。だと思う。
 でも、雲雀がそうやって俺のこと気にかけてくれるのは嬉しいので、くしゃくしゃと黒い髪を撫でてキスをしておいた。
「ぼけっとしてますね」
「む」
「普段からシマってない顔でしたが、最近いちだんとだらしないですよ」
 身なりを整えてバーの方に顔を出すと、同僚の六道にそう言われた。
 右目にカラーコンタクト、頭頂部辺りをワックスばりばりにして特徴的な髪型をしてる同僚は、遠慮のない毒舌屋かと思えば、二人になれば途端に甘い言葉をかけてくる、そのギャップがいいと店で一番人気の奴だったりする。
 俺は一番人気者に対しても特に思うことがないので、皮肉も普通に受け取って「ああ、そうなの? マズいなぁ」と自分の頬を両手で叩いた。こういうとき、心当たりがありすぎてそんなことないよとか言えない正直な自分が残念だ。
 開店して間もないからまだお客のいない店内で、六道はこっちを観察するような眼差しを向けてくる。それに力なく笑って返す。俺、嘘って下手だ。
「六道はさぁ、最近何してんの? 仕事以外」
「プライベートですか。何してる、と言うほど何かしているわけではないですが…」
「ふーん。俺さ、前から思ってたけど、お前みたいなきれいめがココにいるのが不思議でしょうがない。お前なら女の子落とすのも簡単でしょーが」
「否定はしませんが。あなたと同じですよ。僕も面倒くさいことは嫌いでしてね」
 肩を竦めた六道に肩を竦めて返す。そこでちょうど今日のお客さん一号がやって来たので会話は打ち切られた。
 俺は今日もココで夜を明かし、朝陽が昇ったあとにうちに帰る。
 そして最近は、朝帰りの俺を雲雀が出迎える。
 部屋を出るときと帰るとき、必ずキスをねだる雲雀と唇を重ねて行ってきますとか言うようになって、キスをしてただいまとか言うようになって、三週間。俺は前のように自分を売ることができず、周りからは奥手作戦だとか言われながら、誰かと寝る回数が減った。
 仕事だと割り切ってヤることはできる。でもそのあと絶対胸焼けを起こしたように気持ち悪くなる。
 オーナー曰くユーレイみたいな顔してどうにか家に辿り着いて、俺の顔色に、? と心配そうな声をかけてくる雲雀を抱き寄せてキスをして、肌に触って、抱いて、声を聞いて、それでようやく気持ち悪さが抜けていく。
 雲雀以外の嬌声を、親父の声を、拒否しそうになっている自分がいる。
 それを自覚してしまったら身体は本当に拒絶反応を起こして吐くかもしれない。そんなことしたらまずクビだ。クビまで行かなくてもお客さんに不快な思いをさせるわけだから減給、とか。
 前と同じように笑って話を聞いてカラオケしたりキスしたり抱き寄せたり寝たりしているはずなのに、俺の身体はどんどん他人を拒み出している。

「ひばりぃ。どーしよ…」
「何が」
「俺さ。そのうち、お前以外を抱けなくなる」

 毎度店に来たら俺を指名してその日を頂戴していく親父の声を忘れるため、雲雀の声を聞きたいがめに細い腰を抱いた俺に、雲雀は文句の一つも言わなかった。
 ぼそっとぼやいた俺に、ベッドの中で薄く笑って乾いた唇を舐める雲雀の舌が艶かしく、誘っているように映る。「僕はそれで満足だ」と言う雲雀にぼすっと枕に顔を埋めて深く息を吐く。
 そうだろね。お前はそうだろう。俺がホストを続けて他の誰かを抱くことをお前が望むわけがない。だから、朝帰りした俺がそのままお前のことをベッドに縫いつけたって嫌な顔なんてしない。むしろ望んでたように俺に絡まってくる。
 日焼けを知らない白い肌と細い腰と薄い胸と、俺に貫かれてよがるお前と、軋むベッドの音。それが続くなら、お前はそれでいいんだろう。
 でも俺はそれじゃいけない気がするんだ。
 このまま雲雀以外を拒絶する身体する身体になったら、今の仕事を続けられなくなる。今の仕事で一般人より高い収入を得てるからこんなマンションの一部屋を選んで買ったんであり、今の収入がなくなると、若干返済が辛い。無理ってことはないけど辛くなる。計算して出した二十代にローン返済っていう計画はまずボツになる。
 ああ、俺、どうしたら。
 別にローンを十数年計画にしたっていいんだけど。いつまでも足枷がついてるみたいで嫌だから早く返済しようって思ってたんだけどな。
 ぺた、と背中に触れる掌の感触に薄目を開ける。枕で埋まった視界を上げると、雲雀が俺に覆い被さってきた。「ねぇ」と艶っぽい声が首筋に埋まる。こら、変な気起こすから肌を舐めるのはやめなさい。
が僕に、未来をくれるって言うんなら、買うよ」
「え?」
「この先も僕と一緒にいるって約束してくれるなら、が憂いてる金額を僕が用意してあげる。君はそれでローンとやらを払えばいい。そうしたら普通のお金があれば生活していけるでしょ」
 弁舌な雲雀が「僕は君がいたらそれでいい」と言って背中に被さってきた。重い。そして当たってる。
 元気だなぁ、と小さく笑って、もう眠くてしょうがない目を瞬く。
 雲雀は。俺を手に入れるためなら、どんな金額でも用意して買うつもりでいる。店に来たときと同じだ。そして、雲雀はそれがいいんだ。俺が欲しいんだ。俺が他の誰かを抱くことはムカつくと言ってたし。
 他の誰でもなくて、雲雀は俺がいいんだ。
 投げ出したままの手に掌が重なり、手の甲を伝った細い指が俺の指を絡め取る。
「……雲雀さ。俺のこと、好き?」
 まだよく分からない『好き』という言葉を口にする。雲雀は俺の手をきつく握り締めて「好きだ」とこぼした。その声は俺の胸をぎゅっと掴んで揺さぶってきて、切ない気持ちにさせた。
 うん、そうか。雲雀はそんなに俺のことを思ってくれてるのか。
 だったら俺は、それに、応えよう。