「恭さん、ご実家の方へお戻りください。旦那様が倒れられました」
 食材がないからスーパーに行こうと言い出したとマンションを出たら、待ち伏せしていたらしい草壁にそう言われた。
 僕はその言葉に対して大した感慨も浮かばず、ふうん、とこぼしただけでの手を引っぱって歩いてスーパーのある方に向かう。「恭さん」と哀れっぽく声を投げてくる草壁を無視した僕と違い、は草壁を気にするように来た道を振り返る。
「ね、いいの? 家の使いの人なんだろ?」
「…いいよ」
 父親が倒れたと聞いてもあまり何も思えない僕は、彼にどう見えていただろう。薄情な奴に見えたのだろうか。だったらそれは、少し、嫌だな。
 僕は雲雀家の一人息子で、父の跡を継ぐのは僕の役目だ。けれど、僕にとってそんなことは些細なことであり、どうでもよかった。僕の現実はの隣にいる今であったから。それ以外なんてみんな些事でしかなかった。
 と一緒にいる時間が好ましかった。好きだった。どんなことでも。料理、掃除、買い物、会話、同じテレビ番組を見ての雑談、甘いキス、深いキス、愛撫、セックス、どんなことでも好きだった。
 そんなが帰り道に「一度家に帰ったら」と言うから、自然と眉間に皺を作ってしまう。「どうして?」「いや、だからさ、親父さんが倒れたんだろ。お前兄弟は?」「…僕一人」「なら余計に行った方がいい」むむ、とさらに眉間に皺を寄せて嫌だを体現する僕に、彼は苦笑いをこぼしてこう付け足した。

「じゃあ俺も一緒に行くから。ね?」

 …結局、この言葉につられて、僕は仕方なく雲雀の家に顔を出すことにした。
 前向きに考えてみて、これはに僕のことを知ってもらういい機会ではないか、とも思ったのだ。
 あとは、彼に親不孝の息子みたいな側面を見せた自分を修正したかったから、かな。
 マンション前で張り込むみたいにして待っていた黒塗りの車にを押し込み、自分も乗ってから「出して」と言えば、草壁はアクセルを踏み込んで車を発進させた。
 仕事に行くときみたいにきれいめな格好をしている彼が静かだったので、その肩に頭を預けて目を閉じ、僕も黙っていた。危篤状態だという父親についてぼんやり考えもしたが、もやもやとした思いだけで形になることがなく霧散した。
 長いようで短かった距離を走った車を降り、を連れて雲雀家の敷居をまたぐ。多分親戚だった、くらいの認識しかない数人とすれ違って頭を下げられたけど流した。家に上がり、僕を迎えた使用人に案内され、父が臥せっている部屋に向かう。は向けられる視線に淡い笑みを返すだけで、特に戸惑っている様子はなかった。
「旦那様。恭弥様がいらっしゃいました」
 そうやって使用人に世話される父は、確かに、危篤と言われるほどには弱って見えた。僕が家を空ける前にはあんなに頬がこけていなかったと思うし、目の下のクマだってなかった。「恭弥か」と僕に語りかける声も弱い。
「そうだよ。草壁がしつこいから来てあげたんだ。感謝してよね」
 いつものように喋った僕の手をぺちと叩く手に視線をずらす。「恭弥」と、いつもは雲雀としか呼ばない彼が僕のことを名前で呼ぶから、心臓が一つ大きく鳴った。…なんて分かりやすいと自分に呆れてしまう。ここに雲雀の苗字を持つ人が他にいるから彼は僕を名前で呼んだのであって、深い意味は、きっとないのに。
 多分、もっと父を気遣って話しなさいって意味で手を叩いてきたのだろうけど、僕は父に対してもいつもこの調子だ。謙ったらそっちの方が変だよ。
 父が僕から視線を外してのことを見た。「そちらは、どなた様だい」と力なく問いかける声に彼が頭を下げて「あ、と言います」と自己紹介すると、父の目がまた僕に移った。「友人かい」という言葉に考え込んでから「……うん」だいぶ間を空けて答えた僕に、父は何かしらを察したらしい。「そうか」と一人満足そうに頷くから、僕は視線を逸らした。
 母は僕を産んで数年後に他界したらしく、この人にとって血が繋がっている家族といえるのは僕だけだった。それが分かっていながら僕は特に父を気遣えない。恐らく立場が逆であったとしても父は僕を特別気遣わず、僕も、静かに死んでいた気がする。
「あの」
 僕らの沈黙の間に、が割り込んだ。僕と父に揃って視線を向けられて、多少目を泳がせながらも、父に顔を向けて畳に手をついて頭を下げる。
「俺に息子さんをくださいっ!」
 そう声を張り上げたにぽかんとしたのは父と使用人だけでなく僕も同じだった。それ、娘さんを僕にくださいとかそういう台詞の間違いじゃあと思った。
「は?」
 ようやく声を絞り出して、頭を下げたままのを見つめる。言葉の意味を理解して顔が一瞬で顔が熱くなっていた。「君、何言って、」頭の中がぐるぐるして上手い言葉が見つからない僕を置いて、は一人で喋っている。
「息子さんのこと抱きました。すいませんでした。恭弥が俺を好きだって言ってくれて嬉しくて、俺が甘えちゃってて、深いトコ考えもせずに恭弥と同棲してました。すいませんでした」
 そこまで聞いてようやく手が動いた。彼のスーツの襟首を掴んで無理矢理畳から引き剥がす。「ぐえ」と潰れた声を出すに「謝るな」と言う自分の声は珍しく感情を含んでいて、僕は、どうやら怒っているらしかった。
「僕はそれでいいって思ったから君に抱かれたんだ。君ならいいって思ったから。のこと好きなのも本当だ。ずっと一緒にいたいんだ。僕は好きで君のそばにいるのに、そのことで申し訳ないみたいに、謝るな」
 彼のことを名前で呼んでみた。と苗字で呼ぶより何となく嬉しくなった。上手くは言えないけど、何か、どこかが。
 首が絞まる、とシャツの襟元を叩く手に、ようやくスーツを離す。げほごほと咳き込んだをぎりぎり睨めば、参った、と彼は両手を挙げた。
 僕らのやり取りを見守っていた父は(その後ろで使用人がまだぽかんとしていたが)、満足そうに二回頷いた。そうして「お前がそんなふうに怒ったところは初めてみたな」と言われてぷいとそっぽを向く。そうだね、僕もこんな自分は初めてだよ。
「そちらの、さんと言ったかな。お前は彼が好きなのか?」
「…悪い?」
「いや。お前が人間らしくなって、父さんはほっとしたよ」
 心からほっとしてるみたいな顔をしてる父を一瞥する。
「で。僕はのことが好きだから、家のことは、期待しないでいてよ」
 つまり、雲雀家を存続させるために女を娶るだとか、そういったことだ。僕はそんなことする気は一切ない。今までの僕を知っている父はそれを承知していた。残念そうな顔はしたが、「そうか」とこぼしただけで、それ以上は特に何も言わなかった。そんな僕ら親子をが戸惑った顔で見ていた。
 部屋を出る直前、「さん」と彼が呼び止められた。「はい」と神妙な顔で返事をして父を振り返るを視界の片隅で見やる。
「恭弥を、どうかよろしくお願いします」
「え…あ、はい! 全力で!」
 ぽかんとしたあとにばっと頭を下げたに顔が熱くなった。なんだよ全力でって。ベッドの中じゃあるまいし。
 がし、とスーツの腕を掴んで「じゃあね」と別れを告げ、父の顔も見ずに部屋を出て、ずるずると彼を引きずって廊下を歩く。
 父の最期の顔なんて、見なくたって想像できたし、分かっていた。
「あれでいいの? きょーや」
 家を出るとき、彼が不意打ちに僕のことを名前で、やわらかく呼ぶから、心臓がどきんと跳ねた。一瞬我を見失った僕はまたぐはずだった敷居にがっと下駄をぶつけて躓いて、そんな僕をの腕がすくい上げた。「危な」とこぼした彼の声が耳をくすぐる。
 跳ねる心臓を意識して抑えつつ、「平気」とこぼしてその腕から抜け出した。
 これでもここ数年で父と話をした中では一番長いくらいなのに、はあまり納得してないらしい。
「僕はこれでいい」
 きっぱり言って、雲雀家の敷居をまたいで出る。自分の意思で。
「この家に一人でいて、他に誰もいない家の存続なんか考えるより、僕はと一緒にいたい」
 そうこぼしてから、呆れられたかな、とそろりとを見やる。彼はよく分からない顔で笑っていた。
「じゃあ、俺が考えるよ。恭弥の分まで、雲雀の家のこととか。色々と」
「…好きにしたら」
 ぷいとそっぽを向いて、一度離れた手を探って握った。すぐに握り返されて、どちらからともなく指を絡めてもう一度手を握る。
 否定されなかったことが嬉しかった。僕の分まで考えると言ってくれたの言葉が嬉しかった。
 ……父は言った。僕が人間らしくなったと。
 僕もそう思う。
 もっと早くのことを知っていたら、もっと違う未来もあったかもしれない。でも僕は、これで、満足だ。
 父はそれから三日後に他界した。
 それに合わせたのかそうじゃないのか、は仕事を辞めてきた。
 通夜、葬儀の手はずを草壁その他と話し合って場を確保したり整えたりして、腰が痛い、と僕がベッドから抜け出たときには「恭弥ほら着替えて。着物」と葬儀用の着物を持ってきた。ラインも入ってない黒くて地味なスーツを着てるがあまりにも似合ってなくて「似合ってない」とこぼしたら彼は苦笑いをしていた。
 僕よりもの方があれこれと頑張っていたのが癪だったので、雲雀家跡継ぎとして、僕もそれらしい形にできるよう努力はした。
 親戚一同が集って面倒くさい集まりとか話し合いとかをして、ようやくの部屋に戻れたのは一週間もあとのことだった。
 一言で言うなら。疲れた。ひたすらに。
 人前が多かったから一週間もまともにに触れていない。キスだってしてない。手だって繋いでない。身体中がを求めていてどうにかなってしまいそうだ。
「ただいまぁっと」
 のろりとした動作で帰宅する君に続いて下駄を脱ぐ。「きょーや腹は?」「減ってない」「あい。俺も減ってないので何も作りません」のろのろ歩く君の背中を眺める。黒くて地味なスーツのジャケットを脱いだ君が「着慣れないものは肩が凝る」と言ってぐるぐる肩を回すのを眺め、足を止めた。
「ねぇ」
「んん」
「抱いてよ」
 生返事のががくんと肩を落とした。呆れてるような顔で僕を振り返り「お前ね…もうちょっと誘い文句とかないの? 直球すぎるでしょ」「誘い文句…?」首を捻る僕にはぁと息を吐いたががしがし頭を掻く。…彼の言いたいことはよく分からないけど、抱いてほしいのに抱いてくれではいけないらしい。
 じゃあどう言えっていうんだ、と眉根を寄せている僕のところまで戻ってきたの腕がするりと腰に回ってから、着物の襟の向こうに入り込んでくる。
「あのね」
 その囁き声が耳をレイプした。僕はあまり耳が得意じゃないらしく、その声だけで「ぅ」とたじろいでしまう。特に、色っぽいの声は苦手だ。それだけで興奮してくる。
 着物の内側に入り込んだ手が肌に触れる。
「たとえば、俺が今お前を誘うなら、朝ご飯はきょーやがいい、とかね」
「…ッ?」
「食べちゃいたいってコト」
 僕の反応に薄く笑った声が耳朶を噛んできた。う、と息をこぼして逃げようとするんだけどしっかり腕を回されていて逃げられなかった。「じゃあ、たとえば、僕はどう言えばいいのさ」首筋をなぞっていく唇を恨めしく思いつつ訊いてみた。考えるよりも行動に表すタイプである僕にはそういった言葉が何も思い浮かばなかったのだ。
「んー、そうだな。俺の熱いのが欲しいとか言われるとソソる」
「は、何それ」
「そのまんまの意味です」
 袴の帯の結び目を解いた手を何となく見つめる。解けてしまえば簡単に崩れてしまう着物の端を踏んづけて自分から落とした。
 が僕の着物姿に弱いことは知っている。抱いてと言葉にしなくたって、キスを仕掛けてもっとしたいってねだれば彼はだいたい落ちる。それでも駄目だったときは自分から帯を解いて着物をはだけさせて落とす。だから僕は着物を着ていて、都合がいいから、家でも外でもずっと着物でいる。着慣れているし、を落としやすいから。
 熱いキスを交わしながら、の指先が僕の身体を煽っていく。
 腿の内側を撫でる掌がもどかしくて、そんなとこばっかり触ってないでよ、との舌を甘噛みした。もっとと求める僕のことを理解している君の手は腿から足の付け根へと移動する。
「ん…ッ」
 キスをしていても吐息がこぼれた。
 一週間、雲雀家の問題でごたごたして禁欲みたいな生活を送っていたせいか、今日は反動が激しい。
 シャワーも浴びないまま玄関先で濃厚なキスを続けて、それがふいに途切れた。僕から顔を離したが「危な」とこぼして、僕が踏んでいる袴を拾い上げ、スーツのジャケットも拾う。
「ここじゃ無理。きょーや、ベッド」
「…………」
 中途半端に熱くなった身体で、はだけた着物を直す。緩く帯を締めてのろりとした足取りで彼の背中を追いかけて歩く。
 早くに触れてほしいと叫ぶ自分の身体がまるで女のようだと思った。本来なら受け入れるためにはできていない場所まで慣らされて、すっかり彼を求める場所へと変わり果てている。
 のろりとした足取りで、を追いかけて部屋に入る。
 ばさりとスーツと袴を床に落とした彼がベルトを外した。ベッドの前で僕を振り返って「きょーや、おいで」と差し伸べられる手に身体が疼いて、勢いよく抱きついてをベッドに押し倒した。ぎいぎいと軋んだ悲鳴を上げるベッドに埋もれたが「そう来たか。重いよ恭弥」と笑う。その顔に噛みついてキスをする。貪るように。いや、貪るために。
 歯列をなぞり、上顎や下顎、口内を蹂躙すべく侵入させた舌は、最後には彼に絡め取られている。いつもそうだ。最後には翻弄されて、僕が負けている。
 長い長いキスのあとにようやく普通に息を吸った。いつの間にか僕が下で彼が上になっていた。伸びた手が緩く結んだ腰帯を解く。簡単にはだけた着物の下の肌に埋まるの頭を抱いて、今度誘い方ってやつを練習しておこうかな、と思った。
「俺のこと好き?」
「好きだよ」
「うん。俺も恭弥が好きだと思う。これがそうじゃなかったとしても、俺はお前が好きだって言いたい。だから、好きだ、きょーや。きっと愛してる」
 愛してる、とこぼしたが笑うので、僕も笑っておいた。
 一粒だけ流れた涙には知らないフリをした。
 だって僕は何も泣きたいことなんてありはしないのだから。だからこれは、悲しいから流れた涙ではなく、嬉しいから流れた涙だ。きっと。

 恋も、愛も、好きでさえ曖昧な僕らは、お互いの気持ちを確かめながら、それが限りなく同じものであることを願いながら、生きるしかない。
 明確に形もなければ人によって定義すら変える『好き』を、『愛』を、同じ形を作れるように。僕とはこれからも手探りしながら、時間をかけて、それを作っていくのだ。