そしてまた幕が上がる

 翌日、また晴れた。今日もいい天気だ。
 怪我の経過が順調なキョーヤは今日は学校に行っている。風紀委員としての仕事がたまってるらしいから。
 家事炊事をいつものようにすませ、休憩に紅茶のカップ片手に縁側に行くと、秋晴れだった。
 眩しい陽射しに目を細めつつ、ミルクティーを一口。うん、うまい。
 キョーヤは夜には戻るって言ってたけどどうかな。よくわからないけど、風紀委員の仕事っていうのは忙しそうだし。
 さて、それはそれとして。
 ここで問題です。掃除機のない家を掃除するのに一番有効な方法はなんでしょーか。
「まぁ、雑巾がけだよね…」
 ふうと一つ息を吐く。
 というわけで、今日は掃除をする俺なのである。たまには床も拭かないとね。せっかく和風のきれいな家なんだから。
 バケツと雑巾片手にせっせと床を拭いて、縁側のガラス戸もきれいにした。ぴっかぴかとはいかないけどやらないよりは随分よくなったろう。よし、この調子で全部やってしまえ。
 掃除に没頭した俺が最後に向かったのはキョーヤの部屋。勝手に入るなとか言われそうだけど、掃除くらいいいでしょ。不可抗力不可抗力。…でもちょっと気になって簡素な本棚とかベッドの下を調べてみたけど、やっぱりなかった。健全な男児が持つべきモノというか。うん。
(キョーヤ、男の子で合ってるよね…? なんかちょっと不安になるんですが)
 いや、そのくせ、見つけたら見つけたでなんかショックを受けるような。気もする。って、なんだその矛盾した気持ちは。我ながら意味が分からん。いや、でもだよ。キョーヤだって男の子なんだからそういう嗜みはうんぬんかんぬん。
 勝手に人の分まで悩みながらキョーヤの部屋の窓ガラスを拭き終える。その頃には夕方になっていて、俺もすっかり疲れ果てていた。ちょっと身体がばきばきってする。もっと普段から動かないと駄目かな、俺。
 ぐっと伸びをしたところでピンポーンとチャイムの音がした。誰か来たようだ。風紀委員の人だろうか。
 ばたばた階段を下りて「はーい」と返事をしてガラガラ引き戸を開ける。雲雀家を訪れるのは風紀委員の人ばかりだからてっきりまたキョーヤが寄越したんじゃないかと思ったんだけど、外には誰もいなかった。
 ん? と首を捻り、念のため道路まで出てみたけどやっぱり誰もいない。
 今チャイム鳴ったよね。うん、鳴ったと思うけど。じゃあどうして誰もいないんだろう。おかしいな。
 首を捻りつつ、ピンポンダッシュってやつかなぁ、と思った。小さな子供がピンポーンを押してダッシュで逃げていく姿を想像して、まぁいいか、戻ろうと道路側に背中を向けたとき、どん、と音がした。瞬間、背中に衝撃があった。
 音に振り返る前に何かに当たった。それはわかった。そこから先が、わからなくなった。
 一瞬だけ白い空間に浮かんで、何度か瞬きしたら海に呑み込まれるようにどこかに呑まれた。そうしてどさっとどこかに落ちた。体感としてはそんな感じ。
(なんか痛いぞ、なんだこれ。何がどうなってる?)

「君…」

 そして、聞こえた声に何度か瞬きを繰り返すと、視界が戻っていた。
 頭がちょっとキーンてするけど大丈夫だ。何か当たったはずの背中は特に痛みも感じないし、異常なし。
 ただ、見えた景色に問題があった。
 俺はさっきまでキョーヤの家の掃除をしてたはずだ。床をきれいにしてガラス戸をきれいにして窓ガラスも拭いてたはずだ。それが終わった辺りでチャイムの鳴る音がしたから玄関に行ったら誰もいなかった。変だなと首を捻って家に戻ろうとしたら、背中に何かが当たって。それで。
 それで、どうして俺は人を押し倒してるんだろうか。意味がわからない。
「あ…れ?」
 何度瞬きしても見える景色は変わらない。
 それに、俺が下にしてる人の灰色の瞳と黒い髪は、見憶えがありすぎる。
 でも俺の知ってるキョーヤはもう少し髪が長かったような。気がする。
 薄く笑ったその人が「全くいいタイミング。君らしい」とぼやいてすっと手を伸ばした。黒い着物の袖が流れてその下に肌が覗く。細長い指が俺の頬を撫でた。「やあ」と言われてようやく理解する。黒の着物に黒い髪、切れ長の灰色の瞳。間違いない。この人は、キョーヤだ。
「キョ、ヤ?」
「そうだよ」
「あれ、髪切ったの?」
「これかい? 君がやったんだよ」
「え? 俺? いや、俺まだキョーヤの髪切ったことないと思うんだけど…」
 困惑する俺にキョーヤは口元だけで笑った。その顔はどことなく寂しそうだった。
 頬を撫でていた手が離れて落ちる。ふうと息を吐いたキョーヤが「もう一時間遅ければよかったのに」と残念そうにぼやくから首を捻った。一時間って、何が。
 さっきからキョーヤと会話が噛み合ってない気がする。
 キョーヤに、違和感を感じる。髪もそうだけど、何か違う。俺の知ってるキョーヤと何か違う。
 とにかく。いつまでものしかかってるわけにもいかないので退こうと視線を流したら、キョーヤの格好が見えた。帯が解きかけだ。着物の襟ははだけている。裾も乱れてる。ついでに俺がのしかかっている。…え、何これ。この状況。まさか俺は気付かないうちに三度めの間違いを犯してしまったのか。記憶にないって、相当ヤバいぞ俺。
 ぎぎぎと音がしそうなくらいぎこちなくキョーヤに顔を向けて「あの、俺達、ナニしてた?」そう訊いたらキョーヤが笑った。腕をついて身体を起こすとキスするくらい顔を寄せて「何してたと思う?」と逆に訊かれる始末。不敵に笑ったその顔に思わずばっと身を引いて立ち上がったら、キョーヤはやっぱり笑った。
「冗談だよ」
「え、いや…うん」
 慣れた手つきで着物の乱れを直すキョーヤを見つめて、やっぱり違和感を感じた。
 なんていうか、大きくなった? いや成長した? 感じで。俺の知ってるキョーヤはもうちょっと不器用で、そんなふうに笑うことは滅多にない。
 しゅ、と帯を締め直したキョーヤが俺の視線に答えるように「ついておいで」と言って立ち上がる。からりと開いた襖の向こう、渡り廊下を行く背中に一歩踏み出して、なんか変だなと足元に視線を落として慌てた。俺靴履きっ放し。うわ、最悪。畳が汚れる。畳って繊細なのに。
 キョーヤが立ち止まって俺を待ってたから慌てて追いつく。「別にいいのに」「や、駄目でしょ」靴を片手に持った俺にキョーヤの口元は笑っている。笑ってるんだけど、灰の瞳を見たらそうじゃないんだなと一目で気付いてしまった。
 あの目は寂しいと言っている。笑って見せてるだけで、キョーヤは本当は笑いたくなんてないんだ。そんなことに気付いてしまう辺り、俺は本当、キョーヤのことよく見てる。
 日本庭園がきれいな庭、長い廊下、きれいな襖ときれいな畳。俺の知っている雲雀家よりも大きくて立派な敷地と建物。
 キョーヤについていった先で新品みたいな黒い着物を押しつけられ、とりあえず着替えなよと言われて頑張って着てみたら、ちょうどぴったりだった。今までキョーヤのを借りてて丈がちょっと短いくらいだったけど。
 そろりと襖を開けると、キョーヤはお茶を飲んで俺を待っていた。着替えた俺を上から下まで眺めると「まぁ合格。及第点」「はぁ…」それは着付けに関してだろうか。それとも似合う似合わないって話だろうか。
 用意されてるふかふかの座布団に座り込むと、なんだか疲れが出てきた。
 あ、そうか。雑巾がけのせいか。あと窓拭き。慣れないことってやっぱり疲れるんだな。若さに任せて無理できるのって今のうちだけだし、俺もしっかり体力作っておかないとな。
「ここは十年後の世界だよ。正確には九年と十ヶ月程度かな」
 俺に湯飲みを差し出したキョーヤがさらりと言った言葉は、全然さらりとした内容じゃなかった。「…は?」キョーヤの手の中の湯飲みを握ったまま俺の時間が止まる。
 キョーヤの顔に冗談の色はない。いや、そもそもキョーヤはそういう冗談は言わない。
 ここが、十年後、正確には九年と十ヶ月後の世界? なんだそれ。
「それ、本当のこと…?」
 ぽかんとしている俺にキョーヤは浅く頷く。「君、僕に違和感を感じてるだろ。当たり前だよそれ。ここにいる僕は、君の知る僕がさらに十年時間を過ごした僕なんだから」そう言ってキョーヤの手が離れた。俺は湯飲みを握ったまま動けない。キョーヤの言葉を理解したいんだけど、受け止めたいんだけど、あんまりにも急に近未来的な話になりすぎてて。え、それ、本当なのか。ここは本当に十年後の世界? お前は俺の知ってるキョーヤの、十年後の姿?
 ふ、と息を吐いたキョーヤが「飲んだら」と湯飲みに視線を流す。促されて、ようやく口をつけた。日本茶はちょっと渋くて俺には苦い。紅茶が飲みたい。
 気付いたように顔を上げたキョーヤが「ああ、そうか。君は紅茶派だったね。哲」「ここに」からりと開いた襖の向こうからリーゼントの髪型のいかつい顔をした人が現れた。
 どっかで見たことあるぞあの髪型、と考えて、思い出した。風紀委員だ。そうだ、風紀委員の人ってみんなあんな感じだった。
「紅茶を用意して。今ある一番いい茶葉でね」
「はっ」
 襖が閉まって、足音が遠くなる。その間にもう一回お茶を口に含んだ。やっぱり苦いや。
 よし、頭を整理しよう俺。切り替えるんだ。ここにいるキョーヤのことを信じよう。
 ここは十年後の世界。で、目の前にいるキョーヤは俺が知ってるキョーヤが十年年齢をプラスしたキョーヤ。外も俺が知ってる世界から十年たってる世界。よし、オッケー。なんとか呑み込もう。
「えっと、なんで俺は十年後の世界に来た、んだろ」
「タイムトラベルだよ」
「は? タイムトラベルって、テレビとか小説によくあるあれ?」
「そう」
 非現実的なことも、キョーヤは簡単に肯定した。一応呑み込む。「じゃあ、俺はどうしてタイムスリップしたんだろ…。今日は掃除してただけで、別に特別なことは何も…?」言ってるうちに気付いた。チャイムが鳴ったのに誰もいなかった玄関と、背中に何かが当たったという事実を。
 あれか。あれなのか。なんかあれのせいで俺はこの十年後の世界に来ちゃったってことか。
 眉根を寄せて考える俺に、和机に頬杖をついたキョーヤが笑っている。面白いものでも見てるみたいな顔だ。こっちは真剣に考えてるっていうのに、なんだよ、笑って。
「やっぱり冗談とか言う?」
「言わない。本当のことだからね」
「む…」
 ですよね。うん、キョーヤは冗談で人をからかうタイプじゃないし。うん。だから、キョーヤの話は本当のことなんだ。
 そのうち、テツと呼ばれた人が紅茶を運んできた。途端、いいにおいに意識がつられる。紅茶好きなんだよ俺。
「どうぞ」
「どうも」
 頭を下げられて頭を下げ返し、そろりとカップに手を伸ばす。テツはすぐに下がって襖の向こうに消えた。
 鳥の描かれてるカップは金の縁取りがしてあって、柄もなんか複雑で、高そうだ。メーカーものだろうか。
 いいにおいにつられてカップに口をつける。あ、おいしい。
 さっきからじっとこっちを見てるキョーヤに「おいしい」と笑うとキョーヤは灰の瞳を細めた。笑ってるみたいだ。今度は本当に。
「……十年か…。ねぇキョーヤ。ここに俺が来たときキョーヤと一緒にいたってことは、十年後の俺、キョーヤといたんだよね」
「そうなるね」
「うん。じゃあよかった」
 ほっとして笑ったら、キョーヤは驚いたみたいだ。ぷいと視線を逸らすと「そういうところは十年前も変わらないな」とかぼやくから、ああやっぱ十年たっても俺ってこんななのかとちょっと残念になる。十年もあればもうちょっとかっこよく、強くなれそうなのに。今の俺とそう変わらないのとかちょっと残念。
 紅茶に口をつけた俺に、キョーヤが仕返しとばかりにこんなことを言った。
「そういえば、十年前の今頃って僕らはセックスしたんだっけ」
 思わず紅茶を吹き出しそうになった。どんどん胸を叩いてどうにか飲み下してげほげほと盛大に咳き込むと、キョーヤは唇の端を吊り上げて不敵に笑っているではないか。計算したなこの野郎、苦しい。紅茶変なところ入った。
 っていうか、やっぱりそうなのか。あの体勢は、する前だったってことか。帯が解きかけだし着物ははだけてたしな。薄々そうだろうと気付いてたけど。だからもう一時間遅ければの台詞に繋がるわけだ、くそ。
「あの、さ。十年後の俺も、キョーヤのことを…その」
 言いにくい。もごもごする俺にキョーヤは唇を吊り上げて笑う。「僕を鳴かせるのは君くらいのものさ」なんて言って笑う。
 ああくそ、そうなのか。全然そっちの気だったわけだね俺は。キョーヤを十年も、その、なんだ。一度や二度の間違いじゃなかったわけだ。三度めも四度めも二桁も、もしかしたら三桁とかいってたりして。いやそれはないか。どうだろ。
 ず、と紅茶をすすってべちと額を叩く。向かい側でキョーヤは涼しい顔で湯飲みを傾けている。
 あーくそ、なんかキョーヤに遊ばれてる気がする。十年の歳月ってすごいんだな畜生。