まだ、この手は届かない

 どうして僕がそんなことをしないといけないの。義理も理由も存在しない
 この時代で生きるためには協力してもいいって言ったじゃないか、キョーヤ
 確かに言ったね。でもそれは君と生きる未来の話だ。君が先にいなくなるなら僕が誰かに手を貸す必要なんて皆無だよ

 怒っている自分の声が聞こえて、ふっと意識をそちらに向ける。ぼんやりした闇の中に浮かび上がって見えるのは、スーツの上着を脱ぎ捨てた自分だった。
 俯瞰の視点のせいか、自分の表情も、僕の向かい側にいる人の表情もわからない。それが少しもどかしい。
 これは夢だ。いつかに彼と交わした会話だから、間違いない。

 ツナを覚醒させるためにも、キョーヤの力が必要だ。俺じゃできない

 困ったような声が僕を宥めようとしている。
 その優しい声がひどく胸を突く。ツキツキと刺さって、痛い。
 聞き分けのない子供のような僕は、彼の頼みをただ跳ね除けるだけ。

 嫌だ。やらない。やりたくない
 キョーヤ
 君がいないなら何もやりたくない
 …俺はいるよ。ただ少し先に行くねってだけじゃないか。十年前の俺がここに来るよ。上手にことが運べばまた会える

 彼が、僕を抱き締めようとする。その手を払いのけて僕は部屋を出て行く。残された彼が息を吐いてスーツの上着を拾い上げて、ごめんねキョーヤ、と呟く声を聞く。
 …知っている。これはもう過ぎた話だ。
 僕は結局また負けた。彼の蒼い瞳に負けて、未来を繋ぐための無謀な作戦を引き受けた。
 彼は言う。俺じゃできないからと困ったように笑う。ごめんねキョーヤ、押しつけるみたいで。でもお前しかできないよ。お前を信じてるよ。そんな卑怯で優しい言葉で僕を諭して、彼は笑うのだ。
 ずるいといつも思う。ごめんねキョーヤと謝る彼を殴れない。彼だって僕を望んでいる。心の底から望んでいる。だから僕に託して先に行く。僕が本気でやれるように、少し寂しい思いをさせてでも、未来を繋ぐために笑っていく。
 今頃彼は、あの装置の中で、粒子となって眠っている。
 まだ、この手は届かない。
 僕が同じ場所へ行くには、いくつかしないとならないことがある。
 過去の僕は、今頃いなくなった彼のことを必死になって探してることだろう。泣きそうになりながら、他の全てに苛々しながら、ただ懸命に彼を求めていることだろう。
 彼の海に溺れて沈んで、彼という海で肺を満たし身体を満たした僕は、彼がいないと息の仕方もわからない。
 溺れて沈んで。浮かぶことを忘れて。海の底に背中が触れて、光の遠すぎる海面に、ゆっくりと、目を閉じる。
「キョーヤ」
「、」
 呼ばれて目を開ける。夢で聞いたものと同じ声だった。彼がいる。十年前も今とあまり変わらない。細くて頼りなくて猫背なままだ。「ご飯作ったよ。食べる?」「ああ…もうそんな時間か」布団から抜け出すと朝陽はすっかり昇っていた。昨日匣を使って戦ったせいか、少し疲れていたようだ。
 彼の頭にはちょこんと黄色い小鳥が乗っていた。あの子はすっかりこちらの彼にも懐いたらしい。
「何を作ったの」
「ハンバーガー」
「ハンバーガー?」
 眉尻を吊り上げた僕に彼は笑う。「パンにハンバーグ挟んだだけだよ」と。僕が和食の方が好きなことは彼も知っているはずだ。朝からパンなんて食べたくない。
 だけど、彼の料理だから。作ってしまったのなら仕方がないし、食べてあげるけど。
 気だるい身体で起き上がり、僕を起こしにきた彼が先に部屋を出る。立ち上がった僕はふらりとした動作で和机に寄り、置かれている匣と指輪を着物の袖へと忍ばせ、部屋を出た。
 御守りみたいに持ち歩いているこれは、本当は彼の持ち物だ。でも、そのときまで、僕が預かっている。
 三日もすれば、彼はこの場所にも慣れた。広い屋敷の見取り図をほしがったので一式預けると、さっそく全て憶えたらしい。僕が案内せずとも先を行く足取りに迷いはない。
 やっぱり物憶えは早い。僕が知っている君のままだ。
「ねぇ、この鳥は名前ないの?」
「…ヒバードって、呼んでる人もいる」
「ヒバード? ヒバリの鳥だからヒバード…? ふーん」
 肩に乗っかった小鳥に口元を緩めて笑いかける彼は、憶えのある笑顔をしていた。全て同じとはいえないけど、九十八パーセントくらいは同じものでできた笑顔だ。残り二パーセントは、多分、僕が違うと思いたいだけ。
 朝食の席につくと、彼の言ったとおりハンバーガーがあった。スープはミネストローネのようだ。朝からこんなに作ったのかこの人は、と呆れている僕に彼は笑う。
「癖だね。起きちゃったからさ、じゃあご飯作ろうかって思って」
「…そう」
 仕方なくハンバーガーを手にしてかじる。憶えのある味付けがじんわりと口の中に広がって、不覚にも心もじんわりした。きっとこれは、夢を見たせいだ。彼の夢を見てしまったせいだ。
 ここにいる彼も間違いなく彼だ。という人物だ。けれど、十年の歳月は圧倒的に僕らの間に溝を作っている。
 彼は確かにだ。僕の知るだ。だけど君と僕の間には埋められない溝がある。
「…おいしくない、かな」
 聞こえた声に意識を戻すと、彼が困った顔をしていた。「おいしいけど」「本当? 朝から洋食になっちゃったから、キョーヤ好きじゃなかったかなって」「…次は和食にしてよ」「ん」やんわり笑った彼から視線を逸らす。
 君、そういう顔よくしたね。苦手だったよ、そういうふうに笑われること。こっちが子供みたいに思えて。
 仕方なくハンバーガーを食べてスープをすする。
 食事の頃合を見計らい、袖の内側からハリネズミが入っている匣を取り出して机に置くと、彼の顔つきが変わった。蒼の瞳が研ぎ澄まされて匣だけを見つめている。
「これはこの時代に蔓延ってる武器だ。見たらわかるだろうけど、箱の形状をしているから匣っていうんだ。死ぬ気の炎…覚悟を炎に変えることが可能な人間にしか開けない、パンドラの箱さ」
「キョーヤの匣は、ハリネズミだったね」
 じっと匣を見つめていた彼がふっと息を吐いた。「なんか十年で様変わりしたんだなぁ…十年前は匣なんて言葉聞いたこともなかったのに」とこぼすから少しだけ笑った。この兵器は意図的な偶然が重なって出来上がった代物だと、余計なことは言わない方がいいだろう。
 袖に入れたままの、寝るとき以外肌身離さず持っている彼の匣を指でなぞる。
 十年前の俺が使えるかはわからないけど、俺のだから。何か役に立てるかもしれないし、渡してよ。そう言った彼が僕に預けたもの。

 他でもない彼が使う匣だ。そこらに出回ってるようなアニマル匣では僕が納得できない。だから、風紀財団とボンゴレの力を駆使して彼に似合う匣を作り上げた。
 おかげで匣の出来には満足いった。けど、匣を開匣するのはあくまでリングだから、その精製度ももちろん重要になってくる。匣に見合うだけのリングがなければ話にならない。
 彼のために、お金も時間も捨てられるものは全て捨てて、やれるだけのことはやった。
 彼はそこまでしなくてもいいと何度も言ったけど、この時代で生き抜くためにも、彼にも匣は必要だった。
 彼の属性は大空だ。僕と同じではなかった。霧とかよりはマシだけど、何か悔しい。
 僕と違うのならせめて海がよかった。海なんて属性はないとわかってるけど、彼は、僕の海だから。

 大事にしていた彼の匣を袖から出して、ことり、と机の上に置く。
 正直に言えば名残惜しいし手離したくないのが本音だ。でも、これは彼の持ち物で、彼も、過去の自分に渡してくれと言ったんだから。果たさなくちゃ。
 首を傾けた彼が匣を手にして「これもキョーヤの?」「違う。僕では開けない」「…? ハリネズミのは開けられるのに?」「死ぬ気の炎にはね、種類があるんだ。自分の炎と同じ属性の匣しか開けないんだよ。ボンゴレリングも種類があったろう」「あー。えっと、大空、嵐、雨、雲、晴、雷、霧、かな?」「そう。僕はその雲だ。君は大空」言葉を切ってじっと彼の蒼い瞳を見つめる。不思議そうに匣を引っくり返したり指輪をはめる穴を見たりしている彼は、変わらない。今も昔も。そういう僕もあまり変わっていないけど。
 肌身離さず持っていた彼のものをもう一つ取り出す。ことりと指輪を置くと、こんこん匣を叩いていた彼が顔を上げた。「それは?」「これとそれは君のだ。リングに死ぬ気の炎を宿し、匣を開匣する。僕がやってみせたろ」「ああ…って、え、これ俺の?」浅く頷くと、彼は困った顔をした。指輪をつまむとゆっくりした動作で右の中指にはめて「変な感じだ」と漏らす。
 ここまでは問題ない。注視すべきはここから先だ。
 今ここにいる彼が匣を使いこなせるかどうかは、彼の覚悟にかかっている。
 十年前の君に今の君と同じ覚悟を求めるのは間違っている。絶対に僕と生き抜くという意志を、今の君は持ち合わせていない。わかってる。それは仕方がない。十年前の世界はそれなりに平和だったから。そこから来た君が、死の覚悟を持っていていいはずもないのだから。
 だから仕方がない。開くはずがない。いや、開かないでほしい。その方が安心できる。君は僕が必ず守ると、意思を固くできる。
「死ぬ気の炎……覚悟を炎に変える…」
 じっとリングと匣を見つめている彼が蒼の瞳を細める。
 今君は何を思っているのだろう。
 それはきっと開かない。開かないでいてくれた方がいい。
 だから、開くな。彼のために作ったリングと匣だけど、今は開かないでいてほしい。どうか。
 目を閉じた彼が深呼吸した。すぐに目を開けるとふっと瞳を緩めて笑う。覚悟には程遠い表情だ。
 だけど指輪に炎が灯った。オレンジの炎が。絶望のような希望のようなものがくらりと頭を揺らす。
 オレンジの炎に照らされた表情は穏やかだ。
 大空の属性の特徴は調和。海があったらそれが一番よかったけど、その次くらいに、空は君に似合っている。
 カチリ、と匣のくぼみに指輪がはめられた。彼のためにデザインした空の青と雲の白の匣が開いて、鮮やかな色をした鳥が飛び立った。全体的には赤紫色をしている鷲ほどの大きさの鳥は、瞳が蒼い。彼の目と同じ色をしている。
 ……十年前だろうと変わらない。はやっぱりなんだ。
 呆然といった様子の彼が「と、り?」と漏らす声を聞いて、「フェニックスだよ」と返すと、彼はさらにぽかんとした。「神話じゃんか」とこぼす声に小さく笑う。うん、そうだね。地球上の生き物で君と似たものを探すのが大変だったから、半分創作なんだ。でもこれは君も了承したことだよ。
 じっと主を見つめるフェニックスの目に彼が負けた。まいったなって顔で髪をぐしゃぐしゃかき乱すと「名前とかはないの?」「…匣を見てみなよ」僕の言葉に彼が匣を掲げた。刻まれている文字に目を細めると「ツァール?」呼ばれればフェニックスは歌うような声で返事をした。虹色の尾羽を機嫌よさそうに揺らす姿に彼が口元を緩めて笑う。
 開いてしまったのなら仕方ない。そう割り切る以外にない。
 細く息を吐いて紅茶のカップを持ち上げる。彼は気付いてないようだけど、これも特注で作らせたものだ。フェニックスを象った金の鳥が描かれている。
「ツァール」
 呼べば返事をする鳥が飛び立つ。彼が伸ばした腕に器用に止まって機嫌がよさそうにゆらりと尾羽を揺らす姿に、彼が微笑む。そっと指先で小さな頭を撫でる様子を見ていると、胸がむかむかしてきた。自然と眉間に皺が寄って、最終的に顔を逸らして知らんぷりをする。
 …子供っぽいと言われるだろうけど、僕は匣兵器だろうがなんだろうが、彼を取られているのは苛々する。