切ないような、この幸福感

 一つ言っておくけど。僕が過去の君に変な気起こしても、それは僕の責任じゃないからね。知らないよ

 怒ってるような、拗ねてるような、そんな自分の声が聞こえた。
 何度か瞬くとそこには僕の知る彼がいて、ふっと小さく吹き出すと押し殺した笑いを浮かべて僕から顔を背けた。どうやら僕は笑われているらしい。
 羞恥心のようなものがこみ上げ、手を振り上げて殴ろうとした僕に彼が蒼の瞳を向けてぱしんと僕の腕を取って止める。もう片方の手で殴ってやろうと思ったらこれも止められる。頭突きでもしてやろうか、と思ったところで顔を寄せられて反射で引いた。だけど腕を取られていたからあまり意味もない。引き寄せられたらそれまでで、僕は彼に唇を奪われる。
 触れるだけの浅い口付けも、舌を絡め合う深い口付けも、彼とのキスは麻酔のように僕の身体に染み渡って抵抗力を奪っていく。
 水っぽい粘着質な音が身体を刺激する。
 もう殴るの意思のない僕の腕を離し、腰に回る腕に、抵抗できない。叩き落としてやればそれでいいのに。
 長いようで短い口づけのあと、吐息をこぼして顔を離すと、彼は卑怯なくらいやわらかく笑っていた。
 そういう顔は、ずるいじゃないか。
 どうやったって僕にはできない優しい顔で、彼は言う。

 浮気は、しないでほしいな
 ……浮気じゃないだろ。過去の君が来るんだから
 今の俺とは別人でしょ。浮気だよそれ
 意味がわからない。…じゃあ君、過去の僕がここに来て、甘えてきたら、抱かないでいられる自信があるわけ

 蒼の瞳を睨みつけると、彼はきょとんとした顔をした。どうやら考えたことがなかったらしい。うーんと視線を上に投げるとそりゃああの頃のキョーヤもかわいかったけど、なんて言うからべしとその頭を叩いてやった。
 全然人のこと言えないじゃないかこいつ。過去の僕が泣いて縋ってきたら慰めてるに決まってる。絶対そうだ。
 殺気を込めて睨みつけていると、降参とばかりに両手を挙げて彼は僕を解放した。
 うん、自信はない。さっぱり笑った彼が自信はないけど、多分抱かない。十年前のキョーヤは十年前の俺と幸せになるべきだ。優しい笑顔で僕に笑いかけて彼はそんなことを言う。

 だから、ここにいるキョーヤは、ここにいる俺と幸せになるべきなんだ
 …何それ
 キョーヤを誰にもあげたくないんだよ。たとえ過去の俺だろうと。キョーヤを抱くのは俺だけだ

 卑怯なことを耳元で囁く彼の低い声に固く瞼を閉じた。
 ああ、そうだろうね。僕だって過去の君に欲情はしないと思う。いや、するかもしれないけど。でもきっと溝がある。十年の歳月を、僕はなかったことにできない。なかったものとして十年前の君に接することはきっとできない。だから溝ができる。仕方がない。そんな状態で君に抱かれたって気持ちいいはずがない。
 …ああ、いや、気持ちいいんだろうけど、きっと最後はたまらなく寂しくなるだろうから。だから僕も、身体を許すのはここにいる彼にだけだ。
 煽るように腿から背中にかけてをなぞられる。それだけでぞくぞくした。強い相手と生死を懸けて戦うのと似たような背筋の粟立ち。
 いや。それよりも、その掌と指先だけで、僕の身体は熱く昂っている。
 唇を歪めて笑って、何、嫉妬してくれたのと言ったら彼は笑わずにそうだよとだけ言って僕の着物の帯を解いた。
 これで、彼との夢を見るのは、何度目だろうか。
「……女々しい」
 ぽつりとこぼして視界を覆っている腕を下ろした。見上げる天井はいつもどおりで、静かな朝の空気もいつもどおりだ。どうしようもなくいつもどおり。
 それなのに、君はいないんだね。
 布団から出ずにぼんやりしていると、床板を歩く音が聞こえてきた。よく知っている歩幅の足音だ。そのままぼんやりしていると「キョーヤ」と呼ばれる。からりと開いた襖の向こうから彼が顔を出した。夢の彼とほぼ同じだ。ここにいる彼の方が少し前髪が短いのと、夢の彼の方がもう少し体格がよかったこと。それくらいしか違いがない。
 ここには君がいない。そこにいるけれど、いない。いないんだ。
 矛盾した現実。そこに君がいる。いるのに、いない、なんて。
「ご飯だよ。今日は和食にしたよ」
「…だるい」
「え? 何、ぐあい悪いの? 熱があるとか」
 枕元に膝をついた彼がぺたりと僕の額に掌を当てた。それでわからなかったのか、ごちんと額をぶつけてうーんと真剣な悩んだ顔をして「いや、ないと思うけど…疲れてるのかなキョーヤ」心から、真意にボクを案じているその声に、唇の端を持ち上げて笑う。手を伸ばして彼の茶色の髪を撫でた。どうしようもないこの現実でも、時間は進む。止まらない。それだけが唯一の救いだ。
「今日は一つ仕事があるんだ。面倒くさい」
「仕事?」
 少し顔を離した至近距離のままで彼が首を傾ける。その無防備さを呪いたい。
 ああキスしたい。キスくらいなら許されるだろうか。キスくらいなら。
 僕が行動するより早く、彼は僕の額にキスをした。憶えている唇の感触は知っているもので、とても懐かしく、切なささえ呼び起こす。
「…何」
「すごく寂しそうな顔してるから、さ」
 眉尻を下げた彼は、どうやら僕を心配しているらしい。はぁと息を吐いて仕方なく起き上がる。どうせキスするなら唇がよかったなと思いながら視線をゆるりと巡らせる。小鳥がタイミングよく部屋に入ってきて僕の肩に止まった。
 さて、これに発信機をつけて適当に飛ばせて、僕は並盛の風紀を荒らしてる奴を蹴散らすとしよう。
 ああ、その前に、彼の朝ご飯。食べていこうか。
 彼にとって、自分と同じ十年前からタイムトラベルしてきた相手には、きっと親しみがわくのだろう。
 仕方なくボンゴレのアジトと扉を繋げてあげたけど、本当はやりたくなかった。でも緊急時だから仕方がない。そう無理矢理自分を納得させる。
 僕がアジトに戻ると、フェニックスが飛んできた。赤紫の羽根が目印のように空中を舞っている。その変わらない美しさにぼんやりしていたら、彼が走ってきた。フェニックスは彼の匣へと戻り、舞っていた羽根も夢だったように空気に溶けて消えた。
 左腕を負傷した僕を見ると、彼はすぐに持っていた救急箱を展開した。傷は別に大したことはなかったけど、彼の治療は甘んじて受け入れる。
 γって奴にやられた山本武と獄寺隼人を仕方なく助け、ついでに相手を撃退してやった。名のある殺し屋やマフィア幹部を何人も葬ったって聞いてたから楽しみにしてたのに、大したことなかったな。つまらない。わざわざ出向く価値もなかった。今の沢田綱吉らはこんな相手を撃退することもできないらしい。そう思うと、十年っていう歳月は大きいものだ。
 相手がつまらなかったこと、そしてさっきから余計に僕の苛々を加速させているのは彼だ。タイムトラベル仲間に混じって笑っている。
 君は僕にだけ笑っていればそれでいいのに。彼が僕以外と群れてるなんて、許しがたい現実だ。
「すいませんっ、やっぱりオレが運びます!」
「ツナ腕痛いんでしょ。俺がやるよ、へーき」
 負傷した獄寺隼人を背負って彼が笑う。そばに「や、でも」と食い下がる沢田綱吉がいる。どちらも十年前の中学生だ。哲が背負っている山本武も中学生。十年前はみんなこんな子供だったらしい。
 駄目だ、これ以上は誰かを咬み殺すことになりかねない。赤ん坊のいるアジトへ繋がる道から外れて「哲、あとは任せた」「はっ」つかつか歩いて回廊を横切った辺りで足音がついてこないのに気付いた。苛々がさらに加速する。
 僕よりも、彼は負傷者を優先した。その事実にどうしようもなく苛々する。
 ぎりと歯軋りしてだんと壁を殴った。手が痛くなっただけで、すっきりすることはない。
 あっちには赤ん坊もいるから、話したいこともあるんだろう。十年前の知っている面子で。
 僕には関係ない。まだ関係がない。このあとすべきことは沢田綱吉の力を覚醒させることと、いずれこの場所を察知して攻めてくるだろうミルフィオーレの部隊を蹴散らすことと。ああ、十年前の僕が来るタイミングを計り違えないようにしないと。
 部屋に戻ってスーツを脱ぎ捨てる。着物に手を伸ばして袖を通して帯を締めて、なんとなく鏡を見つめた。
 ここにいる僕は、今の彼からしたら十年後の僕。雲雀恭弥という人物であることに変わりはないけれど、確か彼はリング争奪戦が終わった直後にタイムトラベルしたはずだ。赤ん坊からの依頼で僕と出会って、そう時間もたっていない。
 今の彼にとって。雲雀恭弥とはなんだろうか。

 俺はキョーヤが好きで、大好きで、愛してる

(…本当かな)
 今頃。十年前の僕は、彼をなくした世界で、死んだような顔をしているに違いない。
 彼という海に溺れることに慣れた僕は以前の僕には戻れない。彼を知る前にはどうやっても戻れない。彼がいなければ構成していられない部分が崩れ落ちて、腐り果て、やがて死すら招き寄せる。
「キョーヤ」
 ぼんやりしていると、彼の声に呼ばれた。「入れば」と呟くとからりと襖が開く音がする。
 視線だけ向けると、彼はなんだか情けない顔をしていた。
「何、その顔」
「いや…リボーンにも会えたし、当面の話ってやつをしてきたんだけど……なんか頭追いついてないや」
 まいった顔でぼすと畳んだ布団の上に腰を下ろした彼を見下ろして、細く息を吐く。
 今年上なのは僕の方だけれど、いつだって、甘えたいのも僕の方なのだ。
 膝をついて彼を後ろから抱きすくめると、びっくりしたように震えた背中と「え、ちょ、キョーヤ」と慌てた声。首筋に顔を埋めて「不安なの」と囁くと彼は黙った。やや間があってから浅く頷いた彼が「俺は、力になれるかな」なんて言うからぐっと強く彼の身体を抱いて「必要ないよ」と言葉を吐く。せっかく忘れていたのにまた胸がむかむかしてきた。君が他の誰かと群れるところなんて、僕は見たくない。
「でもさ、ツナ達はみんな強くなるんだって気合い入れてた。イリエショウイチって奴がキーマンだって…だから、この時代の戦い方を会得するために要修行だって」
「ふぅん」
「キョーヤにもらった匣とリングがあるんだし、一応開匣できるんだし、俺も」
 それ以上は言わせなかった。僕が彼の唇を奪ったから。本当ならもっと深くもっと先まで君の海に溺れたいところを、触れるだけにしておく。との約束は守りたい。
 至近距離のまま「君は僕のそばにいればそれでいい」と言うと彼は困った顔になった。「でも」「僕をあまりイラつかせないでくれる」「…もしかしてキョーヤ、そば離れたこと怒ってる?」僕が黙したことを彼は肯定と取ったようだ。それからなぜか笑う。思わず笑ってしまった、そんな笑顔を浮かべる。なんで今このタイミングでそんな顔ができるのか、神経を疑う。ぐいーと彼の頬をつねって「何がおかしいのさ」「いへ、いへいひょーや」涙目になる彼に仕方なく手を離してあげると、頬を押さえながら彼がまた笑う。
「キョーヤは俺がいないと駄目な奴なんだなって。変わらないんだなって、思っただけだよ」
 ……そんなこと、至極今更だった。
 君がいないで成り立つ僕なんて、もう存在しない。どこを探してもそんな自分は見つからない。君に出会う前の自分を、僕はもう忘れてしまった。
 体温に抗いきれずに首筋に舌を這わせると、身を竦めた彼が「キョーヤ」と僕をたしなめる。どうやらこの時代の僕はこの時代の俺のものだ、と言ってみせたのは本当のところらしい。
 わかってる。約束だ。僕はこの時代の君のもの。君にしか抱かれない。今ここにいる君も君だし、声も体温も掌も変わらないけれど、時間だけが違う。十年の空白を埋めるには、僕に残されているのは三週間程度。そうしたら君のよく知る十年前の僕がここに来る。だから、埋めないままで、僕はいく。それが過去から来る僕への贈り物だ。
 ぺちと頭を叩かれて「キョーヤ」と再度呼ばれ、仕方なく身体を離した。

 過去の僕にとっては地獄の時間が。今の僕にとっては切ないような幸福が、待っている。