僕はただあなたのことが

 彼がいなくなった。忽然と、僕のそばから姿を消した。
 異変に気付いたのは、風紀委員の仕事を終えて帰宅したときだった。玄関の扉が開けっ放しだったのだ。それ自体はまだいい。掃除をしていたんだとか、空気を換えていたんだとか、理由は見当たる。窓ガラスがきれいになっている辺りきっと今日は掃除をしていたんだろう。別にやれと言ったわけでもないのに、彼も物好きだ。
 お腹が空いた。今日のご飯は何にしたんだろう。そう思って台所に行くと、しんとしていた。炊飯器はご飯がセットされていないし、シンクの上はきれいに片付いたままで調理の準備というものはされていない。
 居間の時計で時刻を確認すると、十八時を過ぎている。いつもなら夕飯の準備はとっくにすませてあるし、ご飯も炊けていることが多い。
 訝しんで階段を上がる。彼の部屋の扉を開け放つと、誰もいなかった。窓が開けっ放しで、さあと肌寒い風が一つ吹いて髪を揺らしただけ。
 そこまできて、胸のうちで嫌な予感というものが膨れ上がってくる。
 早足で自分の部屋に向かってばんと扉を開ける。同じく窓が開いていた。風が吹いて頬を緩く撫でる。目についたバケツには水が入っていて、汚れた雑巾がいくつか中に沈んでいた。彼はこれを使って掃除をしたのだろう。それは簡単に予想がついた。
 その、彼が。いない。
 家の中のどこを探しても、彼は見つからなかった。彼が家の掃除をしていたのだということはわかったけれど、それだけだった。
 風紀委員に彼を探すよう手配して、その日一日彼の帰りを待った。いじらしく、女々しく、彼の部屋のベッドに埋もれて彼を待ち続けた。
 彼を捜索する風紀委員からいい知らせは入らず、その日の夜はじりじりとしか時間が過ぎ去らず、僕の中の全ては死んだように静まり返っていた。
 彼の作ったご飯が食べたくて夜を何も食べずに過ごし、帰ってきたら殴ってやろうと思って意地で起きていたら、朝が訪れた。
 そうやって彼は僕の前から忽然と姿を消した。
「委員長」
「…何」
「こちらを」
 草壁が差し出してきた書類をぞんざいに受け取って目を通すと、行方不明者が出たとの報告書だった。それも知っている名前だ。沢田綱吉、獄寺隼人、そしてあの赤ん坊まで。もしかしたらがいなくなったのは彼のせいかもしれない、問い質そうと思っていただけに、赤ん坊まで消えたという事実に舌打ちが漏れる。
 行方不明という文字にじくりと頭が痛くなる。
 彼もそうだ。まだ帰ってこないし、こんなに手を尽くしてるのに見つからない。
 ついこの間リング争奪戦とやらを終えたばかりで、乱れた風紀を正したばかりなのに。また面倒くさいことが起きている。
「推測ですが、さんも関係しているのではないかと…」
 草壁の言葉に書類から視線を上げる。直立不動で微動だにしない相手に細く息を吐いてばさりと書類を机に投げ出した。
 推測だし憶測だ。ただ、これを放置するのは風紀委員長としてどうかと思う。彼を探させるついでに、手配しておこうか。
 次の日になると、山本武が姿を消した。あとは笹川京子と、並中生ではない女子生徒一人と、子供が二人。
 何かが起きているのは明白だった。
 これが事件か何かなら、彼はそれに巻き込まれた可能性もある。どうあってもこれは解決しないとならない。並盛の風紀のためにも、僕自身のためにも。
 口に当てていた拳にがりと歯を立てる。やれるだけのことはやっているのに、進歩がない。自分自身と周囲に対する苛立ちが最高潮になりつつある。
 がり、と無意味に手の甲をかじって帳簿に投げやりなサインをしたとき、「よぅ恭弥」と聞きたくもない声がしてじろりと視線を上げた。応接室の扉を開け放ったのはあの金髪だ。リング争奪戦以降見なくなっていたのに、嫌なタイミングで現れた。
「って、どうしたお前。なんだその目のクマは? つーかやつれてないかおい」
「…あなたには関係ないよ。出て行ってくれる。咬み殺すよ」
 ゆらりと立ち上がってじゃきんとトンファーを展開し構える。ばたばた手を振って「いや待て、待て待て! がいなくなったんだろっ?」その声にぴたりと動きが止まった。
 この人は何か知っているのか。少しの期待を込めて次の言葉を待つと、まいったとばかりに頭をかいた相手が「リボーンもいなくなるし、ツナ達も消えた。これは何かまずい予感がすんだよな…」…期待なんてした僕が馬鹿だった。どうやらこの人も何も知らないらしい。
 トンファーを構えて振り被る。即座に鞭で応戦した相手はいつものようにやったつもりだったんだろう。けれど僕は寝ていないのと食べていないので、身体がふらふらだった。簡単に弾き飛ばされて、ソファを巻き込んで無様に床に倒れてしまう。ついでに頭を打った。どうやら今の僕は防御すらまともにできないらしい。
「え、おい恭弥っ!?」
 慌てたように駆け寄る鞭使いの手を払いのける。
 視界が、霞んでいる。
 最悪だ。恭弥と僕を呼ぶ声を、キョーヤと僕を呼ぶ声に重ねるなんて。
「おい恭弥、しっかりしろ恭弥!」
「…ばないで」
「お? なんだって?」
「僕を、名前で、呼ばないで」
 ぐっと床に手をついて起き上がる。まだ視界がくらくらと揺れている。

 幸せとは何かと訊いた僕に、彼は言った。満ち足りていることじゃないかな、と。
 あなたを失ってようやくわかった。あなたがいれば僕は満ち足りていたんだということに気付いた。あなたがいれば僕は幸福で、幸せだったということに気付いた。気付いてしまった。
 そりゃあ、あなたは誰にだって甘い顔をするから、そんなあなたの一挙一動にほだされる自分に苛立ちを感じることも多かったけれど。でもそれと同じくらい、あなたと一緒にいるだけで、幸せだった。
 だから、あなたのいない世界はこんなにも冷たくて、苦しくて、何もなくて。
 僕は、のことが好きなのだと。ようやく気付いた。
 そばにいたいと思うのも、願うのも、僕だけを見てほしいと思うのも、願うのも、手を繋ぎたいと思うのも、願うのも、キスがしたいと思うのも、願うのも、それ以上をしたいと思うのも、願うのも、一つの感情のせいだった。病気だと思っていた僕を支配する気持ちのせいだった。それがあるから僕は彼を思い、願い、乞い、求めたのだ。好きだから。ただ好きだから。

 ぽたり、と目から雫が落ちる。
 彼がいなくなってから気付くだなんて、僕も大概馬鹿だ。大馬鹿だ。こうなる前に気付けていたら何か違っていたかもしれないのに。ちゃんと気持ちを伝えていたら、こんなに不安になることはなかったかもしれないのに。
 きっと彼も言ってくれる。僕のことが好きだとキスをしてくれる。優しい笑顔をくれる。蒼い瞳で僕を見てくれる。その声でキョーヤと僕を呼んでくれる。
(だから。お願い)
 ぎゅっと目を閉じると涙が頬を流れた。「お、おい恭弥、そんな痛かったか? 悪い、悪かった。悪気はなかったんだ、本当だぜ」と煩わしい声が聞こえる。
 せめて声を出さないように泣く。誰にも縋らないように泣く。
(かえってきてよ…
「…………」
 ふらつく身体で家に帰ると、電気はついておらず、施錠されたままだった。…やっぱり彼は帰っていない。いつも淡い期待を抱きながら帰宅する自分が我ながら女々しい。
 のろのろした動作で台所へ行って、お湯を沸かす。棚をあさるとカップ麺が転がり落ちてきた。こっちには色んな種類があるんだね、すごいやと彼が勝手に集めたものだ。無駄にごろごろ種類がある。スパゲッティにラーメンにうどんに蕎麦にスープに。
 どれが口に入るだろうとパッケージを見比べ、うどんを選んだ。ビニールを破って作り方の説明を睨みつけ、手順どおりにやってみる。
 どうして僕がこんなものを食べないとならないのか。出前を頼めばよかった。でもそれも面倒くさい。彼じゃないけど、お金もかかるし。あるものを食べればそれでいい。
 お湯を入れて五分待つ、の説明のとおり時計で時間を確認して五分待った。べりべり蓋を剥がして適当にかき混ぜ、他に誰もいないテーブルで一人食事をする。久しぶりに喉を通った食事には、少しも感慨を覚えない。
 彼の作ったご飯が食べたい。こんなインスタントじゃなくて。

 呼んでも彼はいない。この家には今僕しかいない。しんと静まり返った居間に、その向こうの台所に、人の姿はない。
 キョーヤと僕を呼ぶ声もない。ないのだ。
 ぽた、と音がして視線を下げると、僕はまた泣いていた。情けない。彼がいなくなってからというもの、涙腺が崩壊したように涙の量がおかしい。ぽたぽたとうどんの汁の中に落ちる涙を眺めながら、唇を歪めて笑う。
 なんて情けない。こんな僕を見たら彼はなんて言うかな。泣くなと言うかな。それとも俺の胸で泣けなんて言うのかな。
 テーブルに放置している携帯は鳴らず、行方不明者捜索が難航していることを証明していた。
 泣きながらうどんを食べて、どさりと背中から畳みに倒れ込む。着替えるのもシャワーを浴びるのも億劫だ。片付けなんてもっと面倒だ。僕は彼みたいにマメじゃないんだ。面倒だと思ったことはもうしない。
 腕を持ち上げて視界を遮る。涙止まれ、と思いながら強く目を圧迫する。
 瞼の裏にまで見える蒼い瞳の色が僕を追い詰める。
「好きだ」
 届きやしないのに、今更な言葉を口にして、自虐的に笑う。
 なんて情けない、自分。