これは、群れてるわけじゃない

 多少苛々を解消して家に戻ると、彼はいなかった。台所にも居間にも姿はなく、お風呂だろうかと思ったけどいなかった。靴はあるから出て行ったわけではないみたいだけど、どこへ行ったんだろう。まだ部屋はここだって説明もしてないのに。
 とりあえず着替えようと自室に戻って、扉を閉じて、ベッドで眠ってる彼を発見した。
 …ここは僕の部屋なんだけど、この人は何をやってるんだろうか。
 ずんずん歩いていって手を振り上げてばこんと頭を叩く。「だっ」「ここは僕の部屋だよ。何勝手に入って寝てるんだあなたは」「だって自分の部屋わからなくて…眠かったんだよぅ」涙目で頭を押さえてこっちを見上げてくる瞳にふんとそっぽを向いて「あなたの部屋はここじゃない。ほらこっち」がしと首根っこを掴んでずるずる引きずってベッドから離した。「ちょ、キョーヤ痛い、痛いですっ」「じゃあ歩いて」ぱっと手を離すと仕方なさそうに相手が立ち上がる。僕より十センチは高いけど、彼は頼りない感じだ。そのせいかあまり身長差を感じない。
 頭をさすりながら「キョーヤ乱暴。もうちょっと優しくしてよ」とか言われて呆れた。
 優しくってなんだ。僕は他人に優しくする方法なんて知らない。
 自室を出て、階段を上がってすぐの部屋の扉を開けると、ベッドがあるだけのがらんどうとした部屋が広がっている。
「なんにもないね」
「贅沢言わないでくれる」
「へーい」
 ひょいと肩を竦めた相手が窓を開けにいった。かちんと鍵が外れてからからと窓が全開になると、ふわりと前髪が揺れた。部屋の扉も開けっ放しにすると多少は風が入るようだ。
 この人の荷物はとても少なかった気がする。本当に最低限のものしか入ってない、といった感じの。
「…パジャマとかあるの」
「え? ないね」
 こっちを振り返って笑う彼にいっそ呆れた。自分以外に誰もいなかった家に僕以外が着る服なんてあるわけがなかった。でも彼にも何か夜着がいる。スーツで寝ろというのはさすがに気が引ける。
 床を睨んで考えに考えて、結局自分のものを貸すしかないという結論を下した。
「僕の、でいいなら貸してあげるけど」
「えっ、ほんと? スーツで寝るのはちょっとなぁって思ってたんだ。ありがとう」
 ぱっと笑顔を浮かべた相手から顔を背けて「取ってくる」と残して自室に戻る。ついでに着替える。紫と黒の着物に袖を通して帯を締めて、同じものを持って彼のいる部屋に行くと、また寝ていた。
 呆れて溜息を吐く。今日出会ったばかりの人間の家でそんなに無防備になれるんだから、彼は草食動物もいいところだ。
 叩き起こしてやろうとベッドに近づくと、風が吹いて、ふわりと彼の髪を揺らした。長めの前髪が閉じた瞼の上をぱらぱらと流れていく。
 ぎしとベッドを軋ませてすぐそばに腰を下ろしたけど、彼は目を覚まさない。
 叩き起こそうと思ってたけど気が変わった。じっと彼を観察する。どことなく中性っぽい顔立ちは外人ぽくなかった。背は高いけど猫背気味のようだし、細いし、頼りない。
 手を伸ばして前髪を指で払うと、少しぱさついた、自分とは違う人の髪質がわかる。
 僕はどうしてこの人を家に招いたりしたのだろう。
 そんなことを思いながらぼんやりしていると、案外長い睫毛が震えて蒼い瞳が覗いた。何度か瞬きするとこっちに視線を移して「キョーヤ?」と僕を呼ぶ。手にしていた着物を彼の顔に押しつけて「持ってきた」とぼやいて立ち上がる。なぜか顔が熱くなってきた。あの蒼い目に見られると僕はどうも駄目らしい。
「お風呂入れるよ。教えるからついてきて」
「んー」
 着物を抱えてついてくる彼にちらりと視線を投げて、すぐに戻す。階段を下りながらこれは群れてるんじゃないと言い訳するみたいに何度も何度も頭の中で繰り返す。これは群れてるんじゃない、仕方がないから僕が彼の面倒を見ているだけだ。決して群れてるんじゃない。断じて違う。僕は群れるのなんて大嫌いなんだから。
 熱い紅茶を飲んだせいでまだ喉が痛かった。お風呂から出てアクエリアスを飲んで畳で休憩していると、「キョーヤぁ」となんだか情けない声に呼ばれ、仕方なく視線をやると彼がいた。そこまではよかった。それは別によかった。それ以外が駄目だった。手にしていたコップが手を滑り落ちてごんと音を立てて中身を撒き散らす。
 お風呂から上がったら着物を着ればいいと置いていったはいいけど、着方は教えていなかった。四苦八苦した結果どうにか形だけ真似たって感じにぐちゃぐちゃになってる着物と、覗いている肌が、目に悪い。
「あっ、キョーヤこぼれた、拭かないと、」
 こっちに歩いてこようとしたその人がむんずと着物の端を踏んづけて見事に転ぶ。どったんと痛そうに顔から畳に突っ込んだ。
 …この人、馬鹿だ。馬鹿すぎる。
 息を止めていたのに気付いて意識して吐き出す。「いってぇー」と涙声を漏らして顔を上げた彼は泣きそうだった。「痛い、じゃなくて、それ拭かないと」ただでさえぐちゃぐちゃな着物なのに、それ以上動いたらはだける。本当に。そう思ったら自分でも驚くぐらい迅速に行動していた。テーブルの上にあるティッシュを乱暴に抜き取ってこぼれたアクエリアスに押しつけて、コップをテーブルに戻す。それからじろりと視線を上げて、はだける寸前の着物を着た相手を睨みつける。
「動かないで」
「へ?」
「それ、直すから、動かないで」
 着物を示して動くなと命令すると彼は従った。困った顔で自分でどうにかしようと着物に手をつけるも、さらにぐちゃぐちゃになっただけ。アクエリアスを吸ったティッシュをゴミ箱に投げ捨てて仕方なく彼の前に膝をつく。なんだこの帯、ぐるぐる巻いただけじゃないか。適当にも程がある。
 一度解いて、着物もちゃんと前を合わせないと。「立って」「ん。ごめんね」なんだか申し訳なさそうな顔をして彼が謝ってくる。でもこれは、着方を教えなかった僕も悪い。だから仕方なく直してあげることにする。
 しゅるりと帯を解いて取り払い、意識して着物だけを見るようにしながら知っている手順で着物を着付けた。その間彼は大人しかった。
 身長を考えると、彼には少し丈が足りなかったけど、初めて人に着せたにしては上出来な仕上がりだった。納得して帯から手を離して「憶えた? 手順」「多分」自信のなさそうな声だったけどそこは流す。次は自分で、もう少しまともに着てほしい。そうしたらまた僕が直してあげるから。
 物珍しそうに着物姿で振り返ったり袖を振ったりしてる彼に少し呆れて離れて、コップをシンクに置いた。
 こぼしたのは驚いて手が滑ったからだ。あんなめちゃくちゃな格好で出てくると思ってなかったせいだ。心臓がどきりとしたのは、なんだろう。…なんでだろう。
 ちらりと視線をやると、着物姿の彼が欠伸を漏らしたところ。
 ああ全く。これじゃあ群れてるのと同じようなものじゃないか。それはいけない。僕は群れるのが大嫌いなんだから。
 でも彼といるのは苛々しない。群れている、のかもしれないのに、どうしてだろう。
「眠い…」
「寝たらいいでしょう」
「ん…ん? ああ駄目だ、キョーヤ待って。話がある」
 座布団の上でうつらうつらしていた彼がはっと顔を上げてこっちを見て「指輪の話があります」とか言うから眉を顰める。別段どうでもいい話だったし、僕も眠かった。明日だって学校だしもう寝てしまいたい。投げやりに顔を逸らして「僕は興味がない」と言うと彼は困った顔をした。
 そういう顔で他人に訴えるのは、ずるいと思う。僕が悪いことをしたみたいに思えてくるじゃないか。
「大事な話なんだよ、キョーヤ」
 そう訴えられると二度も跳ね除けることができなくなった。じっとこっちを見つめる蒼い瞳にはぁと息を吐いて「…明日ね。今日はもういいでしょ。僕は寝る」と言い置いて階段を上がる。彼は追いかけてこなかった。階段を上がりきってから足を止めて一分か二分。台所から水の流れる音が聞こえてきて、食器同士がぶつかる音が聞こえた。眠いと言っておきながら今から洗うらしい。律儀なことだ。
 昨日までならこんな光景は存在しなかった。適当な出前を取って器ごと外に出しておけばそれで終わり。食器の音なんて響かない。誰かの声も響かない。僕以外の誰もいない家はとても静かで、快適で、それと同時にほんの少しだけ寒かった。
 群れるのなんて大嫌いだ。それに順ずる物も者も、準ずる物も者も、とにかく嫌いだった。
 嫌いだった。毛嫌いしていた。昔からそう。今もそう。
 今もそう、だと、思う。
 少し自信がないと思ってしまったのは、階下から聞こえてくる洗い物の音のせいだ。日本語でも英語でもない鼻歌を交えながら彼が台所に立っている。その姿を想像したから、僕は言い切れない。今も毛嫌いしていると言い切れない。昨日までならきっぱり切って捨てられたものを、今は。
 緩く頭を振って自室に戻る。ばたんと扉を閉めてから脱力して長く細く息を吐き、僕は早々にベッドに潜り込んだ。