一人にして、離れて、ごめん

 五日後に、ボンゴレとその同盟ファミリーが足並みを合わせてミルフィオーレを総攻撃する。ここにいる十代目ファミリーに下された指示は、ミルフィオーレ日本支部の主要施設を破壊することだ。
 この作戦に参加するか否かの最終的な判断はツナに委ねられた。次期十代目、この時代では現十代目のツナに。
「………殴り込みかぁ」
 ごろりと布団の中を転がって天井を見上げると、暗かった。身体は疲れきっているものの、意識が醒めてしまっていた。それもそうか。ボンゴレの存続をかけた重要な戦いの火蓋が切られるのがたった五日後だと知らされたら、下っ端だろうとボンゴレの一員である俺にだって関係のある話なんだから。
 ぼう、とリングに炎が灯る。溢れるようなオレンジの炎を見つめてキョーヤを思い浮かべる。ここにいるスーツ姿のキョーヤと、俺のよく知る学ラン姿のキョーヤを。
 二人を守りたい、っていうのは変かな。むしろ俺の方が弱いんだしキョーヤに守られてばかりなんだけど。修行の方だってキョーヤに付き合ってもらってるだけで、俺が面倒かけてるだけ。守るなんて大それたこと俺にはできない。
 でも、それでも守りたくて。泣いてほしくなくて。できるなら笑ってほしくて。
 キョーヤを守るためなら、それに繋がるのなら、俺はなんだってやるよ。
 ぼんやり炎を見つめたまま枕元の匣に手を伸ばす。かち、と指輪を押しつけると匣から赤紫の羽根を散らしてツァールが出てきた。ふわりと枕の前に下り立ったツァールが蒼い瞳でじっと俺を見下ろしている。

 尊敬するくらいなら愛してよ

 そう言ったキョーヤの寂しそうな目を思い出してしまった。
 ぼふっと枕に顔を埋めた俺の頭をツァールが軽くつつく。のそりと顔を上げて小さな頭を指先で撫でた。機嫌よさそうにまどろむツァールはすごくきれいだ。
 駄目だ。疲れてるけど眠れない。…布団の中でうだうだするより、違うことして気を紛らわせよう。
 むくりと起き上がって着物の帯に手をかける。しゅるりと解いてTシャツに頭を突っ込んですぽっと顔を出して上からパーカを羽織った。下はジャージ。腕を伸ばすとばさりと飛び立ったツァールが俺の腕に止まった。ずしっと重いのにもだいぶ慣れた。
 匣をポケットに入れ、暗い廊下に出て、ぺたぺた素足で演習場に向かう。
 ここにはあまり人がいない。掃除は行き届いてるし、気付いたら食器が片付いてることが多いのに、だ。キョーヤは相変わらず誰かと群れるってことが嫌いらしい。ああでもテツにはわりと許してる感じがする。十年あれば一人くらい、側近てやつがいてもおかしくないよね。
 暗闇の中でも仄かに光を纏っているツァールが飛び上がる。ゆっくりと舞い落ちる羽根はとてもきれいな色をしている。
 目を細めてキョーヤを思い出す。愛してよ、と寂しそうに漏らしたキョーヤを。握った右の拳、はめている指輪から炎が溢れ出して肌に触れている。燃えたりはしないけど少し熱い。
 この戦いが終わって、俺が過去に戻れば、この時代にいるべき俺がここに戻ってくるはずだ。それがキョーヤのためだ。そして俺のためだ。俺は過去に戻らなくては。いるべき時代に帰らなくては。きっとキョーヤは俺を待ってる。探してる。捜してる。
(キョーヤ)
 想えば想うほど炎が溢れて止まらなかった。ツァールが眩しいほどに光っているのが目に沁みる。
 結局、そこから疲れて動けなくなるまで一人で鍛錬を続けた。廊下から朝陽が射し込んだことでどさっと尻餅をついて肩で大きく息を吐き出す。ぜぇはぁしている俺のそばに下り立ったツァールに手を伸ばしてなんとか笑いかける。ああ、疲れた。馬鹿か俺は。
 ばったり背中からタイルの床に倒れ込んで、大きく息を吸って吐いてを繰り返す。
 愛してよの声が、忘れられない。
「キョーヤ…」
「呼んだかい」
 独り言のつもりが返事が聞こえた。幻聴、じゃない。がばっと起き上がると演習場の入口でスーツ姿のキョーヤが呆れた顔をしていた。
「何してるの、朝から」
「え、いや…あはは」
 まさか寝ないで一人鍛錬してたなんて言えない。困ったなと笑うとキョーヤはふっと息を吐いて「決まったよ」とぼやいた。決まった。何が?
 首を捻った俺に「五日後の殴り込み。沢田綱吉が結論を出した」「えっ」慌てて立ち上がってパーカを引っつかんでキョーヤのところに行った。ツァールを匣に戻して「え、決行ってこと?」視線を伏せて頷いたキョーヤは俺の疑問を肯定した。「わお…やるなツナ」とこぼして伝う汗を手の甲で拭う。
 死ぬ気モードじゃないと普通の中学生なツナが、決断を下した。俺も負けてられない。責任重大なことを任せてしまったんだし、タイムトラベル組みの年長者として俺も頑張らなきゃ。
 よしと気合いを入れたところでじっとこっちを見ている灰の瞳に気がついた。「…朝ご飯はないの」「え。うわしまった」言われて気付いた。すっかり忘れてた。慌てて演習場を飛び出した俺の背中に最後まで視線が刺さっていた。
(やばい忘れてた。もう三十分早く切り上げるべきだった)
 走って台所まで行って急いで準備する。今からご飯を炊くのは時間がない。作り置きしてあるパンを焼くしかないだろう。洋食になっちゃうけど許してよねキョーヤ。
 オーブンにパンを放り込んで包丁を手に野菜を切ってサラダを二人分作った。かぼちゃの皮を削ぎ落としてレンジでチンしてる間に玉ねぎを粗めに刻み、にんじんも皮を剥いて粗めに刻んで同じくレンジでチン。ベーコンを細かく切って、材料の半分くらいを大きめのミキサーに入れる。上からぱらぱら顆粒のコンソメを振って牛乳を投入、しっかり蓋を確かめてからスイッチを押した。これをもう一回と、あとは。
 せっせと朝食の準備をしていると、キョーヤがやってきた。
「僕は沢田綱吉を鍛えないといけないから、少し離れる時間が多くなるよ」
「へっ」
 気だるそうに席についたキョーヤを思わず振り返る。キョーヤはぶすっとした顔で頬杖をついて壁を睨んでいた。
 あ、本当はやりたくないんだなあれは。不本意ながらって感じだ。っていうかキョーヤ丸くなったんだな本当…場合が場合とはいえ、人の修行にこんなに付き合うなんて。相手がツナだからかな。まだまだ強くなりそうだもんなツナって。
 オーブンからパンを取り出して、サラダを並べ、コップにりんごジュースを注いで、スープをよそった。キョーヤはぶすっとした顔でそんな俺をじっと見ていた。
「…あんまり気乗りしないんだ?」
 俺がそう訊くとキョーヤはそっぽを向いた。「当然だろ」と返ってきた言葉に俺は苦笑い。うん、だよね。それでこそキョーヤ。
 二人で黙って食事をすませて、食後の紅茶を飲み終えたキョーヤはすぐにツナの修行を手伝いに行った。眠気に目をこすりながら俺は後片付け。しなくても誰かが片付けるってキョーヤは言うけど、たまにはやっておこう。
 かちゃかちゃお皿を洗いながらぼんやりした意識で五日後という言葉を思い返す。
 キョーヤは俺に行かなくていいと言う。僕のそばにいるのが君の役目だ、と。でもさすがに納得できない。あちらの戦力は計り知れないし、こっちの戦力は限られてる。いくらツナ達が強くなってると言っても戦える奴が多いに越したことないはずだ。俺の匣は大空で調和だから、きっと戦いの手伝いくらいはできる。あとは銃でも持てば一人二人、匣の使えない兵士くらいなら撃破できるはずだ。
 そのはずなんだけど。キョーヤは駄目だって言うし。なんだかなぁもう。
 はーと息を吐き出して洗い物をすませた。ふらりと廊下に出て部屋に戻ってばふりと布団の上に倒れる。
 さすがに眠い。寝ようか。どうせキョーヤはツナの修行を見てるんだから、そばにはいないんだし。

 疲れた身体を横たえていると、ふっと意識が曖昧になって、どぼん、とどこかに落ちる。
 薄く目を開けると水の中で、開いた口からこぽりと気泡が上がっていくのが見えた。ゆらゆら光る天井は遠く、手を伸ばしてもちっとも届かない。水面は遠いようだ。
 眠いせいだろうか。俺はあまり慌てることなく沈んでいく自分というのを感じていた。
 夢の中なのかなとか思いながらくるりと反転すると、遠く暗い底が見える。闇に沈んでいる底に目を凝らしていると、ゆらりと揺れる黒いものが見えた。少しずつ近づく海底に、砂の上に、誰かが漂っている。
 ゆらり、と水の流れの中で揺れたのは黒い袖だった。
 驚きからごぼりと大きく息を吐き出す。
 キョーヤだ。俺の知ってるキョーヤだ。目を閉じているキョーヤは学ランを羽織っている。長めの前髪が水の中で揺れて僅かに波打っている。
 キョーヤ、と言葉を紡いでもごぼりと息が漏れるだけだった。手を伸ばす。ちっとも届かない。遠い。海底が。徐々に沈んでいく身体にもっと早く沈めないのかとさえ思う。キョーヤは俺の視界の先で死んだように動かない。
 キョーヤと、呼んでも。息が漏れるだけで、届かない。
 もがくように抗うように泳いだ。どうにか海底に近づこうと必死になった。
 ゆらりと揺れる袖にようやく手が届いて、砂の上に膝をつく。動かないキョーヤの背中に腕を回して抱き起こすと、憶えているキョーヤよりも、ひどく華奢になっていた。遠目では暗くてわからなかったけど、キョーヤの目元にはクマが目立つ。間違いなく、痩せている。いや、この場合、やつれてると言った方が正しいかもしれない。
 俺がこの時代にタイムトラベルしてからいるべき世界の時間は止まってなどいなかった。止まっていてくれればどんなにいいだろうと思ってたけど、そうであったらいいと願ってたけど、並行して進んでいたんだ。だからキョーヤはこんなに。
 キョーヤと呼びかける。ごぼりと気泡が上がるだけで声にはならない。
 顔を寄せて色の悪い唇にキスをする。温度はない。感覚もよくわからない。ただ、そうしたかった。
 伏せられたままのキョーヤの睫毛の長さを見つめながらごぼりと息を吐き出す。苦しくはない。夢だから。現実ならとっくに苦しくて死んでる。
 キョーヤと呼んで口付ける。甘く唇を噛む。と、キョーヤの瞼が震えた。ゆっくり持ち上がった瞼の向こうから灰色の瞳が覗いて、これ以上ないってくらい目を見開いたキョーヤが見えた。ごぼりと息を吐き出したキョーヤの口を塞ぐようにキスをする。応えるように首に腕が回る。
 感覚が甦る。温度が伝わる。唇の感触が。そして、声が。

 泣きそうに歪んだ声に呼ばれて俺まで泣きたくなった。どうにか笑ってキョーヤの目元を指で拭う。不思議と水に溶けずに浮かんでいく涙はキョーヤのものだ。ああ、最低だ俺は。また泣かせてしまった。泣いてほしくなんてないのに。
「もうすぐ会えるよ、キョーヤ」
 ごぼりと息を吐き出すと苦しかった。いらない感覚まで戻ってしまったらしい。キョーヤの背中を抱いて「会えるから。一人にしてごめん。離れてごめん。キョーヤ、」息が出来なくて言葉が詰まる。キョーヤは俺の腕の中で泣いている。声も出さずに、かわいそうなくらいに震えてる。
(キョーヤ、俺は、お前のことが)
 声に出せずにキョーヤに口付ける。
 もう時間がないと頭のどこかでわかっていた。キョーヤに言いたいことがたくさんあるのに謝ることぐらいしかできてない。
 ああくそ。息が。苦しい。
 意識が濁る。視界も濁る。キョーヤが見えなくなる。確かに抱き締めているはずなのに、その感覚すら曖昧になる。
 待ってくれ。まだ、まだ俺はキョーヤに伝えてない。
 俺はお前のことを、好きで、大好きで、愛してるんだと。俺は。

「う…」
 呻いて手を伸ばすと、空を切った。はっとして起き上がると、畳んだ布団の上だった。
 ……夢。だ。今のは、夢だ。
 はーと息を吐き出してばたりと倒れ込む。
 今のは夢。夢だと思う。でもリアルだった。水の中に落ちた辺りからのことは全て憶えている。
 キョーヤも同じ夢を、見てくれてるといいんだけど。夢の中での逢瀬なんて、なんか恋人みたいだな、なんて。
 恋人。
(で、いいのかな。俺達)
 ぼんやり布団に沈んだままでいると、なんだか泣きそうだった。べちと目を押さえてだるい身体で立ち上がる。結局寝てない気がするけど、起きよう。どうせ夜には眠れるんだから。
 ぼんやりしたまま歩いていると、「ならば拳と匣を交えるまでだっ!」と憶えのある声が聞こえてきて顔を上げる。「僕は構わないよ」とキョーヤの声もした。あ、なんだ、帰ってきたのかキョーヤ。ツナの修行見るの終わったんだ。
 からりと襖を開くと、リョーヘイとキョーヤがスーツ姿で向かい合っている。視線だけでこっちを見たキョーヤと目が合った。さっき見たキョーヤじゃない。それが嬉しいような、切ないような。なんともいえない気持ちになって胸が苦しい。
「極限に止めるもの何もなし!」
「いいえ、さっきから私が止めてます! くだらない理由で守護者同士がバトルなどやめてください」
 そろりと入室してテツの隣に座った。「何してんの、あの二人」「ああさん、いいところに。二人を止めてください」はてと首を捻るとびしっとキョーヤを指差したリョーヘイが「どこがくだらぬ理由だ! オレは屋敷に入れるのにチビ達は出入り禁止とはどーいうことだ!」さらに首を捻った俺の背中をぐいぐいと引っぱる何かに振り返って、納得した。チビ達でくくられているのはランボとイーピンだった。「遊べ!」ぐいぐいランボにパーカのフードを引っぱられる。痛い痛い首が絞まるぞランボ。がしとランボの襟首を掴んで引っぺがして「苦しいでしょ、フード引っぱんなよ」「じゃあ遊べ!」「いや、俺はね…」言いかけた俺にイーピンがずいと人形を差し出してきて何か言う。ああごめんイーピン、君の祖国の言葉、俺はまだわからない。
「本当は君だって入れたくないんだ。君を見てると闘争心が萎える」
「何を! 極限にプンスカだぞ!!」
 じろりとリョーヘイに目を向けたキョーヤの目つきが変わる。喧嘩しそうな顔だ。リョーヘイもリョーヘイでスーツの上着を脱ぎ捨てて喧嘩する気満々。「いでで、髪引っぱるなランボっ」ぐいーと髪を引っぱってくるランボと格闘していると、「わかりましたわかりました」とテツが折れた。
「私が向こうのアジトでランボさんとイーピンさんと遊ばせてもらいます。それで勘弁してください」
 …テツ、大人だ。あ、うん大人なのか、この時代じゃ。俺は子供の相手はちょっと自信ない。
 テツがランボとイーピンを連れて出て行くと、キョーヤがはぁと息を吐いてリョーヘイから視線を外した。せっかく喧嘩の原因を連れ出したテツだったけど、リョーヘイはやる気満々のままだ。「しょうがない…では1ラウンドだけだ」拳を構えるリョーヘイにキョーヤがじろりと目を向ける。あ、喧嘩モード。
 俺的には匣を使って戦う二人の戦闘を参考にしたいくらいなんだけど。でもだよ、喧嘩するにしてもここは。せっかくきれいな畳と襖の部屋なんだし、喧嘩するならせめて演習場に行ってほしい。
 仕方なく二人の間に割り込んで「ストップ、リョーヘイもキョーヤも落ち着いて」「ん? おおではないか、元気か!」「うん元気、まぁまぁ元気。リョーヘイ、喧嘩はやめよう。内輪揉めしてる場合でもないでしょう」「む…むぅ」ようやく拳を下ろしてくれたリョーヘイにほっと一息。つーかこの人、中学からあんまり変わってないんだな。
 リョーヘイとキョーヤはどうして十年前の自分と入れ替わらないのか、少し疑問はある。でもここまで来て気にしててもしょうがないから、そこは流しておくことにする。
 ふうと息を吐いて二人の間を遮っていた腕を下ろす。
 ああなんか余計に疲れた。もう寝たい。