あとは任せたよ

 ここまでよくやってきたと、自分を褒めてやりたい。
 この時代にいるべき君が消えて、十年前の君がやってきて、もうどのくらい時間がたったか。
「キョーヤ」
 呼ばれて視線だけ投げると、心配そうにこっちを見ているがいる。
 これで最後だ。ここにいる彼をこの目で見るのは。そう思うとやっぱり名残惜しい。
 これで最後だ。言い訳みたいに自分の中で告げて彼と唇を重ねた。身体が焦がれる体温の持ち主は、もうすぐ抱くべき僕と再会する。
 彼と出会った頃のことはよく憶えている。勝手に応接室のソファで寝ている彼に、僕はトンファーを振り下ろさなかった。理由はなんとなくだ。機嫌がよかったわけではないし、悪かったわけでもない。ただ、そういう運命だったように、彼を起こした。蒼い瞳と目が合った。それだけ。
「じゃあね」
「怪我、しないように」
「…努力はするよ」
 顔を離して彼の額に最後のキスをした。いつまでも触れていたいと思う体温から離れ、一度も振り返ることをせず、基地を出る。
 外で待たせていた哲達と合流して霧の幻覚で偵察部隊に化ける。本当なら幻術になんて頼りたくないけれど、場合が場合だし、面倒ごとは避けたいから、仕方がない。
 敵の基地に行くと言ったら、彼はやっぱり自分も行くと言った。僕はそれを止めた。
 本当に来ないでほしかったのだ。僕の心配をしてくれるのはもちろん嬉しい。勝ち負けではなく、彼は僕が怪我をすることを恐れている。わかってる。怪我をした僕を手当てしてくれたのはいつも彼だった。群れるのが嫌いだから病院なんて行かないし、ボンゴレの世話になることも滅多にない。適当な自己治療で怪我を放置する僕に、彼はいつも言っていた。心配なんだよキョーヤ、と。
 そんなこと、僕を迎える君が顔を歪める度に理解していたことだった。
 なるべく気をつけてはいる。でも仕方がないことも多い。怪我は癒えるものだし、一番ダメージの少ない受け方をしてる。大きな怪我を負って帰ったことはない。それでも彼は顔を歪めて言う。心配なんだよキョーヤ、と。
 俺の胸まで痛くなるんだ。僕の怪我を手当てした彼は、そんな馬鹿みたいなことを言ってまいったなと笑っていた。
「では恭さん、よろしいのですね?」
「任せるよ。僕は先に行く」
「はっ」
 入江正一の待つアジトに到着、潜入に成功。早々に僕は哲達から外れてリングを指にはめた。匣を一つ取り出して開匣する。
 マップはもう役に立たないことはわかっているし、いちいち敵の待ち伏せする通路を行くのは面倒くさい。壁を破壊していった方が早い。
 ハリネズミを球状にして回転させ壁を破壊する。目についた敵は全て咬み殺して進む。
 今はただ前だけを見て、彼のことを信じて。
 これが成功したとしても、白蘭を倒せるかどうかはわからない。彼は十年前の自分達に賭けるのだと言ったけれど、僕は納得していない。ボンゴレリングを失ったこの時代の僕らではマーレリングやヘルリングを使う相手に不利だと、理屈はわかってる。そのとおりだ。ボンゴレ狩りが始まって僕らがさらに追い込まれると、もう他に選択肢がなかった。それもわかってる。だけど僕は納得していない。今の自分で戦うことを放棄して、過去の自分に任せるだなんて。
 壁が崩れ落ちる。瓦礫を踏み越えて先へ進む。白くて丸い装置。あれのもとまで辿り着ければ、僕の役目はようやく終わる。

 俺はキョーヤが好きで、大好きで、愛してるから。怖くなんてないよ

 …笑った彼を、思い出した。
 また一つ壁を破壊する。「貴様何奴っ」こっちに銃を構えた人影にハリネズミを突っ込ませた。耳障りな悲鳴を無視して瓦礫を踏み越える。
 あと少し。

 キョーヤは俺がいないと駄目な奴なんだなって。変わらないんだなって、思っただけだよ

 至極当たり前のことに気付いたように彼が笑う。
 ガラリ、と瓦礫が落ちて足元を転がった。立ちはだかる壁が鬱陶しい。ハリネズミを突っ込ませて破壊する。案外と脆い壁が崩れ落ち、瓦礫が散乱する。
 開いた空間、その向こうに剣を四つぶら下げた人影を見つけた。「ああ、君。丁度いい」と声をかける。パリンと指のリングが砕けて手持ちの数が一つ減った。剣士の足元には山本武が転がっている。向こうの方にラル・ミルチも見えた。どちらも戦うだけの力は残っていない。
 ようやくビンゴだ。長かったような、短かったような。

 キョーヤ

 瞬きの間に浮かぶ彼の顔。蒼い瞳。赤みがかった茶色の髪。笑った顔。僕は結局十年たってもあんなふうに笑うことはできなかった。そこだけはきっとずっと、彼には敵わないのだろう。
 小さく笑ってじゃりと一歩踏み出す。「白く丸い装置はこの先だったかな」とわかっていることを口にしながら、僕はまた彼を思い出している。もう二度と会うことはないだろう彼のことを。キョーヤと僕のことを呼ぶ彼を。
 …これじゃあまるで、
(後悔、してるみたいだ)
†   †   †   †   †
 さっきからどうしても落ち着けなかった。ツァールを抱いてうろうろしてるとごっと頭に何かぶつかって痛みに呻く。ガラガシャンと落ちたのは壊れてる機材だった。どうやらこれが俺の頭にクリーンヒットしたらしい。そりゃ痛いっつの。
 きっと涙目で振り返るとリボーンがいつもの顔で「何うろうろしてんだ、落ち着け」なんて言う。最もな意見だけどね、それができてたら俺だって苦労しない。
「雲雀のことが気になるのはわかるけどな。そんな情けない面してっとあいつが笑うぞ」
「…別にキョーヤだけが心配なんじゃ。ツナ達のことも心配だよ」
 ぎっと椅子に腰かけてぎゅうとツァールを抱き締めた。
 …ちょっと嘘を吐いた。一番心配なのはキョーヤだ。さっきの戦いで消耗してないはずがない。ぶっ続けで、キョーヤ、大丈夫かな。
 多分通信障害が起きてるだろうし、繋がらない可能性もあるけど。一応ね。そう言ってキョーヤが渡してくれた小さな黒いイヤホン型の無線を握り締めて、さっきから何度繋ごうと思ったことか。でも通信傍受とかそういう問題もある。キョーヤが預けてくれたものだからあんまり疑ってないけど、できるだけ控えた方がいいだろう。
 キョーヤは今どの辺りにいて。どの辺で、何してるんだろう。こっちは敵だったスパナって人が寝返ってツナについてくれて、新技を完成させようとしてる。掴み出せた情報もいくつかある。イリエショウイチと白くて丸い装置を標的にした今回の作戦、成功すれば、きっと過去に帰る道に繋がる。
 話したいことが。あるんだけどな。キョーヤ。
(うーくそ。繋がるかな。繋いでみようかな…一回だけ試そう。そうしよう)
 結局手の中にある手段に負けた。耳にイヤホンをはめてスイッチを入れてみる。ガガガとノイズの走る音がして、ザーと砂嵐の音が続いた。やっぱり駄目か。
 スイッチを切ろうとしたとき、プツッと音がした。どうやら繋がったらしい。『…いいタイミングだね、本当』「キョーヤ、」聞こえた声にほっとしてイヤホンに手を押し当てた。よく聞こえない。もっと大きな音にならないのかなこれ。
「キョーヤ大丈夫?」
『あまり、かな』
 ガキン、と硬質な音が耳に響いて片目を瞑った。誰かと戦ってる。敵だ。怪我、してないかな。大丈夫かな。固唾を呑んで耳をすませていると、ギャンとまた硬い音が耳に響く。キョーヤ以外の誰かの声も聞こえた気がしたけど、遠いし、雑音が混じってよく聞こえない。
「キョーヤ?」
 祈るように耳に手を押し当てて、なんとなく、状況があまりよくないんじゃないか、なんて想像をしてしまう。
 神様。頼む、神様。どうかキョーヤを。
『貴様…死を望んでいるのか?』
『どうして僕が? 咬み殺されることになるのは君なのに』
 ノイズ混じりの声が聞こえた。その会話が状況が悪いと思わせる。「キョーヤ」と呼ぶ自分の声が掠れる。

 聞こえたキョーヤの声。俺を呼ぶ声。『死ねい!!』と叫んだ敵の声。それから響いた言葉は、
『愛してる』
 次にはもう何も聞こえなかった。カシャンって音が響いたところから考えると、キョーヤが無線を落としたのかもしれない。
 イヤホンに添えた手が震える。ツァールが蒼い瞳で俺を見上げている。
 どうしよう。キョーヤ、が。
 震えそうになる身体で必死に拳を握って掌に指を食い込ませ、痛みで誤魔化す。
(大丈夫だキョーヤはやられない、大丈夫だ、絶対大丈夫だ。絶対大丈夫)
 でも音が聞こえない。イヤホンから音が聞こえない。戦闘音がしない。敵の死ねと叫んだ声を思い出す。音がしないのは、キョーヤが。動かなくなってしまったから、なのか。
 目を閉じてツァールにもたれかかった俺に「おい、雲雀がどうしたんだ」とリボーンが訊いてくるけど、答えるだけの気力がない。キョーヤがどうしたって? 考えたくない。悪い方向ばかり、考えたくない。
(キョーヤ。キョーヤ、キョーヤ、)

『騒がしいなぁ…』

 静寂しかなかったイヤホンが、音声を伝えてきた。耳に手を押し当てる。『君、誰? 僕の眠りを妨げるとどうなるか…知ってるかい?』「きょ、や」キョーヤの声だ。よかった。生きてた。生きてた…。
 安堵で思わず涙ぐみそうになって、そこで、あれ、と気付く。さっきまでとキョーヤの会話が繋がらない。それに、微妙に声の感じが違う。
 からり、と音がして『何これ』とキョーヤの声がした。さっきより近い。キョーヤが落ちてた無線を拾ったのかもしれない。「俺だよキョーヤだよ、わかる? ねぇ」『……?』掠れた声が俺を呼んだ。ほっとする。よかった。とりあえず、無事でよかった。
 ガガガとノイズの走る音がひどくなった。『あなた、今どこに…ずっと探してたのに』掠れた声が俺のことをあなたと言ったことで、理解する。間違いない。今俺と話してるキョーヤは、十年前の、俺がよく知ってるキョーヤだ。このタイミングでキョーヤもタイムトラベルしてきたんだ。
 ここから先は、過去から来る僕にしてあげてよ。そういえばキョーヤはさっきそんなことを言ってた気がする。そうか、こういうことか。キョーヤはわかってたんだ。どうして予期できたのかはわからないけど、過去の自分と入れ替わることを知ってたんだ。
 ぐっと強くイヤホンを押さえて、ノイズのうるさい無線に祈るように吹き込む。
「キョーヤ、ボンゴレリングの炎だ。争奪戦で見たろ。それを使うんだ」
『…リングの炎』
「うん。ごめん、そばにいないから手取り足取り教えるってことができない。敵がいるんでしょ、応戦して。キョーヤ」
 ザザザと砂嵐の音が向こうからの音声を全て掻き消した。べしと無線を叩く。くそ、こんなときに。「キョーヤ? キョーヤ、キョーヤっ」いくら呼びかけてもノイズは消えず、やがてブチッという音と一緒に砂嵐さえ沈黙して、無線は使い物にならなくなった。
 ゆっくりイヤホンを外して、ぐっと握り締める。
 今、メローネ基地に、俺の知ってるキョーヤがいるんだ。
 ひゅんと音を立てて飛んできたキーボードをツァールの焔が受け止めて塵にした。ぱらぱらと灰が降る視界の中でリボーンが少し目を見張ったのが見えたけど、反射だったからしょうがない。キーボードくらい勘弁してよ。つーか投げてこないで、痛いから。
「雲雀がやられたのか?」
「いや。多分、十年前のキョーヤと入れ替わったんだと思う」
 推測だけど、そう考えるのが自然だ。それはそれでいくつか問題もある。キョーヤはボンゴレリングを持ってるだろうけど、この時代の戦い方は何も知らない。相手は十年後のキョーヤを押していた。今のキョーヤが知識もなしに戦ったら返り討ちに合う。
 でも、無線が繋がらない。俺の声はキョーヤに届いたろうか。
 今はただ。祈るしか。
(頼む神様。頼む。キョーヤを)

 キョーヤが死んだら。俺は、どうしたらいい。