しあわせ、だ

 目を覚ますと、見慣れない天井で、見慣れない布団に寝ている自分がいた。ぼんやりした頭のまま目をこすって起き上がると、かこんと一つししおどしの音が響く。ここはどこだったかとゆるりと視線を巡らせて記憶を辿ると、彼に抱かれたことを一番に思い出した。
 ぐっと着物の袖を握り締めて細く息を吐く。彼に抱かれてあられもなく鳴いて乱れた自分を思い出すとやっぱり恥ずかしい。
 別に後悔はしてない。もっとしてほしかったのは本当だ。彼のいない日々の空白を埋めたかった。身体を繋げたかった。愛してほしかった。それだけだった。
 おかげでというか、よく眠れた。久しぶりに途中で目を覚まさないでぐっすり寝た気がする。
 目をこすりながら布団から抜け出して廊下に出ると、日本庭園の中庭が見えた。左右に続く長い廊下に視線を投げてどっちがどっちだろうと思ったとき、「ヒバリ、ヒバリ」と呼ばれて中庭に視線を戻した。黄色い小鳥が「ヒバリ、コッチ。コッチ」とばさばさ飛んでいく。
 左側に向かって飛んでいく小鳥に、仕方なくついていってみることにした。僕がどこへ行きたいのかあの小鳥が知ってるわけでもないだろうけど、まぁいいか。
 お腹が空いた。ご飯が食べたい。
 …おかしなものだ。彼がいなくなってから空腹なんて感じることはなかったのに、彼を見つけたら、お腹が減った。彼の作ったものを食べたいと思った。
 人間って、変な生き物だ。心一つで生死が決められる。彼がいなければ僕は駄目で、彼がいれば、僕は生きられる。
 先を行く小鳥についていくと、見憶えのある部屋に辿り着いた。台所のある場所ではなかったけど、その次くらいに行きたいところだった。彼にあてがわれてる部屋だ。
 そっと手を伸ばして障子戸を開くと、布団は空だった。朝食の準備だろう。彼は当たり前のように僕の世話をする。リング争奪戦のときもそうだった。
 もふっと頭に乗っかった小鳥に「台所のある場所はわからないの」と話しかけてみたけれど、返事はなかった。まぁ仕方がない。たんと障子戸を閉めてゆるりと歩き出すと、とたとた廊下を小走りに走る音と「キョーヤーどこ行った? キョーヤーご飯だよー」と彼の声がして振り返る。ジャージ姿の彼が僕を見つけると笑って手を振ってくる。「おはよキョーヤ」と。昨日までならその笑顔を探して捜して狂いそうだっただけに、身体が勝手に動いていた。手を伸ばしてぼふりと彼に抱きつくと、頭の上から小鳥が飛び立つ。
 ああ、あたたかい。だ。がいる。夢じゃない。
「…おはよう」
「ん。今日はね、ご飯は炊き込みにして、お吸い物と、魚があったから煮てみた。お腹空いてる?」
 僕が答える前にぐきゅるとお腹が鳴ってしまって恥ずかしくなる。あんなに食事が面倒だと思っていたのに、彼の料理には食欲が貪欲になるらしい。あははと笑った彼が僕を抱き締めている。声が、存在が、体温が、とても近い。それが嬉しい。とても嬉しい。ほっとする。
 彼の手に引かれて歩き、朝食の席につく。ゆっくりと、噛み締めるようにご飯を食べる。
 こんなにちゃんとしたものを食べたのは、どのくらい久しぶりだろう。
 僕は静かにご飯を食べるのが好きだ。でも、話したいことがたくさんあったし、この時代に来たばかりの僕には知らないとならないことがたくさんあった。ご飯を食べる僕に、が一から説明してくれる。順番に、僕が理解できるようにときどき確認しながら。
 匣やリングについてまとめた資料を指でつまんで斜め読みする。憶えることが多くなってきて少し頭がパンク気味だ。でも必要なことなら、叩き込むしかない。
「だいたいこんな感じなんだけど…どうかな」
 首を傾けた彼に、「あなたは大空なの?」と確認する。「うん」「見せて」手を突き出すと彼が匣とリングを僕の掌に置いた。この時代の武器を人に預けることに彼は躊躇いも見せない。それは相手が僕だからだと自惚れても、いいんだろうか。
 右の中指にはめているボンゴレリングとボンゴレ匣を睨みつけて比べる。きれいなのは彼の方だ。僕と彼は炎の種類が違うから、僕は彼の匣を開けることはできない。対して大空は全ての匣を開けることができるらしい。…なんだかずるい話だ。
 僕の手からひょいとリングと匣を取り上げた彼がぼうと炎を灯した。オレンジ色だ。匣のくぼみに指輪を押しつけると匣が開く。溢れた光と一緒に飛び上がったのは赤紫色の鳥だった。ばさりと優雅に羽ばたく鳥は彼が伸ばした腕に器用に止まる。あれが彼の匣兵器らしい。
 小さな頭を彼の頬にすり寄せる鳥にちょっとイラっとする。たとえ相手が匣兵器だろうと、鳥だろうと、やっぱり彼を取られるのは苛々する。
 ぼう、とリングに炎を灯してボンゴレ匣とやらをつまんだ。これが僕の武器なら、彼と同じように開けてみるしかない。
 匣に指輪を押しつける。出てきたのはやっぱりというか、ハリネズミだった。アーマーを装着して浮いてる。
「へぇ、なんか変わってる。もしかしてボンゴレ匣ってこういうふうに装備があるのかな」
「知らないよ」
 彼は感心したような息を吐いたけど、僕はあまり興味がなかった。とりあえず開けられたからそれでいい。
 紅茶のカップに手を伸ばして、琥珀色の液体を見つめてから角砂糖を一つ落とした。ミルクも垂らす。彼はこうやって飲む方が好きなようだから、僕もそうしよう。
 いつまでもテーブルの上に浮かばれてると邪魔なので、じっとこっちを見ているハリネズミに「そこ退いて」と声を投げた。ふわふわ浮かんでるハリネズミが椅子の上に移動する。彼はそれをじっと観察していた。自分が抱いている鳥の方とハリネズミに何度も視線をやって、ぽつりと「なんかかっこいいな」なんて言うから呆れた。あなたの鳥の方がずっときれいだし、強そうだ。
 彼が焼いたのだという売り物みたいなクッキーに手を伸ばしてくわえ、ぱきりと折る。ハリネズミがじっとこっちを見ているから視線を投げて、仕方なくクッキーの片割れをあげた。小さな手でクッキーを持ってぱりぱりと食べ進める姿はいかにも草食動物だ。
 どうして僕はこんな小さいのなんだろう。ぱき、とまた一つクッキーを割って「ねぇ、この時代の僕もハリネズミを使ってたの?」訊ねると、彼は頷いた。「強かったよ」と笑うからむっと眉根を寄せる。たとえ相手が未来の自分だろうと、彼に褒められるのは僕だけでいい。
 むすっとしながらぱきとクッキーを割って食べていると、彼の手からクッキーをつついて食べていた鳥が顔を上げた。ムカつくことに、あの鳥は彼と同じ蒼い目をしている。きれいな瞳を。鳥のくせにムカつく。彼に酷似している部分があるのもそうだけど、そんなにくっついていいのは僕だけだ。
 ……さっきから僕は子供みたいなことばかり思ってる。おかしいな。僕はこんな人間だったろうか。

「お、いたいた! 探したぜ二人とも」
「、ディーノ! わぁ久しぶりっ」

 そしてさらに苛々が加速する原因がやってきた。十年前とそう変わらない金髪の鞭使いだ。ガタンと席を立った彼が嬉しそうな顔で駆け寄っていくところがまた気に入らない。
 本当に、忘れていた。のことになると僕はこんなに苛々してこんなに苦しくなるんだった。
 僕の気持ちなんて知らない金髪はぐしゃぐしゃの頭を撫でて「いやぁ懐かしいな弟分。調子はどうだ」「まぁぼちぼち。っていうかディーノ、あれか、もしかするとまたキョーヤの家庭教師とか?」「察しがいいな。そのとおりだ」ほっとしたように息を吐いた彼が僕を振り返って「よかったねキョーヤ、実戦はディーノ相手に…キョーヤ?」そっぽを向いたままぱきんとクッキーを割って食べる。なんだよ、あんなに手放しで喜んで。この時代に生きる人間が心強いっていうのはわかるけど、それにしたって。
 むすっと拗ねたままでいると、後ろから抱き締められた。緩い抱擁と「キョーヤ」と呼ぶ声にますますそっぽを向く。
 時間がないことはわかってる。白蘭って奴と戦うのは十日後だ。もう一日過ぎたから残り九日。それまでに僕はこの匣とリングを使いこなし、この時代の戦い方をマスターしなければならない。不本意だけど誰かの手を借りるより早い方法はないだろう。わかってる。わかってはいるけど、でも。
「キョーヤ」
 彼の声に名前を呼ばれると、いつまでも拗ねている自分が子供のように感じた。だけど折れるのも悔しい。自分の気持ちと戦っていると、彼が言った。「俺が見てるよ、キョーヤのこと」…結局優しいその声に僕は負けた。彼が見ていてくれるなら、仕方がない。また修行ってやつをこなそう。
 細く息を吐いて席を立つ。にやにやこっちを見てる鞭使いをじろりと睨む。はやし立てるなんて子供のような真似はしないようだけど、思ってることが顔に出すぎだ。ムカつく。絶対咬み殺す。
 夜になって、鞭使いは沢田綱吉達の様子を見に行くと言って出て行った。
 僕が作った傷を彼が手当てする。「なんかムキになってたねキョーヤ」「…別に」眉尻を下げた彼にぷいとそっぽを向く。だってあの人の匣もあなたと同じ大空。同じ色の炎。それだけで胸がムカついてくる。
 が好きだと認めてから胸が苦しいと思うことが多くなった。でも同時に、ほんの少しのことでも嬉しいと感じるようになった。好きって厄介だ、本当。
「そういえばさ、考えたんだけど、ロールって名前はどうかな。キョーヤのハリネズミ」
「ロール…?」
「俺のフェニックスはツァールっていうんだ。なんかお揃いみたいでいいじゃんか」
 ぺたりと背中に湿布を貼った彼が笑う。「はいおしまい」と着物を直す手が逆のことをすればいいのに、と浅ましく願いながら匣に視線を投げた。ロール、ね。別にいいか。名前があった方が便利だ。
 立ち上がった彼の背中をぼんやり眺める。しばらく見てない間に身体つきが少し変わっていた。男らしくなったというか、筋肉がついたというか。この時代に来て彼も彼なりにやってたんだろう。
 僕は、何も手につかず、どうにか日々をこなしていただけ。
 でももう違う。彼がいる。手の届く場所にいる。声を聞くことができる。体温を感じることができる。その存在を信じることができる。
 だから、僕はもう大丈夫。
 だってほら。彼の背中を見ているだけで、こんなに幸せになれる。
「明日から本格的に修行の日々だね。キョーヤ大丈夫そう?」
「僕が負けるとでも思うの」
「どうだろ…。不安はあるのかも」
 その言葉にむっと眉根を寄せてふらりと立ち上がる。無防備な背中を殴ってやろうと思ったら「キョーヤなんかやつれちゃってるし、体力も落ちてるみたいだし。クマなくすためにも、睡眠の方ももう少し取らないと」殴ってやろうと思ってた。だけど彼の背中に拳が当たる前にそんな言葉が聞こえたから、殴るに殴れなくなった。
 心配、してくれてるのか。そう思ったら、もう殴れなかった。すっと拳を下ろして彼の背中から視線を外し、畳を睨む。
 なんだか照れくさい。
 彼のいない日々で埋もれてしまったたくさんのものが溢れ出しそうで、少し怖い。抱いてもらって少しは落ち着いたと思ったけれど、どうやらそうでもないようだ。
 一を知れば十が欲しくなり、十が満たされれば百を求める。彼との幸せを知ってもっと満たされたいと願い、求め、欲する。まるで愚かな小動物のようだ。動物は愛なんて知らないのだろうけど。僕も、最近まで知らなかったことだけど。
 救急箱を片付けた彼が、立ち尽くしている僕を緩く抱き寄せた。着物の襟に顔を埋めて、彼のにおいに目を閉じる。
 幸せだ。幸せ、だ。
「ねぇ」
「うん」
「僕のこと好き?」
「うん。大好き。愛してる」
 愛してると囁いた彼の声が耳をくすぐる。「僕も愛してる」と言うと彼が笑う。僕の頭を撫でてこつりと額をぶつけて静かになる。視線だけで窺うと、彼は満足そうに笑っている。
 手を伸ばしてその背中をぎゅうと抱き締めた。着物の襟に顔を埋めて目を閉じる。
 彼の体温がわかる。包まれている。それだけで全身が弛緩していくような錯覚さえ覚える。こんなに近くにいたら僕は彼にとけて消えてしまうのではないか、なんて考える。
 それでも、別に構わないけど。幸せのまま消えてしまえるなら、それはきっととても幸福だ。
 でも、僕がいなくなったら彼もきっと困るから。多分、泣いてしまうから。だから僕はいなくならない。彼が同じくらいに苦しめばいいなんて意地悪なことも考えるけれど、それよりもずっと強く、彼の笑顔を望む。彼の存在を望む。
 もう離れることなんて無理だ。
 好きだから、愛しているから、愛してしまったから。もう全ては手遅れなんだ。
 ちゅ、と音を立てて額にキスされた。顔を上げると蒼い瞳がある。曇ることを知らない瞳に僕が映っている。
「キョーヤ」
 低く囁く声は、どこか甘く、じいんと僕の頭を痺れさせる。
 求めてキスをした。応えて舌を絡ませた。水っぽい粘着質な音が身体を刺激する。キスだけでは満足できなくなる。もっとしてほしいと浅ましい願いを抱いてしまう。

 どぼん、と彼の海に落ちて、海面の向こうの空と光を見ながら溺れて沈んでいく自分。

「ん…ッ」
 着物の中に入り込んだ手に声が漏れた。もしこのタイミングで草壁が来たりあの鞭使いが来たらどうすればいいんだろうなんて考えたけど、すぐに忘れた。昨日の今日で腰が砕けてしまう。立っていられなくなってふらついた僕を布団の上に座らせた彼は笑っていない。真剣に僕を愛している。だから、余計に感じてしまう。
 昨日は僕から誘ったけど。今日は君から誘ってくれたわけだ。腰、ちょっと痛いんだけど、それは言わないでおこう。
「う、ぁ」
 びくんと身体が跳ねる。彼の指が触れる度に身体が反応する。
 声を上げる自分が嫌いで、唇に拳を押しつけていると、やんわりと彼の手に包まれた。ゆっくりとした指に拳を解かれて、指を絡めて手を握り合う。
 は僕に鳴いてほしいのだろう。叫ぶくらいに感じてほしいんだろう。知ってるよ、そんなこと。だけど、恥ずかしいんだってことを、少しは理解してほしい。
 キスされて、彼が僕を押し倒す。どさっと背中から倒れ込んで蒼い瞳を見つめる。
 頭がぼんやりしている。身体はとても熱い。疼いている。愛してほしいと疼いている。めちゃくちゃにしてほしいと望んでいる。壊れたいと訴えている。
 切ないくらいに苦しくて、浅ましいと思うくらいに望んでいて、心も身体も、僕という存在が、あなたを求めている。
 生きている限り。きっと僕は、あなたを求め続ける生き物に成り果てる。