白い悪魔と逃走劇

 頭が。沸騰している。火にかけられたやかんのように、今にも煙が出そうだ。それくらい僕の全ては煮えたぎっていた。
 本当に、こんなに怒ったことなんてない。こんなに胸がムカついたことは今まで一度もなかった。ここまで相手を殺したいと本気で思ったことはなかった。
 さっき自分が言った言葉がここにいる全員に聞かれたのだと思うと、少しだけ冷静になれる部分もある。あんなに大きな声で、あなたは僕の恋人でしょう、なんて、よく言えたものだ。普段の僕じゃ絶対無理だ。これだけ頭が煮えたぎってるからこそ出てきた声と言葉だった。
 僕を抱き止めている彼を振り切ってしまいそうになる。あの白髪を咬み殺したくてたまらない。本当に、本当に。苛々する。
 誰か知らない子供が出てきたことで違う方向に話が進み始めたようだけど、関係ない。僕はあいつを、
「キョーヤ」
 いい子だから、と僕を宥める声がする。首筋に埋もれる口付けと「いい子だからキョーヤ、待って」と囁く声がする。ぎりと唇を強く噛んで耐えているけれど、そろそろ我慢の限界だ。
「離して」
「駄目。今離したら向かってくでしょ」
「当たり前だよ。僕はあいつを咬み殺す。僕からあなたを奪う奴なんて、殺してやる」
「キョーヤ」
 首筋を噛まれる。少し強く。びりっと走った痛みに片眉を顰めて堪えた。僕を抱き止めていた腕が腰に回る。その掌の感触に乱された。心と身体が乱された。殺してやると強く強く思っていた気持ちが乱れる。「キョーヤ」と僕を呼んで首筋を舐め上げる舌の感覚に違う意味で身体が震えた。
 見える景色は動きつつある。あの子供がこの勝負は無効だと言い放って、沢田綱吉は守ってくれと言ったあの子供を守ると決めた。
 その間もずっと、彼は懇願するように僕の首筋にキスをしていた。
 いい子だから、と何度も囁いて、キョーヤと僕の名前を呼んで。
 彼の甘い声と甘い誘惑に、心も身体も屈していた。疼いていた。
 話は流れているのに、全部どこか曖昧だ。
 するりと腕が離れた。トンファーを握ったままの僕の手を取って彼が走り出す。その背中を見ながら走る。「いい子だったねキョーヤ、我慢できた」「…ならあとでご褒美ちょうだい」「あげるあげる。いくらでもあげる」あははと笑った彼が僕の手を離して匣を開匣した。僕も匣に指輪を押しつけロールを繰り出す。「、恭弥! いったん退くぞっ」「オッケーわかってる!」鞭使いにそう返した彼を背中に庇ってロールの数を増やす。雲の特性は増殖。高速回転させたロールをそこら中にばら撒いて敵の行く手を阻む。
 白髪のあいつを、本当なら殺してやりたい。
 でも今はそういう流れじゃないんでしょう? と彼を振り返れば一つ頷かれる。は全体の流れを組んでいる。僕は無視したっていいんだけど、彼はそれを望まないだろう。
 なら、仕方がない。あとでご褒美をもらえるなら許してあげよう。
 僕を引き止めるためとはいえ、他に人がいるっていうのに、抱き締めて、キスまでして、いい子だからなんて囁いて。あなたはずるい。そういうところも好きだけど。
 頭上を覆う金属装置に仕方なく目をやって、彼の手を握る。強く強く。絶対に離さないように。
 行きと同じくあれに炎をぶつければ並盛に転送されるんだろう。そうすればここから逃げることはできる。その先がどうなるのかは知らないけど、ここは協力してあげよう。のために。
「出せぇ!」
「わ、スクアーロ後ろっ!」
 慌てる彼の声に視線をそっちに投げると、鮫に乗って戻ってきたヴァリアー剣士の後ろに白髪のあいつが見えた。じゃきとトンファーを構える。一瞬にして頭が煮えたぎった。あいつは今あの子供を追ってきたみたいだけど、関係ない。来るのなら咬み殺す、とトンファーを構えた僕の前に鞭使いが割り込んで「お前達は先に行け」とか偉そうなことを言うからむっと眉根が寄る。あれは僕の獲物なのに、この人は邪魔をする気か。
「でもそれじゃディーノが、」
「誰かがやんねーとな。真6弔花もすぐ来るぜ! 行け!」
 ぐっと唇を噛んだ彼を見て、僕が残るとは言えないな、と思う。金髪にでさえこんな顔をするんだから、僕が残るなんて言ったら彼は泣くような気がする。
 誰かが残って足止めをしないとならない。それがどういうことかわからないわけじゃない。相手はそれなりにできる集団だ。そんな中に誰かを置いていくということは、見殺しにすることと同じだ。彼はそれを認めたくないのだ。
 だけど、鞭使いの言うとおり、誰かがやらないといけない。
 放っておけば金髪のそばへ走って行きそうなの手をぐっと強く握ったそのとき、憶えのある霧が見えた。クローム髑髏の持っている槍から漏れ出す霧が人の形を取る。
 この感じは、あいつだ。六道骸。
 僕はこいつにしてやられた過去がある。それを彼は知らない。知らないままでもいいけど、いつかは話してもいいと思ってる。
「誰…?」
 ぽかんとしてる彼の手を強く握る。痛いって顔をした彼が僕を見た。幻覚の炎に照らされた横顔は消え入りそうな色をしていて、とても頼りない。
 …守らなくては。この人を守らなくては。奪われる可能性があるのなら、排除しなくては。僕のために。彼のために。

 白蘭を止めるために現れたらしい六道骸にこの場を預け、僕らは転送装置に炎をぶつけて並盛町に移動した。
†   †   †   †   †
「でっ」
 どさっと地面に落っこちて、さらにどさっと上から何か落ちてきて息が詰まった。痛い。重い。ちかちかする視界で何度か瞬きして、俺の上に落っこちたらしいキョーヤが軽く頭を振って起き上がった。俺の上に乗ってることがわかるとばっと身を引く辺りがかわいい。何顔赤くしてるんだろう。こんな非常時にあれだけど、かわいいなぁキョーヤは。
「わ、わざとじゃないよ」
「わかってるよ。キョーヤ怪我は?」
「ない」
 ぼそっとした声に一つ頷いて立ち上がる。ここがどこかと確認すれば、チョイス会場へ移動するときまでいた並盛神社だとわかった。どうやら上手くワープできたらしい。とりあえずあの場は脱したってことだ、とほっと一息。
 ビャクランを足止めしてくれた幻術使いっぽい人は大丈夫なんだろうか。ツナとかにムクロって呼ばれてた気がする。ムクロって俺には言いにくい名前だ。舌噛みそうで。話を追う感じ、あれは幻覚のようだったから、あの人の本体は無事なんだろうけど。ちょっと心配だ。
 思考を切り換えて、一緒に転送されて落っこちてる救急箱を拾って持ってきた。訝しげな顔をしてるキョーヤの前髪をかき上げる。白蘭に弾かれたときにどこかしらで擦ったんだろう、額からはまだ血が滲んでいる。
「目ぇ閉じて」
「…どうして」
「手当てだよ」
 新しい綿に消毒液を含ませてちょんと傷に当てれば、沁みるって顔をしたキョーヤが大人しく目を閉じた。
 キョーヤの傷の手当てをしつつ、頭上に浮かんでる転送装置に視線を投げる。「あれ壊した方がいいんじゃないの?」と提案してみたところ、基地ユニットの中にいるショウイチも同じ結論に至ったらしい。転送装置を破壊すればビャクラン達はすぐには追ってこられないはずだ。チョイス会場がどこだったのかは知らないけど、何もしないよりはいいはず。
 よし、とツァールを開匣しようとして「炎は吸収される」とキョーヤに指摘されてはっとした。そうだ、そうじゃん。匣兵器で壊すことはできないんだ。えっと、じゃあどうしよう。
 いい考えが浮かばない俺の代わりに装置破壊に名乗りを上げたのはハヤトだった。匣を開匣してなんかゴツいものを腕につけると「炎が吸収されるんなら新兵器の実弾を使います!」…そういえばハヤトはダイナマイトとか使う結構危険な子だった。ツナにばっちりアピールしてる辺り、ハヤトはツナを慕ってるようだ。いや、俺やキョーヤと違って普通に純粋に慕ってるんだろうけど。
 ハヤトの実弾とやらは転送装置にヒットした。「すごい当たったよ!」「ま、マグレッス」歓声を上げたツナにハヤトは照れくさそうにしている。うん、ツナに褒められてすごく嬉しそうだ。
 落ちていく転送装置から視線を外す。これで少しは時間が稼げるはずだ。
 消毒の方も完了。傷口と髪がくっつかないようにメッシュを当ててから大きめの絆創膏を貼った。とりあえずこれでいいかな。
 はーと脱力して木の幹にもたれかかる。ああもう、緊張した。疲れた。戦ってないのにこれか。なんかもう寝たい。いや寝ちゃ駄目なんだけど、こんなにハラハラして落ち着かなかったのはリング争奪戦以来じゃないだろうか。
 ああいや。そうでもないか。この時代のキョーヤが囮になって人に囲まれたときも、こんな気持ちになったっけ。
 無線越しのキョーヤの最後の言葉を思い出してぐっと拳を握った。
 つまらなそうに落下していく転送装置を眺めているキョーヤに手を伸ばしてそっと頬を撫でると、灰の瞳が俺を見る。
 この時代のキョーヤ、背が伸びてて髪が短くなっていた。十年たったら、目の前にいるキョーヤもそんな感じの大人になるのかな。
「キョーヤ」
「何」
「愛してる」
 どうしても言いたくて口にしてからはっとした。周りにはふつーに人がいた。ツナが愕然としてるし、ハヤトがわかりやすく顔を顰めてるし、バジルはぽかんとしていた。タケシは笑ってるけどちょっと困ってる感じだ。ディーノはにやにやしてる。うん、ディーノにはとっくの昔にバレてるだろうとわかってたけど、何を公言してんだろ俺は。馬鹿? 馬鹿なのか? っていうかキョーヤきっと怒る。
 怒るかな、と思ってじっと見つめていたら、キョーヤはそっぽを向いただけで怒りはしなかった。俺の言葉を否定もしなかった。否定しないってことはつまり肯定だ。こんな人前だけど、キョーヤは否定しなかった。それが嬉しかった。
 そこでジジッと音がして空を見上げる。落下していく転送装置がぱっと消えた。みんなの注目がそっちに移ったのでちょっとほっとする。やっぱり大勢に見つめられるのってこそばゆい。いや、さっきのは俺が馬鹿なだけなんだけど。
「消えた? なんで」
「白蘭の元へ戻ったな。破壊できていなかったか…」
 ディーノの言葉にユニット基地の中にいるリボーンが『マズイな。またすぐに敵を乗せて戻ってくるかもしんねーぞ』なんて言うから気持ちががくっと落ちた。ちょっと休憩ってわけにはいかないんだ。うん、だよね。ビャクランはユニを追ってるようだし、俺達もあいつらから逃げてるようなもんだし、のんびりしてる時間なんてないか。
 そこでにょきっとテツが地面から生えたからビビった。あ、そうか、この下は風紀財団のアジトだった。「みなさん! 無事に戻ったということは勝ったのですね!」ぐっと親指を立ててるテツにツナが慌てて説明をしてる。キョーヤはそんなテツを視線だけで見てたけど、やがて目を閉じてしまった。あまり関心がないようだ。この時代のキョーヤはテツのこと結構信頼してたようだけど、今はそうでもないのかな。
 ピシ、と音がして光が視界を射した。視線を空に投げると、転送装置が戻ってきていた。
 やっぱり壊せてなかったらしい。敵が乗ってここへ戻ってきたのだ。
 でも、幸運なことに転送装置は戻ってきてすぐに爆発した。どうやら壊れかけだったらしい。ワープの着地が上手くいかずに四方に飛び散った影に目を眇める。
 もう来ちゃったよ早すぎる、と頭を抱えたくなったところでぱしと手を取られて引っぱられた。よく知っている手だ。俺の手を取ったまま走り出すキョーヤに引っぱられて転ばないように慌てて歩幅を広げる。っていうかどうしたんだキョーヤ、急に走り出して。
「ちょっとキョーヤっ? どこ行くんだ、こんなときにっ」
「一つ並中の方に落ちた。見に行く」
 当たり前の顔でそんなことを言われて困った。
 一つ落ちたって、行けば敵がいるってことなんだけど。っていうかそんなに学校が大事なのかキョーヤ。まぁ、いいけど。真6弔花なら撃破するしかないし。あっちも分散したならこっちも分散した方がいいかもしれないし。
 俺達のあとにテツとディーノが続いた。部下がいないとイマイチかっこのつかないディーノは階段を転がり落ちてたけど、キョーヤは知ったことじゃないとばかりに俺の手を掴んだまま走っていく。
 ユニから離れちゃったけど、ツナ達に任せれば大丈夫だろう。リボーンだっているんだし。だから俺は、キョーヤを見てないとね。