ポツリとした一点の染み

 僕は何も悪くないのに、が怒った。女の子殴る奴は嫌だとか言って怒った。さっきからそのことで胸がじくじく痛くて、無理矢理、やっつけるようにして必要書類にサインして、ばさっと乱暴に帳簿を広げる。
 僕は何も悪くないのに。いきなりやって来てこの学校の治安は粛清委員会が守るとか言ってきたあの女子が悪いのに。僕は何も悪くないのに。どうして僕が彼に怒られないといけないんだ。
 じわーと滲んできた視界を袖で擦る。
 彼に出会ってから、涙腺が壊れることが、多くなった気がする。
 僕は弱くなったのだろうか。力は、手に入れたけど。安息できる場所も手に入れたけど。彼の腕の中にいることで満たされる幸せを知ったけれど。その分、僕の心とやらは、誰かのぬくもりを知って、弱くなったのだろうか。
 滲む視界と弱い自分に歯噛みしながら仕事を終えて、顔を合わせづらいな、と思って余分な仕事を引き受け、今日は僕が並盛町内のパトロールに出る。
 バイクを走らせながら、怒ってみせたを思い出す。
 …そういえば、僕を追って応接室に来なかったな。どうしてだろう。そんなに怒ってたのかな。男子ってものは女子を傷つけちゃいけないのかな。そんなルール、僕には無関係だったのに。が嫌だって言うなら、次から、気をつけないと。
 この日に限って特に問題らしいものが見つからず、仕方なく帰路について、車庫にバイクを突っ込んだ。
 そろりと玄関を開けると、電気が灯っていないことに気付く。
 …背中が、ひやりと冷たくなる。
 嫌なことを思い出した。
 この家に電気が灯らず、彼の姿をずっと探して彷徨っていた、あの日々を。
 走って居間に飛び込むと、が買って買ってとうるさいから仕方なく購入したテレビがつけっぱなしになっていた。「?」と彼を呼ぶ。背中を伝う冷たい感触が拭いきれない。また僕の手から彼がすり抜けてしまったのではないか、と絶望が心を覆いそうになる、そんな中で、のそりと景色が動いた。テレビの前に布団を被ったがいて、ふわ、と欠伸を漏らして「キョーヤ? 遅かった、」ね、という言葉が途切れて、彼が目を丸くして僕を見上げる。
 彼がそこにいる、ちゃんといる、という現実に、凍りかかっていた心が解けた。はぁと脱力してぺったりその場に座り込む。
 心臓が、痛い。寿命が縮んだ気がする。
「キョーヤ? キョーヤ大丈夫?」
 布団を被ったまま寄ってきた彼に抱きすくめられ、甘んじて受け入れて、Tシャツの胸に頭を預けた。
「びっくりした…電気、ついてないから……」
「ああ、ごめん。だって連絡くれないからさ。遅いなーってうとうとしちゃってた。今日遅かったね。なんで?」
 囁く声に少し身動ぐ。さっきまで凍りつきそうなくらい凍えていた身体が、もう熱い。「だ、って」それは、君が、僕を怒ったから。だから帰りづらくて。
 はっきり言わない僕に彼は相変わらずの笑顔を浮かべて、「うん、俺のせいだね。昼間はちょっと言いすぎたかなって。ごめんなキョーヤ」むに、と頬を掌で挟まれて顔を上げさせられ、キスされた。目を閉じてその口付けを受け入れる。
 昨日も気持ちよかったなということを思い出すと余計に身体が騒いだ。
 これ以上してたらまた、と思ったときに、彼が顔を離す。「でもねキョーヤ、女の子を殴るのはやっぱりいただけないよ。できればしないで」と言われて、反論しかけた口を噤む。
 …やっぱりそうなのか。あなたは馬鹿みたいに他人に甘いんだ。女なんて、男を落とすためなら、どんな皮だって被る生き物なのに。
 吐息して「気をつける」と言うと彼は満足してくれた。「さ、ご飯にしよ。お腹空いたでしょ」と布団を落として、居間の電気をつけ、台所の方へと歩いて行く。ぼんやりその背中を眺めて、ご飯の用意をし始めた彼の姿から視線を外し、さっきまで彼が被っていた布団を抱き締めた。
(…あたたかい。の、においがする)
 昼間転校生の女子とやり合ったとき、制服のボタンが一つ取れてしまったことを言ったら、彼は一分で直してくれた。
 ご飯を一緒に食べて、お風呂は別々に入って、夜、枕を持って彼の部屋に行った。ベッドスタンドの明かりで本を読んでいた彼がやって来た僕を見てやわらかく破顔する。しょうがないなぁ、という顔で本を閉じて、おいで、と手招く。その手に寄っていってベッドに膝をつく。
 触れるだけのキスをした。それだけでも十分だったから。
 あなたがここにいる。僕を見てくれている。好きでいてくれてる。愛してくれてる。…それがわかるから、このキスだけで、十分幸せだ。
「何、読んでたの」
「んー。報告書みたいなものかな」
「?」
 改めて彼が読んでいた本に視線をやると、本ではなくて、表紙もついてまとめられた書類の類だとわかった。「何それ。なんの報告書」彼の肩に頭を預けて、全部英語で書かれているそれに軽く眉を顰める。…さすがに全文英語は、単語を拾い上げることはできるけど、わからない部分の方が多くて読めない。
「リボーンが預けてきたやつだよ。ほら、キョーヤ達守護者はさ、未来から特別に匣を持ち帰ってきたろ?」
 自力で読み解くことは諦め、彼の言葉に浅く頷く。未来の研究者の勝手なはからいでロールは指輪の形になって制服のポケットに入れっぱなしだ。「未来での戦いで協力してくれたみんなに記憶が行き渡ってるから、ヴァリアーはそこから匣を再現してるんだってさ。手が早いよね」髪を梳く指先が愛しくて目を細める。ヴァリアー。ああ、リング争奪戦で戦った彼らのことか。それなりにできる人達のいる。なるほど、力を欲してる人間らしく、貪欲だ。
 ふっと息を吐いて彼の背丈に合わせて新しく作った紫の着物の襟に顔を寄せる。帯は黄色。僕と間違えないように、色は別にした。
「それが、どうしたの。あなたに何か関係あるの」
「さぁ。まぁ、俺もボンゴレの人間だし…リボーンが預けてきたんだから、目を通しておいて損はないかなと思って」
 ふぅん、とこぼして彼を引っぱって一緒にベッドに倒れ込んだ。「こら、キョーヤ」と形だけ怒ってみせる彼を笑ってやる。「ねぇ、僕明日も学校があるんだ。もう寝よう?」甘えて、首筋に顔を寄せる。が一緒に眠ってくれないと熟睡できないようになった僕には、彼は睡眠安定導入剤だ。ないと困る。
 はぁ、と息を吐いた彼が僕の頭を撫でる。「わかったわかった。じゃあ寝よう」とベッドスタンドの電気を消した。布団を引き寄せ、被せる。
 僕は持っていた枕を彼のものと並べた。ぼすっと頭を預けて、ベッドをダブルサイズにしようかそろそろ本気で悩む。シングルに男二人はどうやってもきつい。おかげですぐ近くで体温を感じながら眠れて都合がいいのだけど。狭いのは事実だし。
 悩んでいる間に、ふわ、と欠伸を漏らした彼が「じゃあおやすみキョーヤ」と笑うから、「おやすみ」と返して、彼の額にキスを施した。
 朝、ベッドの軋む音で意識が浮上する。朝ご飯とお弁当を作るために僕よりも早く起きる彼をぼんやりとした意識で眺め、どうせ起こしに来てくれるのだから、とうとうとしていると、夢を見た。鏡の夢。僕と瓜二つの奴が鏡の中にいて、その髪色から黒が抜け落ちて淡いブロンド色になり、瞳の色も変わった。ぎくっとする。その蒼い瞳がとよく似通っていたから。
 知ってる。ボンゴレリングってものが完成型になったときに、リングから出てきた人間だ。幽霊みたいな存在、だと理解してる。そいつは見れば見るほど僕とそっくりで、気味が悪い。

 いいご身分だね

 そう言われて顔を顰め、あなたに罵られる憶えはないんだけど、と噛みついて返すと、相手は僕をせせら笑った。憶えのある顔だ。多分、僕も相手を貶して笑うときはああいう顔をしている。
 プチンと頭の中の何かが切れて咬み殺してやろうと考えたとき、キョーヤと呼ばれた。うるさいなぁとその声を振り払う。僕は今からこいつを咬み殺すんだから邪魔しないで。
「キョーヤ。キョーヤってば、起きて」
「、」
 ぱち、と目を開ける。いつの間にかまた眠っていたらしい僕をエプロンをつけたが肩を揺らして起こしていた。「あ…」袖で目を擦る。ぱち、ともう一度目を開けて現実を確かめる。
 ああ、さっきの、夢か。
「ほら、ご飯。今朝はサラダの残りと和風の卵焼き、白いご飯にポトフだよ」
 のそりと布団をはねのけてベッドを下りる。相変わらず、家事が好きだな。「おはよう」「ん、おはよ」にこっと笑顔を浮かべた彼から視線を逸らす。
 …いいご身分だねって、どういう意味なんだ、あいつ。意味がわからない。別にいいけど。とっくの昔に死んだ人間の戯言なんてすぐ忘れるから。
 彼と一緒に朝ご飯を食べて、お弁当を持たされ、僕は学校へ行き、彼は家のことをすませる。
 その時間は安定していて、特に問題もなくて、平和だった。
 少し気になるといえば並中に転校してきた至門中学の七人くらいか。そのうちの女子一人が粛清委員会がどうとか馬鹿げたことを言ってるけど、並盛を守るのは風紀委員で事足りている。またうるさく言うようなら、考えないとならない。力を振るうとが怒るから、別の手段を何か。
 面倒くさい。どうして僕がそんなことしないとならないんだ。そう思う反面、いやそれ以上の大きさで、のためだから仕方がない、と考えている自分がいる。
 バイクを降りてヘルメットを取り、ふるふると頭を振って髪を流す。
 今日のお弁当はなんだろう。昨日が魚だったから肉系かな。それとも両方かな。座席の下にしまっておいた手提げを取り出してばんとしめ、キーをポケットに突っ込んで応接室へと歩き出す。
 彼はそばにいないけれど、ちゃんと家にいる。料理したり掃除したり買い物したりして過ごしている。休日がくれば僕がそれに付き合う。そんな日々が流れるだけでどうしようもなく幸せだった。
 ずっとずっと、果ての未来まで、こういう日々が続いたらいいのに。
「おはようございます委員長!」
「おはようございます!!」
「おはよう」
 応接室の扉の両脇に立っている風紀委員に挨拶されて挨拶を返す。ぎ、と黒い革張りの椅子に腰かけて、今日片付けるべき仕事が机に積まれるのを眺め、視線を外す。
 今日もいい天気だな。今日は買い出しだって言ってたっけ。ああ、そういえば、いい加減あのスーパーに行くのはやめたのだろうか。確かめないと。あそこには君に気を寄せてる女がいるから行ってほしくないんだ。
 ふう、と吐息して、机に積まれた帳簿を手に取る。
 今日は、昨日みたいに面倒事が怒らなければいいけど。
 今日は金曜日だ。今日を終えれば連休がある。週末だから仕事に少し余分が増えるけど、それを終えたら早く帰って、と一緒にテレビを見て、ごろごろしてすごそう。