こんなつもりは、なかった

 海だろうが川だろうが竹林だろうが山だろうが、僕にはあまり関係がない。自分に経験が足りないとは思わないし、遠方に来てまで鞭使いとやり合う理由もあまり見つからない。屋上よりは真剣にやってくれてるようだけど、まだ手加減されてるような気もするし。
 それでも修行とやらに付き合っているのは、彼が言ったからだ。少し気分転換がしたいと言ったから。それに付き合うために僕はついでにこの修行とやらをしてるだけだ。
 ばしゃと水を蹴って踏み込む。下から叩きつけた一撃を紙一重でかわされた。金色の髪がはらりと宙を舞うのを見ながら休まず踏み込む。叩き潰すつもりでトンファーを振るう。これも紙一重で避けられる。唸りを上げて振るわれた鞭が右のトンファーごと腕を絡め取るから、瞬間の判断で離れるよりも近づいた。また一歩踏み込んで左のトンファーで相手の顔面目がけて振り下ろす。
 がっ、と手応えはあった。でも直撃ではない。一撃食らいながらも攻撃を忘れなかった相手が全身で鞭を振るうと、絡め取られた右の腕から体勢が崩れてざぱんと海に突っ込んだ。冷たいのと塩辛いので目がちかちかする。
「だぁ休憩! 休憩だ休憩、なあ!」
 金髪の相手が勝手に降参して勝手に戦線を離脱する。
 してやられた自分にも苛々したけど、 と呼ばれた彼が僕を見ないでさっきから一人何かやってるのにも苛々する。約束が違う。絶対に僕を見てろって言ったのに。約束したのに。
 苛々しながら右腕に絡みつく鞭を剥ぎ取ったとき、「ちょーど焼けたよキョーヤ。キョーヤー?」と呼ぶ声がしてじろりと視線を上げた。海水に浸っていたところからざぱと立ち上がってずんずん歩いていくと、彼が慌てたようにタオルを持ってくる。
 彼がさっきまでいじっていたのは新聞の山だった。眉を顰めた僕の髪を拭いながら「あーあ着替えないと。キョーヤ、テント」「…それは何」少し煙を上げている新聞の山を指すと、彼は笑った。
「焼き芋! お腹空くだろうと思ってさ」
 焼き芋。頼んでもいないのにこの人はそんなものを作ってたらしい。半分呆れながらテントの中に入って濡れたシャツを脱ぎ捨てた。彼はその間新聞の山をいじっていた。焼き芋が焼けたかどうか確かめてるらしい。
 新しいものに着替えてテントを出ると、彼が新聞の山からアルミホイルの包みを取り出したところだった。タオルに包んだそれをこっちに差し出した彼が「はいキョーヤ。熱いから気をつけてね」「………」仕方なく受け取る。砂浜に敷かれたシートに座り込んでべたつく髪を払った。海水はめんどくさい。
 紙コップにお茶を淹れて手渡され、これも仕方なく受け取る。
 僕の隣に座った彼は、どうやら自覚が足りないらしい。
 がさがさアルミホイルを剥がすと紫色の皮が見えた。剥くのが面倒でそのままかじると、まだ熱かった。やせ我慢して飲み込んで一つ咳き込む。熱い。「キョーヤ、だから熱いって言ったじゃんか」「うるさい」もう一つ咳き込んで冷たいお茶に口をつけた。彼の掌が僕の背中をさすっている。自覚の足りない彼に約束守ってよと言い出せない。喉から言葉が出てこない。これはきっと、焼き芋があんまり熱かったせいだ。
 まだ熱い焼き芋から視線を外す。鞭使いはどうやら部下に手当てを受けてるようで、この場にはいなかった。
 背中をさすっていた手が離れる。なんとなく、追うように視線を投げると、隣に彼がいて、手を伸ばせば簡単に届く位置で無防備な笑顔を浮かべている。「んーおいしい」なんて言って笑っている。
 これは群れているんじゃないのか。こんなに近い位置に他人がいて、あまつ隣り合ってるなんて。これは僕が大嫌いな群れるという行為じゃないのか。事実、さっきまで苛々していたじゃないか僕は。
 その苛々は、彼が僕を見てると約束したのに見ていなかったせいだけど。群れていたから、が理由ではない。
 おかしい。こんなのは何か、どこかがおかしい。
 この僕が。並盛を牛耳る僕が、何を、こんなに、悩んでるんだろう。それも、他人のことで。
「キョーヤ」
「、」
 呼ばれて顔を向ける。蒼い瞳が僕を見ている。「大丈夫?」「何が」「疲れてるとか、ない?」「…別に」ぷいと顔を背けて逃げるように焼き芋をかじった。さっきよりはましな熱さになっている。顔を背けたのに、じっとこっちを見てる瞳にまだ逃げたくなる。
 僕のそばにいて、僕を見ていること。そう条件をつけておきながら、今はそれを投げ出してしまいたくなってる。
 どうしてだろう。どうして僕はこの人のことになるとこんなにぐちゃぐちゃになるんだろう。自分がわからなくなるんだろう。どうして。どうして。
 夜になって視界が悪くなり、まぁそういう中で戦うっていうのもありかなと思って鞭使いと戦闘を続けていると、遠くの方でがっしゃんと大きな音がして「いつっ」とここまで声が聞こえた。その声に軽く目を見開いて視線をやってしまったから、鞭の一撃を避け損なってまともに食らった。足場の悪い山道だったから思い切り転んで、背中から地面に倒れ込んでどしゃっと音が響く。
 打った背中がずきずきした。「え、あれ、悪い恭弥、お前なら今の避けれると思ってだな」あたふた一人慌てている金髪の相手を無視してむくりと起き上がり、ざくざく山道を歩く。トンファーが手から抜けたこともすっかり忘れていた。
 ざくと地面を踏んで声のしたところに行くと、「あいて。うー」とかなんとか唸ってる彼がいる。どうやらプラスチックの食器を川で洗って持ち帰る途中で転んだらしい。人口の灯りのない山道は慣れてないと確かに危険だった。自分もさっき転んだくせに「どんくさいね」と言う辺り、僕も本当に素直じゃない。彼は困ったように笑って食器の入ったダンボールに手を伸ばした。
「いいよキョーヤ、大丈夫だから。ディーノ待ってるよ」
「……」
 ダンボールを手に立ち上がった彼に、僕は仕方なく背中を向ける。なんだかにやついた顔でこっちを見てる金髪にじろりと視線を向けて「何その顔。咬み殺すよ」「いやぁ、仲がいいなぁと思ってだな。リボーンが夫婦って表現しただけあるぜ」「…は?」意味がわからない。赤ん坊はこの鞭使いにどういう話をしてるんだろう。トンファーを拾い上げて構えると相手も鞭を一つ振るった。まだにやにやしてる。こいつ、咬み殺す。
 お互い致命傷を与えないまま五分十分二十分と時間が過ぎて、そのうち「キョーヤー、ディーノも、今日はその辺にしとこうよ」と彼の声に呼ばれた。鞭の一撃を叩き落したところで動きを止めて細く息を吐く。彼の声が終わりの合図だった。
 金髪の相手もぐっと伸びをして「んじゃあ続きはまた明日だな。よく休めよ恭弥」「あなたには関係ない」「はいはい。ああそれと」「…何」「いかがわしいことすんなよ?」にやっと笑った相手にこめかみが引きつる。言ってることの意味がわからないけど、癇に障る顔だった。殴りつけてやろうとトンファーを振るうと全て避けられた。逃げ足は早い鞭使いが「じゃあ明日な!」とか言って林の陰に消える。
(いかがわしいこと? 誰と誰が? 馬鹿じゃないの)
 苛々しながら彼のいるテントまで戻ると、「はい」と差し出されるカップが一つ。じろりと視線をやると彼はやっぱり笑っている。
 その笑顔に毒気を抜かれた。いつまでも苛々しているのは僕だって本意ではない。この苛々は、本人に向けるべきだ。明日は絶対負かしてみせる。
 カップを受け取ると、琥珀色の液体が見えた。紅茶だ。彼はどうやら紅茶が好きらしい。ゆらりとカップを緩く回して「あなたは紅茶が好きだね」と呟くと彼はまた笑う。「おいしいじゃんか。あ、コーヒーももちろん好きだけどね。でもブラックはどうにも苦手で」「ふぅん」「紅茶は色もきれいだし、好きだよ」微笑む顔から視線を逸らして、座布団の上に腰を下ろした。さすがに疲れていた。あれだけ動き回ってれば当然だけど。
 紅茶が好きなんだねと指摘して紅茶が好きだよと返された。ただそれだけの会話にどうしてか胸がうるさい。
 好きだよ、って言葉は紅茶に対してであって、僕に対してではないのに。
 意識を紛らわせるように彼を観察する。ビンテージのジーパンとタートルネックにベストという格好をしている彼は、そうしていると本当に一般人だった。マフィア、なんて名のつく世界にいる人間には見えなかった。
 じっと観察していると、目が合った。蒼い瞳。どこまでも透き通るような蒼。空の蒼。
「キョーヤ?」
 ことりと首を傾げる姿は、どちらかというとかわいらしい。小鳥のようで。次にはそんなことを思った自分の意識を疑う。男に対してかわいらしいなんて、どうかしてる。
 ぷいと顔を背けて紅茶を口に含むと、熱くなかった。僕があまり熱いものが得意でないと彼は気遣ってくれたようだ。窺うように視線をやると、彼は微笑んでいる。満足そうな顔で紅茶をすすっている。
 彼の。好きだよの言葉が、頭の中に響いて、鳴り止まない。
 紅茶のカップをソーサーに戻した。座っていたところから手をついて身を乗り出す。狭いテント内は三歩膝で詰め寄れば彼にすぐ届いた。無防備なきょとんとした顔がこっちを見ている。
「キョーヤ?」
「…、」
 と、呼ぼうとして、唇を噛んで俯く。
 これは群れる、だ。僕の大嫌いな行為だ。さんざんそれを嫌ってきた僕が今更群れるのも悪くないかななんて言えない。あなたとなら群れるのも悪くないだなんて言えない。
 こんな狭い場所に男が二人で、妙な気が起きるはずもないのに、今の僕は不安定だ。なんだか傾いている。
 嫌なタイミングで金髪のにやっと笑った顔を思い出した。
 いかがわしいこと、ってなんだ。
「…
 本当に小さく小さく呼んだつもりだった。でも届いてしまったらしい。さらにきょとんとした相手は無防備すぎた。本当に、無防備すぎた。何度か瞬きしてから花が咲いたように笑った顔は、妙な気が起きるくらいの威力は十分にあった。
 手を伸ばしてぐっと肩を掴んで体重をかければ簡単に倒れてくれる。どさりと人の倒れる音に、蒼い瞳。
 近距離で見つめても蒼は蒼のまま曇ることはなかった。拒絶されることはなかった。それに安心した。
 ああ、この人は馬鹿だ。マフィアなんて血生臭い世界にいるべき人じゃない。むしろ普通に生きていたとしても放っておけないくらい、馬鹿な人だ。本当に。
 ゆるゆる目を閉じて、タートルネックの襟に指をかけて引っぱる。細めの首に頬を寄せると肌が触れ合った。妙にくすぐったい。そのくせやめたくない。やめられない。離れたくない。僕を見てほしい。そばにいてほしい。それは、僕の本当の。
 髪を撫でられる感触に薄目を開けて視線を上げると、彼は目を閉じていた。満足そうに口元を緩めて笑っていた。
 のしかかるようにその胸に腕をつく。彼の顔に自分の顔を寄せる。
 瞼の向こうにあるのは、曇ることを知らない、空の蒼。
 雲の守護者ってやつである僕は、空を覆い、いずれは嵐を引き起こしてしまうだろうか。
 そんなことを考えていると両の頬を掌がはさんだ。片方の掌が何度か撫でるように頬を滑り落ちる。
 彼は笑っていなかった。怒ってるわけでもない。悲しんでるわけでもないし楽しんでるわけでもない。ただじっと僕を見ているだけ。まっすぐ僕を見つめているだけ。
 これ以上先は何かまずいのではないか、と僕の頭のどこかが考える。具体的にどこがいけないのかわからないけど、僕はその警告を無視した。彼の上から退くことをしなかった。逃げなかった。だから、彼に引き寄せられて、視界いっぱいに彼を見つめる事態になっても、唇に触れたあたたかくてやわらかい感触にも、驚きはしなかった。
 体温に触れた瞬間、警告は止んで、頭の中は不気味なくらいに静かになっている。
 代わりに騒がしいのは心臓だ。全力でトンファーを振り回してもここまで大きく鼓動しないんじゃないかってくらい心臓がどきどきしている。
 好きだよ、と言った彼の言葉が、ぐるぐると僕の中を回って、消えてくれない。
「キョーヤ」
 囁き声と一緒に抱き締められて、これは間違いなく群れるかそれ以上の行為だ、と思いながら目を閉じる。
 群れている連中を見ただけで苛々するし、咬み殺してやろうと考えるし、群れに加わるなんて絶対にごめんだと思っていたのに。僕は今安堵している。彼の腕の中にいる事実に、現実に、安心している。

 もう、群れるのなんて大嫌いだ、なんて言えない。