どうしてこうなった

 とんでもないことをしてしまったと気付いたのは、キョーヤが俺の腿を枕にして眠ったあとだった。
(えええ俺何してんのーっ!?)
 思わず頭を抱えてしまう。試しにぎゅっと頬をつねってみたけど痛かった。ということは、きちんと現実だった。残念なことに、さっき流れと雰囲気でキスしてしまったのもちゃんと現実っぽかった。
 今はキョーヤを並中から引き離そうと修行を名目に山に滞在中。今頃並中では最初の対戦が行われてるはずだ。ディーノの話だと最初は晴戦で、ルッスーリアと笹川了平って人が闘うはず。校舎が破損したりすればキョーヤはきっと怒るだろうから、俺は口が裂けてもその話はしてはいけない。このリング争奪戦に負けたらどうなるのかとか、そんなことも考えちゃいけない。余計なことを考えたらボロが出る。俺はせめてここで自分の役目をこなすんだ。とりあえずキョーヤの持つ雲のリングの対戦までは、どうにかしてキョーヤを。
 そろりとそのキョーヤに視線を移す。寝てる。うん、寝てる。でもこのままだと俺は眠れません。いつまでも膝枕っていうのは厳しい。
 キョーヤを視界に入れてると、さっきのことを思い出す。軽く頭を振る。どうして血迷ったんだろう俺…。
 言い訳をするなら。なんというか、いつも鋭いキョーヤの瞳が、そうじゃなかったから。なんていうか、潤んでるような気がしてですね。それで俺のこと押し倒してさ、のしかかられて、上から見つめられたらさ。なんかキスしてしまったわけです。そういう雰囲気だったわけです。俺に甘えるキョーヤがかわいいと思ってしまったわけです。
 はぁと息を吐いて腕で視界を塞ぐ。なんか顔熱い。
(だって逃げないし…殴らないし。怒らないし。むしろ機嫌、よくなったような気がする。俺の気のせい?)
 すーと寝息を立てているキョーヤをちらりと窺う。眠ってる。キョーヤはどんな夢を見るんだろう。というか、俺大丈夫か。次にキョーヤが起きたら何事もなかったみたいな顔できるのか。キスなんて初めてじゃないんだから気にしなきゃそれでいい話なのに、なんか自信がない。相手がキョーヤだから? 一晩限りの相手じゃないから? でもそれだって、このリング争奪戦が終われば俺はお役目ごめんでイタリアに帰ることに。なるんじゃ。
 イタリアに。そこが俺の仕事場。キョーヤを丸くするために呼んだってリボーンは言ったけど、俺にできることなんてそんなに。
「……リボーンの馬鹿」
 一人ごちたとき、キョーヤの瞼が震えた。ぎくっとする。しまった、キョーヤの眠りは繊細なんだって知ってたのに俺の馬鹿。
 ぼんやりした顔でごろりと寝返りを打って、灰色の瞳が俺を見上げた。「あかんぼうが、どうかしたの」寝起きのためか若干舌足らずな声がかわいい。それでかわいいなんて思った自分にはっとする。まずいぞ、かわいいなんて思っちゃ駄目だ俺。しっかりしろ俺。頭に手を添えて「なんでも、独り言。キョーヤ寝ていいよ」「…はねないの」「寝たいけど、このままは寝にく…?」ん? 今何か、名前を呼ばれたような。
 今まで何度言っても俺のことをあなたとしか呼ばなかったのに。これで二回目だ。
 そんな些細なことでも、気がつくと頬が緩んでいる。ぼんやりした顔のキョーヤの頭を撫でて「なんでもないよ。眠って」「………」眠そうな目が閉じられて、灰の瞳が見えなくなった。しばらく髪を撫でているとやがて静かな寝息に変わる。
 ここで俺が動いたら、キョーヤはまた起きてしまうだろうか。
 まいったなぁ。俺はノーマルだと思ってたんだけどな。そのつもりだったのに、俺は今、キョーヤのことをかわいいと思ってしまってる。裏から並盛町を仕切ってて、トンファー振り回して気に入らない相手には咬み殺すって喧嘩をふっかける問題児だってわかってるのに。
 細く息を吐き出して、キョーヤの黒い髪に指を絡ませる。
 眠らない夜というのはとても長いものだと思っていたのに、キョーヤの寝顔を見ていたら夜明けはすぐにやってきて、俺達のいるテントを朝陽が照らした。
 寝不足だったけど、見てないとキョーヤが怒るので、今日も今日とて俺はキョーヤとディーノの攻防戦を眺めていた。
 かなり眠い。どうしたって欠伸が漏れる。でも寝たらキョーヤが怒る。
 両手でがらりと岩を持ち上げて、反動をつけてからぽーいと放った。邪魔してるんじゃなくて、これも立派な修行の一つ。障害物のある中でそれを撃破しつつ戦う、というのが今日の修行なのだ。
 岩の転がる山道での修行は、足場がかなり不安定。土の感触も場所によって違うし、地形も限られてる。さっきから俺とロマーリオは適度な大きさの石を投げたり転がしたりして二人の修行の手助けをしてる。ディーノもキョーヤも一発も石を食らってない。本当大したもんだ。
 三十分後、休憩に入った。ディーノの鞭の攻撃を受けて色の変わってる部分を手当てしながら「キョーヤ大丈夫?」と声をかけると、キョーヤは「別に」とぶっきらぼうな返事をする。
 昨日のことがあったからって、俺達の間には特別な溝はできず、特別な空気も流れない。そのことに少しほっとした。昨日みたいにかわいいキョーヤに迫られたら俺はまた間違いを引き起こす自信がある。いや、あっちゃいけないんだけどそんな自信。
 キョーヤの手にしてるトンファーがきらりと陽の光を反射して目に沁みた。寝不足の目に今のはきつい。思わず掌で目を押さえる。眩しい。痛い。沁みた。すごく、眠い。
 片目を押さえて手当ての手を止めた俺にキョーヤが眉を顰めた。
「…もしかしてあなた、寝てないの」
「まぁ…」
「馬鹿じゃないの?」
「馬鹿じゃないです。だって動くとキョーヤが起きるからと思って」
「自分より僕のことを優先するのか、あなたは」
「うん」
 そこで会話が途切れた。くらりと揺れる視界を上げると、キョーヤはそっぽを向いていた。なんとなくその顔が照れてるように見えるのは俺の目の錯覚なんだろうか。寝不足のこの目が勝手にキョーヤをかわいらしく映してるだけなんだろうか。
 …まいったな。本当に。キョーヤってばかわいいじゃないか。
(いやいや。落ち着け俺)
 ぺちと瞼の上から眼球を叩いて薄く目を開ける。何度か瞬きしてから手当てを再開して、キョーヤの傷を消毒して必要な部分に絆創膏を貼る。
 それからお昼ご飯にした。キョーヤは買出しにも行かせてくれないので、今日はサンドイッチだ。中は野菜ばっかり。たまにはこってりお肉も食べたい。
 もそもそサンドイッチを食べて、紅茶を淹れて、そうしたらまた修行だ。
 今日の修行の後半は川の流れる場所での戦闘。日本の河川は幅が狭く流れが急で、山の中の川となるとその傾向が特に顕著。そういう足場にも慣れておくべきだ、とディーノが言うんだから、まぁそういうものなんだろうと思っとく。
 夕飯の支度をしながらぼへっとディーノとキョーヤの戦闘を眺めていると、ロマーリオが近くにやってきた。相変わらず缶ジュース片手にボスを見守ってるようだ。いいファミリーだなぁキャバッローネって。
「調子はどうだ?」
「夕飯ならぼちぼち。材料限られてるから今日カレーだけど…って、あれ、夕飯の話じゃなかった?」
 なぜか押し殺した笑いを返されたので首を捻る。「いや、雲雀恭弥を丸くするって仕事の方だ」「ああ…」どうやらロマーリオは俺の仕事内容を知ってるらしい。ディーノがぽろっと漏らした可能性も高いけど。
 どうだと言われても困った。今のところその任務に対して有効な方法ってのは見つからないままだし、昨夜なんかとんでもない間違いを。
(思い出してしまった……)
 キョーヤの灰色の瞳と、きれいな顔立ちと、体温と、唇の感触。軽く頭を振って「まぁ、悩ましいとこだけど、頑張るしかないよね」と苦笑いして顔を上げると、ロマーリオがにやにや笑ってこっちを見ている。ナンですかその顔は。まさか借り物のテントに監視カメラとかついてないだろうなおい。恥ずかしくて死ぬぞそんなの。
 ぱんと手を叩いて「はい、俺はこれからご飯を炊くので話はおしまい!」無理矢理会話を区切って立ち上がる。飯盒にお米を入れて川まで下りていく俺に、ロマーリオは最後までにやにや笑っていた。畜生大人め。
 ばしゃん、と遠くで水の跳ねる音がして視線だけ上げると、川に片足を突っ込んで鞭に左腕を絡め取られたキョーヤがいる。口元が笑ってる。楽しそうだ。ああしてると別にかわいいなんて微塵にも思わないんだけど。むしろ背筋が寒くなるくらいなんだけど。昨日のキョーヤはかわいかったなぁ。
 はっとしてぶんぶん首を振った。水を蹴ったキョーヤが身体を捻ってディーノに回し蹴りをお見舞いする。ごって痛そうな音に思わず首を竦めた。ディーノ、頑張れ。
 立ち上がって飯盒に蓋をしたとき、絡みついた鞭を投げ捨てたキョーヤと目が合った。灰色の鋭い瞳。小さくひらひら手を振るとふんとそっぽを向かれる。いつもどおりだ、うん。それにちょっと安心して砂利道を上がってテントに戻った。俺はこれから飯盒とカレー鍋を火にかけないといけないんだし、自分の今やるべき夕飯支度に集中しようか俺。
「焦げてる」
 飯盒で炊いたご飯を見るとキョーヤは顔を顰めた。「火加減が難しいんだよ。いちいち開けるわけにもいかないしさ」言い訳しながら焦げてない部分のご飯をよそって、上からカレーをかける。「はい」と差し出すとキョーヤは仕方なさそうにお皿を受け取った。
 キョーヤは静かに食事を取りたい人のようなので、二人で黙ってカレーを食べる。食器同士がぶつかる音と、雨の音。鼓膜を打つのはその二つだけだ。
 夕方になって雨が降り出した。視界が悪い中での修行も大事だってディーノが修行を続けたせいでキョーヤはずぶ濡れだ。風邪を引きやしないかと心配する俺の身にもなってほしい。
 それにしても、妙なコンディションだ。いや、今日は雷の守護者の対決だっていうから天気に恵まれた、というべきなのかもしれないけど。ちょうどいいときに雨になりすぎだろっていうか。
 ヴァリアー側の雷の守護者はあの怖い顔したレヴィだろう。対してこちらはランボって子供が戦うらしい。なるべくリング戦のことは考えないようにしてるんだけど、今日はどうしても気になってしまう。リボーンが抜擢したなら大丈夫だと、信じるしかないんだけど。俺がここから心配したってなんにもならないとわかってるのにな。
 かっと雷の音が響いて視線を上に向けると、ぶら下げているランプが頼りない光を落としていた。
 今夜はこのまま雷雨になるらしい。川からは十分上がったところにテント張ってるし、土砂崩れとかも考慮した場所を選んだし、ここは大丈夫だと思うけど。本当、雷の守護者の対決にはうってつけの天気になったものだ。
「ねぇ」
「、はい?」
 かちゃんとお皿にスプーンを置いた音とキョーヤの声で我に返った。「手が止まってるよ、さっきから」指摘されて、自分のカレーがあまり減ってないことに気付く。考え事ばっかりで手が動いてなかったようだ。
 じっとこっちを見ているキョーヤに急かされるようにカレーを平らげた。こんな雨じゃ洗い物もできないので、使った食器は外に出すだけ。テントの入口のチャックを引き下げた向こうはざあざあ降りの雨だ。雷、落ちたりしないといいけど。
 じーとチャックを閉めて目頭を押さえる。眠い。結局今日寝てないんだった俺。
 何度か瞬きして、駄目だなと思った。寝袋の上にごろんと横になるとキョーヤがトンファーのメンテナンスをしてるのが見えた。灰色の瞳がこっちを一瞥して「もう寝るの」と言うから一つ頷いて目を閉じる。今日寝てないんです、今日は寝さしてください。さすがに限界。
 かっ、と雷鳴の轟く音がする中、意識が沈んでは浮かぶ、浮かんでは落ちるという浅い眠りを繰り返して、ふっと醒めた。唇に何か当たった気がしたから目が覚めた。
 視界いっぱいに広がるのは、長い睫毛と黒い髪。キョーヤの整った顔立ち。耳を打つのはざあざあという雨の音。テントを打つぽつぽつという雨音。
(あ、れ?)
 まだ寝ている頭は状況をよく理解してくれなかった。五秒か、十秒か、それくらいたってからようやく離れたキョーヤの顔を見てから気付いた。今のはキスだと。とっさに目を閉じて寝たふりをした俺にキョーヤは気付いていないようだ。髪を梳く指の感触が妙にむずがゆくて、起きてしまいたくなる。どうしてキスしたんだって訊きたくなる。だけど口にしてしまったら最後、戻れない気がする。今までのようにいかなくなる気がする。それは、駄目な気がする。
 だから俺は寝たふりを通した。キョーヤは飽きることなく俺の髪を指で梳いては離し、梳いては離し、たまに絡ませてを繰り返した。必死にむずがゆい気持ちと闘う俺をわかってやってるんだろうかキョーヤは。
 今のキョーヤきっとかわいい顔をしてるんだろう。そんな顔見たら俺はまた間違いを起こす気がする。だから意地でも目は閉じたまま、狸寝入りを貫き続ける。
 かっ、と雷鳴の音が轟く。瞼の裏が一瞬だけ青白く染まってすぐ暗闇に戻った。
 髪を梳いていた指が離れる。
 それから一分、二分、きっちり三分待ってから薄く目を開けると、キョーヤはこっちに背を向けて寝袋の中だった。
 そっと握った拳を唇に押し当てる。
 ああ、熱い。
 こんな密閉された二人だけの空間で、キョーヤと二人で、俺はあと何日過ごせばいいんだろうか。昨日が晴戦、今日が雷戦。明日は誰だろう。キョーヤが呼ばれるまで俺は並中がリング争奪戦の舞台だってことを隠しておかないといけない。もしキョーヤに戦闘が回ってきたら、そのときは、正直に言うしかないかな。黙っててごめん、でもこうしないとお前はきっと暴れてただろうからって、平謝りするしかないか。トンファーで殴られても文句言えないな、それ。
 唇から手を離して、細く細く、そっと息を吐き出す。
 とりあえず寝よう。今日の闘いの勝利を祈りながら、眠ろう。今のキスのことは忘れよう。そうしよう。きれいさっぱり忘れてしまおう。その方が俺のためで、きっと、キョーヤのためだ。