悪夢の朝が始まる

 ピピピピと音を立てる目覚ましを叩いて止め、布団の中でもそりと動いて顔を上げる。だいたいが起こしてくれるから目覚ましが鳴る前に止めることが多いのだけど、今日は彼よりも早く目覚ましに起こされた。
 寒くなってきたな、と外気に少し震えて布団の中に手を引っ込める。
 今日も学校だ。並盛の風紀を守るために僕は今日も行かなくては。
 布団の中で寝返りを打って起き上がろうとしたときだった。普段は感じない違和感を胸の辺りに感じて、黒い着物姿の自分に視線を落とす。…なんかむにゅってしたんだけどなんでだろう、と着物の中に手を突っ込んで、驚愕して、すぐに手を抜いた。
 寝起きで感覚すら狂っているのだろうかと、恐る恐る着物の上から自分の胸を撫でて、また驚愕してすぐに手を離す。
 …待って。待って。本当に時間止まれ。
 ぐにっと自分の頬を思いきりつねると痛かった。ついでに手の皮膚もつねってみたらやっぱり痛かった。そして、そろそろと自分の胸に手を当てて、とりあえず力任せに叩いてみた。やっぱり痛い。
 確かめるのはこれで最後だ、と足の付根に手を伸ばして、もう驚くこともできずに放心してぱたっとベッドに手を落とした。
「何これ……」
 そうこぼした自分の声が聞き覚えのない高さになっていて、喉をさする。
 喉仏のでっぱりが、ない。男としてあるべきものがなくなっている。なんで。どうして。
 落ち着け、と一つ深呼吸して、昨夜を思い出してみる。特に変わったことなんてしていないはずだ。いつもどおり学校から帰ってが作ったご飯を食べて、お風呂に入って、寝た。それだけのはず。いつもと何一つ変わらない日常だったはずだ。
 それなのになんで僕は女になってるんだ。変な薬なんて飲んでないし変な物だって食べてない。自分がこうなってしまった原因がわからない。
 途方に暮れる耳に、とたとたと階段を上がる足音が聞こえてきた。それで我に返る。
 こんなことになってしまった自分を相談できるとしたら彼だけだけど、でも、こんな僕、見てほしくない。
 ばっと布団を跳ね除けてベッドを下り、着物の裾をさばいて走って扉に取りついてガチンと鍵をかけた。間一髪間に合って、がち、とノブが音を立てる。
「あれ。キョーヤ? 朝だよ―。おーい」
 扉一枚挟んだすぐ向こうから彼の声がする。ドキドキする胸に手をやって、余計なものがあることにぎりっと歯を食い縛る。
 言葉を返したい。だけど、声を出したらわかってしまう。僕が何か変だってこと。そうしたら彼は慌てるし、僕の様子を確認したがるはずだ。声を出したらいけない。姿を見せることもできない。それってつまり、この部屋に閉じこもるしかないってこと、なのか。
 そのとき、ぐきゅるとお腹が鳴った。う、と押さえたら扉の向こうで彼が笑う。「なんだ、起きてるのか。ご飯できてるよ。おいで」と言われても出ていけない。ぎゅっと拳を握って耐えていると、扉の向こうで、そんな僕を彼が不思議に思ったらしい。
「キョーヤ? 今日がっこだよ。忘れてる?」
 忘れてるわけがないだろう。知ってるよ。わかってるよ。だけど起きたら自分がおかしなことになってて、女になってて、外へ出るに出られないんだよ。
 本当はあなたに相談したいけど。でも、女になってしまった僕なんて。そんな僕を見て、あなたが僕から興味を失ってしまう原因になったりしたら、僕は終わる。
 どうしよう、と腕をさすって蹲る。膝を抱えるのにも胸が邪魔だった。逆に足の間がすっきりしていていやにスースーするし。
 そのまま三分が経過した頃、「仕方ない」と息を吐いた彼が扉の前から離れていった。諦めてしまったらしい。それがなんだか彼に見放されたように感じてじわりと視界が滲む。自分でだんまりを通したくせに、僕は馬鹿か。
 蹲って膝を抱えたままでいると、とたとたと足音が戻ってきた。ぴく、と鼓膜が震えて顔を上げる。彼が僕のもとへ戻ってきたことで何かに救われた気持ちになって嬉しくなった。それも束の間のことで、カチャカチャと鍵をいじる音にはっとしてノブを強く握れば、カチン、と外から鍵が外された。「こら、キョーヤ、往生際が悪いっ。学校行きなさい!」「……っ」外からノブを回そうとする彼に対抗してノブを握っていたのに、すぐに腕が疲れてきて僕の方が力負けした。ガチガチ拮抗していた力が彼に押し切られ、ガチャ、と扉が開けられる。
 僕はよろけながら後退った。なんとなく着物の襟元をたくし寄せて胸を隠す。それなのに僕を一目見た彼はあっさり僕の変化に気付いてしまって、ぽかんとした顔で僕を見つめた。
「…あれ、キョーヤ? あの、なんか、そのー。変な薬でも飲んだの?」
「飲んでないっ」
 思わず噛みついて返してしまってからしまったと口を閉じる。声まで女のものに変わってる僕に彼はさらにぽかんとしていた。その手に色んな工具のついた道具が握られているところを見るに、ピッキングで解錠したのだろう。言っておくけどそれは犯罪だよ。
 上から下まで眺められて、うう、とさらに後ずさる。気のせいではなく身長が縮んでいる。いつもより彼の頭が高い位置にあって、どうやっても見上げないとならない。
 ぽり、と指で頬を引っかいた彼が「えっとー。あのさ、なんで逃げるの」「うるさい」「んー」がしがし茶髪をかき回した彼がその場に胡座をかいた。んーと唸りつつ腕を組んで考え込んで「んん? 昨日キョーヤが食べたもの普通だったよなぁ。変な薬飲んだわけでもないんなら…あれ、なんでそんなことになっちゃったの?」困惑顔の彼に「僕の方が訊きたいよ」とこぼして、じわじわ滲んできた視界を着物の袖でこする。
 なんで? そんなこと本当にこっちが訊きたい。
 ひっくと嗚咽を漏らす僕にが慌てて立ち上がった。「ああキョーヤ泣かないで」とあたふたする彼が僕を抱き締めようとしないことが今は恨めしい。
 やっぱり、女になってしまった僕に興味なんてないんだ。そうなんだ。
「き、嫌い?」
「え? 何が?」
「お、おんなのッ、僕なんて、きらいなんでしょうっ」
 しゃくり上げる僕に彼が困った顔をした。「なんで? そんなわけないじゃんか」「だ、って」そう言うわりにはさっきからよそよそしいし、触れてこようともしない。これがいつもの朝だったならおはようのキスの一つでもくれてるところなのに。
 ぼろぼろ泣く僕に「あーもうっ」と声を上げた彼が僕を抱き締めた。ジャージの胸に顔を埋めて、いつもの彼のにおいに、少しだけほっとする。
「わかんないの? 今のキョーヤは普段のキョーヤよりもっとずっとかわいいんだよ。女の子のラインしてるだけでソソられるのに、こんなふうに触れちゃったらさ、俺の理性が危ないでしょう」
 耳元で囁く声がじわりと頭に沁みて、くらくらと視界を揺らす。
 …なんだよそれ。あなたって本当、馬鹿だ。
 が僕のことを嫌いになったわけではないと知って心からほっとしたとき、むに、と遠慮なく胸を触られた。絶句する僕に彼は胸を揉んで真面目顔で「Cかな。いや、Dかも。ブラがいるなぁ」と一人納得する彼にふるふると身体が震えて、とりあえず、その頬を平手で張っておいた。