時は、懐かしいあの頃まで遡る

 夜の潮風がコートの裾を揺らす中、一人で灯りの少ない夜道を歩き、夜の店が盛んな無法地帯に入る。舗装されてないじゃりっとした地面を踏み締めながら少し行けば、ほどなくしてネオンの光が漏れだす夜の町に辿り着く。
「あら、かっこいいお兄さん、ウチに寄っていかなぁい?」
 声をかけてきたのは肌の露出の多いドレスを着た女だ。当然無視して歩き、夜の表通りから路地へと入る。ネオンが届かない暗がりはいろんなものが転がっていて、腐ったリンゴだったり死体だったりと、場合によって様々だ。
 そんな汚い路地裏にある店は表通りにあるものよりいかがわしく、何を扱ってるのかわからない店も多い。何かの肉だったり臓器だったり、そんなのを平気で並べている露店さえあるのだ。この光景だけでもここが取り締まらなければならない地区だということは明確なのに、警察は動かない。ここが自分達に影響力のある人間が出入りしている町だからだ。全く、警察が聞いて呆れる実態だ。
 ぶち、と何か嫌な物を踏んだ音がしたけれど、足元なんて見ない。どうせろくなものは転がっていない。
「それではマダム、帰り道はくれぐれもお気をつけて」
「あら、お世辞でも嬉しいわぁ。私に手を出してくるオバカさんなんていないでしょうけど、あなたが言うなら、気をつけて帰るとするわ」
 聞こえた声に、路地裏からさらに奥へと続く細い道に身体を滑り込ませる。
 一番奥に位置する店から歩いてくるのは男と女の二人組。男の方がひょろ長くくたびれたスーツを着た体躯なのに比べ、女の方は男の倍の幅があり、見ているのが煩わしいくらいに贅肉の揺れるドレスを身に着けて歩いている。
 …ああいうのは一目見ればわかる。私腹で肥えている人間だと。
 僕なら絶対隣に並びたくない、と思う相手を表通りまで送り届けた男の方がやれやれと言った感じで路地裏へと戻ってくる。女がつけていた趣味の悪い香水の香りを払うようにスーツのジャケットをばさばささせる。
 かつ、と一歩踏み出して細い路地から出ると、男が気付いた顔で僕を見やった。暗い路地の中で目が合って数秒、相手は肩を竦めてジャケットを羽織り直す。
「今日はなんの御用かな。アラウディ」
「決まってる。君を逮捕する」
 コートのポケットから手錠を出すと、降参、とばかりに彼は両手を挙げて、大した抵抗もせずに僕に捕まった。
 という名のこの男は、生まれも育ちも不明のアジア系の顔立ちをした人間で、黒っぽい髪に茶色の瞳を持ち、色々な町を渡り歩くようにして商売をし、生活費その他を稼いでいる。
 僕が捕まえるということだから、この男がしていることは合法ではない。
 まぁ、それだけならまだよかった。どこにでもいる無法者の一人ってだけの話だった。逮捕して刑務所へぶち込めばそれでおしまい、という話だった。
 けれど、彼には強力な後ろ盾というやつがいた。警察にも睨みをきかせることのできる力を持った貴族の当主の妻、という立場でありながら、平気で不倫している、最低の女だ。その女が彼が逮捕されたことを知り、警察に圧力をかけ、彼を釈放させる。そして彼はまた夜の町へと戻る。そして、彼の釈放を聞かされた僕がまた彼を逮捕する。…最近はその繰り返しで、女の方は飽くことなく彼の釈放を指示し、警察はそれに従う。馬鹿みたいなイタチごっこ。
 いっそのこと、彼を放置した方がいいのだろうけど。それはなんだかこちらが負けたみたいに思えてしょうがないから、僕も飽くことなく彼を捕まえている。
 今日もその連鎖の続きで彼を捕らえ、拘置所に放り込んだ。慣れたように中に入って「やれやれ」と粗末なベッドに腰を下ろす彼を見下ろす。
 …反省の色というのは全くなし。どうせまた二日三日で解放される、と高をくくっているのだろう。気に入らないなそういう態度、と拳を握ったとき、「アラウディ」と気だるそうな声に呼ばれた。睨めば、彼は疲れたようにベッドに身体を横たえて、埃っぽいだろう布団を被りながらこう言った。
「そろそろ終わる。このイタチごっこ」
「…何それ。勝利宣言?」
「違う違う」
 はは、と渇いた笑いを浮かべてこほと咳き込んだ彼が、埃っぽいんだろう布団から顔を出す。「あの人、あったこと全部自慢話みたいに喋るんだけどさ。今日話してたこと聞いてる感じだと、引っかかるなと思って。そのうちケーサツが動くよ。あの人達捕まえられれば、目先のたんこぶがなくなって、やりやすくなるんだろうし」ゆるゆる目を閉じた彼は、疲れていたのか、拘置所内の埃っぽい布団にくるまって眠った。
 彼の言うことを鵜呑みにするような馬鹿でもないので、話半分のつもりで彼の言葉を思い返し、調べる価値くらいあるか、と判断して拘置所を出る。
 次の夜、彼がいないことに気付いた女からまた指示があり、彼を釈放せざるを得なくなった。
 彼の言葉の真意についてはまだ調査中で、例の貴族が警察の捜査に引っかかるような馬鹿をしたのかもわからない。だから今は、上からの指示に従うしかない。
 彼の手錠の鍵穴に小さな鍵を突っ込んで拘束具を外す。「おー冷たかった」と手首をさする彼は、苦い顔をしている僕を見ると笑う。「じゃーな」とひらりと手を振って拘置所を出ていく。
 また彼を捕まえたとして、彼を庇護するあの女のいる貴族を検挙できない限り、意味がない。またイタチごっこだ。いちいちあの乱れた町に行くのは面倒くさい。あそこを潰せれば一番いいのだろうけど、力のある裏社会の人間が集まっているからって、警察は尻込みしたままだし。ああ、鬱陶しいな。警察っていうのは市民を守る組織だろ。それが自分より力のある相手に対して尻込みしててどうする。それじゃなすべきこともなせない。
 苛々しながら例の貴族のことを調べる。積極的に行動に出ようとしない警察の無能さは嫌というほど知ったから、僕が自分で調べて自分で捕まえるしかない。
 ああ全く、と溜め息を吐く。僕はこんなことをするために諜報部からここへ来たわけじゃないのに、と。 
 二日後、僕はまた彼を拘束した。自分で調べてみたものの、特にこれといった収穫もなかったので、彼から詳しく話を聞く必要があると思ったためだ。無法者に頼るなんて不本意だけど、目の上のたんこぶは早々に取り払ってしまいたいという思いが勝った。
 どさっとソファに座らせると、彼は「いでっ」とこぼしてぶつけたらしい腕を膝でさすった。「話を聞きたい」と切り出して、もらったままで手のつけてないクッキー缶があったことを思い出して引き出しの中から持ってくる。「話って?」「この間君が言ってたことだ」「あー。ああ、いいよ。別に黙ってろと口止めされたわけでもないし…」クッキー缶を開封して突き出すと、お腹でも減ってたのか、彼は何も疑わずにクッキーを手にしてかじった。さくさくと平らげて「お、うまい」と缶を抱え込み、さくさく、とまた一つ食べ終える。
 クッキーを食べつつ話をする彼の言葉を聞いて、たまにメモして、検挙に必要な証拠の類の線を絞る。
 たとえ僕があの貴族を検挙して、警察でのその圧力の地位を失脚させたとして。焼け石に水だなんてこと、理解していた。それでも、やらないよりはずっといいさ。
「……何」
 じーっとこっちを見ている彼の視線に気付いて眉根を寄せる。しゃく、とまたクッキーを頬張った彼が「いや、怒られるからやめとくわ」とかなんとか言って口いっぱいにクッキーを詰め込む。
 意味がわからないと眉を顰めている僕に曖昧に笑いかけた彼は、クッキー缶を一人で空っぽにした。げぷっと息を吐いて「なー、なんか飲み物ないの」と贅沢なことを要求してくる。
 はぁ、と息を吐いて仕方なく立ち上がる。グラスに水を注いで持っていってやると、「あんがと」と笑った彼がコップを受け取って水を飲み干す。
 ふーと息を吐いて満足気な顔をした彼が、「で、アラウディが知りたいことはわかった?」「だいたいね。君の言っていることが本当なら、だけど」メモ用紙から目を上げてじろりと一瞥すれば、彼は肩を竦めてみせただけで、僕の言葉を肯定も否定もしなかった。
 訊くべきことは聞いたし、と彼を拘置所に連れて行き、いつものように放り込む。慣れたようにベッドに腰を下ろした彼が手錠のかけられた手を一つ振る、その姿が、異様にイラついた。これから彼が言ったことを調べてあのふてぶてしい貴族を追い詰めないといけないのに、何か、気が逸れた。
 施錠しようとした鉄格子の扉を開け放ち、ガシャアンと蹴って閉める。その音に首を竦めていた彼が僕を見上げて「どーかした?」と首を捻る。
 がし、とスーツの襟首を掴み上げた僕は、最高にイラついていた。
「君はさ。どうせまたここから釈放されて、夜の営業に戻るんだろ」
「まぁ…アラウディが超スピードであの人達を追い詰めない限り、またそうなるだろうな」
 しれっとそう言った彼の鳩尾に膝を入れる。手錠の腕でかろうじて防御してみせるのだから、彼は甘い蜜だけを吸ってふてぶてしく生きている人間とは違う。
 それでも、ムカつく。イラつく。どうしてだろう。どうしてかわからないけど、僕は最高に機嫌が悪い。
 壁に背中を打ちつけてげほごほと咳き込む姿を眺めて、手錠をして満足に動けない相手を、殴りつけ、蹴り上げ、彼が食べたクッキーを嘔吐しても暴力を加え続けて、ガンと嫌な音がしたときに我に返った。ベッドの角に背中を打ちつけた彼が、力なくうなだれている。
 死んだろうか、と手を伸ばして黒い髪を掴んで顔を上げさせる。弱く呻いてみせるだけ、まだ意識はある。案外丈夫だな。
「ぁ、らう、でぃ」
 途切れ途切れの細い声に呼ばれて、ぱっと手を離す。どさっと石の床に転がった彼を見下ろして、イラつきの治まった声で言う。「それだけボロボロなら、もう夜の店なんて出られないだろ」と。自分がなぜ彼をここまで痛めつけたのか、明確な理由がわからず、とりあえずそういうことにしておいた。彼は薄く笑って、這うようにして起き上がり、ベッドの上に転がる。
 …死んだらそれでもいいさ、と僕は彼を放置して拘置所を出た。他にも何人か収容されているのだけど、皆一様に僕を見ようとせず、何も聞いてない何も見てないという顔で彫像のようにあるだけ。
 ぎり、と拳を握って、あてがわれている自室へと戻る途中で何人かの警察の人間とすれ違った。ぎょっとした顔をされたが無視して歩き、部屋に戻る。
 久しぶりに人を相手に暴れ回ったせいか、彼を殴った拳がずきずきする。彼を蹴り上げたつま先も、鳩尾に見舞った膝も、痛い気がする。
 …一方的な暴力で彼を傷つけたのは僕なのに。どうして僕の手足の方が痛んでるんだろう。
 ち、と舌打ちをこぼしてコートを取り払えば、あちこちが汚れていた。彼が吐いたクッキーとか血のせいだ。そりゃあ顔を顰められるはずだ、と思って着ていたもの一式をクリーニングに出すことに決めて、全て取り払い、シャワーを浴びる。
 熱い湯を浴びてもじんじんと痛んだままの手でぐっと拳を握って、目を閉じる。
 ……まるで、彼に暴力を見舞ったことを、後悔しているみたいだ。