ネオンが輝きを失う日の話

 げほ、ごほ、と咳き込むと、「だいじょぶかーあんちゃん」と向かい側から声をかけられた。「なんとか」とこぼして、埃っぽい布団の中から顔を出すと、知り合いがいた。なんかの臓器を扱ってる店の主人だ。アラウディにボロ雑巾みたいにされた俺をおっかなびっくりって顔で窺っている。
 今までこんなこと一度もなかった。
 …いや。こういうことされても文句言えないことを職にしてるってことは自覚してるから。今更驚くことでもないんだけど。
 ごほ、と咳き込んで、手錠をされてる手で胸をさする。
 青痣、擦り傷、打撲、打ち身、今日だけで色んな怪我で俺の身体はボロボロだ。
 確かに、こんだけ見た目が痛いことになれば、夜の店に出ても引かれるだけで、お客は取れないな。同情を誘うくらいはできるけど、ボロボロの怪我人と寝たいって人はいないだろうし。
 ごほ、と咳をして、血の混じった唾を吐き出す。
 せっかくおいしかったクッキーも、腹殴られて全部吐いちゃったしな。あーもったいな。
 でも、死ぬほどの傷はないかな。骨折とか、臓器のどれかが潰れるとか。ならまだマシかな、と思って布団を被る。「じゃ、俺寝るわ。体力戻す」とぼやいて目を閉じて、「そのまんま死ぬなよー」なんて言われて笑ってやった。
 次の日の夜になり、俺が店にいないことを知ったあの人が警察に圧力をかけた。俺の釈放を余儀なくされ、やってきたアラウディが苦い顔で俺の手錠を外す。
 ごほ、と咳き込んでよろけて一歩踏み出し、そのままふらつきながら拘置所の外に出た。
「ねぇ」
 背中にかけられた声に、のろりとした動作で振り返る。と、べしっと顔に何かがヒットした。痛い、と思いつつも地面を転がったものを見ると、コートだった。アラウディが着ていたやつだ。あれ、と思って改めてアラウディを見つめ直すと、同じ色で少しデザインの違うコートを着ている。
「あげるよ。クリーニングには出したけど、君が汚したから、着る気にならない」
 …勝手な言い分だな。誰だよ、俺が吐くまで腹殴ったのは。と思ったけど、物のいいコートをくれるというんだから、ありがたくもらっておこう。「そりゃ失礼しました」と返してコートを拾い上げて羽織る。ちょうどいい。そろそろ安いスーツじゃ夜が辛いと思ってたところだし、ありがたく頂戴するとしよう。
 ふらつきながら店に戻ると、わっと出迎えられて、ほうぼうから心配された。必要以上に手当てもされた。「おい、大丈夫なのか。お前あの男に目ぇつけられすぎてないか」と心配してくれる店長もいる。「口の中を手当てするなら唾液よ。ってことで、はいチュー」とキスをしてくる常連の女の子がいる。そして、ふくよかな身体を強調する効果しかないだろうピッタリとしたドレスに身を包んだあの人がいる。
「大変だったわね。私から警察によぉく言っておくわ。もう大丈夫よ」
 いい子、いい子、とふくよかな腕に抱き締められて、ゆるゆると目を閉じる。
 別に、この人の庇護下に入りたかったわけじゃない。後ろ盾がほしかったわけでもない。俺がたまたまこの人のツボにハマって贔屓され、厚意を受けている、というだけの話だ。
 ねっとりとした声もキツい香水の香りも、ピッタリしたドレス姿も、何一つソソるものはない。
 それでも、生きていくためにはしなければならないことというのがある。捨てなければならないものというのがある。
 だから俺は笑ってマダムの頬にキスをする。そういうことをしていくだけの、それだけの、簡単なお仕事だ。
 俺が店に戻って一週間してもアラウディは現れなかった。いつもなら二、三日で俺を捕まえにくるくせに。
 もしかしたら本当にあの人が何か口うるさく言って、警察に必要以上の圧力がかかっていて、アラウディも動けないのかもしれない。
 まだ尻尾捕まえられてないのかな、アラウディ。ぼやっとそんなことを思いながら店のテーブルを拭き、掃き掃除をして開店の準備を進める。
 こほ、と咳き込んで胸をさする。痛みはだいぶマシになったし、怪我の経過も問題ないのに、咳が出る。風邪かなぁ。あとで店長に薬でももらっておこう。
「病み上がりー無理をするなよー」
「あーい」
 露店に品物を並べ始めたおじさんに声をかけられ、苦笑いで片手を挙げて答えておく。
 警察に何度もしょっぴかれながら何度も生還し、名誉の勲章として怪我をしてまで帰ってきた。この辺りでは俺のことをそんなふうに話しているらしく、最近、何かと誰かの厚意を受けることが多い。
 掃き掃除をすませ、コートを羽織って店を出て、医者の方へ顔を出す。夜の店イコール夜の営み。特に女性が気にしないとならない避妊うんぬんのことでいつも賑わっている病院は今日も女性八割で埋まっていた。「あら、じゃない。聞いたわよ、話。すごい顔になってるわね…怪我だいじょーぶ?」「ん、なんとか」すり寄ってくる娘に笑って答えて、診察の順番待ちの札を取る。
 くたびれたソファに座り込んで、ふー、と息を吐いて目を閉じた。うつらうつらしていると誰かに肩を揺さぶられ、「診察室へ」と言われて、ああ、とぼやいて立ち上がる。一瞬で寝こけていたらしい。おかしいな。今日もちゃんと睡眠は取ったんだけど。
「店長が行けっていうから来ましたぁ」
「正直に言いすぎだ。ええい診せろ」
 たくわえたひげが立派な先生の前でシャツを脱いで膝に置いた。包帯の方もくるくる巻きながら取り払う。
 俺の怪我の経過を診た先生は「ふむ」とカルテに書き込み、「全治三週間だからな。いいか、激しい運動は避けろよ。俺の言いたいこと分かるな」「はい、はいはい。セックスするなっていうんでしょ。俺、三週間も仕事しないで生きていけるかなー」茶化してみたところばこんとカルテで頭を叩かれた。痛い。
 新しい包帯や湿布薬をもらって病院を出て、店に戻る。力仕事はしなくていいとの店長のお達しなので、甘んじて受け入れ、ワインの在庫確認とか簡単な仕事をしているうちに夜になった。
 ヘルプみたいに仕事をしていたんだけど、営業が本格的になる前に寝ちまえとの店長の気遣いに甘えて店を抜け出し、店の上の住居部分にある大部屋へと戻った。
 流れ者で店に出ている俺には個室なんてものはない。荷物も最低限で、財布は常に持ち歩いてるし、あとは着替えの衣服くらいしか持ち物はないから、大部屋でも問題なし。
 コートを脱いでベッドに転がり、ふう、と息を吐いて、咳がこぼれた。
 あ、しまった、先生に風邪っぽいんですがって言うの忘れてた。店長に市販薬だけでももらってこないと。あとうがいと手洗い。
 一度ベッドに転がったところからのろりと起き上がり、コートを肩に引っかけて外に出ると、ざわり、と冷たい風に全身を竦んだ。そそくさとコートに袖を通してしっかりと羽織る。
 冷え込んできたな。…今年もこの場所に雪は降るんだろうか。
 晴れ渡っているのに、この町のネオンが明るくて星の光があまりわからない黒い空を見上げて、目を細める。
 雪は嫌いだ。敗者を容赦なく覆って冷たい死体へと変えるから。
 ふっと息を吐いて階段を下りて、裏口から店に入ろうとしたところだった。路地裏からさらに細いところへ入る小路の前を通ったとき、がっ、と腕を掴まれた。反射でナイフを抜いて相手に突きつけようとして、まだ手負いの腕に容赦ない手刀を食らってナイフを取り落とす。いって。
「僕だ」
「、アラウディ?」
 素っ頓狂な声を上げてからちらりと辺りを見回して、誰も見てないなってことを確認する。アラウディの潜んでる小路に身体を滑り込ませて「何、また俺を捕まえに来たのか」「それもあるけど。走れる?」「…はい?」アラウディの言わんとしていることがわからず首を捻ったとき、どこか遠くで悲鳴が上がったのが聞こえた。こういう町だから悲鳴が上がることはそんなに珍しいことじゃないんだけど、あちこちで声が上がっているのは少し変だ。何か、起きている。
 ぐいと俺の腕を引っぱったアラウディがそのまま走り出す。「おい待て、ちょっと」と抵抗するも、怪我人なのであまり本気になれない。掴まれた腕が痛い。走ってる足も痛む。ズキズキする。
「なんなんだよ、説明してくれ」
 息切れしながら問う。アラウディは走る速度は落とさずに「君のおかげであの貴族は検挙できた。だから、警察がこの町を潰しに来たんだ」「はぁ?」そりゃまた、急な話だ。確かにアラウディにチクったのは俺だけどさ。
 で、何度も俺を拘置所にぶっこんで、こないだはボロボロになるまで暴力振るってくれたお前が、なんで俺を連れ出してるのか、そこが一番わからないわけなんだけど。
「あの女…あることないこと言って、君を巻き込むつもりだ」
「……は」
 ああ、なるほどね。そういうことか。
 ふくよかな身体を思い出しつつ、本当にあの人に贔屓にされてるんだなぁ、と変なところで感心する。あることないこと言って同じくらいの罪を被せよう、とかさ。ある意味すごい愛です。遠慮したいけど。
 ごほ、と咳き込んで胸をさする。激しい運動はするなと言われてたけどさっそく破った。ごめん先生。
 俺よりもこの町を知り尽くしてるアラウディは、警察の捜査の裏を行き、見事にあの包囲網を突破、俺を車に押し込んで町をあとにした。
 砂利道の振動が小さくしか伝わってこない最新の車だ。いいもん持ってるんだなぁと思いつつシートに背中を預けて大きく息をする。ああ、畜生、傷が痛い。
「…僕がつけた傷、まだ痛い?」
 ぼそっとした声に空笑いする。「いったい。お前の愛は重たい」茶化したところごっと頭に拳を食らった。いったい。軽いジョークじゃないか…全力で殴ることないだろ。痛い。
 頭をさすりつつ、流れていく夜の景色を眺める。
 何度も深呼吸重ねてようやく息が整ってくる。そこで、ようやく頭の中にも酸素が回るようになって、あれ、と気付いた。
「そりゃあ、あることないこと言われて罪を被せられて投獄、ってのは、俺は避けたいけど。なんでアラウディが助けてくれるんだ?」
 しっくりこなくて首を捻る。アラウディは運転席で苛立たしげにハンドルを指で叩いていた。無視されてるのか返事はない。
 …まぁ、いいけどさ。ここで捕まって投獄されるよりはずっといいし。
 とはいえ、どこへ連れていかれるのか。このスピードで走ってる車から飛び降りたらちょっと危ないしなぁ。怪我人が大怪我人になりそうだ。
 どうすべきか、と悩んでいる間に車はさらに走り、走り、走って、走り続ける。
 走ったせいでズキズキ痛む全身の倦怠感が疲労を呼んで、シートにもたれかかったまま目を閉じる。
 もう、いいや。アラウディにどこに連れていかれるんだとしても、いいや。疲れたから、今は少し眠っておくよ。