無知のままの平穏

「…はぁ」
 何度目になるかわからない溜め息を吐いて、リビング・ダイニングのソファに視線を投げる。そこでうたた寝しているのは彼だ。無法地帯で無法者らしく好き勝手していただ。
 現在地はイタリア南部。そこにある別宅で、僕はどうしてか彼を匿っている。
 はぁ、ともう一つ息を吐いて、毛布を被ってうたた寝している彼から視線を外す。送りつけられてきた封筒の封を破り、暗号で記されている書類を読み進めて、ぐしゃっと握り潰した。
 僕が無法地帯の警察署にいたのは、あの夜の町を潰すため。そこでの裏の権力者達の交流を避けるためだった。その任務は果たしたけれど、あそこが潰れたら、次の拠点ができる。…結局これもイタチごっこ、か。
「ん…」
 そこで、彼が目を覚ました。ぼやっとした顔で何度か瞬きして僕を見つけると、「おかえり」と笑う。ただいまなんて言わない。ここは僕の家で、帰ってくるのは当たり前なんだから。
 コートを脱いでハンガーに引っかける。何かつまみはなかったろうかとキッチンへ行くと、調理のあとがあった。「昼に作ったジャーマンポテトの残りがある。食べれば」と言いつつ起き上がった彼が作ったらしいベーコンとじゃがいもの炒め物を眺めて、仕方がないから、それを食べることにする。
 ベーコンにフォークを突き刺してかじりながら、二枚目の文書に視線を通し、こっちも握り潰す。どっちも大した内容じゃない。
 僕が適当に放った潰した書類をが拾って、「シュレッターは?」「いらないよ。誰も読めないから」「ふーん」とこぼして彼は潰した書類をゴミ箱に投げ込んだ。
 彼をここに匿ってそろそろ二週間になる。
 警察は大きく取り上げて彼を追うことはしない。あの捜査網とはいえ、異変に気付いた町から脱出した人間など他にもいるだろうし、人手を割けないのだろう。
 コンソメ味のじゃがいもをかじりつつ、まずいともおいしいとも言えない中くらいの味のジャーマンポテトに、なんとなく悔しくなる。少なくとも、人生で一度も包丁ってものを握ったことがない僕よりはずっと上手だ。
「ごほ」
 ふいに彼が咳き込んだ。こほ、こほ、と咳き込んで「風邪かなぁ」とぼやいてテーブルに置きっぱなしの薬瓶を取り上げて錠剤を飲む。「うつさないでよ」「あいあい。うがい手洗い徹底してます」ひらりと片手を振った彼が気付いた顔で「今日はいんの? 夜」「いる」「じゃー何食べたい? 作るよ」と言われて、口を噤んで考えた。
「……ハンバーグ」
「うーぃ」
 ソファを立った彼が「じゃあ買い出ししてくるわ」とコートを羽織り、財布を持って出ていく。その姿を見送ってからじゃがいもにフォークを突き刺した。一人になった部屋で黙々とジャーマンポテトを食べていると、フライパンはほどなくして空になった。
 今まで町から町を渡り歩いてきただけあって、彼は世渡り上手だ。市場の方でももう顔見知りができているらしく、買い物に出るとだいたい帰りは遅い。いらないものまで色々ともらってくる。おまけでもらった果物だとか野菜だとか、両手を紙袋でいっぱいにして帰ってきて、三日くらいかけてそれを消費する。それでまた彼が買い出しに出て。その繰り返し。
 僕が彼を監視している限り、夜の店になんて行かせる気はない。彼には真っ当な仕事をしてもらう。普通の人がそうしているように。
 …でも、普通って、なんだろう。最近、考えれば考えるほどにそれがわからない。
 自分が普通でないことは理解している。普通の人間は諜報部になんて入らないし、人を殺す仕事も忌避するものだ。誰も気遣わず誰にも心を置かない僕のことを親でさえ見捨てた。知っている。僕は普通じゃない。そんな僕が彼に普通の道を行けと説くことは、とても難しい。僕にも普通が何かってことがわからないのだから。
 はぁ、と息を吐いてフライパンを流しに突っ込んで、さっき彼が眠っていたソファに視線を投げる。
 毛布がそのままだ。ベッドまで行くのが面倒くさい、と僕はソファに横になって毛布を被って目を閉じた。毛布はまだ微かに人肌を宿していてぬくい。
 …思えば。こんなに長く誰かと一緒に生活したのは、どのくらい久しぶりだろうか。
 拘置所で最高にイラついて彼に暴力を振るったあの日以来、僕は彼に対して苛立ちを覚えていない。単純に殴る蹴るの暴行を加えてすっきりしたのかもしれないけど、どちらかといえば、手足が焼け爛れたように錯覚したあの感じを味わいたくなくて、僕は彼に手を出せないでいるのだ。
 手足の末端がじわじわと腐っていくようなあの感じをもう知りたくない。
「アラウディー俺暇だよ。怪我は完治したんだしさぁ、なんかしたい。仕事とか」
「却下」
「えー」
 なんで、と言いたそうにぶうたれる彼に、紅茶のカップを傾けつつ「自分の立場忘れてるんじゃないの。君、警察に追われてるんだよ」「うっ」まぁ捕まえる気ならもうとっくに足がついてるだろうし、警察は君を捕まえる気がないのだろうけど。こう言えばが渋々納得すると知っている僕は、今回もこれで彼を黙らせた。
 届いた文書を読み進めて、面倒くさい、と溜め息を吐く。
 町の治安を自分達で守る自警団というところから出発したボンゴレという組織が、着実に力をつけ、もう何年かすれば巨大組織になるだろうということ。僕にその組織に介入して外側からのコントロールを可能にしろ、と言った旨のことが書いてある書類は何枚にも及んでいた。
 彼らはここイタリアに拠点を置いているらしい。なるほど、僕に命じてくるくらいには接触するには距離的にも近い。
 また、仕事か。
「何それ」
 ひょいと僕の後ろから書類を覗き込んだ彼に、危うく手にしているカップを落とすところだった。
 この僕が、背後からの接近を許して、あまつ、手を伸ばす隙を与えるなんて。
 愕然としている僕に構わず書類を取り上げた彼がふんふんと勝手に読み進めていき、暗号文書なんだから中身がわかるはずもないのに適当に頷いて「アラウディは大変だな」と言って僕の頭を撫でた。くしゃくしゃっと髪を掻き回されて、なぜか、顔が熱くなるのがわかった。ばしっとその腕を振り払って割れる勢いでカップを置き、彼の手から書類を取り上げて自室へと閉じこもる。
「……………、」
 くしゃくしゃになった髪に手をやって直す。
 この僕が。後ろを取られた。後ろから手を伸ばされた。それまで気付けなかった。気付かなかった。
 もし彼が敵だったら? 彼に殺意があったら? 僕の背後に立った彼が銃を持っていたら? その手にナイフがあったら?
 その場合、僕はさっき確実に死んでいた。
 ふー、と息を吐き出して、ドアの向こうの気配を探る。僕が残したカップを片付けている音がする。殺気なんて微塵も感じない。そう、彼は一般人だ。夜の町でしか職にありつけなかった一般人。
 …これは、僕が彼に慣れすぎてしまっているという証拠なのかもしれない。
 彼の作った料理に毒が入っていたらどうする。そんなこと疑いもせずなんでも食べていたけど。考えれば考えるほど僕は彼を疑ってしまう。彼に慣れすぎて心を許している自分を疑ってしまう。僕が、乱されてしまう。

 ……これ以上は駄目だ。
 僕はずっと一人でやってきた。これからだって一人でやっていく。そういう仕事をしてるんだ。
 僕には、彼が、邪魔だ。今それがはっきりした。
 これで彼を匿って一ヶ月くらいたつだろう。もう大丈夫だ。警察の動きはいつも気にしていた。ここなら、マフィアという存在が大きく目立って、無法地帯からの逃亡者なんてその影に隠れられるだろう。
 彼を追い出そう。ここから。
 僕は一人に戻ろう。

 ごほ、と咳き込む声が聞こえて我に返る。
 ごほ、ごほ、げほ、とまだ咳き込んでいる。…まだ風邪気味なのか。風邪薬、飲んでいたくせに。
 何度も何度も咳をして、ガシャンと何かの割れる音。眉を顰めてドアを開け放つと、シンクに手をついた彼がまだ咳き込んでいた。手にしていたんだろうカップが転がり落ちたらしく床で割れている。
「ちょっと」
 尋常でない咳き込み方に、駆け寄って背中をさすった。苦しそうに咳き込み続けて、ついには膝をつくから、背中をさすりながら支えてやる。「、しっかりしなよ」「ごほ…ッ」しきりに胸をさすっていた彼が、ようやく落ち着いた。はぁ、と疲れたように息を吐いて「ああ、しんどか、た」とこぼしてうなだれる。
 …彼を病院に連れていくには、身分証明というやつがいる。当然彼はそんなもの持っていない。免許証もパスポートもない。だから今まで放置していたのだけど…僕の部下だと言えば、機関に診せることはできる。
 ぎりっと唇を噛んだ。割れたカップに目を向けた彼が「あれ、ごめん。割った」と申し訳なさそうにするのがまた癪に障る。君は、カップ一つと自分の健康、どっちが大事なんだ。
「病院行くよ」
「え? いや、大丈夫だって。それにほら、俺身分証明とかできないし」
「いいから。コート着て。準備して」
 有無を言わさず彼にコートを着せて、自分の方もコートを羽織った。車のキーをポケットに突っ込んで歩き出す。困った顔のがごほとまた一つ咳き込んだ。それを誤魔化すようにこほんと一つ咳払いする。
「いや、俺大丈夫だよ、ほんと」
「…次にそう言ったら殴るから」
 う、と怯んだ彼が口をもごもごさせて、結局黙った。車庫に閉まっていた車を出してきて乗り込み、本部へと走らせる。

 さっきまで。僕は彼を追い出そうと考えていた。それが自分のためだって。
 でも、苦しそうに咳き込んでる彼を見ていたら、そんな気持ち、どこかへいってしまった。
 ただの風邪だと診断されるならそれでいい。ちゃんと薬を処方してもらって治せばいい。
 ただ、そうでなかった場合。僕は。

「アラウディ」
「…何」
「なんか、ありがとう」
「は? 意味がわからない」
「いや…俺を町から逃がしてくれたのもそうだけど。匿ってくれてるのもそうだし。今も、心配してくれてるのかと思って」
 彼の言葉を鵜呑みにしそうになって、は、と短く笑って彼の言う僕を一蹴した。
 僕が人の心配をする? そんな馬鹿なことあるわけがない。実際僕は無抵抗の君をボコボコにしたじゃないか。人を思いやる心なんてものがあったらそんなことはしないだろう。
 君をあの町から逃したのは、あのふてぶてしい人間にいいようにされるのが嫌だったからだ。君を匿ったのは、…君がもう二度と夜の町になんて行かないようにと、監視していただけで。今だって別に、心配しているとかじゃないよ。
「咳以外で気になってるところはないの」
「え? えー、あー…怪我は治ったんだけど。胸の辺りとか、なんかプツプツしてるとこがあるんだよね。傷とはまた違うみたいだ。痛くもないし、痒くもないし」
「あとは」
「それくらい」
 胸のプツプツとやらを見せようとシャツのボタンを外す彼に「僕に見せたって仕方ないだろ。医者に見せて」と早口に伝えた。それもそうか、とボタンを留め直す彼に、はぁ、と息を吐く。…なんで僕が気遣わないといけないんだ。馬鹿め。
 一見すれば普通のレストラン。二階からが本部になっている建物の駐車場に車を突っ込んだ。ブレーキをかけると「わっ」とシートから背中を浮かせた彼が「アラウディ、もうちょっと丁寧に運転…」「急いでる」ガチャとドアを開けて路上に下り立ち、バンと閉める。対して彼はそろりと車から下りてそっとドアを閉めた。「半ドア」「う」もう一回ドアを開けた彼が、えい、と閉めて、ようやく施錠できる。
 彼の手首を掴んで引きずるようにして歩いた。「ちょ、早、アラウディ」「黙って」レストランの扉脇に立つドアマンにポケットから認証を出すと、「右の方へどうぞ」と頭を下げられる。わかってないを引きずっていき、カウンターに二人いるうちの右の男に視線を投げる。僕の視線に気付いてやって来た男が「いらっしゃいませ。お客様、ご予約の方は」皆まで言わせず認証を突きつける。それを確認すると、男は畏まった礼を取って「それではご案内いたします。どうぞこちらへ」と歩いていく。
 ここがどういうところかを誤魔化すために経営されているレストランは盛況のようだ。こんなに賑わっているとは知らなかったけど。
 個室へと続くようなドアを抜けると、さっきまでのきらびやかな空間は姿を消した。灰色の壁と床に等間隔の灯りの天井。「それでは」と僕らを置いて下がった男を一瞥してから、引きずっていたの手首を離した。「何ここ」と困惑顔の彼に「いいからついてきて」と歩き出す。置いていかれちゃたまらないと思ったのか、彼は素直に従った。
 常駐の医者がいたはずだ。診てもらおう。それから全部決めよう。ボンゴレに入り込む仕事とか彼の処遇とか、全部決めよう。今は何も考えるな。彼の状態がわかって、すっきりしてから考えよう。でないとまともな考えも浮かばない。