一人だった俺はもういない

 ふわぁ、と欠伸をこぼしてサングラスをかける。軍手を装着、さらに皮の手袋も装着。日焼けを防ぐためにつばの広い帽子と長袖長ズボンを着用。よし、完璧だ。
 せっかく薔薇なんて高価なものが植えてあるのに、手入れをしてないせいで荒れ放題伸び放題になっている中庭に手をつけ始めて一週間。ようやく人に見られても大丈夫かなってくらいにはなってきた。目立つところに雑草はないし、芝の長さも揃えたし。うん。本読みながら頑張っただけきれいにはなったぞ。残すはあの薔薇の木だけだ。
 外に面した庭は定期的に人が来るとかなんとかできれいなんだけど、奥まってるところで身内しか見る機会がないというこの中庭は、対照的にひどい有様だった。これで少しは見られるようになったろう。
 自己満足に中庭に手をつけていると、アラウディがやって来た。呆れた顔でガラスの戸口にもたれかかって「、あまり無理は」「だいじょーぶだよ。適度な運動は必要だって先生も言ってたじゃん。これくらいダイジョーブ」薔薇を剪定するためのハサミを持った手を一つ振る。「アラウディ仕事だろ。行ってらっしゃい」と言いつつ、片手で本のページを開いて薔薇の木と睨めっこを開始。
 町から町を渡り歩く生き方をしてきたから、たいていのことはできるつもりでいた。だけど、やり始めたらわからないことっていうのは案外とたくさんあるものだ。
 俺は一度も真面目に植物に触れたことがなかったから、この薔薇を上手に剪定して、二月頃に芽を出すと言われる新芽を実らせることが目標である。
「…
 ざく、と芝生を踏んでやってきたアラウディが俺の帽子を取り払った。ぐっと後ろから両頬を挟まれて、ぐい、と上向かせられる。痛い痛い、ちょっと力が強いよお前は。「何」と顔を顰めた俺に若干手から力を抜いたアラウディが「薬は」「飲みました」「胸は痛くないんだね」「痛くないです。…アラウディさ、心配しすぎだよ」へらっと笑うとぎりっと強くと頬を挟まれた。だから痛い。暴力に訴えるなよもう。
 はぁ、と息を吐いたアラウディがぱっと手を離す。俺から離れると「夜はいらない。仕事が溜まってるから。君は、」「はいはいはい、ちゃんと薬飲みます、経過の日記書きます、栄養バランス考えたもの作って食べます」ほぼ毎日言われることを先に言うと、閉口したアラウディが中庭を出て行った。ガラス張りの中庭からアラウディのコートの背中を見送って、剪定途中の白い薔薇の木に意識を戻す。

 …この間判明したことなんだけど、俺は病気らしい。
 確かに、なんか咳が多くなったなぁとか思ってた。でもそれは風邪っぴきかなんかってことだろ、と軽く片付けていた。だるいなぁと思うことも度々あったけど、それだって性格が出てるだけで、病気のせいだとは考えてもみなかった。
 なんだっけ。サルコイドーシス? とかいう原因不明の、あー、肉芽種、の病気らしい。専門的な話は全然わからなかったので聞き流したけど、原因不明で、現時点の医療では治療法もない、ということだけは理解した。アラウディの仕事先のお医者さんからもらっているのは咳止めと痛み止めで、治療薬、というのは含まれていない。つまり、症状は進行するけど感覚としては現状維持、という悪あがきをしているのだ、俺は。
 薬を飲まないでいたって別にどうってことはない。たまに発作みたいに咳が続いたり、胸が痛くなったりするだけで、ないとやっていけないってものでもない。でもまぁ、飲んだ方が楽ではある。
 …でもそうすると医療費がですね。俺には払えるような金はなくてですね。そんなことを思ってた俺にアラウディは大胆なことを言ってのけた。僕が払う、って。
 というか、だ。思えばあの町から連れ出されてアラウディが匿ってくれてた間、俺、一銭も払ってなかった。食材の買い出しで何度か出したけど、すぐに財布が空になっちゃって。そこからはアラウディが預けた財布でしか支払いをしてなかった。
 ……こんなことになるとは、あの夜の町でイタチごっこをしてた頃には思ってもみなかったな。

「えーっと、まずは花を…摘む……」
 最後の一つである花に手を伸ばす。うう、ごめんよ、と心の内で謝りつつ花首のところで花をカットした。
 この間仮剪定をすませて病気の枝や枯れた枝は切ってある。今日は本剪定で、枝を、切り落とす。
 うう、ごめんよ、と謝りつつ枝を切る。小さなハサミじゃ無理なものはノコギリで切り落とす。断面は、この先どういうふうに芽が伸びてほしいか、ということを想定しながらなので、ちょっと難しかった。斜めにのこぎりを入れる、斜めに…あ、ミスった。「あー。ごほん」一つ咳払いをして気を取り直す。やっぱり難しいな。めげないぞ。
 一人薔薇の木と格闘を続けて、ちょっと失敗した箇所もあるけど、なんとか剪定を終える。
 こんでいいかな、と本の説明と写真と自分が剪定したものを見比べて、まぁいいか、本を閉じた。初めてにしては大きな失敗はなかったということで。
 摘んでしまった花をポイするのはかわいそうなので、水を張ったボールを用意して、その中に浮かべた。剪定で落とした枝をゴミ袋に入れて片付け、しっかり口を縛る。よし。
「休憩っ」
 どさっとベンチに座り込んで足を投げ出した。なかなかに集中力がいるな。目がしぱしぱする。
 サングラスを取って頭上を仰げば空があり、ここにも陽射しが入り始めている。
 最近あれが特に眩しい。陽の光っていうか。前より目を刺激してる、気がする。…日記に書いておくか。もしかしたらこれも病気の症状の一つかもしれないしな。
 ようやく中庭の手入れを終えて、道具を片付ける。なにせ全面ガラス張りの中庭なので、格好のつく道具箱じゃないと浮いてしまうのだ。ベンチは倉庫だっていうところに入ってたものを勝手に持ってきたんだけど、道具入れは、なかったよなぁ。アラウディに買ってもらおうかなぁ。いちいち倉庫まで行くの面倒だし。今日は片付けるけどさ。
 剪定道具を揃えて置いて、ごみごみしてる倉庫内を見渡す。
 …うーん。何があって何がないのか、さっぱりだな。ここも手をつけた方がいいかな。アラウディってそういうこと自分じゃしないんだろうしな。厄介になってる身としては、それくらいしないとな、って気にもなるし。
 その前に休憩。早めのお昼を食べてちゃんと休憩してから取りかかろう。でないとアラウディがうるさい。
 中庭整備の次は倉庫整理を始めて三日。倉庫からは使えないものと使えるものがたくさん出てきた。これは捨てていいだろと思うものを外に出して並べてアラウディを呼ぶと、また呆れた顔をされた。うん、お前のそういう顔、慣れてきたよ。
「この中でいるものある? 捨てちゃうけど」
「…ない」
 視線を一巡りさせただけできっぱり言うので、じゃあいいか、とゴミ袋の中に入るものを突っ込んでいく。古くて空気の抜けかけたボール、もう使えなさそうな錆びた何かの部品、埃を被って久しい汚れの取れない食器などなど。ゴミ袋二つ分のゴミを作って、「あれはいる?」と一番大きいゴミを示すと、アラウディはかなり古いだろうゆりかごチェアを一瞥して「いらない」と一言。じゃあギシギシ軋んで今にも足が砕けそうなあれも捨てるか。
 不要と書いた紙を壊れそうなゆりかごチェアにべしっと貼りつける。
 アラウディが言えば業者が飛んできて持っていってくれるらしいので楽ちんだ。さすがお金持ち…じゃないのかな。アラウディは権力者? なのか。いまいちアラウディの仕事っていうのがピンとこないままだけど、お金には困ってないみたいだし。ここ、町を見下ろせる立地のいい場所に立ってる豪邸だし。うん、お金はあるんだろうな。最も、アラウディは必要なこと以外にお金を使わない人間らしくて、あまりこだわってないみたいだけど。
 お金というのは経済を動かします。お金持ちの人はお金を使いましょう。そうでないと世界が回らないし、貧乏人にまで届きません。
 というわけで、俺はアラウディに「ゆりかごチェアが楽なんだよーあれ壊れそうだからさー新しいの欲しいよー」と不要の紙を貼りつけたチェアを指さし、ねだりにねだって、家具屋に連れていってもらった。
「おー、たくさんある!」
 家具屋なんて贅沢な場所に入ったことのない俺はあっちへこっちへうろうろする。テーブルも見本のガラスも階段も手すりもみんなキラキラ輝いて見える。アラウディが連れてくるくらいだから一流の店なんだろう。
 そのアラウディは苦い顔で腕組みして俺を睨んでいる。ちょっと機嫌が悪そうだ。
 はいはい本題ね、と店内に視線を巡らせ、椅子を置いてあるコーナーへ行く。革張りからダイニングチェアまで、多種多様なデザインと用途の椅子が置いてある。
 その中でゆりかごチェアは一種類だけだった。まぁ、需要的なことを考えると仕方がないのかもしれない。リラックスして本を読むときとかに使うものであって、普段使いにはできないし、どちらかといえば贅沢品に入るわけだし。
「これしかないなー」
「…嫌なら別の店に行くよ」
「え? あー」
 そんな選択思い浮かばなかった。そうか、別の店でもいいのか。
 うーんと悩んでゆりかごチェアを上下左右前後ろから眺めて、肘かけの部分に彫ってある薔薇が目に留まった。「これにする」「…これでいいの?」「ん」なんとなく薔薇に惹かれたし、他の店でもどうせ迷うだろうし。これにしよう。
 一応座り心地やゆりかご椅子特有の揺れぐあいも確認したけど、俺はこんな贅沢品を使ったことがないので比べようがありませんでした。とりあえず気に障ったとこもないし、何かあったらアラウディに言えばいいだろう。
 車にチェアを積むスペースがなかったので配達してもらうということになって、手続きをして、高級感たっぷりの店を出た。
 帰り道の途中で「なぁチーズがなくってさぁ。あと肉が食べたいんだけど」と言うと、アラウディは苦い顔をして車を路上駐車した。
 なんだかんだとアラウディを連れ回し、あれを買いこれを買い、と買い物をして帰宅した頃にはとっくに夕食の時間だった。
「あー、ご飯作らないと。何にしようかなぁ…昼間のサラダが残ってるから、チーズと肉と一緒に炒めてー、それから」
 紙袋からチーズと肉を取り出してさっそく包丁を握る。そんな俺の背中にちくちくと視線が刺さっている。苦笑いしつつ「何ぃアラウディ」と声をかけても無視された。なんだよもう、感じ悪いな。連れ回したこと怒ってるのかな。始終苦い顔してたもんな。もしかしたら怒ってるのかもしれない。
 アラウディがキレるとどうなるかってことを、俺は身をもって知っている。
 俺は、俺が病気だって知って少し遠慮気味になったアラウディにわがままをたくさん言ってるんだ。少しくらい殴ってくれたっていい。そうでないと俺が申し訳ないだろ。
 ぎ、とソファを軋ませて立ち上がった気配がして、肉を切っていた手を止める。間違って包丁が転がったら危ないから。
 だん、と俺の後ろから勢いよくシンクに両手をついたアラウディは何も言わない。
「…アラウディ?」
 俺の身動きを封じるみたいに両腕をつかれているので、動くに動けない。
 一体何がしたいんだお前、と首を捻った俺の背中に、ぼす、と音。感触からして、多分、アラウディが俺の背中に頭を預けた音だ。
「…咳と痛みは?」
「ないよ。薬が効いてる、」
 このタイミングで咳が出そうになったのを無理矢理飲み込んだ。「から、ダイジョーブ」と笑う。今の、危なかった。
 一瞬の間に気付かなかったようで、アラウディはそこにはツッコまず「だけど、症状を抑えてるだけで、進行を止めてるわけじゃない…」とこもった声をこぼす。
 それは、まぁ。そうなんだけど。原因不明の病気で治療法はないっていうんだし、症状を抑える薬があるだけ、まだマシだと思うんだけどな。
「俺、調理するよ?」
「…勝手にすれば」
 相変わらず動こうとしないアラウディに一つ吐息して、肉を切る作業を再開。チーズも適量切り落として、スライサーで細かくした。コンロの方に行きたいからコートのままの腕を叩く。「アラウディ」と呼べば、ようやく俺から離れてくれた。「着替えてくる」とぼやいたアラウディがコートを脱いで部屋の方へと消えていく。
 …なんか。さっきのアラウディ、泣いてるみたいだったな。声が。
 まさか、ないない、と一人首を振って、こふ、とくぐもった咳をこぼす。
 ……お前の言うとおり。症状は、薬によって抑えられてるだけで、進行を止めているわけじゃない。
 次に先生に会ったら、薬の量を調整してもらわないとならないな。そんなことを考えつつフライパンでサラダを炒め、肉を投入し、チーズをまぶす。味付けはシンプルに塩コショウだ。チーズがいいぐあいにとろけるまでフライパンに蓋をして、その間にパンをスライス。
 すっかり調理にも慣れた俺の未来は明るくはないだろう。
 でも、真っ暗でもない。なぜなら。
「アラウディー皿用意してー」
 声をかける誰かがいて、仕方がない、と吐息した相手が棚から食器の準備をしてくれるのだ。俺はもう町から町を渡り歩いていた頃の俺じゃない。不特定多数の女性相手に笑っていた俺じゃない。
 俺は一人じゃない。たったそれだけのことが、俺の暗い世界を淡く照らしている。