あなたという海に溺れて

 目を覚ますと、あれだけ降っていた雨が止んでいた。
 ぼんやりしたまま視線をずらすとかちゃんと食器の音が聞こえて、朝ご飯の準備をしている彼が見えた。邪魔なのか、髪を後ろの方でくくっている。僕が起きたことに気付くと彼はいつものように笑った。
「おはようキョーヤ」
「……」
 むくりと起き上がる。おはようは返さず眠い目をこすって欠伸を噛み殺した。「お腹が空いた」と漏らせば「はいはい」とテントの外に出て行く彼の背中が見える。
 昨日、寝ている彼に口付けた自分を思い出した。寝ている彼を見つめていたら気付くとそうしていた。自分で自分がわからなかった。だけどそうしたいと思った。願った。だからそうした。結局、それだけが理由だと思う。
 緩く頭を振って寝袋から這い出る。ほどなくして戻ってきた彼に手渡された器にはうどんが入っていた。困ったように笑った彼が「本当なら手打ちうどんっていきたいとこだけど、今は無理かな。帰ったら挑戦してみる」…つまり、これは市販品のどうでもいい適当な味のうどんである、ということだ。別にそこまでこだわってないと思って僕は黙ってうどんを食べた。おいしいかおいしくないかと言われたら、おいしくはない。今度食べるなら彼のいう手打ちうどんっていうのに期待しよう。
 早々に食べ終えた僕とは別に、彼はまだ箸に不慣れなようで、ときどきうどんを取り落としながら頑張って食べていた。ぼんやりそれを眺めてからトンファーを手に立ち上がる。自分達以外の気配がここに近づいたということは、鞭使いがやってきたのだ。
「おーい二人とも無事かー?」
「、」
 ごくんとうどんを丸呑みした彼が咳き込むからちょっと呆れる。「いるよ、大丈夫だよディーノ」と答える彼の後ろを通ってテントの入口のチャックを開け放って、靴に足を突っ込んで外に出る。雨の上がった山は涼しくて少し寒いくらいだ。
 雨でぬかるんだ山の斜面を滑って砂利道にたんと着地して、そろそろ並中に戻りたい、と考える。彼の言う様々なシチュエーションでの戦闘はもうそれなりに積んだし、二日もテント暮らしをしたんだから気分転換にだってなったはずだ。そろそろ日誌や帳簿に目を通しておきたい。
 ばしんと砂利を鞭で叩いた金髪の相手が「ようし恭弥、今日は手加減なしだぜ。俺を殺す気で来い」と言うから投げやりに視線をやる。相手は笑っているけれど、殺気も感じた。どうやらようやく本気でやってくれるらしい。
 それなら仕方ない。もう少しだけこの修行とやらに付き合ってあげよう。それからバイクで帰って草壁に僕がいなかった間何があったか聞いておこう。
「じゃあ甘えるよ。あなたを殺す」
「おう、来い!」
 そうして、僕はまた鞭使い相手にトンファーを振るう時間に突入するのだ。
 殺す気で来いの言葉のとおり、半日たったら僕らはお互いに傷だらけになっていた。全く腹の立つ話だ。これだけできるんなら早く本気を出してくれればよかったのに。
 打ち身だったり切り傷だったり擦り傷だったりで傷ついた僕を見ると、彼は血相を変えて手当てしにやってきた。同じくらいボロボロの鞭使いと僕に「やりすぎでしょディーノ、キョーヤぼろぼろじゃないかっ」「はっは、なんのこれしき! なぁ恭弥」にかっと笑顔を向けられて無視した。それなりに強いくせにそうやって笑う金髪には苛々する。平気で群れてるし。むしろいつも群れてるし。本当咬み殺してやりたい。「無視かよー」と肩を落とした姿が見えたけど関係ない。
「キョーヤ、ほら」
 腕の傷を診た彼がベストを脱げと言ってくる。途端、苛々がどこかに消えて、代わりに違うものが胸を支配する。傷を診ようとしてる彼の手を叩き落してやりたくなる。
 だって恥ずかしいじゃないか。自分以外の誰かに肌を見せるのなんて。
 それを耐えて、呑み込んで、仕方なくベストを脱いでシャツのボタンを外した。色の変わってる肌を見ると彼が眉尻を下げた。薄い湿布をぺたりと僕の胸に貼りつけた掌が、そっと労わるように肌を撫でる。その感触に背筋がぞくぞくした。戦いのときとはまた違う昂揚感、とでもいえばいいのか。耐えるように地面を睨みつけている僕は彼の顔を見ることができない。蒼い瞳がさっきから心配そうに僕を見てるけど、その瞳を見つめることができない。
 だって恥ずかしいじゃないか。こんな、傷だらけの、自分なんて。
「痛いとこない?」
「別に…」
 背中を撫でた掌に背筋がむずがゆくなる。それを耐えるのが思ったより大変だった。逃げるように立ち上がってシャツのボタンを留めてベストを着る。
 なんだか全身熱い。それを誤魔化すようにトンファーを振るってついた血を払った。
 夜までまた鞭使いと本気で戦い、昼間よりさらに傷を増やした。
 防御の間に合わなかった身体がどがと音を立てて木の幹に背中を叩きつける破目になり、一瞬だけ息が詰まってすぐに回復した。地面に倒れ込むようにしてだんと手をつき、這うように駆け出す。頭上を通過した鞭の一撃はさっきまで僕がいた場所を打っていた。本気だ。だいたい笑ってることの多い金髪の相手は今は冗談一つ言わないで僕を捉えている。
 張り詰めた空気が心地いい。触れたら切れるんじゃないかと思う空気が肺を満たす。僕を満たす。知らず笑っている口元で鞭の一撃二撃三撃を叩き落し、とっさに防御した相手に全力でトンファーを叩きつけて吹っ飛ばした。ぬかるんだ地面にどしゃと倒れ込んだ相手に追い討ちをかけるために足を踏み出す。
 そこかしこが痛む身体も、軋む関節も、筋肉も、関係ない。とっさに振るわれた鞭が僕の右腕を拘束したけれど、左腕は自由だ。今日こそ咬み殺してやろう。そうしてこの修行とやらを終わりにしよう。
 トンファーを振り上げ全力で金髪の頭部に叩き込もうとしたとき、「キョーヤっ!」と大きな声で呼ばれてぴたりと腕が止まった。
 ゆっくり振り返れば、彼がいる。とても苦しそうな顔をしている。
 視界を赤い色が伝った。どうやら僕の頭は出血しているらしい。気付かなかった。
「キョーヤ、もういいよ。今日は終わりにしよう?」
「…………」
 相手の頭を叩き割る、その寸前のところで止めたトンファーを見つめて、はぁと息を吐く。仕方なく全力でやるところをがっと軽く殴るだけにして、「いでっ」と声を上げた金髪を残して僕は彼のところへ戻った。ざくと地面を踏んだらぬかるんでいて足を取られる。滑ってバランスを崩した僕を彼が抱き止めて、そのまま一秒か二秒か三秒が過ぎた。「大丈夫キョーヤ」と声が降ってきたから、閉じていた目を開ける。彼の肩に手をかけて身体を離し、「平気」と返してテントに戻る。
 すぐに離れればいいのに、全身痛いからとか、そんな理由をつけて彼に抱かれていた僕は、馬鹿だ。本当に。
 腕の部分が派手に裂けたシャツを脱いで睨みつける。彼は家事炊事が得意なようだけど、裁縫もできるんだろうか。捨てるって言ったらもったいないって言うだろうか。なら直せさせようか。そんなことを考えていたら彼もテントに入ってきた。じろりと睨むと「怪我の手当てだよ」と困ったように笑う姿から視線を逸らす。顔を逸らした僕の行動を許可と取ったらしく、彼は勝手に怪我の手当てを始めた。
「…あなた、裁縫はできるの」
「できるよ」
「これ、破いたんだけど」
「帰ったら直すよ。シャツ捨てるとか言わないでね、もったいないから」
 想像どおりの言葉が返ってきた。予想が当たったことに少しだけ気分がよくなる。僕も少しはこの人のことがわかってきたようだ。それでそんなことを思った自分に吐き気がした。

 これは群れる、だ。僕は群れている。大嫌いなことをしている。
 だけど、この人のことを嫌いになれない。

「痛いとこある?」
「別に」
「じゃあこれでいいかな。はい、おしまい」
 最後に頭の方の傷を診た彼が僕から離れた。救急箱に消毒液をしまったり包帯をしまったりしてる背中をぼうと眺めて、「ねぇ」と声をかける。「ん?」と生返事をする彼に「あなたとあの鞭使いはどういう関係なの」と訊ねると、きょとんとした顔が僕を振り返った。「どういうって?」「…だから、」続けようとして、邪気のないその顔に言葉が出てこなくなる。
 あなたはやけにあの金髪のことを心配するし、ディーノディーノと呼ぶし、さっきみたいに僕を止めるし。僕と鞭使いを比べるとあなたは彼の方が強いと思っているし。僕の方が追い詰めてる回数だって多いのに、あなたはあいつを気にするし。
 気に入らない。本当に気に入らない。
 ああ、苛々する。
 黙した僕に、蒼い瞳を何度か瞬かせると彼はこう言う。「ディーノは、ボンゴレの大事な同盟組織のボスなんだ。ふつーの人に見えるかもしれないけど、あの人もすごい人なんだよ」と。それは僕の求めている答えではなかった。それはあの鞭使いがどういう人かってことだ。そうじゃなくて、僕が知りたいのは、あなたとあの人の関係だ。
 新しいシャツを掴んで袖を通す。彼は不思議そうに僕を見ていたけど、やや間を置いてから「ディーノは…そうだなぁ。俺みたいな下っ端が言うのもなんだけど、友達、だといいなぁ」困ったように笑ったその顔にぎりと奥歯を噛み締めた。
 本当に、苛々する。
 じゃきんとトンファーを展開する。それを片手に救急箱を閉じた彼に一歩詰め寄る。「え、キョーヤ?」引きつった笑顔を浮かべる彼に近づき、トンファーを構えて、僕は考える。この苛々を解消するにはこの人を殴るより他にないだろう。だからそうしようとトンファーを振り上げる。ぎゅっと目を閉じた彼が縮こまるのが見える。
 このまま振り下ろしてしまえれば。それは、どんなに楽になれることだろう。
 この人が僕に苛々だけを植えつける草食動物なら、切って捨てられた。咬み殺すこともできた。このまま彼を殴ってしまえれば僕はきっと楽になれる。楽になって、そして、また苦しくなる。それもわかっている。
 だから、余計に苦しい。
 トンファーを持つ腕が震えた。その理由を疲れから筋肉が震えただけだと決めつけて、僕はトンファーを取り落とす。重い音と一緒にトンファーが落ちて、ぶらりと腕も落ちた。そろりと目を開けた彼が落ちたトンファーに少しほっとしたように蒼の瞳を緩めて、それから僕を見て目を丸くする。
 僕は今、どうしようもなく苛々していて、それからなんだか胸がとても苦しくて、苦しくて、苦しくて。中から張り裂けて出血しそうなくらい苦しくて。そんな大きな怪我をしたわけでもないのに、とにかく苦しくて。本当に苦しくて。泣きたいくらいに。
 涙なんて流したこともないのに、このままでいたら自分は泣いてしまうのではないか、なんて予感さえある。
「キョ、ヤ」
 恐る恐るという感じに伸ばされた手を叩き落とした。びくりと震える彼の蒼の瞳はそれでも曇らない。ただ少し戸惑ったように僕を見ているだけ。
「僕は、あなたの、何」
 絞り出した声は間違いなく震えていた。それがとても滑稽だった。
 こんな他人を相手に、どうして。どうしてこんなに胸が苦しいんだ。
 いても立ってもいられなくてトンファーを掴んで立ち上がる。「キョーヤ」と僕を呼ぶ声を聞きながらテントのチャックを乱暴に引き開けて靴に足を突っ込んでテントを出た。闇に沈む山道をざくざく歩いて行く僕の背中に「キョーヤっ」と声が届いていたけど無視する。バイクの置いてあるところまでただひたすら何も考えずに山道を歩き、歩き、ただ歩いて、ほどなくしてバイクを見つけてポケットから鍵を取り出す。
 このまま逃げたい。彼のいないところへ行きたい。もうたくさんだ。あんな狭い場所で彼という人間だけを見つめているのは、とても身体に悪い。心にも悪い。
 彼はどんどん僕を侵食していく。止める術が見つからない。抵抗する術が見つからない。僕はどんどん彼に侵されていく。
 抵抗しようのない彼という海に落ちて、息をしようともがけばもがくほど、海水は肺を蝕んで身体を浸食する。
 海面に浮かび上がることもかなわず、僕は溺れていく。彼という海に溺れて沈んでいく。
「くそ…っ」
 唯一落ち着ける応接室という城へ向かうためにバイクを走らせながら、彼に手当てされた傷がずきずきと今更のように疼き出すのを感じた。
 望んで離れたのに、僕はまだ、彼の海に溺れたままだ。