きたい数式

 帰宅すると、弟より早かった。当然か。中学生は今テスト期間で午前中で学校は終わりなのだから。
 ちなみにテストの出来は聞かない方がいい。多分、あまりよくないから。
「おかえり恭くん」
 とたとた廊下を歩いてきたから顔を逸らしてぼそぼそ「ただいま」と言ってスニーカーを脱いで揃える。散らかしたままだといちいちこの人が直すので、仕方のない処置だ。
「お腹が空いた」
「ん。ハンバーグにしたよ」
「ふぅん」
 薄い反応をしてみたけれど、ハンバーグは僕の好物だった。気持ち早足で居間に行って席につく。ご飯はすぐ用意された。ほかほかの白いご飯とお店に出てくるようなふっくらしたハンバーグにサラダが添えてある。フォークとナイフを手にハンバーグを切り分け、まずは一口。見た目どおり、ふっくらジューシーでおいしい。
 この人なんでこんなに料理がうまいんだろう、と何度か思う。まぁいいんだけど。まずいよりずっといいし。
 向かい側に同じように昼食が用意されていくのを見て、ごくんと口の中のものを飲み込んでから「あなた食べてないの」と訊ねると「うん」と頷かれた。それから気付いたように「一緒に食べていい?」と首を傾げられてぐっと言葉に詰まった。
 別に、嫌じゃないけど。向かい側にいられるとなんだか緊張する。
 ぎこちなく頷いた僕にはほっとしたような顔をした。ご飯をよそいに行く背中を見つめてから視線を外す。そういえば他には誰もいないようだ。玄関に靴もなかったし、兄はみんな出かけてるらしい。
 じゃあ、今はこの人と二人きりなのか。考えなくていいことを考えてぶんぶん首を振る。いや、だから何ってわけでもないはずなんだけど。
「テストはどうだった?」
 台所からの声に、喉に言葉がつっかえた。この人の前だと僕はこんな調子であまり上手に喋れない。なんとか口を開いて「聞かない方がいいよ。がっかりするから」と言うと相手は笑った。「恭くんはあんまり勉強が得意じゃないんだね」と言われてふんとそっぽを向く。悪かったね、出来のいい兄の頭を受け継いでなくて。
 こんなに顔は同じなのに、と思いながらサラダをつつく。野菜も食べないといけないと分かってるけど、どうしても疎遠にしがちだ。机の上に置いてある調味料に手を伸ばしてマヨネーズを少しかけた。野菜の味が気に入らないのなら、誤魔化して食べるしかない。
 適当にかき混ぜてサラダを片付けていると、向かい側にが戻ってきた。ぱちと手を合わせて「いただきます」と言って淀みない動作でフォークとナイフを扱う姿をなんとなく眺める。
 そうか。今家には誰もいないんだ。僕がこの人を独り占めできるってこと、か。
 考える。今日は理科と国語のテストだった。明日は数学と歴史。で、明後日が英語と地理。
 数学なら教えてもらえるだろう。歴史はもう暗記するしかないし。問題集の問題がそのまま出ることもあるから、これの分からないところを説明してもらおうか。他に誰もいないのなら、部屋で閉じこもって勉強する必要もないだろう。
 まぁ、まずはこのお昼を食べ終えることからかな。
 午後になって、は家の掃除を始めた。基本的に畳が多いうちでは掃除機で掃除するところと水拭き乾拭きで掃除するところに大きく分かれる。居間でテレビをBGMにしながら勉強しつつたまにに目をやると繰り返していると、彼は掃除機を出してこなかった。バケツに真新しい雑巾をいくつか入れて水を入れただけ。
「恭くん、俺掃除するね」
「…好きにしたら」
 問題集を睨みつつがりがりシャーペンでノートに答えを書く。横目で確認していると、は当たり前のように床に膝をつくと、そのまま水拭きを始めた。
 …ちょっと待った。そんな掃除をしてたら絶対に陽が暮れる。この家全部水拭きと乾拭きしようと思ったら広すぎる。
 親指の爪を噛んで考える。あんまり真面目に見てなかったけど、前までいた家政婦の人達がこんな面倒な掃除をしていたとは思えない。せめて何か、モップのようなものをかける、とか。畳は水拭き乾拭きで仕方がないとしても、フローリングの部分は普通に掃除した方が。
 ああもう。どうして僕がこんなことを考えないといけないんだろう。テスト勉強しないとならないっていうのに。
 ガタンと席を立つ。当たり前の顔で雑巾がけをしているから離れて掃除道具がありそうな場所を探した。玄関横の靴ばっかり入ってる空間には外を掃除する箒やちりとり類が入っているだけで、モップの類は見当たらない。二階へ行ってみたけどそもそもそんな空間が見当たらなかった。
 掃除用具を探して車庫まで行く。あとしまってありそうな場所なんてここくらいしか。
 僕は普段自分の部屋をぞんざいに掃除するくらいしかしない。あんなふうに床を水拭きしたり椅子や机を丁寧に拭いたりはしない。
 車庫内の電気をつける。黒塗りの外車が一台とバイクが二台あった。僕は免許がないし、どちらも関係のないものだけど。
 掃除用具入れっぽい灰色のロッカーをバタンと開けると、ようやく発見した。遠心力で水を弾いてどうたらっていうモップだ。確か通販のやつ。
 バケツとモップを持って戻ると、は居間の水拭きを終えて乾拭きをしていた。ずんずんその背中に歩み寄って「これ使いなよ」とバケツに入れたモップを突き出す。顔を上げたはきょとんと不思議そうに僕を見上げた。
「それは何?」
「モップ。通販のだと思うけど、床くらいこれでやってもいいでしょ。ずっと水拭きと乾拭き繰り返してたらすぐ陽が暮れるよ」
 僕の手からモップとバケツを受け取ったが不思議そうな顔で僕を見つめた。なんとなく逃げたくなる。別に、変なことをしたつもりはないのだけど。なんでそんな、穴が開くほど見つめてくるのか。本当に胸に穴でも開きそうだ。
 ことりと首を傾げたが「わざわざ探してくれたの? 勉強あるのに」「、うるさいな。僕の勝手だろ」ぷいと顔を背ける。視界の端では笑っている。なんだか、嬉しそうだ。
 逃げるように顔をさらに背けて「それ使って。僕は勉強する」「ん」にこにこしているの横を通り過ぎる。ふわりとバニラのような香りがして、なぜか心臓が跳ねた。いいにおいだったから、だと思う。
 言ったとおりにモップがけで廊下を掃除し始めたを気にしないようにしながら、数学の教科書をぱらぱらと眺めて、ノートを見直して、図形はめんどくさいと息を吐く。こんなもの、できなくたって将来的に困らないだろう。職業によるのかもしれないけど。大工とか、設計とか、その辺の人はこういうのは役に立ちそうだ。
 範囲の問題集を二回やってから休憩を取ることにした。疲れた。主に頭が。
 時計を見ると三時だった。そろそろ弟が帰ってくるだろう。部屋に引き上げた方がいいかもしれない。別にいて不都合があるわけじゃないけど、なんとなく、同じ顔で同じ名前だから、みんな考えることは同じらしい。ここで顔を合わせるのは食事のときが常で、それ以外はあまりない。次男の兄はよくうろうろしてるから見かけるけど。
 ぐてっとしていると、が戻ってきた。なんとなく姿勢を正す。あんまりだらしないところを見せたくはない。
「三時だね。おやつにしようか恭くん」
 モップ片手ににこりと笑顔を浮かべた相手に「いいけど」と返して、今日のおやつを予想してみる。さっきまで掃除をしてたんだから今日はそんな凝ったものは出てこないだろう、多分。
 気になって、待ってる間何度も台所に視線をやる。ミキサーに何か入れてるのが見える。飲み物系かな。頭を使ったから甘いものがほしいところだったしちょうどいい。
 あんまり見てると目が合うので、ぐっと我慢して問題集に視線をやる。応用問題が相変わらず分からない。教科書のレベルとこの問題集のレベルでは応用に差がある。あまり得意な教科ではないし、基本をしっかり固めて、応用はできたら儲けものくらいに考えておこう。教えてもらっても、多分抜けてくし。
「お待たせ」
 ことんと机にガラスのコップが置かれた。背の高い、カクテルでも入ってそうなオシャレ度の高いコップだ。うちでは誰も使わない、戸棚で埃を被っていたやつ。あっても仕方ないと思ってたけど、使い道はあったようだ。
 背の高いコップの中にバニラ色の液体が入っていて、その上にアイスのバニラとチョコが浮かび、メープルシロップがかけてある。続けてことんと置かれたのはクッキーだった。手を伸ばして一つつまんでみる。きれいな色だ。クッキーはこんがり焼き色というよりは、しっとりしてて、ソフトクッキーって感じ。
 ぱくと食べてみる。見た目どおりしっとりしていた。食感を飽きさせないためにアーモンドが入ってるところも好みだ。
 どうかな、と首を傾げてこっちを見ているに、ぎゅっと目を閉じる。瞼を押し上げてからその顔を見上げて「おいしい」と伝えると、は笑った。「じゃあよかった」とにこにこ笑顔を浮かべている相手から視線を剥がして飲み物の方にも手をつける。スプーンでアイスをつついて食べて、バニラ色の液体を飲んでみた。甘い。ミルクセーキってやつだろうか。
 ああ、太りそうだ。ちらりとそんなことを考えた自分がいる。
 僕は結構甘いものが好きだから、出されると拒めずに食べてしまう。特別運動しているわけでもないし、ちょっと気をつけてないと。さすがに太るのは嫌だ。
 そのうち弟が帰ってきて、僕に出したものと同じものがおやつとして出された。弟はおやつを食べるとノートと筆記用具なんかを持って庭の方へ消えた。何しに行ったのかは知らないけど、まぁいいか。
 なんとなく居間に居座って勉強を続けていると、そのうちテラスの洗濯物が回収された。一つ一つ丁寧にたたんで、必要なものにはアイロンをかける姿を視界の端で見るともなしに見ていた。
 数学を切り上げて歴史の暗記を始める。僕は読むだけで頭に内容が入ってくるような秀才ではないので、シャーペンでがりがり人物名や年代、出来事を何度も書き連ねてどうにか頭に刻み込んでいく作業を続ける。
 一通り終わった頃には、は夕飯の準備を始めていた。ちらりとその背中を見てから視線を戻す。今日の掃除はどうやらモップがけと乾拭きその他で終わったようだ。明日畳拭きをするんだろうか。本当に家事ばかりして、この人は大丈夫なんだろうか。
 ずっと机にかじりついていたせいで身体が痛かった。席を立ってぐっと伸びをする。ずっとつけっぱなしにしていたテレビを消して台所に顔を出す。いいにおいがする。
「今日は何にするの」
「鴨蕎麦だよ。蕎麦じゃなくてうどんもあるけど、希望を取って好きな方用意しようと思って」
「ふぅん」
 麺類か、と思いながら大きな鍋を見てみる。スープ作りの最中らしい。よくやるなぁと思いながらちらりと視線を横にやってみる。ねぎの青い部分を刻んでタッパに移し、白い部分をぶつ切りにして金網で焼き目をつけていく様子をなんとなく眺める。「調子はどう?」ねぎを引っくり返しながらの言葉に「普通だよ」と肩を竦めて返すと、は口元を緩めて笑った。
 この人は頭がいいんだろうか。教科書レベルとはいえ応用問題をさらっと解いてみせたんだから、できないってことはないだろう。そういうできる人から見ると、できない人っていうのはどう映るんだろう。必死に勉強してる僕は、滑稽だとか、そう思われるんだろうか。
「ねぇ」
「ん?」
 声をかけたものの、言葉が喉をつっかえて出てこない。首を傾けているの髪がぱらぱらと額を滑って落ちた。青と緑の瞳に見つめられて「な、んでもない」と言葉を絞り出して台所を出る。教科書やノート類をばさばさ積んでまとめて筆記類を乱暴に片付け、勉強道具を持って部屋に戻る。
 たんと襖を閉めてしばらく。力の抜けた手からばさばさと教科書類が落ちて、がしゃんと筆箱が音を立てて中身を撒き散らした。
 額に手をやって目を閉じ、細く息を吐く。
 これは。一体、なんだろう。正体不明の何か、今までに感じたことのない言いようのないものが胸を縛っている。意識を縛っている。鎖のように僕を縛りつけ行動を制限してくる。決まって、あの人の前で。
 親指の爪を噛んだ。いつからか忘れたけど、癖だった。
 なんだろう。イライラするのとはまた違った胸の苛立ちが募る。
 軽く頭を振ってから落としたものを拾った。
 今は勉強だ。明日もテストなんだ。余計なことを考える暇があったら少しでも歴史を暗記しよう。数学の問題を解こう。他のことは今は忘れよう。その方がいい。
 夜ご飯の鴨蕎麦を食べて自室に戻って勉強をして、お風呂をすませて、また勉強して、気付くと十一時になっていた。
 テスト期間だけは早寝早起きを心がける。今日も日付けが変わる前には布団に潜り込む予定だった。
 喉が渇いたと思って居間に行くと、台所の電気がついていた。あまり会いたくないのにあの人がいた。炊飯器に釜をセットしてる辺り、明日の朝ご飯の準備のようだ。
 無言で台所に入って冷蔵庫を開ける。声はかけられなかった。アクエリアスのボトルを取り出してコップに中身を注いで飲みつつ、視線を投げてみる。は炊飯器の蓋を閉じたところから動こうとしない。
 声をかけないでおこう、無視しようと思ったのに、やっぱり無理だった。呆としているその姿が、いつかの夜に月を見上げていた姿と重なったから。

「、」
 びっくりした顔でこっちを振り返ったが笑う。「いたのか、びっくりした」なんて、真後ろを通ったのに気付かない方がおかしい。
 声をかけたものの、特別話すようなことも見つからない。無意味にアクエリアスのコップを揺らして何色とも言えない液体を見つめる。言葉が何も見つからない。声をかけたけど、他に言うべきこともない。それなのに「」と彼の名前を呼んでしまう。こっちに歩いてきたが僕のすぐ隣で立ち止まって「どうしたの恭くん」と首を傾げる。
 記憶のないこの人は、ここにいる誰よりも不安なはずだ。不安定なはずだ。誰かに縋りついて泣いてしまいたいはずだ。埋めようのない空っぽの自分に寒さを感じているはずだ。それなのににこにこと笑顔を浮かべて僕らに接する。まるで、そうすることしかできないように。
 たんとコップを置く。拳を握ってから解いて、すぐ隣にいる人を見上げた。もう少し背が高ければと思いながら手を伸ばして白いエプロンを掴んで、引き寄せる。抵抗はなかった。僕より少し大きい背中を腕で抱くと、体温を感じた。それからあのにおい。バニラのような甘いにおいが鼻をくすぐる。
「恭くん?」
 戸惑ったような声が僕を呼ぶ。
 ところどころに汚れのある白いエプロンは、使用人のものだ。家にいるとき彼はだいたいこれをつけて家事炊事をこなしている。線引きだ。は使用人。立場的に、雲雀家が主人。彼に拒否権はない。
 何も言わずにいると、頭を撫でられた。「テストなんてできなくても大丈夫だよ」という声は、どうやら僕が明日のテストに不安を持ってこの行動に出たと解釈したらしい。「大丈夫だよ恭くん」という優しい声と一緒に頭を撫でられる。じわりと視界が歪む。心も歪む。じんわりと、歪められていく。
 もし。彼という解くべき問題が目の前に散らばっていて、数式や方程式を駆使して解が導き出せるのなら、ない頭を捻って、僕はその問題を解こうとするだろう。間違った答えをたくさん出しながら探すのだろう。本当の答えを。最後の答えを。目の前にある問題を解こうとただ必死になって。がむしゃらになって。
 誰かに頭を撫でられるのなんて、もう忘れていた感覚だった。
 明日はテストだ。寝ないといけない。早めに起きてご飯を食べて、最後の見直しをして、テストに臨む。一夜漬けってわけじゃないけど、真面目にやってるのはこの三日くらいだから、同じようなものか。
 ぐっと強く背中を抱いてから身体を離す。の顔を見れないままアクエリアスを飲み干してコップを流しに置いた。「おやすみ」と残してするりと隣をすり抜けると、また甘いにおいがする。「おやすみ恭くん」と聞こえる声に唇を噛んで自室に戻ってたんと襖を閉めた。
 自分の手を掲げる。さっきまであの人に触れていた掌を見つめる。
 そこに何があるわけでもない。だけどぎゅっと拳を握って胸に当てて、何か大事なものでも抱えてるみたいに、僕は目を閉じて、彼の体温を思い出していた。