スケッチブック片手に午後の陽射しを浴びていると、テラスの洗濯物が取り寄せられる音が聞こえてきた。しゃ、と色鉛筆を動かしていた手を止めて顔を上げる。今日は僕ら兄弟分の布団のシーツやカバーを全て干したみたいで、テラスは白や黒でいっぱいになっていた。それがだんだんといつもの色に戻っていくのを眺めて、スケッチブックに顔を戻す。 さんに色鉛筆のセットを買ってもらって、それから鉛筆で描いたものに色をつけて完成させ彼に見せる、というのが最近の日課的なものになりつつあった。 中学生になったら、美術部に入ろうかな。ぼんやりそんなことを思いながらスケッチブックをぺらりとめくる。今まで自分が描いてきたものを見つめてぱたんと分厚い表紙を閉じた。少し、休憩しようかな。 「、これ。ここ何、どういう意味」 「ちょっと待って」 テスト期間で勉強ばかりしている四男の兄の声に急かされて、さんがシーツを抱えて居間に戻っていく足音が聞こえた。 すっかりあの人がいる風景に慣れていた。僕だけじゃなく、きっと兄もみんなそうだろう。 ぼんやりしていると次男の兄さんが庭にやってきた。水遣りのようだ。いつもの黒い着物姿でジョウロで花に水をやっている。僕は多分、大きくなったらあの人みたいになるんだろう。なんとなく、想像だけど。 「勉強は、困っていないかい」 聞こえた声に下げた視線を上げる。兄は僕を見ていなかったけど、僕に声をかけたようだ。「特別困ってないよ」と返して「そう」とこぼした兄を見つめる。「兄さんは、何か困ってるの?」試しに訊いただけだったけど、兄は驚いたように瞬きして僕を見つめた。それから口元を緩めて笑うと「そうだね。少し、困っているのかもしれない」と漏らして視線をテラスの向こう、居間の方へ向ける。そこからはすらすら英語を喋るさんの声がここまで届いていた。「もう一回。もうちょっとゆっくり」それから、さんにそう言った兄の声も聞こえた。 ジョウロを傾けて小さな花の根元に水をあげながら、兄が言う。「君は恋をしたことがあるのかな」と。会話の突拍子のなさに驚いて「え、と、まだ、かな?」恋なんてよく分からなくて、微妙な答えしか返せなかった。そんな僕に兄は笑う。女性に好かれそうなやわらかい、人のいい笑みを浮かべて「初恋くらいしなよ。大人になる前に」「う、うん」しようと思ってできるものじゃないと思うけど、一応頷いておく。兄は違う植木鉢に水をやりながらそれ以上は何も言わなかった。 次男の兄さんはマイペースな人だけど、ちゃんと社会に出ているし、大人の世界にも慣れている。柔和な笑みは長男の兄さんとは似ても似つかない。日本文化について造詣が深く、和風の料理が得意で、頭もいい。だから兄さんの華道の教室はだいたい女性受講者で埋まっている。月に三回ある講座はいつも予約でいっぱいの状態らしい。 そんな兄さんのこういう突拍子のない会話に僕は慣れているけど、少し気になった。僕にはただの雑草にしか見えない草に水をやっている兄に「兄さんは、初恋はどうだったの」と訊いてみる。兄は流し目で僕を見て、次に空を見上げた。 「僕の初恋…どうだったかな」 ぽつりとした声は小さかった。居間から聞こえる「今度これ。発音問題なんだけど」さんに英語を見てもらっている四男の兄の声の方がずっと大きいくらいだ。 こんなに出来た人なのに、兄には恋人のような人はいない。特定の誰かと電話している声を聞いたことはないし、出かける先はいつも仕事ばかりで、遊んでもいない。華道の教室では色んな女性が兄目当てに訪れているのに、兄は恋人を作らない。多分、作ろうと思えば作れるのだと思うけど。 兄はやがて小さく笑って「ああ、そうだね。もしかしたら、僕は今、恋をしているのかもしれない」とこぼして、空になったジョウロに水を汲みに行ってしまった。着物の背中を見送ってからなんとなくスケッチブックに視線を落とす。 恋。か。それってどんなものなんだろう。僕はあまり漫画は読まないし、そうお金もないから、本も買わないし。買っても画材関係ばかりだし。 恋をすると、世界は変わってみえるんだろうか。もっと輝いて見えたりするんだろうか。それは、鉛筆を取る手に変化を運ぶのだろうか。 ぼんやり恋の文字を浮かべながら、ぱらぱらとスケッチブックをめくった。ぱらり、とあるページで手が止まる。一ページの真ん中に線を引いて、右が僕、左がさんで、同じものを見て描いた絵があった。その日のおやつだった、ソーダ水の中にカラフルなゼリーが浮かべてあるコップの絵だ。色もつけてある。同じものを見て描いたのに、出来上がったものは全然違った。僕は本当に模写したって感じの絵だったけど、さんの絵は、陽の光のような温もりの感じる仕上がりになっていた。机の上に置いてあるゼリー入りのソーダ水が、陽の光の下でぽかぽかと昼寝でもしてるみたいだ。 思わず口元が緩む。見る度に笑顔がこぼれてしまう。 今度また時間のありそうなときに声をかけて、同じものを見て描いてもらうつもりでいる。 きっと彼の描いたものは、僕とまた違うのだ。自分の見えている世界を絵として表す。さんが描く絵は、彼の見ている世界だ。 記憶がなくても、彼は笑う。欠落を抱えながら、彼は笑う。 胸に空いている埋めようのない穴。大きなその穴を、少しでも埋める手伝いができればいいと、僕は思っている。 スケッチブックを抱えて居間に戻ると、さんがバケツを抱えていた。その手にいくつか雑巾がある。四男の兄の方は机にかじりついて勉強をしているようだ。テレビの音を聞きながら歩いて行って「掃除するの?」と声をかけると、振り返ったさんが「うん、そう。夕飯までに畳を拭こうと思って」とバケツを揺らした。「手伝うよ」と言うと彼が目を丸くする。 「いいよ、俺の仕事だし」 「手伝いたいんだ。僕もたまには動かないと」 「そう? じゃあ、お願いしようかな」 困ったように笑ったさんから雑巾を受け取る。兄の視線を感じたような気がしたけど、多分気のせいだ。 とたとた廊下を歩きながら「昨日は恭くんがモップをくれたから、廊下とかきれいにしたんだよ」と言うさんに「そうなんだ」と返して床板を見てみる。普段あまり気にかけないし、違いは分からない。埃のことまで気にしないし。 八畳の部屋が三つ続く一階の広い部屋は、誰も使っていない。客間ということになっているけど、うちには泊めるようなお客さんはあまり来ない。極たまに、次男の兄の知り合いとか仕事関係の人が来たりするけど、それくらいだ。こういうのを宝の持ち腐れっていうんじゃないだろうか。 バケツで雑巾を濡らしてしっかり絞って、特に何もない部屋の畳を拭く。一枚拭くごとに乾拭きもする。 ああ、そうだ。この広い部屋は、まだ親がいた頃、法事とかで使っていたような気もする。 襖の開け放たれた広間の一番奥に視線を向ける。仏壇があった。あそこに誰かが座っているのを見たのは、どのくらい前のことだろう。 黙々と畳を拭いて乾拭きするを繰り返す。そうしていると、廊下を歩く足音がした。「、発音」兄の声にちらりと振り返る。プリントを持って仁王立ちしてる兄に、さんが寄っていって「どれ?」「これ」「ああ。さっきやったじゃない」「もう一回」兄の突き放した声にさんが苦笑いして英単語を口にする。小学校でももう英語は導入されてるけど、細かい発音までは何も問われない。正直、僕もカタカナみたいにしか喋れないし。 眉根を寄せてプリントを睨んでいた兄が「こっち?」とプリントのどこかを指差せば、さんが頷いた。兄はお礼も言わずに廊下を歩いて行って、また居間に戻ったらしい。自分の部屋で勉強した方がはかどると思うんだけど、英語だから、彼に教えてもらいたいことが多いんだろう。人の勉強法に口出しはしない。 ようやく八畳一間に雑巾をかけ終えた。ふうと一息。さんは僕が終わったときには八畳一間を拭き終えてプラス四畳くらいリードしていた。普段から家事をしているだけに、要領がいい。 背中を伸ばすと、ばきっと骨の鳴る音がした。たったこれだけのことなのに、慣れていないことをすると身体が軋む。もうちょっと動かないといけないな。これではごぼうっ子になってしまう。 「大丈夫? 恭ちゃん」 「ちょっと背中が痛い」 「無理しないでね」 「うん」 バケツに雑巾をつけてしっかり水を絞る。さんと一緒に八畳の畳を拭きながら、仏壇は見ないようにした。 彼も訊ねてはこない。だから、答えなくてもいい。 八畳の広間をきれいにして、次は客間の方に移った。黒で統一された高そうな長方形の机のあるこの部屋は、たまに使われる。黒い机は長男の兄さんの趣味だ。あの人は黒が好きらしい。車もバイクも黒だし、スーツも黒だし。シャツは確か紫だったけど。 畳を拭いていると、さんが新しいタオルを持ってきた。黒い机を丁寧に拭き始める横で、僕は畳を水拭きして乾拭きする。 一階の掃除を終えて二階に移動する。通り過ぎるとき、居間からはテレビの音が聞こえていた。兄はまだここで勉強しているようだ。四男の兄はあまり勉強が得意ではなかったような気がしたけど、今回は頑張るんだな。結果に繋がるといいんだけど。 二階に移動して、誰かの部屋を避けた残りの部屋の掃除をした。畳の水拭きと乾拭きを繰り返すだけの時間は、苦痛でもなければ、楽しくもない。掃除っていうのはそんなものだ。ただ、少し背中が痛いかな。 部屋を二つ掃除し終えて廊下に出ると、さんがいた。ぐっと天井に向かって腕を突き出して背中を伸ばしている。僕に気付くと笑って「恭ちゃん終わった?」「うん」「俺も終わった。ありがとう、助かった」あどけない笑顔になんとか笑顔を返す。ああいうふうに笑うのは僕にはできない。 階下に下りて、洗面所で手を洗う。さんは雑巾なんかを片付けに行った。 ばしゃばしゃ水で手を洗って石鹸をしっかり泡立てる。少し疲れたなと思いながら居間に行く。兄は英語ではなく地理をやっていた。教科書を睨んでいる横を通り過ぎて台所に行くと、さんが何か用意しているのが見える。 「何作ってるの?」 「恭くんが頭使ってるから、糖分の補給。恭ちゃんも座って待ってて」 にこりと笑顔を返されて、大人しく居間に戻った。テレビがついたままだ。眺めていると、歌番組がニュースに切り替わった。見たことがあるような顔のキャスターが出てくる。新聞は一応ざっと目を通すけど、興味の湧いた記事と見出し以外は読まないことが多い。難しい漢字が多いし、小難しい言葉ばかり並んでるから、僕にはなんとなく遠いのだ。よく読んでるのは次男の兄くらいだろうきっと。 お盆に背の高いグラスを二つ載せて、さんがやってきた。ことんと置かれたグラスにはベリー類の入った白い液体が入っている。ストローをすすってみると、ヨーグルトの味がした。砕いた氷と混ぜてあるようで、口の中で冷たい。 「明日はもうちょっといいもの作るね。今日は掃除が残ってたから、そっち優先しちゃった」 「…別に、いいけど」 ぼそぼそとそう言った兄がストローをすする。僕も別にこれで満足だった。あんまり甘いものを食べてばかりだと太ってしまうだろうし。さっぱりしてるから、こっちの方がいい。 ときどきかき混ぜながらストローでヨーグルトドリンクを飲む。同じものを手にしたさんが椅子に座り込んだ。ずず、と中身をすすってぼんやりした顔でテレビを見つめる。画面の中ではニュースキャスターがどこかで起きた火事についての続報とやらを読み上げているところだった。 ずず、とドリンクをすすりながら兄は教科書を睨んでいる。中学生の勉強は大変そうだ。僕もあと半年したら小学校は卒業だ。 今のうちにしておくことはあるかな、と考える。一緒に遊ぶような友達らしい友達はいない。家で絵を描くことくらいしかしてこなかった。したいことも、特にないな。 ずず、とドリンクをすすって柄の長いスプーンで残ったベリー類をすくって食べた。 そのうち次男の兄がやってきた。「恭も飲む?」「頼めるかい」「ん」にこりと笑顔を浮かべたさんが席を立つ。兄が座る。四男の兄は周りを気にしないようにしているのか、教科書を睨んだままだ。勉強する環境としては騒がしくないかな、と思ったけど余計なことは言わないでおく。 「いるかな。これ」 それで、兄に声をかけられて、着物の袖からすっと一枚の紙片を差し出された。受け取ってみると、美術館のチケットだった。「これどうしたの?」「仕事先の人からもらったんだ。僕よりも君の方が上手に使うだろうと思ってね」…上手にって言われても、これはチケットだから、行く以外に使い道はないような。よく分からないけど、せっかくくれたんだから取っておこう。公開期間はまだ半月ほどあるみたいだし、その間に行けたら行ってみようかな。絵の展示、みたいだし。 兄にヨーグルトドリンクを渡して、さんが席に座る。そうすると六人がけの席の半分が埋まる。うちではこういう光景の方が珍しい。兄弟が揃って食事をすることは出前以外ではあまりないのだ。仕事とか学校とかでみんな時間がばらばらだから仕方ないのだけど。 さんが来てから兄達が少しずつ変わった。僕も多分、少し変わった。さんが来なければスケッチブックには色がないままだったと思う。自分の絵だけを見つめて自己満足で終わっていたと思う。でも今は、彼の絵を見て、違う人の絵も見たいと思っている。だから、多分このチケットは有効活用して、美術館に勉強に行くと思う。 ただ、まだ一人では自信がないから。だから。 ちらりと視線をやる。さんはテレビを見つめていた。ニュースが今日の特集とかいう内容に変わっていた。関心があるのかないのか、よく分からない顔でさんはテレビを眺めている。 ダメもとで、誘ってみようか。一緒に美術館に行ってくれないかって。人のいないときに、頑張って、声をかけてみようか。うん、頑張ろう僕。 |