オンスの麻酔

 午後一時。昼食の片づけを終えて、改めて冷蔵庫を覗く。上手に使ってるつもりでいるけどすぐに空になる。メモ帳に買出し品をメモしていると、二階から雲雀がやってきた。「お腹が空いた」と言われてちょっと困る。眠そうな目つきで「何、何もないの?」と横から冷蔵庫を覗き込まれた。「買い物に行かないと、あんまり何もないよ」見たら分かることを説明すると、雲雀は眉根を寄せた。
「…六人いると、こんなもの?」
「多分こんなもんだと思うんだけど」
 俺はここを基準に物を憶えてるから、あまり疑問を持っていない。要領よくやってるつもりでいるけど、ここ以外を知らないから比べようがないし、これでいいとはっきりとは言えないけど。
 ふうと息を吐いた雲雀がぼきと肩を鳴らした。肩を回しながら「なら出かけよう。車出してあげるから用意して」と言われてぱっと顔を上げる。それは助かる。俺は免許とかないから、運転できる雲雀か恭に連れて行ってもらえると、荷物を持つ時間も少なくてすむし。持てる量とか考えて買い物しなくてすむ。
 部屋に戻って着替えて必要なものを肩掛け鞄に入れて玄関に行く。雲雀の姿がなかったから表に出てみると、車庫が開いたところだった。自動で上がったシャッターの向こうから黒塗りの車が出てくる。乗り込んで、シートベルトを締めた。車はすぐに発進して、法定速度を軽く無視した。
 ハンドルを切りながら雲雀がぼそっと「宅配を手配しようか」と言った。首を傾げる。「宅配?」「食材のね。小麦粉とか米とか、ワインとか、持って帰るのが不便なものは頼むよ」「うん、助かる」俺が笑うと雲雀はまたハンドルを切った。行き着けの業務用スーパーへの道ではない。
「どこ行くの?」
「ジャスコ」
「どうして? 業務用スーパーじゃ駄目? 安いのに」
 ハンドルを切る雲雀に首を傾げるとじろりと睨まれた。「そこはイートインがないだろ」「ああ、そっか。お腹空いてるんだっけ」「そうだよ」とんとんと指でハンドルを叩く雲雀に「ごめん」と言うと息を吐かれた。「別に謝ることじゃない」とぼやく声に曖昧に微笑む。
 ジャスコの一階の駐車場に車を駐車して、二人で歩く。道行く人が振り返ったりするのは雲雀がきれいな顔だからだろう。
 つかつか歩いて行く雲雀についていくと、レストランやカフェが立ち並ぶフロアに辿り着く。
 雲雀の斜め後ろを歩いていたところ、にっこり笑顔のお姉さんに引き止められた。「アンケートを実施しているんですが、お時間がありましたらご協力いただけないでしょうか」「えっと」困ったな、と笑うとぐいと手を引っぱられて一歩足を引く。雲雀に無言で引っぱられて「すいません」とお姉さんに会釈してその隣に追いついた。手首を離される。無表情の横顔を見つめてから前を見た。
 なんか、怒ってるみたいだ。ああいうのは無視した方がいいのかな。よく分からないや。
 雲雀はカフェに入った。ついていく。おしゃれなカフェだった。値段は少し上品だ。この間恭と入ったデパートの上のお店よりはずっと普通だけど。日本料理って外で食べると高いんだよな。
「いらっしゃいませ」
「二人」
 突き放した声にもウエイトレスの子はにこりと笑顔を浮かべて「ご案内します」「カウンター開いてる?」「はい」「じゃあそっちがいい」何度か瞬きしたウエイトレスの子がまた笑顔を浮かべる。「かしこまりました」と。慣れてるなぁと思いながら雲雀のあとをついていって、カウンターの席に腰かけた。鞄を外して膝に置く。
 メニューを取り上げた雲雀が頬杖をついてぱらぱらページをめくった。俺はきょろきょろと視線を左右上下にやって、「きれいなところだね」「そうだね」「よく来るの?」「来ないよ、こんな人が多いところ」ぱちと一つ瞬いて隣に視線を向けると、雲雀の眉間には僅かに皺が寄っていた。それを揉み解すようにして「ボクは人混みとか好きじゃないんだ」という言葉に雲雀らしいなと一つ頷いた。忘れないようにしておこう。雲雀は人混みが好きじゃない、と。
 雲雀に押しやられたメニューを見てみる。パスタとかもあるけど、おやつの時間だ。ティータイム。「雲雀は何にするの?」「コーヒー」「外に来てコーヒーだけ? お腹空いてるなら、パスタとかはどう?」「そんな重いものはいらない。…はどうするの」「俺はー」ぱらりとメニューをめくってデザートのところを見る。おいしそうなフランスのお菓子がたくさんあった。どれにしようと目移りしていると、隣で雲雀が呆れた顔をしていた。
「何、そんなに食べたいものがあるわけ」
「えっと、このチーズケーキがふわふわでおいしそうで、このフロランタンも食べてみたい。それからこれと、これと、」
 気になるものを順番に指差していくと、呆れたとばかりに息を吐いた雲雀が「分かった。じゃあボクと半分ずつしよう。それなら片付くだろ」「うん。ありがとう雲雀」にこりと笑いかけたらそっぽを向かれた。ちょうどよくやってきたウエイトレスの子に雲雀が注文して、気付いたように俺を見て「飲み物は」「あ。えっと、エスプレッソ。で」ウエイトレスの子に笑いかけるとなぜか顔を俯けられた。「はい、ご注文を確認します」と早口で言われて首を傾ける。なんか顔逸らされた。いいけど。
 注文を復唱したウエイトレスの子がいなくなると、ふうと息を吐いた雲雀がポケットから携帯を取り出した。
 鞄を確認してみる。うん、携帯入ってる。これに登録してあるのは、雲雀家の電話と、雲雀の携帯と、恭の携帯だ。特別イルミも光ってないから何も着信なしなんだろう。連絡が来る相手は限られてるからそれでいい。
 カウンターの向こうの、天井近くから逆さにしてあるグラスとか、棚いっぱいに並ぶ色んなお酒を見ていると、雲雀の携帯がピリリリリと音を立てた。どうやら着信のようだ。ピッと通話を繋げた雲雀が「ボクだけど」と言う声を聞きながらぼんやりお酒の種類を見つめる。家にあんなにあってもしょうがないか。お酒を飲めるのは俺と雲雀と恭くらいだし。それに、日本酒の方が好きそうだ。ワインも飲むみたいだけど。
 ぼんやりしていると、「お待たせしました」と声がして振り返る。さっきのウエイトレスの子がいた。自然と手を伸ばして、高いテーブルにそろりと置こうとしていたカップを受け取る。手が触れた。お店の中にいるせいか、俺よりもあったかい手だった。
「ありがとう」
「、申し訳ありません、ありがとうございます」
 ばっと頭を下げたその子になんとなく苦笑いする。雲雀のコーヒーの方ももらっておいた。「すぐに残りをお持ちします」とお辞儀をしてウエイトレスの子が早足でカウンターの向こうに入っていくのを見届ける。
 と、視線を感じて雲雀を見てみたら、なんかすごく睨まれていた。あれ、俺は睨まれるようなことをしたろうか。首を傾げるとぷいと顔を背けられる。「聞いてるよ。ああ、適当に処理しておいて。うん」携帯に吹き込みながら、雲雀の手はとんとんと苛立たしげにテーブルを指先で叩いている。
 小さなカップのエスプレッソを見つめて、家には機械がないからなとぼんやり考えた。小さなカップを持ち上げて息を吹きかける。マシンがあれば家でもできるけど、ないから、外で飲むしかない。
「…おいしい」
 一口飲んでみて感想をこぼす。熱さもちょうどいいし、風味も俺が好きな感じだった。ふーと息を吹きかけて二口めをすする。おいしい。
 パンと携帯を閉じた雲雀が「そんなにおいしい?」とこっちのカップを見るから、口を離して差し出してみた。受け取らずに口だけつけた雲雀に、カップを少し傾ける。眉根を寄せたのが見えたのでカップを水平にして離したら、「苦い」と言われた。俺は苦笑いする。うん、これがエスプレッソだと思う。
「砂糖もミルクも入れてないから」
「キミにはおいしいの、それ」
「うん。家にマシンがあるとできるんだけど。これは普通には淹れられないから」
 ふーと小さなカップに息を吹きかける。頬杖をついた雲雀がコーヒーのカップを持ち上げて中身をすすった。苦かったらしく、ミルクを足していた。
「欲しいなら、買ってあげてもいいけど。マシン」
 ぼそりとした声に緩く首を振る。「そんなに安いものでもないし、いいよ。飲むの、俺と雲雀と恭くらいでしょ」「ボクとキミが使うならもうそれでいいと思うけど」「でも」俺が困った顔をすると、雲雀はふうと息を吐いた。そこでウエイトレスの子が来て、「失礼します」と声をかけてからお盆からお菓子の並んだお皿を置いた。「ご注文の品は以上でよろしいでしょうか」「うん。ありがとう」笑いかけたら笑い返された。いい笑顔だ。
 失礼します、と残してウエイトレスの子がカウンターの向こうに消えた。ふわふわの見た目のチーズケーキにフォークを入れたとき、「キミのそれは天然なのかな」ぼそっとした雲雀の声に「え?」と返してさくりとケーキを半分に分ける。コーヒーをすすった雲雀はそれ以上何も言わなかった。
 よく分からないけど、あまり機嫌がよくないようだ。今のやり取りで俺は雲雀の機嫌が降下するようなことをしてしまったんだろうか。考えてみたけど思い当たらない。訊いてみてもいいけど、訊いても答えてくれなそうだな、雲雀は。
 買い物をすませて家に帰る。買えるだけのものを買って帰ったら、恭に出迎えられた。
「おかえり。またたくさん買ってきたんだね」
「ただいま。ちょっと手伝って恭」
「いいよ」
 下駄を履いた恭が車から荷物を下ろすのを手伝ってくれる。雲雀も腕に抱えられるだけの荷物を持ってすたすたリビングへ運んでいった。冷蔵庫にしまうのは俺がやる。そうしないと料理のときぱっと物が出せないから。
 順番に冷蔵庫に食材をしまっていると、雲雀が何かのカタログを持ってきた。「これ、見ておいて」「これ何?」「色々載ってるから、欲しいものがあったら印つけておいて。ボクはこれから仕事だから今日は戻らない」「そっか。分かった。気をつけてね」受け取ったカタログをシンクに置く。肉や魚を冷蔵庫にしまいながら、雲雀がこっちを見てるのに気付いて首を傾げる。これから仕事、なんじゃないのかな。
 雲雀は何も言わずに視線を外してリビングを出て行った。
 なんなんだろう、と考えながら食材をしまい終えるのに五分かかった。ふうと息を吐いて顔を上げる。
 さて、夕飯のことを考えないと。今から取りかかるならそんなに凝ったものは作れないな。どうしようかな。
 うーんと首を捻って考えていると、ピンポーンとチャイムの音がした。誰か来たようだ。キッチンを出たところで「僕が出るよ」と恭が先にリビングを出たので、「ありがとう」と声をかけてキッチンに戻る。ついでに料理本を取ってきてぱらぱらめくった。今日は雲雀がいないから、少し少なめに作らないとな。
 ぱらぱら本をめくって閉じる。よし、今日は丼にしよう。たまにはシンプルに親子丼とかどうだろう。うん、そうしよう。
 それならそう早く取り掛からなくてもいい。サラダにはツナを入れて、マカロニを入れて、と次のことを考えていると、恭が戻ってきた。「誰だった? お客さん?」「違うかな。宅配便」「宅配? 何か頼んだんだ」「そう、だね」恭が曖昧に微笑む。後ろ手に何か持っているけど、あまり見せたくないものなんだろうか。なら見ないでおこう。深く考えずに視線を外して親子丼の作り方のページを見て、隣のページにあるロコモコもいいなぁとか思っていると、「」と呼ばれる。もう一度顔を向ける。恭は片手を後ろにしたまま口元に手を当てて目線は斜め下だった。
 首を傾ける。なんだろう。どことなく恭がよそよそしい。
「あげたいものが、あるんだ」
「? 俺に?」
「うん」
 そばまできた恭が俺を見て目を細めて、背中に隠していたものを俺に差し出した。
 花、だった。薔薇。それも、見たこともないようなきれいな色をした薔薇。花弁一枚一枚の色が違う。赤だったり青だったり緑だったり水色だったり黄色だったり、虹色をした薔薇の花束が、目の前にある。
 手を伸ばして花束を受け取った。見たこともない薔薇だった。造花だろうかと思って花弁に触れたら、生きているのが分かって手を離す。パサついていない。造花じゃない。本物、だ。
 ぽかんとしている俺に、恭がくすくすと笑い出した。「これ…」言葉の出てこない俺に、恭が微笑む。きれいな笑顔で「レインボーローズと言ってね、オランダで開発された薔薇なんだ。一枚ずつ花弁の色が違うんだよ」「オランダの…」レインボーローズ、というらしい虹色の花束を見つめて、自然と頬が緩む。きれいだ。本当にきれいだ。自然の配色ではありえないことなのに、きれいだと思う。人間は本当に色んなことができるんだなと感心さえする。
 でも、なんで俺に。恭は花が好きだから、興味があって買ったっていうんなら分かるけど。
「でも、なんで俺に?」
「……どうしてだろうね」
 曖昧に微笑んだ恭が俺から視線を外した。口元に手を当てると、何度か口を開いて閉じた。言い淀んでるみたいだった。そういう恭は珍しかったから、俺はさらに首を傾げてしまう。
 恭のやわらかい瞳が俺を見て、「その花みたいだと思ったから、かな」「? 俺が?」「うん」「俺が…この薔薇みたい?」花束を掲げてみる。虹色だ。きれいだ。でも俺は特にきれいじゃないしなぁ。
 恭はそれ以上は何も言わなかった。誤魔化すように笑うと「僕からの贈り物。好きに飾ればいいよ。ああ、僕の部屋にも一輪だけ欲しいかな」「うん、分かった」頷くと、恭は仕事があるからと言って部屋に戻っていった。残された俺は花束を見つめて、もったいないけど、一枚だけ花弁をちぎってみた。ぴりっと裂いてみる。やっぱり生きていた。これは本物なんだ。すごい。
 カメラとかがあればな、と思いながら薔薇を活けることにする。玄関の花瓶と、食卓の花瓶と、俺の部屋には適当なものを拝借して少し飾ろう。恭の部屋にも一輪。上手に配分しよう、無駄にしないように。
 海外からの輸入品だと、この花束は高そうだ。花屋さんで普通の花束を頼んだって数千円はする。これは多分、ゼロが一つ多いんだろう。そんな高価なものを恭が俺にわざわざ、取り寄せてくれるなんて。
 あのときか。恭に連れられて仕事場のホールに行った日、デパートの花屋さんにも寄った。店主の男の人と恭が交わしていた会話の内容ってこれだったんだ。今頃気付いた。
 花瓶を持ってきてきれいにして、使えそうな花瓶を倉庫から探して持ってきた。きれいに洗って、処理した薔薇を活けていると、一番に帰ってきた恭ちゃんが驚いた顔で「わ、すごい。何その薔薇」と駆け寄ってきた。「おかえり。これね、恭が俺にってくれたんだ」説明すると、恭ちゃんはさらに驚いた顔をした。「兄さんが? へえ、なんかすごいねこの薔薇。虹色だ」「うん。レインボーローズっていうんだってさ」大きめの花瓶二つと小さめの花瓶二つに上手に薔薇を活ける。
 鞄からさっそくスケッチブックを取り出した恭ちゃんは、創作意欲を刺激されたようだ。こんな薔薇は滅多に見れないだろうし、描いておきたい気持ちも分かる。
 花瓶の一つを玄関に飾った。和風の中で虹色の薔薇がかなり目立っている。
 これが俺。恭はどうしてそんなこと思ったんだろう。不思議だ。
 ぼんやり薔薇を見つめていると、ガラリと玄関の扉が開いた。恭くんが帰ってきたのだ。にこりと笑顔を浮かべて「おかえり」と声をかけると、「ただいま」とぼそぼそ返事が返ってきた。それから薔薇に気付いた恭くんが顔を顰める。「何それ、その花」と。俺はにこにこ笑顔を浮かべて「恭が俺にって」「は? はぁ、そうなんだ。へぇ…」納得してない顔をした恭くんが廊下を歩いて行く。脱いだままの靴を揃えてからリビングに戻る。小さめの花瓶一つを持って恭の部屋に行って、「恭、俺だけど」と声をかける。返事が返ってこなかった。あれ、いないんだろうか。
 個人の部屋に勝手に入るのはよくないかなと思って、掃除とかに立ち入ったことはない。掃除しておいてと言われたらしようと思っている。だから恭の部屋の襖に手をかけて、開けるのを躊躇う。勝手に開けるのはいけない気がする。でも花を置くくらい、いいかな。
 そろりと襖を開ける。暗い部屋の中でパソコンがついたままだった。
「恭?」
「、」
 のろりとした動作で小さなテーブルに突っ伏していた恭が顔を上げた。まさかぐあいが悪いのだろうか。花瓶片手に手を伸ばしてぺたりと恭の額に手を当てる。「大丈夫?」「ああ…うん。大丈夫」伸びた手が俺の手を握り締めた。少し、震えているような気がする。
「恭、薔薇はどうしようか。活けたけど」
「うん。ありがとう」
 ことりとテーブルに花瓶を置く。手が離されなかったので、なんとなくそのままでいる。中途半端な腰の高さがなんだったので座った。恭はぼんやり俺を見ているようだ。首を傾ける。薔薇が届いてから、恭はなんだか変だ。
「…今度」
「うん」
「活け花の、展覧会があってね。僕も呼ばれてる。出ないとならないんだけど、一緒に来てくれるかい」
「いいよ」
 笑うと、恭も笑ったようだ。すっと手が離される。部屋を出て静かに襖を閉めた。せめて電気をつけないと、目が疲れるよ恭。
 夕食の親子丼の準備をしていると、恭くんがやってきた。手にはプリントを持っている。
「今日は何?」
「親子丼」
「ふぅん」
「それは、テスト用紙?」
「そう。全部返ってきた」
 げんなりといった顔の恭くんがテストを一枚一枚睨みつけた。「前よりはいいけど、思ったほどはよくない」ばしとプリントを叩いた恭くんがこっちに紙片を突き出してくる。どうやら見てもいいってことらしい。火を弱くして紙片を受け取って一枚一枚見てみた。問題を見てるわけじゃないからなんともいえないけど、答え合わせとか、学校できっとあったよね。じゃあ俺がやらなくてもいいか。
「どれがダメだった?」
「…暗記もの」
「そっか。それはしょうがない」
 俺が笑うと、恭くんはぶすっとした顔をした。納得してないって顔だ、どう見ても。
 暗記は記憶力とイコールだ。数学はだいたいできてるし、教えた英語もだいぶよくなってる。恭くんが苦手なのが記憶力を駆使したものなら、俺はもう手助けできない。そこは自分で頑張るしかないところだから。
 手を伸ばして恭くんの頭を撫でた。「頑張ったと思うよ。よく出来ました恭くん」ぶすっとした顔でがしと俺の手を掴んだ恭くんが「子供扱いしないで」と唇を尖らせて、俺からテスト用紙を奪うと駆け足でキッチンを出て行った。
 中断していた調理を再開する。
 サラダを用意して、スープをどうしようかと考えてやめた。たっぷりご飯を炊いたからお腹はいっぱいになるはずだ。なら今日はいいか。
 恭と恭くんと恭ちゃんと俺とで夕食をすませる。お風呂を入れていると恭弥が帰ってきた。「たでまー」「おかえり」リビングに戻ってご飯の準備をする。
「今日何?」
「親子丼だよ」
 具を温めつつそう返す。丼を用意してたっぷりご飯をよそった。恭弥は育ち盛りだからたくさん食べないとね。
 サラダと親子丼を並べると、恭弥はさっそく食べ出した。机の上に置かれている携帯に気付いて自分のポケットをあさる。まだ新しい黒い筐体を取り出して「恭弥、教えて。番号とメルアド」と携帯を差し出すと、恭弥の動きが止まった。中途半端に口を開けて親子丼をかきこんだままで数秒。俺が首を傾げると、思い出したように手を動かして親子丼をかきこみ、箸を休め、咀嚼しながらグレーの携帯のフリップを弾く。
「持ってたのか、携帯」
「雲雀が買ってきてくれたんだ」
「ふーん。赤外線な」
「ん」
 ピピ、とやり取りしただけで恭弥のメルアドと電話番号が登録された。登録画面で名前だけいじって雲雀恭弥とされていたところを恭弥だけにする。「何かあったら連絡してね」「ん」サラダをぱくぱく食べている恭弥を眺めていたらじろりと睨まれた。「なんだよ」「んーん」「じゃあ見るな。食べにくい」そうか、食べにくいのか。じゃあ見ないでおこう。くるりと背中を向けて、キッチンへ行く。お風呂は自動で湯張りして止まってくれるから音が鳴ったら見に行けばいい。
 なんとなくココアを手に取る。お湯を沸かして少し溶かし、残りは牛乳を入れてレンジでチン。そこにバニラアイスを浮かべた。今日は甘いものたくさん飲み食いしてるなぁ俺。そういう気分なのかな。エスプレッソもおいしかったけど。
 ずず、とココアをすするとバニラアイスの冷たさとココアの熱いのが口の中で踊った。
 雲雀が置いていったカタログを手に取る。
 一度さらりと中身を見て、気になるページには付箋をつけておいた。夜の片付けが終わったら細かい説明にも目を通して、ほしいかなと思ったものにはチェックを入れるつもりだ。買ってくれるかどうかは別として。
 カタログを眺めていると、食器を持った恭弥がキッチンまでやってきた。「あ、ごめん」「いーよこれくらい。風呂入っていい?」「どうぞ」シンクに食器を置いた恭弥が鞄を持ってリビングを出て行く。カタログを閉じて汚れないところに置き、腕まくりして夜の片付けを開始した。
 夜は案外短い。みんなの夕ご飯とお風呂を見届けて片付けをすませた頃にはだいたい十一時が近い。早くて十時半とかになる。いつも最後にお風呂に入って、あまり浸からずに出る。どうやら俺は浸かるのは向かないようだ。
 なんだか暑かったから、下のジャージだけ履いてタオルでがしがしぞんざいに髪を拭って洗面所を出ると、ばったり恭弥に出くわした。「お、ま、着ろ、上を!」なぜか怒られて肩を竦める。「だって暑い」「気のせいだ勘違いだ、着ろ。風邪引かれたりしたらめちゃくちゃ迷惑だ」赤い顔で怒られたので、そんなに怒らなくてもいいのにと思いながら頭からTシャツを被った。恭弥は怒った顔のままずんずん洗面所に入っていって洗濯機に色々と放り込んでいた。
 がしがし髪を拭きながらリビングに行って、ソファに座る。
 今日も一日が終わる。いつものように。
 今日も何も思い出さない。何も思い出せない。もう諦めた方がいいのかな、と思いながらキッチンに置いたままのカタログを取ってきて、またソファに座り込む。贅沢をしてごろんと横になった。カタログを掲げてぺらりとページをめくる。
 雲雀が見ておけと言ったこのカタログには、食材から服からキッチン用品日用品その他まで網羅されていた。日本ものより海外ものが多く載っていて、もしかして気遣ってくれたのかなぁとぼんやり雲雀の無表情を思い出した。
 俺はまだ箸とか下手だし。和物より洋物に親しみが湧くから。だから、雲雀はこれを渡してきたんだろうか。
 ぺらり、とページをめくる。エスプレッソマシンのところに付箋があって、手が止まった。
 マシンがあれば家でカプチーノやカフェモカが作れる。いいなぁと思ってポケットに手を入れたけどペンがなかった。ああ、エプロンの中だ。手を伸ばしてソファの背もたれに引っかけているエプロンを引っぱる。ポケットの中のボールペンでチェックを入れて、次に付箋のしてるページに移る。
 バーミックスはどうしようかな。あると便利だけど、ないならないでどうにかなる。これは嗜好品の類というか。ああ、エスプレッソマシンだって同じようなものか。ないならないで、求めなければ困りはしない。
 どうしようかな。じっとページを見つめて、セット内容を見て、三年間無料保証っていう文字を見つめて、結局チェックを入れてしまった。雲雀がいらないって思ったらきっと却下するだろう。うん、そうしたら諦めよう。
 お菓子を作るのに、耐熱のガラスのボールがたくさんほしい。料理にもあると便利だろう。四個セットのやつを眺めてこれもチェックを入れた。今まで鉄のボールで上手にやってたけど、やっぱり耐熱がいいな。
 なんか、あれもこれもほしいな。付箋のあるページを眺めていると際限がなくなりそうだった。でも雲雀が見ておけって言ったんだから、見ておかないと。
 付箋をつけたページのほとんどでチェックを入れてしまった自分は、物欲がある方なんだろうか。そんなことを思いながら起き上がって目をこする。眠たくなってきた。そろそろ寝ないといけない。
 戸締りを確認して、カタログを持って部屋に戻る。パチンと灯りをつけるとレインボーローズの虹色が目に飛び込んできた。カタログを置いて指先で青い花弁を撫でる。
 こんなに高い贈り物。俺にはもったいない。返せるものだってろくにないのに。俺があげられるものは俺の時間とか労力とかそのくらいだ。お金はないしな俺。記憶も、ないままだしな。別にいいけど。寂しいけど、悲しくはないから。
 ぼふりとベッドに倒れ込んで虹色の薔薇を見つめて、目を閉じる。
 ここにいるから、みんながいるから、俺は空っぽでなくなる。胸の穴は少しずつ埋まってきている。俺はとして生きている。それでいい。昔の自分のことは知らない。家族の顔も、いたのかもしれない恋人も、仕事も、人柄も、全てが真っ白だ。
 でも大丈夫。俺は大丈夫。ここからまた生きていく。
 だからさようなら。過去の俺。
 むくりと起き上がってのろのろした動作で電気を消す。訪れた暗闇の中でばふりとベッドに倒れ込んで、もそもそ布団を被って、その日もすぐに眠りについた。

 夢を見た。白い地上にぽつんと立っている自分と、吹きすぎていく風の冷たさを感じるだけの静かな夢。目を覚ましたらすぐに忘れてしまうような瑣末な夢。
 遠くに誰かが立っていたような気がした。気がしただけで気のせいだったのかもしれない。
 俺はすぐに夢のことを忘れて、一日を始めるために着替えて洗顔してエプロンをつける。
 ようし、今日も頑張ろう、俺。