肌を吹きつけた風が冷たいと感じて、趣味でもないふわふわした生地の白いマフラーを口元まで上げた。
 いつの間にかもう手袋がいる季節になっていたらしい。気付かなかった。
 注意してよく景色を見てみれば、街路樹は葉を落として枝ばかりの寒い姿になっているし、道端には風で吹き溜まった枯葉がかさかさと音を立てている。道行く人はコート姿で、誰も彼も肌をあまり見せないようにと着込み、早足でどこかへと歩いていく。この寒い景色の中に一秒でも長くいたくはない、とでもいうように。
 歩く度にマフラーの両端についた白いボンボンが揺れるのがこの上なく鬱陶しいが、これを取ってやせ我慢して歩くほど僕も馬鹿ではない。
 踏めばしゃくしゃくと小気味いい音を立てる枯葉を踏みつけ、駅前から十分歩いたところに、僕の目的地がある。
 今日も寒空の下で温度以上に気分が冷え込むようなボロさを晒している二階建ての古いアパート。昭和何年に建てられたのか、とその耐久性を疑うような外見のアパートの一階、『雲雀』と殴り書きしてある錆びたポストの口から郵便物を引っこ抜けば、パラパラと鉄屑が舞って、思わず顔を顰めた。時代から置いていかれたようなボロアパートに現在も住み続けている人の気が知れない。
 ポケットに手を突っ込んで、複製の簡単そうな鍵を取り出す。三つ並んでいるうちの一番手前、集合ポストのすぐ横にある錆びた鉄製の扉に鍵を突っ込んで回せば、ガチ、と一度引っかかった。どこもかしこもガタがきているアパートの扉も当然危うい状態で、鍵を開けるのにさえ最近コツがいる。ドアノブを上から押さえつけながらじゃないと開かないのだ。本格的に駄目になってきてるな、ということを確かめながら解錠して扉を引き開ければ、ギギギィ、とこちらもまた古臭い耳障りな音を出す。
 古臭い扉を開けて中に入ろうとして、むせ返るような女のにおいが鼻について、思わず一歩引いた。
 女の香水臭さだけじゃない。男臭い。…性のにおいがする。
 またか、という苛立ち。いや、憤りにも似たものが一瞬で自分の中を埋めた。冬の景色と風に乾燥してカサついていた心が黒っぽい色をした何かで埋め尽くされ、唇を噛み締めながら狭い玄関口で靴を脱ぎ、一人分の膨らみを保っているベッドへ直行。伸ばした手で布団を引っぺがした。だらしない顔で寝転んでいた男が一人、布団を剥がされたことに気付いて身震いして薄目を開ける。
「寒い」
 ぼそっとぼやいて僕の手を払ってまた布団を被る姿に目を眇める。
 女の形はもうどこにもないのに、さっきまでここに女がいて彼と寝ていたという現実がよく見える。
 古い畳を踏み締めて窓際に行き、汚れて曇っている窓ガラスを開け放った。ぶわりと寒い風が舞い込んで狭い室内の空気をかき回し、女臭さも男臭さも性のにおいも全部ごちゃ混ぜにして、やがてそれら全部を外へとさらっていく。
「寒いっつの…!」
 情けない声で頭まで布団を被ってガタガタ震える彼を見て少し心が落ち着いた。が、早々に気分を害した事実は変わらないので、苛々した口調で言ってやる。
「換気くらいしてくれる? 胸糞悪い」
 吐き捨てた僕に、のそりと布団の合間から顔を出してこっちを見上げた彼。その顔にくたびれた金髪がぱらぱらと落ちて、悪いと謝るでもなく笑った彼は「恭弥もお年頃だもんな」とへらへら笑う。
 …僕はそういうことが言いたいんじゃなかったんだけど。それに、少しでも本気でそう思うのなら、十三になった僕をもう少し気遣えよ。
 どことなくだらしがないくたびれた金髪。ピアスは左耳に二つと右耳に三つ。上にひょろ長く幅はない。本人曰く自由人でいたいからと会社勤めはせずにバイト暮らしで生計を立てる、およそ駄目な日本人若者の典型。
 このだらしがない男は雲雀と言って、僕の親戚にあたる男だ。歳は僕より一回り上の二十五。顔は多分あまり似ていない。見てくれはまぁ最近の若者っぽく悪くはないけど、中身は全然駄目だ。理由? そんなもの決まってる。この人はとにかく女にだらしがない。
「あ、ミエちゃん? 俺俺。やだな詐欺じゃないよ。だって。忘れちゃった?」
 シャワーから出てきたと思ったら、さっそく携帯片手にぺらぺら喋っている。また女相手にだ。そんなを努めて無視しながら、届いていた郵便物を勝手に確認する。クレジット会社から先月の支払い高の知らせ、ファッション系のセールのはがき、ピザ屋寿司屋の適当なビラが何枚か。
 毎月十五万以上稼いでいるくせに、貯蓄する暇もなく毎月ほぼ使い切っているというのだから、一体何に浪費してるのか。そう思って明細書に目を通し始めたらばさっと取り上げられた。じろりと睨み上げる。彼は取り上げた明細を見ることなくスウェットのポケットに突っ込んで「いや、だから今度デートしないかなってお誘いをね……え? まじ? それまじで言ってんの?」女にかけるときはわざと明るい調子を作っている彼の声が沈んだ。鞄から『保護者への提出物』として預かってきたプリントを挟んだファイルを取り出しつつ、さりげなく彼の顔色を窺う。「そんなことないって。浮気なんかしてない」嘘を吐け。さっきまで違う女を抱いてたくせに。
 電話の相手に無実を訴える彼を馬鹿らしいと半眼で睨み、視線を外す。
 クリアファイルの中から『保護者の方へ』とされているプリントを出す。そこには授業参観についての案内と日付と日時が書いてあった。それからもう一枚。こちらは三者面談についての案内で、期間内の都合のいい日と時間帯を指定して提出するようになっている。
 …どうせこの人は仕事だから無理と言うに決まっている。僕に一番近しい人間として三者面談に付き合う気だってないだろう。そう、そんなこと話す前から分かっている。
 携帯から漏れ聞こえてくる女の声はヒステリックで、最初こそ相手を宥めるように言葉を選んでいた彼も、それが十分も続けばいい加減堪忍袋の緒が切れるというものだ。
「…わかったよ。じゃあもういい。バイバイ」
 ピ、と通話を切る音がした。淡白なバイバイの声を最後に彼が沈黙する。
 プリントから彼へと視線を投げると、はぁー、と長い溜め息を吐いてだらしなく畳の上に座り込んでいた。抗議するようにコール音を鳴らす携帯を鬱陶しそうに横目で見やって電源を切る。
 …これは、来るタイミングを間違えたな。改めてそう思ったものの、来てしまったし、上がってしまったし、今更用事はないんだ何となく来ただけ、なんて言えない。
 重くのしかかってくるような沈黙。携帯をベッドに放った彼が「あーあー」とだるそうにのびをして、僕の手にあったファイルを取り上げた。二枚のプリントに投げやりな目を向けるとうげっと分かりやすく顔を顰めて「またこれ系かぁ。何、俺に出てほしいの?」と卑怯な問いかけをしてくる。僕はそれに沈黙した。正直、よく分からない、というのが本音だった。
 僕の答えを求めていない独り言だったのか、がしがし金髪をかき回して「でもさーマズくない? いくら何でも俺じゃお前のとーさんには若いっていうか…老けてるように見せてくとか? それもやだなぁ。だいたい日付…もっと早くこういうのくれよ」そう言われても、それは学校側に言ってくれとしか言いようがない。一ヶ月前には次の月のスケジュールが決まる仕事をしている彼は「あー」とか「うーん」とか悩んだ挙句、さっき切ったばかりの携帯の電源を入れ、どこかに電話をかけ始めた。
 手持ち無沙汰な僕は、どうせならやってしまおうか、と宿題を取り出した。数学のプリント一枚の簡単なものだ。考えて答えないといけないような問題もなくて三分で終えてしまった。また手持ち無沙汰になり、「ええそうなんスけどね。親戚っこの三者面談てやつが…」と携帯に向かって参った顔をしている彼をちらりと盗み見る。
 行けないの一言で終わるものだろうと思っていた。実際、小学校の三者面談や保護者対談というやつに彼が来たことは一度としてなかった。中学生になって一度あった梅雨頃の授業参観と三者面談はやはり行けないと言われた。だからどうせまた駄目だと思っていた。
 期末テストを終え、冬休みに入るまでの間に、授業参観三者面談と詰め込まれている予定に生徒だってうんざりするのだ。当然保護者もその忙しさにうんざりする。は仕事で忙しいのだから余計に無理な話なのだ。
 そう分かっていながら話を持ってきて、そして今。通話を終えた彼が「はい、どうにか空けてもらいました。ちょっと遅れたらごめん」と言いつつ12/12に丸をつけ、時刻を最終の16時に指定した。
「……来られるの?」
「だから今空けてもらったの。ホントなら埋まってたの。感謝して。あ、授業参観は勘弁な」
 プリントをファイルに挟んで押しつけて返してきた彼の携帯がヒステリックな着メロを鳴らした。顔を顰めた彼がまた電源を切って、濡れて見栄えの悪いことになってる金髪をがしがしとタオルで拭き始める。「しつこいの困るなぁもう。そっちからフったくせに」とかぼやいてから、気付いた顔でベッドの脇のプレゼントっぽい包み紙に手を伸ばして、それを僕へと放った。ピンク色のキラキラした包装紙で赤いリボンが巻かれているそれを反射でキャッチしてから顔を顰める。何これ。
「あげるよ。今度デートでミエちゃんにあげようって思ってたけど、いらなくなったから」
 …あまりにも率直な理由だった。いらないから僕にあげるというのだ。自分で持っていても始末がつかない。だからあげる。
 それなら次の女に回せばいいじゃないか、と思いながら包みを開封する僕も僕だ。
 赤いリボンを解いてピンクの包み紙を剥ぎ取ると、中にはミトン型の手袋が入っていた。包装の派手さに似合わないキャラメルとブラウンの色使いの、肌触り的に、恐らく革製のミトン。一目見て日本のデザインじゃないなと理解する。二の腕まですっぽり覆うようなロングタイプで、試しにつけてみた。ちょうどピッタリだ。
「それけっこー高くてさぁ。恭弥が活用してくれたら嬉しいかな」
 そう言って笑う彼に、唇を噛み締め、ファイルを鞄に突っ込んだ。マフラーを巻き直してもらったばかりの手袋をつけて「用事それだけだから。ちゃんと来てよ、三者面談」と睨みつければ肩を竦めて返される。「前日に電話でもして。忘れてる可能性大アリだから」と悪びれたふうもなく言う彼を睨んでから立ち上がり、六畳一間の部屋を突っ切って靴に足を突っ込み、ギギギィと古い音を立てる鉄製の扉を押し開け、
「コート、そろそろ着ろよ。制服だけじゃ風邪引くぞ」
 扉を閉める前に飛んできた声に半眼を向ければ、ごみごみした部屋の中で着替え始めた彼がいる。これから仕事なのだろう。肌色のその背中が見えたとき、かっと顔に熱が上がって、それを誤魔化すために古い鉄の扉を蹴って閉めた。
 訪ねる度に毎度毎度女事情をちらつかせる彼が社会的に駄目な人間に分類されるということは理解していた。遊び人のような外見をしているし、定職にもつかずあんなボロアパートで最低限の暮らしをしながら浮いたお金を女へのプレゼント代にしてるような人だ。見習うべき大人の姿じゃない。それを理解しながら、僕は彼を嫌うことができないでいた。
 広いだけで何もない、誰もいない、無駄に立派な『雲雀』の表札がかかった家へと帰る。
 門から玄関まで十五メートルほどの石畳の道を歩いている途中、閑散としている中庭を横目で眺めて足を止めた。
 彼が五歳の僕を抱き上げながら、こんなのあっても俺は世話ができないし、お前も面倒見れないだろうし、いっそ売り払おうか、と言った顔を思い出す。彼はあのとき十七歳の高校生だった。あの頃からもう今のような遊び人の雰囲気を全体的に纏っていて、突然舞い込んだ僕という存在に、戸惑った顔をしていたっけ。
 視線を前へと戻せば、一人で暮らすには広すぎる和風の家が寒そうに身を竦めていた。
 両親が死んでからもう七、八年目になる。どちらだったかな。僕が十三になったのだから、八年目、という計算でいいのかな。
 引き戸の玄関扉っていうのもそろそろ時代遅れだ、ということを理解しつつ施錠を外して帰宅。寒さを感じることのなかった物がいいんだろうミトンの手袋を外し、無駄にふわふわしてるマフラーも外す。どちらも女にあげる予定が狂って僕に押しつけられたものだ。
 はぁ、と意味もなく溜め息を吐き、炊飯器だけはセットする。冷蔵庫を覗いて傷みかけたにんじんと豚肉の残りを見つけ、あとは味噌くらいしか残っていない冷蔵庫にまた一つ息を吐く。
 部屋に戻って制服から私服へと着替えた。男が着るには少し勇気のいるピンク色に大きなプリントのあるTシャツを誤魔化すためにカーディガンを着て、黒いコートを羽織って、白いマフラーとミトンの手袋をして、スーパーへ買い物に出る。
 今自分が身に着けているものの半分が彼が女に贈る予定だったものだ。それをいらないからと押しつけられて結局僕が使う破目になっている。
 …最近このTシャツが少しキツく感じるようになってきた。中学生になって十三歳を迎えた僕はまだ成長期だ。これから背も伸びるだろうし体重も増えるだろう。女もののピッタリしたシャツなんて着るのはそろそろ限界だ。このピンク色のTシャツをプリントが擦り切れるまでよく着たものだと自分を褒めてやりたい。
 にとって女というのは、高い金額を払ったプレゼントをしてでも引き止めておきたい存在なのだろうか。女というのはそれほどまでに抱けば男を魅了するものなのか。
 十三歳、まだ経験の一つもない自分には理解しがたいことに思いを馳せながら、淡々と冷蔵庫の中を考えて買い物をすませ、スーパーの袋をぶら下げて歩く帰り道。白いふわふわしたマフラーのボンボンが胸の辺りで跳ねているのを眺める。
 ……もしも僕が女だったなら、たとえ一回り下でも、彼は僕を女として扱っていたろうか。
 馬鹿なことを考えた自分を鼻で笑う。
 家の前まで来たところで、僕は女を見つけた。同じ中学の制服を着ている、同じクラスの。…名前は忘れたけど、顔には憶えがある。
 僕はクラスメイトに対して苛立ちを覚えた。相手が女であること、僕の家の前で携帯をいじっていた相手が僕に気付いてぱっと顔を上げた、その表情が、彼に媚びる女によく似ていたことが、僕の苛立ちを加速させた。
 に訊こう訊こうと思って結局訊かずに終わっていることがいくつかある。そのうちの一つに、女を抱いたらそんなに気持ちがいいものなのか、というのがある。
「あの、雲雀くん、おかえりなさい」
「…ただいま。うちに何か用事?」
「えっと、あのね、うん。用事なんだけど」
 いじらしくローファーの先を合わせる仕草とか、セミロングの茶色い髪とか、中学生のくせにうっすら化粧している顔とか、その全部が、気持ち悪い。吐き気がするくらいに。そう思うのに口と顔では甘い言葉を繕うのは、きっと彼に似たせいだ。彼が女に向ける甘い顔を僕も憶えてしまったのだろう。全く、腹立たしいことだ。どうして僕があなたに感化されないといけないのか。本当に腹立たしい。
 あなたが夢中になるほどのものを女って生き物が持ち合わせていると、そう言うのか。
(…それなら確かめてあげるよ。ちょうどいいのが目の前にいる)
 そう。ただそれだけの理由で、僕は目の前の女を獲物として、目を細め、彼を真似した笑顔を浮かべる。
「何もないけど、うち、寄っていく?」
 そう声をかけた瞬間の相手の顔といったら、本当に吐き気がするくらい、彼に媚びる女の顔と似ていた。