聞いた話だけど、雲雀の家に生まれるのは決まって美男美女であり、たいてい凡人よりズバ抜けた才能的な何かを持って生まれ落ちるもの、らしい。
 しかし。雲雀の人間の一人であるはずの俺は、顔はまぁフツーより上くらいのデキで、頭のデキにいたっては俺は雲雀の血を受け継いでないんかなと思うくらい底辺だった。努力はしてみたができんものはできんと投げ出した中学二年生、一年先の受験生の気持ちなど思いやれるわけもなく勉強を投げ出して遊び呆けた。結果、底辺の方の高校へしか入学できず、ガラの悪い奴らが集まっている高校で浮かないためにも頭を金髪にしてピアスを開けたりして自らもガラの悪い連中の一員となり、まぁ頭が悪かったことも手伝って、俺の学生生活というのは高校で終了した。
 それ以外に俺が学生を続けられなかった理由が一つある。雲雀恭弥という親戚っこの両親の事故死だ。
 ついこの間、お盆に初めて会った五歳の子供。黒い着物を着て人形みたいな顔をしていた、あまり喋らずあまり動かない壊れ物みたいな恭弥が、五歳で独り身になってしまった。その話を聞いて、俺は学校を飛び出して雲雀家にすっ飛んでいった。
 俺の親が慌てふためきながらも葬儀や通夜の手配をするために電話をかけまくっている。そのそばで立ち尽くしていた無表情の恭弥を抱き上げた。軽かった。この前と同じだ。五歳の子供はまだ全然軽い。
「恭弥?」
「……、う」
 俺が呼んだら、それまで人形のように整っていた顔がくしゃっと歪んだ。声を上げて泣き始めた恭弥を持て余しつつも、よしよしとかびっくりしたなーとか適当な声をかけながら居間から連れ出した。
 黒い着物の小さな背中を撫でる。ぼろぼろ泣いている恭弥がしゃくり上げる度に震える細い子供の背中。
 ああ、嫌なことを思い出した。
 ついこの間の夏。恭弥と初めて会った真夏の日。義務的に墓参りに参加した金髪ピアスの俺は、人形みたいに整った存在の恭弥と出会ったのだ。

 まだ小さいから、と大人の会話についていけない恭弥と大人の話に興味もない俺を追い出した大人組。寺に墓という何もない真夏日の下に追いやられて、途方に暮れた。子供の相手なんてしたことがないから接し方が分からないし、こんな人形みたいなの相手にどうしろっていうんだ、と湿っぽい息を吐く。
 じりじりと痛い真夏日の下、表情のない恭弥を眺めて、おもむろに手を伸ばして頬を撫でると、温度があった。着物なんか着てるせいで本当に人形じゃないかと思った自分を笑う。そんな俺を丸い目で見上げた恭弥の黒い瞳には、なんというか、引力があった。見てると吸い込まれそうな黒。ブラックホールみたいな。顔が整ってる分だけその引力が強い気がして、将来きれいになるんだろうなぁと思ってから、恭弥って男だっけ、と首を捻る。名前からしたら男なんだろうけど。
「お前、男の子?」
 こっくりと一つ頷く恭弥。
 ここでふーんと納得すればいいものを、本当に男なのか、と顔を顰めた当時の自分が取った行動を切実に呪いたい。
「ちょっとおいで」
 そう言って恭弥の小さな手を握ってトイレに連れ込んだ。寺の内部のトイレの方がきれいだからだろう、外付けのこっちのトイレには人の姿もなく、すぐ近くの木で鳴き叫ぶ蝉の声が耳に突き刺さる。その向こうから人の声や車の音は聞こえたけど、蝉の叫ぶ数が増えるほど、全ては遠くなっていった。
 着物の脱がせ方なんて知るはずがないので、小さい恭弥を抱き上げて、灰色の袴の間から手を入れる。人形みたいに動かない表情をしてるから汗なんてかかないのかと思ったけどそんなわけがなかった。袴の中は人肌で少し湿っぽい。俺のワイシャツと同じく汗を吸っていた。びくっと小さくなった恭弥に「ちょっと確かめるだけ。あとでジュースあげるから」と缶ジュースで釣ると、恭弥は唇を噛んで黙った。聞き分けのいい子だったのだ。だから俺も続けてしまった。恭弥の下着の上から撫でただけじゃよく分からず、中に手を入れて感触を確かめるまでやってしまった。
 本当に男の子でした。こんなにきれいな顔してるのに。
「あー、そうだ。トイレにいるんだしトイレすませとこう。な?」
 黙ったまま涙目の恭弥にさすがにまずいことをしたと気付く俺。遅い。
 トイレに行きたかったのか、もたもたと小さな袴を解いた恭弥。うーんやっぱり男の子か、と腑に落ちない部分を抱えつつも、恭弥がトイレを終えるまでを見届けて袴を穿くのを手伝ってやり、しっかり手を洗う。その後缶ジュースを三本奢った。炭酸とオレンジとフルーツ。その頃にはちびちびジュースを飲む恭弥は人形のような顔に戻っていたので、やばいことをしたと内心焦っていた俺は、ジュースで手を打ってくれた恭弥に心底ほっとしたものだ。

 そんなほろ苦い記憶を辿りつつ、両親の声が聞こえない縁側まで行って障子を閉めた。大人の会話は恭弥にはまだ早い。
 …さて困ったぞ。手持ちに恭弥が興味を引くようなものがない。五歳の子供相手に十七歳の俺はどういう行動に出るべきですか。前回の失敗があるだけに、まだ鼻を鳴らして泣いている恭弥に取るべき行動が分かりません。
「あー、散歩、でもする? 庭きれいだし」
 とりあえず、目の前にしている日本庭園を指してそう提案してみる。涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔をした恭弥に、あーあ、とべったり濡れた制服を哀れむ俺。ズボンのポケットを探ると奇跡的にハンカチが出てきたので、くしゃくしゃのそれで恭弥の顔を拭った。
「おいで」
 縁側から外へ出るために下駄が置いてあったので、それを履いた。恭弥用に小さな下駄も置いてあって、もたもたと下駄を履いた恭弥が俺に追いついて小さな手を伸ばす。握れ、とばかりに黒い瞳に見上げられると、その引力に負けていた。大人しく小さな手を握って砂利道を下駄を鳴らして歩き、鯉の泳ぐ池にかかる橋を渡り、京都にありそうだと思う日本庭園の景色の中をじゃりじゃりと歩く。
 ようやく泣き止んだ恭弥は無口だった。墓参りのときもそうだったけど声を出さない。「恭弥?」と呼びかけても見上げられるだけで返事はしないし。まさか口が利けないとか、ないよな。
「喋れる?」
「……しゃべれる」
 ぼそぼそした声になんだと吐息したところで、手を握っている方の着物の袖がずり落ちて、包帯が見えた。着物が黒いせいか、肌よりもずっと白い包帯が目に痛い。「恭弥それ何?」と包帯を指すと居心地悪そうに顔が俯く。「…けが」「怪我? 転んだ?」ぶんぶん首を横に振られる。「じゃあどした?」と再び抱き上げて目線を同じにすると、おっかなびっくりという感じで着物の袖を持ち上げ、包帯をしている細い腕を見せてくれた。結構広範囲にぐるぐる巻いてある。
「あの…」
「うん」
「くるま、から、おちるときに、すった」
「…ん?」
 車から落ちるとき? なんだそれ危ないな。でもなんで恭弥が車から落ちるんだ? とその状況がイマイチ想像がつかない俺に、視線を俯けた恭弥がぽつぽつと話してくれた。
 お父さんとお母さん、自分の三人で山の別荘へ行ったこと。三泊四日の小旅行、その帰り道で、山沿いを走っていた車がバランスを崩したこと。自分はそのとき外へ放り出されて無事だったこと。この怪我はそのとき作った傷。そして両親を乗せたまま、車は傾斜のある地面を転がり落ちて、遥か下の方で静かになったこと。
 恭弥の両親が事故死したというのは聞いていたけど、まさかそういうことだったとは。
「あー、ごめん、ごめんな。もういいよ。分かったから」
 ぼふっと恭弥の頭を自分の肩に押しつけ、中庭を歩き続ける。嫌なことを思い出させてしまったろう。両親が死んだ場面など、きっと思い出したくもなかったはずだ。もしかしたらまたびーびー泣くかも。それもしょうがないな、と覚悟して小さな背中をあやす。
 さっきのでもう泣き疲れたのか、涙が涸れたのか。恭弥はうんともすんとも言わず、俺のシャツを握って黙りこくっていた。
 ピピピピピとやかましい音で覚醒を促され、手を伸ばして携帯のアラームを止めた。
 何時、とデジタル表示を見れば十五時半。なんでこんな時間に目覚ましなんか、とうつらうつらしそうになり、それまで見ていた夢のせいもあってがばっと起き上がる。
 そうだった。今日三者面談だった。仕事空けてまで時間作ったんだ、さすがに行かないと。
 金髪にピアス開けまくりの若いのが来たら先生困るだろうなぁ。恭弥だって、俺なんかが親代わりに来たって嬉しくもないだろうしな。いや、三者面談てそもそも嬉しいイベントじゃないけど。まだ授業参観に出た方がちょっとは嬉しかったかもしれない。チョイス間違えたかな俺。
 まぁそれも今更だ、とスーツに着替えようとして、やめた。それではあまりにチャラい。ここは無難にカーゴパンツにヒートテック、ベスト、ジャケットでいこう。足元はブーツで。少なくとも安っぽいチンピラと見られるよりはいいはず。
 さっさと着替えてさっさと家を出た。バイクなぞ持つ経済的余裕もないので歩きだ。そうするとかなり時間ギリギリになる。気持ち早足で並中へ急ぎながら、今更見てしまった八年前の夢を思い出していた。
 あれから俺が高校を出るまで、あの家で二人で過ごした。時間的には一年と少しの間といったところか。
 親父の急な転勤が決まって、おふくろがそれについていき、うるさい親元を離れたいと思っていた俺はこれ幸いとばかりに恭弥の世話をするという名目で二人のもとから離れた。
 恭弥の家はお金はたんまりあるらしく、遺産という形で恭弥名義で使えるお金になっていた。五歳児でも恭弥自身のサインと同意が必要だったので、恭弥と一緒に暮らすのにお金が必要なんだよと説明。五歳児から金騙し取るほど腐ってはいなかったので、純粋に、恭弥と一緒にやっていくためにいるんだと言った。黙って頷いてひらがなでサインした恭弥のお金で暮らした一年と少し。思えばあの頃の恭弥が一番輝いていた。俺みたいな半チンピラに物怖じせずついてきたし、手を伸ばしてきたし、笑っていた。
 そう。笑っていた。
「えー、並中は、と」
 昼間でも車の行き交う交差点で、恭弥と同じ制服の男子生徒を見つけて道を訊いた。「ねぇ並中ってあっち?」「あ、いえ、向こうです、けど」微妙に訝しげな顔をされる。不審者扱いは嫌なので「さんきゅ」と残してさっさと離れた。携帯で時刻を確認する。ちょうど十六時。ごめん恭弥、五分遅れる。
 そういえばこういうときに連絡に便利な携帯。まだあいつに持たせてやってない。契約だけしてやろうか。お金は恭弥の口座から引き落としにすればいいし。
 見えてきた校舎に背伸びしたところで携帯が鳴った。非通知だ。公衆電話から。「はいはい」と出ると『今どこ?』と恭弥の声がした。「見えたよ並中。もう五分待って」と伝えると沈黙が返ってきて、ガチャンと通話が切れた。乱暴だ。
 ポケットに携帯をねじ込んで軽く走る。門をくぐり抜けた辺りで「どちら様ですか?」とスーツの先生っぽい人に止められた。訝しげな顔をされてる。言っておくけど不審者じゃありません。
「あー、すんません、三者面談に来たんですけど」
「…保護者の方ですか。それなら教員口からどうぞ」
 お前みたいな若いのが保護者? と顔に出してるおっさんに悪かったなぁと営業スマイルを返しつつ、あっちだと示された教員口に移動。階段を上がってガラスの扉を押し開け、来客用のスリッパに履き替えた。一応案内板が出ている。一年生はー、渡り廊下の向こうか。
 スリッパをぱたぱた鳴らしながらジャケットのポッケに手を突っ込む。
 学校なんて来たの、かなり久しぶりだ。頭もよくなかったし仲のいいセンコーとかもいなかったから、卒業して学校に遊びに行くってこともなかったし。学校って空間に久しぶりに足を踏み入れたな。黒板にチョークなんて懐かしいアイテムだ。
 と、渡り廊下の中程辺りで向こうからやってきた女子二人組に「こんにちわぁ」と挨拶された。「ちわ」と薄笑いで挨拶を返す。きゃーと背中越しに騒いでる女の子が青い。女子中学生から見たら二十五の俺なんかおっさんだろうに。若いなぁ。
 恭弥のクラスは一年D組だっけ、と探そうとして、制服のポケットに手を突っ込んで人待ちしている恭弥を見つけた。一瞬だけ小さな恭弥が俺を見つけて駆け寄ってくる姿が重なり、溶けてなくなる。あんなにかわいかった恭弥はもうどこにもいない。ようやくやって来た俺を遅いと睨んでくるかわいくない恭弥がいるだけだ。
「遅い」
「ごめんて」
 さっさと歩いていく恭弥に続く。16時最終時間の面談なので、残っている人の方が少ない。静かな廊下をスリッパをぱたぱた鳴らしながら歩いて、学校という懐かしい空間を眺める。あの頃は馬鹿しすぎたなぁとか思う辺り俺も歳を取ったってことだろうか。やだなぁそれ。
「恭弥さ、学校楽しい?」
「は? 何それ」
「いや、特に意味はないけど。楽しんでる顔じゃないよなーって」
 ぷに、と恭弥の頬をつつくと睨まれた。俺の手を振り払った恭弥がD組の教室の扉を開け放つ。答えるまでもない、ってか。
 …全く。小さいときはあんなにかわいかったのに、なんでこんなにかわいげのない子になっちゃったかなぁ。
 恭弥の担任はまぁ先生としてフツーの感じの中年のおっさんで、恭弥の成績、生活態度など基本的なことを話したくらいで終わった。春の面談に来なかったことを軽く注意されたくらいだ。
 夕方、手袋もしてこなかった手をジャケットのポッケに突っ込み背中を丸めて歩く俺の隣に恭弥がいる。いつかにあげた白いふわふわしたマフラーを巻いて、こないだあげたそれなりに高いミトン型の手袋をしていた。そうしてると女の子に見えないこともない。
 もう陽が沈み始めた空は、三十分もしないうちに暗くなるだろう。冬だな。つるべ落としってやつ。沈み始めたらあっという間だ。
「恭弥は頭いいんだな。知らなかったよ」
 この間あったらしい期末テストで上から三番目を取ったという恭弥を先生が褒め称えていたので、同じように褒めてみると、ぶすっとした顔をされた。雲雀の名を持つ人間はたいていが美男美女でズバ抜けた能力を持つ、という話を今更ながらに実感する。それは俺には当てはまらなかったし、俺の両親にも疎遠な言葉だったけど、恭弥にはばっちり当てはまる。
「お祝いあげるよ。なんか奢ってあげよう」
 その手袋で叩いたばっかで懐が寂しいんだけど、学年で三番目を取った恭弥を褒めないわけにもいかない。俺なんか下から数えたらいくつって底辺を漂っていた馬鹿だっただけに、上から数えてすぐ名前が上がる恭弥の頭が素直にすごいと思う。
 が、肝心の恭弥は眉根を寄せてアスファルトの冷たい地面を睨んでいた。
 …いらないのか? お祝い。そう高いもんでもなければ買ってあげるつもりでいるのに。
 思春期に入ってからさらに口数の減った恭弥の考えていることがさっぱり分からず、何も言わない恭弥に俺も閉口気味である。「まぁ、なんか思いついたら言ってよ」とりあえずそう繋げると、こくり、と恭弥が頷く。その姿がちっさい恭弥に重なって、そんな自分が馬鹿だなぁと心底思った。