吐いた。胃の中のもの全部。
 昼に食べた給食がなんだったかうっすら分かるような、そんな胃の中身を吐き出して、空になるまで全部吐いた。それでも吐き気は治まらず、何度となく訪れる鳩尾を殴られるような感覚にどこか黄色い胃液を吐き出して、水道水で押し流した。げほ、と咳き込んでうがいをする。何度も、何度も。
 口の中が胃液臭い。吐瀉物のすえたにおいが鼻をつく。ああ、最悪だ。こんなに吐いたのは小さいとき車酔いして以来じゃないだろうか。
 げほ、と咳き込みながら洗面台の水を全開にする。形容しがたいごちゃ混ぜの汚いものが水に押し流されていくのをぼんやりした意識で見送る。
 それが僕の初めての感想だ。
 できなかったわけじゃない。しようと思えばできた。ただ、それは気持ちのいいものではなかったし、どちらかと言えばあとでこうして吐くような、僕には理解できない気持ちの悪いものでしかなかった。
 細い身体も、まだ小さい胸も、異性の秘部も、僕には響かなかった。必要以上に鳴く声も、赤い顔も、跳ねる身体も、全部記憶から削除したい。忘れたい。
 女を抱いたら彼の気持ちを少しは理解できるのではないかと期待している部分もあった。だからろくに名前も憶えてなかったクラスメイトを抱いた。
 だけど、得られたものはなかった。彼が女を抱く気持ちがいっそう分からなくなってしまったし、彼をこれまで以上に遠いと感じてしまった。
 そんなことが知りたかったわけじゃない。埋めようのない溝と距離を知りたかったわけじゃないんだ。僕は、ただ。
 家着のスウェットを脱ぎ散らかして風呂場に入り、頭からシャワーを被って、とにかく身体をきれいにした。全身がべたべたと気持ちが悪く、その粘る感じが彼の部屋を開けたとき絡みついてくる女臭さに似ている気がして、とにかく、そんな自分が嫌で、石鹸の泡まみれにして蹲る。また鳩尾が気持ち悪い。
 何も吐くものがなくてもえずくだけえずき、胃液を吐き出して、涙の滲む視界をこする。
 気持ち悪い。身体の外も内も全部気持ち悪い。内蔵も骨も筋肉の繊維も全て取り出して一つ一つ石鹸できれいにしたいくらいに気持ち悪い。皮膚の内側まで暴いてきれいにしたい。全部、気持ちが悪い。
 ザアアアと降る雨は熱いのに、蹲るタイルの床はとても冷たい。足元は冷えているのに背中にかかる雨は熱い。その温度差が吐き気を誘う。
 吐きたくてももう胃は空っぽだ。それでも唾やらなんやらを吐き出して、震える手で泡だらけにしたタオルを握り、肌をこする。まだ気持ちが悪い。何度洗っても気持ちが悪い。
 泡にまみれてもシャワーの雨がすぐに洗い流し、汚れた身体を晒していく。
 僕は女が抱きたかったわけじゃない。の気持ちをもう少しでも分かりたいと手を出したけど、間違いだった。
 おかげで僕は知ってしまった。彼と自分の間にある距離の長さ、溝の深さ。
 僕はただ彼にそうやっていつかのように触れてほしかっただけなのだと、気付いてしまった。
 それが苦しい。泣けるくらい苦しい。
 初めて夢精したとき、僕は彼に抱かれていた。それが勘違いであってほしいと祈って願って、この一年、自分を褒めてやりたいくらい彼との不用意な接触を避けてきた。当然口数も減ったし、あのボロアパートに寄る回数も減った。はそれを思春期がどうたらって簡単に納得して片付けていた。
 そんなあなたが、憎い。
 もっと僕のことを気をつけてくれたっていいのに。こんなに一人で苦しんでいることを、察してくれたって、いいのに。

 シャワーの音が乱反射する浴室内に響いた自分の声は震えていた。吐きすぎて喉がイカれている。泣きたいわけでもないのに声が泣きそうだ。
 彼を呼ぶ自分の声は、その存在に縋っていた。
 どれだけ憎いと思っても、嫌いだと念じてみても、僕はあのだらしない人を忘れられない。社会的に駄目で女にもだらしがない人だと分かっていたけど、初めて触れられたあの日以来、その細長い指が忘れられない。
 あの指に触れてほしい。全身を。撫で回して、追いつめて、なかせてほしい。
 あの指になら。眼球を抉り取られても構わない。あの指になら、性器に触れられたって構わない。あの指が欲しい。足元から這った指が自分のものに触れるのを想像して、触れられたことを思い出しながら自分を慰める。僕の自慰はいつだってそうで、女の身体を想像して抜いたことなんて一度としてなかった。

 吐き出すように名前を呼ぶ。何度も呼ぶ。もう小さな子供ではなくなった僕のもとへ彼が飛んでくることはない。泣き叫んでももう来てくれない。彼は泣き叫ぶ僕よりベッドへ誘う女の手を選ぶ。その光景が簡単に想像できて、泣きながら、それでもあの指の感触を求めて、ないた。
 彼が僕に触れたのは、親戚として初めて顔を合わせたお盆の真夏日、墓参りのときだった。
 彼は頭を金色にしてピアスもたくさん開けていた。僕はそういう人に初めて会ったから、彼の賑やかな身なりに気を惹かれたことをよく憶えている。
 難しい話をしている大人達の輪から追い出され、真夏の陽の下、太陽の熱を吸ったアスファルトからは陽炎が揺れていた。
 ぼんやりそれを眺めていると、唐突に肌を撫でられた。びっくりして顔を上げると彼が僕を見ていた。そして、男の子なのかと訊かれて頷いて、なぜかトイレに連れ込まれて、そこで触られた。
 確かに小さい頃はきれいな顔立ちだからとよく女に間違われた。彼も僕を女じゃないのかと疑い、確かめるために揉みしだくことまでしてきたのだ。そんな人今までいなかったからどうしようもなかった。どこへ行ってもお行儀よくと親に言いつけられていた僕には声を上げて抵抗するなんて選択肢は思い浮かばなかったのだ。
 そんなふうに触れてきたのも彼が初めてなら、赤の他人に無遠慮に抱き上げられたのも初めてだったし、そのあとジュースを三本も奢ってくれたのも彼が初めてだったし、喉を刺激してくる炭酸を飲んだのもそのときが初めてだったし、あの日は本当に何もかもが初めて尽くしで、色んな意味で僕の世界は広くなった。
 妙なことはされたけど、まぁ、彼の第一印象は悪くなかったのだと思う。少なくとも僕にとっては。
 厳粛な両親は当然派手な彼をよく思っていなかった。お寺にあった紙風船を膨らませ、ふわふわ頼りないそれをボールみたいにパスして遊んでいたら、やって来た両親に遮られるようにして連れ出された。僕が打ち上げるはずだった紙風船がぽてっと間抜けに地面に落ちた様と、それを拾った彼がひらひらと小さく手を振ってバイバイと口にしたことがとても印象的で、手を伸ばす。どんなに懸命に手を伸ばしても紙風船にも彼にも短い手が届くことはなく、僕は黒い車に押し込まれるようにして墓地をあとにするしかなかった。
 基本的に両親は口答えを許さない。僕はだいたい貝のように黙って両親の言葉に頷くのだけど、今回だけは抵抗した。
「まだあそぶ」
「いけません」
「どうして?」
「お前とは住む世界が違います。かかわってもろくなことはありません」
 ピシャっとした口調で断定する母親を涙目で睨む。もう墓地はすっかり遠くなり、どれだけ足掻いても僕があそこに戻ることはできない。
 うー、と後部座席で小さくなって鼻をすすっていると、父親の呆れた溜め息が聞こえた。「なんだってあんなチンピラに懐くんだ」と言われて、チンピラの言葉の意味は分からなかったけど、彼を悪く言っているということは理解した。後部座席でばたばた暴れる。別に悪い人じゃない。それなのにどうして二人はあの人を悪く言うんだ。
 そこで、僕は彼の名前も知らないことに気がついて、ふいに、恐ろしくなった。
 お墓とお寺という場所で出会ったせいだろうか。それとも、親戚ということだけが分かっていて、それ以外の彼を全く知らないということに気付いたせいだろうか。もう会えないような気がして、僕は泣いた。みっともなく泣いて後部座席でばたばた暴れていた。…僕にもそんな子供の日があったのだ。
「げほ」
 何度も吐いたせいで喉がおかしなことになっている。痛む喉をさすって水分だけは取らなくてはとスポーツ飲料を飲んで、片付けないとならない食材の調理はしてみたけど、また吐くかもしれないのに食事をしようという気にもなれなかった。濡れた髪のまま彼が部屋着にしているものと同じスウェットで居間の畳に座り込む。
 結局妄想で自分を慰めることしかできない。この身体は、女を抱くことはあっても、抱かれることはない。
 …どうして僕は女でなかったのかと両親を恨みたくなる。女だったら上手くいった。たとえ一回り違っていたとしても上手くやっていた。
 濡れた髪をタオルで拭いながら、暇潰しで買ったテレビをつける。適当な番組がやっておらず、再放送の映画にしておいた。何か違うことに気をやっていないとまた吐きそうだ。
 明日、どんな顔をして登校しようか。まぁ、いつもの顔しかできないだろうけど。
 はぁ、と溜め息を吐いたとき、ピンポーンとチャイムが鳴った。宅配を手配した憶えもない。眉を顰めて振り返り、そろそろと廊下を歩いて玄関口に常備している釘打ちバットに手をかける。何かまずい相手だった場合これで顔面強打するつもりで作成したものだ。まぁ、暇潰しの産物ともいうけど。
「恭弥ぁ俺だよー」
「、」
 不意打ちすぎたその声に、ぽろっと手から釘打ちバットが離れた。ガランと大きな音を立てるから慌てて傘立ての中に突っ込んで傘で隠す。「恭弥?」「今開ける」もたつく手で解錠すると、ガラガラ引き戸を開けたが「ほい」とビニール袋を突き出してくる。何それ、と顔を顰めつつ受け取って、少しだけ触れた肌を、求めている自分がいた。それを誤魔化すようにその手から袋を奪い取って中を見ると、タッパに入ったチンジャオロースがある。
「あげるよ。それ、俺の嫌いなピーマン入っててさぁ」
「……買ったの?」
「買うならピーマン入ってないものにするって。アイちゃんがねー好き嫌いはいけませんよってわざと作り置きしてったんだよ…」
 げんなりした顔をしてはみせるが、まんざらでもないとでも言うのか、口元は笑っている。「で、捨てるのはもったいないと思ったんで育ち盛りの恭弥んとこに持ってきました。そんだけ」じゃーね、とあっさり背中を向ける彼に「あ」と言葉が漏れた。首を捻って「ん?」とこっちを振り返るくたびれた金髪の持ち主に、言いたいことが、たくさん、ある。
(僕ね、女を抱いたよ。気持ち悪かった。僕はあなたみたいにはなれないみたい。あなたのこと、理解できないみたい)
 小さい頃はあんなに手を伸ばしていた。届かないことが恐ろしかった。遠い彼を捕まえようと、できるかぎり手を伸ばしていた。それを躊躇うことなんてなかったのに、どうしてだろう。僕はいつからあなたに手を伸ばすことさえできなくなったのだろう?
 黙ったままの僕に首を捻っていた彼も、外気にぶるりと震えて革ジャンの腕をさすって「バイバイ」と足早にここを去っていく。いつかにはここが家だったのに、学校からここへ帰ってきてただいまと言っていたのに、それを出迎えておかえりと彼に飛びつく自分がいたのに。そんな風景、もう、この家のどこにもありはしない。
 いつかにも聞いたバイバイの台詞。それに手を伸ばした幼い自分。
 …今の僕は、彼のバイバイに打ちのめされ、うなだれるだけで、夜の気配の中に溶けてしまった彼にすら手を伸ばすことができないでいる。