「ほれ、食べてみなさい。吐いたっていいから」
 そう言って腕組みしたに、そろそろとスプーンを握った。彼が僕のために卵と梅干し入りのお粥を作ってくれたのだ。最近何を食べても家で吐いていた僕は、そろそろとスプーンでお粥をすくって慎重に口に運んだ。また吐いたらどうしようという思いが必要以上に意識を喉に向ける。
 熱すぎないお粥を飲み下すと、喉を通過して胃に落ちていくのがよく分かった。
 ただのお粥なのに、彼が作ったものというだけで身体が受け入れていた。吐き気はない。鳩尾辺りが気持ち悪いということもない。「食べられそう?」こくりと頷くと彼が次の調理にかかった。「じゃー栄養の足りてない恭弥のために野菜スープでも作りますかねー」といつもの軽い調子で冷蔵庫から野菜を取り出す姿を眺めながら黙々とお粥を食べた。吐き気はこない。こんな簡単なお粥だけど、おいしい。久しぶりに彼が作ったものを食べた。何でもない味だけど、やっぱり、僕にはおいしい。
 …今包丁を握ったあの手が、あの細長い指が、さっき僕のを扱いていたのだ。そう思うと頬が熱くなる。妄想でしかなかったあの指の感触が本当にまた僕に触れた。僕をイかせた。
 自分でするのと他人がするのじゃどうしてこうも感度が違うのだろうか。
 同じ人間の形の手なのに、彼の指や掌が熱くて、包み込まれたら、もうどうしようもなかった。なるべく長く触れていてほしい、その指の形を、掌の感触を全部憶えていたい。そうやって我慢したつもりだったけど強く爪を立てられたら呆気なくイッてしまった自分が情けない。
 そう、それに、キスしたんだ。今は適当な鼻歌を口ずさんでるあの唇と。
 どうしよう。顔が熱い。
 彼の指と掌に翻弄されて、あのときの自分がどんな顔をしていたとか分からない。どんな声だったかも分からない。意識すればするほどあの指が性器だけじゃなく全身を撫で回してるようで、目の前がくらくらと揺れていて、そんな自分の意識を現実に繋げることでいっぱいいっぱいで。
「ピーマン入れるー?」
 彼の声に我に返る。お粥をすくって「どっちでもいい」と言うと「じゃあやめよ」と自分の嫌いなピーマンをよける
 ピーマンが嫌いだなんて子供みたいだな。まぁ、子供みたいな人だけど。
 水分補給にスポーツ飲料を飲んで、お粥を空にして、受けつけているお腹をさする。
 あんなに吐いていたのにな。不思議だ。魔法みたい。浮ついたことを考える頭でぼんやり彼の背中を眺めた。片手鍋に適当に刻んだ野菜を入れて火にかけている。どうせ男料理のごった煮なんだ。別に、それでいいけど。
「あ、そうだ。俺ねぇ正式採用決まったんだ」
 鍋にコンソメの欠片を割り入れる彼の言葉に一つ瞬いた。「正式採用…? 仕事?」「そー。長いこと駅前のバーテンダーやってたんだけど、店長がさ、俺を認めてくれたんだよ。もちろんこれまで以上に頑張るって話なんだけど、初めての正式雇用だよ。やった」お玉を突き出してガッツポーズを取る彼に何となく複雑な気持ちになる。
 それは、社会的に駄目だったあなたが、いい意味で世の中へ入っていくということなのだろうけど。ただでさえ遠いあなたがさらに遠い場所へ行ってしまうような気がして少し怖い。
 ずぅん、とお腹が重たくなった気がして、前のめりにテーブルに寄りかかる。やっぱり急に食べすぎたろうか。
「恭弥? 気分悪い?」
「…お腹が重たい」
「って、全部食べたのか。そりゃあ…。ちょっと待ってろ」
 鍋の火を止めた彼が居間を出ていく。お腹を押さえて待っていると、布団を抱えた彼が戻ってきた。居間の和机を隅に寄せて敷き布団を敷いて羽根布団を広げる。最後にぼすっと枕を置くと僕に手を差し伸べた。
「横になった方が楽。おいで」
 …おいで、ってなんて甘い響きの言葉なんだろうか。じいんって頭の奥まで痺れさせるようだ。
 細長い指とその声にふらふら寄っていって布団に膝をついた。「恭弥、湯たんぽは? それか電気あんかとか」「ない」「まじ」もそもそ布団に入った僕を寝かしつけるとがしがし金髪をかき回して、「あー、じゃあちょっと買ってくる」と立ち上がるから、反射でデニムの裾を掴んだ。せっかくこの家に来たのに、このまま見送ったらがまた帰ってこない気がして、行かせたくなかった。
 手を伸ばすことを躊躇ったら駄目だ。離したら駄目だ。僕が諦めたら、この人は行ってしまう。
 僕を見下ろしたがしゃがみ込む。細長い指が僕の髪を撫でつけた。そんなふうにされたのは、随分と久しぶりだ。
 いや、そもそも、こんなふうに長い時間を過ごしたこと自体久しぶりなのだ。
 ああ、なんだかすごく泣きたくなってきた。
「…俺が湯たんぽでもいいか。狭くなるけど」
 ぼやいた彼が布団の中に入ってきて、その体温が近いことに心臓がとくとくと早鐘を打ち始めた。顔が熱いと俯いた僕を抱き寄せた腕を意識してしまう。
 抱き寄せられて、ジャケットの胸に顔を埋める形になって、密着した身体に、頭の中がぐちゃぐちゃになる。目の前のこと以外が何も考えられない。
「寝転がってた方が消化にいいんだよ。で、あったかくした方がもっとお腹に優しい。食ってないんだろ? 吐いてたのがなんでか知らないけど、順番に食べてけば大丈夫だよ」
 耳が孕むくらい近くで声がして心臓がひっくり返る。
 どくどくとうるさい。これじゃあくっついてる彼に伝わってしまうじゃないか。
「………でも」
「まぁほら。なんていうの? 電話のおばちゃんにも怒られたしさぁ。俺ももう少し保護者っぽくならないとなって。バーの仕事決まったわけだし、あそこ引き払ってここに戻ってくるよ。調子悪いときくらい飯作ってやる」
 あまりに僕に都合のいい言葉に、思わず顔を上げてしまった。くたびれた金髪にピアスの光る耳。「あ、迷惑?」と首を捻った彼にぶんぶん頭を振った。
 迷惑? そんなわけがない。あなたがここへ帰ってきてくれたら、僕は、とても、嬉しい。
 苦笑いをこぼした彼が僕の背中をあやすように撫でた。ふわふわ香るのは彼がいつもする香水。あと、それ以外の香りがいくつか混ざっている。それからちょっとお酒臭い。彼は朝シャワーを浴びてすませる人だから、僕のことを聞いてシャワーも浴びずに出てきたのかもしれない。
 足早にこの家に向かう姿を想像して、胸があたたかくなる。
 どうしよう。嬉しい。
「腹は?」
「……大丈夫」
 彼の手が僕の腹部をなぞった。おへその上辺り。スウェットの上から労るように撫でられる度に心拍数が上がる。
 その、掌が。指先が。僕の全てを弄べばいいと、浅ましいことを願う。
 これじゃあまるで女。彼の腕の中にいることで笑っている女みたい。
 それは、嫌だな。そう思ったけど、ジャケットの胸に額を押しつけた僕は笑っていた。僕を労るその手があることが、その温度が僕を包んでいることが嬉しくて、声もなく笑って、静かに涙を流した。
 この日常を手に入れるため。雲雀という人間を僕の身近な人にするため、幼い自分が取った行動は、子供であるが故に容赦なく、たとえようもなくまっすぐで、残酷だった。今思い返しても、よほど思いつめていたのだろうとしか言いようがない。
 後悔はした。後悔はしたけれど、それで終わった。懺悔するような心は残っていない。僕はが僕のもとへと来てくれたらもうそれでよかったのだ。それだけが望みで、それだけが救いだった。
 五歳だった僕の頭の中は、厳格で息苦しい両親との暮らしよりも、新しい世界を見せてくれたのことを望んでいた。
 だから。山にある別荘で家族で過ごした時間も、どちらかといえば息苦しくて。息の詰まる時間をこれからもずっと続けなくてはいけないのかと思ったら、金髪でピアスでジャラジャラシルバーアクセをつけていた彼が恋しくなったのだ。とても恋しくなった。頬を撫でた手も、僕を抱き上げた腕も、おいでと呼ぶ声も、ここにはない。それが悲しかった。
 強い決意を宿し、僕は最後にもう一度だけ両親に問いかけた。「あのひとにあいたい」と。僕の言うあの人が誰かを理解していた母は呆れた顔をし、父も同じような顔をして溜め息を吐いた。母は決まってピシャっと断定する口調で「いけません。あの人のことはもう忘れなさい」と言うだけで取り合う島もなかった。
 三泊四日の家族旅行、僕にとっては息が詰まるだけの時間の中で、部屋にこもって一人で星を見上げた。夏の星はチカチカと騒々しく光って忙しない。
 山中の別荘には都会の喧騒は遠く、黒い影を落とす木々は静かで、夏の夜の空気はどこか冷たい。
 当時の僕にとっては名前も知らないあの人、だ。頭を派手な金髪に染めて、ピアスをたくさんつけて、シルバーアクセをジャラジャラさせて、腰まで下げたズボンをベルトで止めて、夏の空気の中をダルそうに歩いている。
 彼を僕のもとへと引き寄せるため、幼い僕は残酷な決断をした。ろくに名前も知らない彼と両親二人を天秤にかけ、僕は彼を選んだのだ。
 次の日。暑さが押し寄せる前にと朝食をすませて車に乗り込んだ父と母。僕は母にねだりにねだって助手席で膝に乗せてもらった。「公道に出たら後ろで座るのよ」という約束に「うん」と子供らしい笑顔を浮かべて頷いた。
 来た道は憶えていた。上りだ。今度は下るのだ。山に沿ってうねる道を。
 一番大きくうねった場所はどこか、車酔いした身体は憶えていた。
 そこで僕は母の腕から飛び出して運転席の父の視界を奪った。体当たりして父の手元を狂わせ、暴れ回って、車をガードレールへと突っ込ませる。
 …下手をすれば自分が死んでいたのだということを、斜面を転がっていく車の様子を見て知った。
 運よく開いていた窓、そこから転がり落ちる形になって助かった小さな自分。僕が助かったのは、奇跡的だった。
 コンクリートの硬い地面に転がったせいで全身が痛い。それでも起き上がり、足を引きずって、血の出ている腕を押さえながら破損したガードレールのところへにじり寄る。遥か下の方でさっきまで乗っていた車があった。転がり落ちたことでぺしゃんこになっていて、これなら二人は死んだろうと確信する。
 そこでぺたんとコンクリートの上に座り込んだ。
 ……自分が何をしたのか。何をしてしまったのか。ずきずきと痛む身体と頭ではまともなことが考えられず、その場所から見えた夏の空を見上げていた。偶然車が通りかかって怪我をした僕を発見し、遥か下方に転落した車を見て慌てた顔で携帯を取り出して救急車その他を手配する。その慌てた顔も僕には程遠く、サイレンを鳴らして到着した救急車に乗せられるまで、じっと空を見上げていた。夏の陽射しが、あの日のように容赦なく全てを照りつけ焼いていく。

「恭弥?」

 両親の死を聞きつけてやって来た彼と再会したことで、僕の頭の緊張はようやく解けた。
 僕を抱き上げるその腕を望んでいた。その声を望んでいた。そのために、僕は、自分の両親を、殺したのだ。
 わっと声を上げて泣き出した僕を彼の手があやす。「よーしよし、怖かったな、もう大丈夫」「びっくりしたな。俺もいるし、親父もおふくろもいるから大丈夫」と僕を宥める声を聞きながら、白いシャツに顔を押しつけて泣く。
 もう取り返しはつかない。
 僕は選択した。両親を捨ててでも彼を選んだ。こうやって抱き上げてくれることを、そばにいてくれることを望んだ。
 後悔したのはそのときだけだ。それからの僕はもうずっと、との日常が幸せで仕方がなくて、その先に待つ切なさのことなんて、まだ知るはずもなかったのだから。
 薄目を開けると、テレビがついていた。適当なサスペンスが流れている。音楽にも映像にも力を感じられない適当な殺人現場発見のシーンから視線を外し、ぼんやりした頭を巡らせる。
 テレビがあるならここは居間だ。僕はどうして居間で眠っているんだっけ、と考えて、はっとした。慌てて起き上がってを探すと、台所で鍋相手に「濃いかな?」と独り言をこぼして首を捻っている。いつも通りどこかだらしがない金髪に耳に光るピアス。よかった、いた。
 …彼に抱きかかえられてあんなに緊張していたのに、意識を落とすなんて、馬鹿みたいだ。よほどあの体温に包まれたことが嬉しかったのか。随分と、昔の夢も見てしまった。
 ひどく昔の夢だ。彼を手に入れるために犯した罪の夢。
 五歳の自分が犯した過ちは決して消えることはない。仏壇に向ける顔もない。あれは事故死なんかじゃないのだ。自暴自棄になった五歳の自分が犯した殺人だ。
 けれど。それすら孕んで、僕は彼を選んだ。
 そう、選んだのだ。
 ならもう離すな。躊躇っていたら駄目だ。手を伸ばさなくては。もうどこへも行かないでくれと言わなくては。
 僕はあなたが欲しくて両親を殺した。窮屈だった日々をあなたが広げてくれると信じて縋った。
 諦めたくない。僕はあなたを諦められない。だから、もうずっと、こんなにも、この胸は苦しいままなんだ。あなたが僕に触れた八年前から、僕はずっとあなたに触ってほしくて仕方がないんだ。

「んー。起きた? 腹どう?」
「…大丈夫」
「そっか。うとうとしてたからスープ作ってた」
 カチン、とコンロの火を消した彼が僕のもとへ戻ってきた。ん? と首を捻って「調子悪い? 苦しい?」と細長い指が僕の目元をなぞる。その指を捕まえて唇を押しつけた。
 もう譲るものか。誰にもあげるものか。女になんてあげるものか。
(僕は、あなたに、抱かれたい)