砕かれた孤独

 僕達兄弟の一番上の兄は、こう言ってはなんだけど、どうしようもない人だ。
 喧嘩が好きで、表立って言えないような生業を職業としており、言葉より力で人を黙らせることを得意とする。けれど、大きな組織に所属しているとかで僕よりもずっと収入があり、実質、家計を支えているのは兄の方だ。華道の仕事をしているから僕もそれなりには貢献しているけれど、兄には敵わない。
 そんな兄が人を拾ってきた。金色の髪をして、青と緑の瞳を持った、おそらく外人の男性を連れ帰ってきたのだ。
 その日は急に解雇通達が来たとかで家政婦や使用人から抗議の電話を受けて辟易した日で、こんなことをするのは兄しかいないと僕はその帰りを待っていた。そうしたらこれだ。人を持ち帰ってきた。しかも、彼には記憶がないのだという。
 兄にと名付けられた彼は、頭に包帯を巻いていた。想像だけど、恐らく、兄の仕事先にいた人物なのだろう。そんな人を連れ帰ってきていいものなのかと考えていたとき、「名前は?」と訊かれた。顔を上げると、すっかりご飯を平らげた彼がじっとこっちを見ていた。
「ああ。僕のことは、そうだな。恭とでも呼んでくれればいいよ」
「恭。分かった」
 こくりと頷く相手に少し違和感を覚える。最初から持っていた違和感は、最後に頭に巻かれた包帯に行き着く。
 兄は言った。彼には記憶がないと。あれは適当な嘘なんだろうと思ったけれど、そうではないのかもしれない。
「君は、記憶がないのかい」
「うん」
 あっさり頷いた相手に、一つ息を吐く。気のせいか僕の頭まで痛い。「頭の方は大丈夫かい。痛んだりはしない?」「大丈夫。車の中で手当てしてもらった」「そう」すらすら言葉が出てくる辺り、自分のことは分からないけれど、他のことは分かるようだ。だから使えると判断したのか、兄は。
 今日解雇した家政婦や使用人に代わり、彼にその役目を負わせる気だろう。
 自分で言うのはなんだけれど、僕達兄弟は見た目で高い評価をされる部類の人間のようで、女性からは特に注目されることが多い。家政婦や使用人からもその視線を受けるのが嫌で、兄はこういった方法を取ったのだ。女性からは注目され、男性からはデキすぎた奴らだと忌避される。それは僕ら兄弟が共通して経験している事柄だから、分からないでもない。少し気に入った相手なら置いておきたいと思った兄の心情が少しも分からないわけではない。
 分からないわけではない、けれど。
 ふうともう一つ息を吐いて席を立つ。空になったお皿を取り上げて流しに置いて水につけた。明日まとめて洗うとしよう。
 どこかふわふわした目で居間を見回しているのスーツは、ところどころ破けていたり赤黒い液体が付着して汚れていた。「お風呂に入った方がいい」と促してから、まだ兄が入っているのに気付いた。「ああ待って」と呟いてから口元に手を当てて考える。先に、必要最低限のことを教えた方がいいか。
、おいで」
 手を差し伸べると、は疑いもせず僕の手を取ってあとをついてきた。なんだか大きな弟か、ペットでもできたような気分だ。
 まずはお手洗いやお風呂場の場所を説明する。それから会ってない弟がまだ二人いることを教えて、もう寝ているだろうから明日挨拶しようと部屋だけ教えて場所を移した。きょろきょろしながら僕のあとをついてくる彼は、そうしていると子供のようだ。
 いや、記憶がないのだから、子供なのか。自分が生きたという記憶がないのなら、どれだけ世界のことを知っていても、それは知識としてだけだろう。彼にとっては今経験していること全てが新鮮なのかもしれない。
 空いている部屋のうち、客間として使用する一室を選んで彼を連れて行った。「ここを君の部屋にしよう」「俺の?」「そうだよ」比較的人の手が入っているから、しゃっとカーテンを開けても窓枠に埃が積もっていたりはしない。何よりこの客間は洋室仕様なのだ。畳の和室より、彼には馴染みやすいだろう。
 ぼふとベッドに腰かけた彼は、どこかふわふわした目で部屋を見回していた。
「何か、質問はあるかな」
 声をかけると、ふわふわしていた目が僕を捉える。青と緑が混じった瞳は、確かにきれいだった。兄が気に入ったのも頷ける。首を傾ければさらりと揺れる金色の髪も、金糸のようで、魅力的ですらある。
「雲雀は?」
「お風呂だろうね。出たら入ろう。教えるから」
「恭は?」
「僕はもう済ませたよ」
「そっか」
 頷いた相手に言ったお風呂、で思い出した。彼の着替えだ。手荷物一つない彼には用意しないといけないものがたくさんありそうだ。お金は、まぁ兄がどうにかするだろう。明日は僕は何もないし、家のことを教える傍ら、彼の買い物も済ませてしまおうか。
「少し待っていて。君の着替えを用意するから」
「うん」
 笑った彼から視線を外して部屋を出る。サイズ的に僕か兄のもので間に合うだろう。着物はきっと抵抗があるだろうから、兄に言おうか。そう思ってお風呂の方に顔を出すと、すでに誰もいなかった。どうやらもう出たようだ。寝室の方に足を向けて襖の前で立ち止まって「兄さん」と声をかける。しーんとしていて返事は返ってこなかった。どうやらもう眠ったようだ。
 勝手な人だ、と半ば呆れつつ、消去法で僕の着替えを持っていくことにする。
 これを機にジャージのようなものを一式買っておこうと心に決めた。着物だけでは何かと不便のようだから。
 開いたままの扉のある部屋に戻ると、彼はベッドに倒れていた。座った姿勢からそのまま横に倒れた感じだ。眠ったのだろうか。

 小さく声をかけると、瞼が持ち上がった。「着替えが着物しかないんだ。これでも大丈夫かな」眠そうな彼に黒い着物を示してみせると、困ったように彼が眉尻を下げる。「俺、着方が分からない」「大丈夫。教えるよ」そう言うと彼はほっとした顔をした。「兄さん出たようだから、行こうか」「うん」ぴょんとベッドから起き上がった彼が痛みに耐える顔をして頭に手を添える。ぱらぱらと金糸のかかった顔を覗き込んで「大丈夫かい」と声をかけると笑顔が返ってきた。よく、笑う子だ。
「大丈夫」
「…無理をしないようにね。何か変だと思ったら、誰でもいいから起こすんだよ」
「うん。恭は優しいね。ありがとう」
 面と向かってそう言われて、少しうろたえた自分がいた。
 そういえば最近は、女性にしか接していなかった。慣れていたのかもしれない。同性からの忌避に。選んでこの顔になったわけではないのだけど、疎まれるのも羨まれるのも仕方がないと諦めていた。
 すっかり諦めていたのに、の笑顔に、何かを呼び起こされたような気がした。
 彼がお風呂に入っている間に、彼が着ていた傷だらけのスーツを調べてみた。ポケットに身分証明になるような何かは入っておらず、隅まで見てみたけれど、身元が特定できそうなものは何も見つからなかった。
 これで本当に八方塞だ。何か手がかりがあればいいと思ったけれど、そう簡単にもいかないということか。
 分かることは、スーツのブランド名くらいだ。あとはサイズか。そんなものが分かっても今は仕方がない。諦めてスーツをたたんだところで彼がお風呂から出てきた音がした。着物の着方は教えたけれど、大丈夫だろうか。
 ほどなくして彼が居間にやってきた。少しくしゃっとしているけれど、無事に着られたようだ。「これでいい、かな」「十分だよ」不安そうな彼に笑いかけるとほっとした顔をされた。席を立って「喉は渇くかい?」「少し」「アクエリアスでいいかな」冷蔵庫を開けてペットボトルを取り出す。コップにアクエリアスを注いで差し出すと、「ありがとう」と受け取った彼があっという間に中身を飲み干した。「ぷは」と息を吐いた横顔に少し笑う。本当に、子供のようだ。
「好きなときに好きなものを飲食すればいいよ。冷蔵庫は好きに開けたらいいから」
「うん」
 二杯目がほしい、と揺れたコップにアクエリアスを注ぐ。ごくんごくんと喉を鳴らす彼を見つめてから視線を外した。
 そういえば最近は、兄弟でも、こんなに話はしなかったな。小さい頃はそうでもなかったけど、今は一番下ももう小六だ。その次は中二。それから高二。もう小さいとは言えない。いつまでたっても僕の方が年上なのは変わらないけれど、会話の回数は減った。食事も別々なことが多い。こんなふうに誰かと話したのは随分と久しぶりだ。
 ペットボトルをしまって、冷蔵庫の奥で手のつけられていないプリンを見つけた。ちょうど二つ余っている。「食べるかい」とプリンを示すと彼は頷いた。取り出して冷蔵庫の扉を閉めて食卓に移動する。彼は僕の斜め後ろをついてくる。
 プリンを置いて、スプーンを出す。もう深夜の一時だったけれど気にしないことにする。
 市販品のプリンの蓋を剥がして、スプーンでクリーム色のプリンをすくって口に運んだ。味は、中間ちょうどといったところだ。
 隣では彼がプリンをすくっては食べてすくっては食べてを繰り返し、あっという間に空にした。スプーンを舐めてちょっと名残惜しそうに空のカップを見ている彼に苦笑して、自分の方のカップを押しやる。まだ半分残っていた。「あげるよ」「でも」「食べればいい」やんわり笑うと、彼は迷った末にプリンにスプーンを入れた。「恭ありがとう」と言われて「どういたしまして」と返す。
 さて、本当なら明日の朝ご飯について考えないといけないところだったのに、すっかり彼に時間を取られてしまった。
 まぁいいか、たまには。そんなことを思った自分に少し笑う。弟達もたまには自分のことは自分でやるといい。
「さぁ寝よう。疲れたろう」
「少し」
 カップとスプーンを流しに置いてから彼を部屋まで連れて行った。ベッドに腰かけた彼が欠伸を漏らす。その姿に目を細めながら「おやすみ」と声をかけると、「おやすみ恭」と笑顔が返ってくる。微笑み返してから部屋を出て、ぱたんと扉を閉めた。
 そのまま扉に背を当てて動かないでいる。
 彼は笑ってばかりいるけれど。この状況に、今に、不安がないはずがない。記憶がないということは、自分の立ち位置があやふやだということだ。時折ふわふわと定まらない目をしている彼はまだ不安定だ。足場を実感できていない。兄はそういうことに無頓着でいるだろう。僕が気にかけねばならない。
 僕も恐らく彼が気に入ったから。せっかくだから、このままここにいてほしい。
 五分ほどたってから、物音一つしない部屋のノブをそっと回してみる。反応はなかった。そっと扉を開いて顔を出すと、ベッドで彼が眠っていた。寝顔に涙の跡はない。
 なら、いいか。そっと扉を閉めて自室に戻り、畳の上に腰を下ろす。目を閉じて天井を見上げて、口元だけで笑う。
 何となく。世界が、日常が、動き出したような。そんな気がして。
 兄の気紛れ癖もたまにはいい方面に発揮されるのだな、と本人がいたら殴られそうなことを思った。