欠落品の花=僕

 恭弥と呼ぶ声が鬱陶しくて、煩わしくて、そのくせ恋しくて、そんな自分に苛々して仕方がなくて、部屋に新しく置いてあった花瓶を壁にぶん投げて叩き割った。ガシャアンと派手な音がして陶器が砕けて水と破片が飛び散って飾ってあった花が畳に落ちる。
 はー、はー、と肩で息をしながらそれを睨みつけ、はぁ、と息をこぼして畳の床にへたり込んだ。
 …また、余計な馬鹿をした、という気もすれば。これはどうしようもないことだ、と諦めている自分もいる。
 僕は現状確かに花であるけれど、それは望んだことではなかった。
 僕には雲雀という姓があった。けれど剥ぎ取られた。家計の苦しい家庭にはよくある話だ。自分の子供を捨てるか売る。そうして自分達がどうにか生きて行ける道を確保する。今回僕は売られて、顔がいいことを理由に花として生きるようにとここへと連れてこられた。もちろんそれは僕の望んだことではない。一度もまともに授業を受けたことはないし、度々外へ抜け出しては捕まって連れ戻される、その度に喧嘩を売って買う、そんな生活を何年も続けている。
 腹立たしかった。僕のことを怒りもしないあの男が。いつもルピって花を連れているあいつが。どんな仕打ちをしても決して花に手をあげることのないあの男の優しいところが大嫌いだった。
 自分のたった一人を決めているくせに、花を決めているくせに、希望を与えるように優しくするところが、大嫌いだった。
 畳に滲んでいく水を眺めていると、花瓶の割れた音に何人かが駆けつけ、最終的に藤若が出てきた。「恭弥殿」とかけられる声を無視して縁側への襖を開き、ピシャン、と強く閉める。拒絶するように。
 藤若は困り果てた顔をしていた。昨日も花瓶を割った僕にいい顔を向けろという方が無理な話だろう。
 それなのにあいつときたらまた僕のことを呼んで笑った。
 笑ったんだ。
「くそ…」
 縁側の柱に肩を預けてうなだれ、座り込む。
 ……認めたくはないけれど、僕は、どうやら、誰にでも甘い顔をするあいつのことを、好いているらしい。
 あいつには一生お前だけだと決めている花がいるのに。ルピって花が、いつもついていて、一緒に歩いて、笑って、話をして、いつも楽しそうで、嬉しそうで。幸せそうで。だから僕はあいつを嫌いになればいいのに、あいつが僕を気にかけるようになってから、僕は一人で勝手にどんどん苦しくなっている。追い詰められている。
 このままじゃあ駄目だ。このまま幸せそうな二人を見ていることなんてできない。ぶち壊してしまう。そばにいたら、我慢できなくなって、きっと壊してしまう。
 あいつが、悲しそうな顔をするところは。見たくない。
 だけど、どうすれば。僕はどうしたら。このままここにいたら僕は。
 出口のない思考に埋没していると、遠慮がちに襖が開かれた。「恭弥殿?」と呼ばれて視線だけやる。藤若が畳の床に正座してそこにいた。近すぎなければ遠すぎない位置。藤若は僕との距離の取り方を分かっている。
「何」
「あなたの花主様が決まりましたよ」
「は?」
「先ほどあなたが粗相をしたお方です。急所を蹴るというのはさすがによしてくださいね」
 やんわり笑った藤若の顔に冗談の色は見えない。
 さっき僕が殴って蹴った、スーツ姿の、若かった奴。僕に殴る蹴るというおよそ花らしくないことをされてなお、あいつは僕のことを買うと言ったらしい。

 俺、お前のこと気に入ったみたいなんだけど、どうしたらいい?

 囁かれた言葉を思い出して思考から振り払う。
 …どうせまた駄目だ。僕の見た目がよくてどうしても気に入って買い付けた花主は今までに何人かいた。でもみんな僕がこんなで勉強する気も尽くす気もないと分かると鹿王院に送り返した。今度の奴だってきっとそうだ。
 離せと言って、嫌だと言ったけど、どうせ僕のことを自分から手離してここへ送り返すに決まっている。
(ああ…でも)
 でも。この話を受ければ僕は一時的にでも鹿王院から離れることができるのだ。あいつの笑った顔を見ないですむのだ。恭弥と呼ぶ声を聞かずにすむ。それはそれで、都合がいい。
 は、と諦めた笑みを浮かべて口元だけで笑う。
 どうせこの話を持ってきた時点で僕には拒否する権利も権限もない。求められて応える、それが花なのだから。
「いいよ。行ってあげる。まぁ、どうせ長続きしないだろうけど」
 そう言った僕に藤若は笑った。「今度の花主様は大丈夫ですよ」と根拠のないことを言う藤若を横目に立ち上がって着物の裾を払う。
 そういえば、僕を殴った男は僕のことを抱き締めたんだっけ。
 おかげでらしくないくらい全力で逃げてしまったじゃないか。この着物わりと気に入ってるのに土埃で汚れてしまっている。
 …そういえば。藤若が大丈夫だと僕の花主となる人のことを肯定したのは、初めてだった気がする。いつもやんわりした笑いで少し困った顔をして黙っているくせに。
(まぁ、いいか)
 ぼんやりと花主となる男の顔を思い浮かべて、部屋に戻る。藤若が着替えを手伝おうとするからその手を振り払った。「一人でやれる。出て行って」と冷たく告げて箪笥の引き出しを開ける僕に、藤若が困った顔で笑う。「では、支度が整いましたらいらしてくださいね」返事をしないで新しい着物を選ぶ。藤若はそんな僕に慣れているから、黙って部屋を出て行った。
 どうせ長続きしない関係でも、居場所でも、ここから離れることができるなら。ここ以外を考えることができるなら、なんだっていい。壊れる前に、壊す前に、僕はここを去るだけだ。
 そうして僕は新しい花主を得ることになった。なった、んだけど。
「…馬車は?」
「ないよ。節約中でね。歩けるだろ」
「…歩けるけど……」
 新しくてごわごわする袴の裾を蹴ったりしつつ、カラコロと下駄を鳴らして歩く夕方の景色の中を、馬車が行き過ぎた。明らかに僕らをターゲットにして適当なところで停まって呼び込みをしていたけど、花主のはそちらに見向きもしないで歩いて行く。僕に合わせるわけでもない、帰りを急ぐような、少し大股の足取りで。
 新しい袴がごわついてどうにも気持ち悪いけど、脱ぐわけにもいかないので、黙って歩く。
 今はとにかく鹿王院から離れたい。だからさっきみたいな粗相はしない。多少のことなら我慢するつもりでいた。それなのには僕の隣に並ぶこともしないし手を差し出すこともしない。花を持つのは初めてだという話だったけど、どうやら彼は僕に邪な気持ちを持っているわけではないらしい。
 でも、じゃあ、なんで花なんか。芸もできないしする気だってない、およそ花らしくない僕を買うことにしたのだろう。
 スーツの背中を眺めていると、「ああそうだ」とこぼした彼がこっちを振り返って足を止める。
「父にお前のことを花として紹介したいんだ」
 ふーんと返すだけの僕に彼は苦笑いをする。「うん、で、父の前でそれらしく振舞うことは可能かなと思って」「…花らしくってこと?」「できれば」浅く頷くを睨みつけて考えてみたけど、僕が他の花より秀でてるところがあるとするなら、この容姿と、あとは喧嘩の腕っ節くらいだ。舞ったり笛を奏でたりはできない。まぁ、大人しくそれらしい顔をして正座してるだけならできるけど。
 睨みつける僕の視線を受けて、彼はなぜか満足そうに微笑んだ。「大人しく隣にいてくれるだけでもいい」と言うから、ぼそっと「それならできる」と返す。
 陽の沈み始めた、橙とも朱ともつかない斜陽が視界を突き刺して、スーツの背中を遠いと思わせる。
 相変わらずは僕に触れようとしないままで、僕も彼の隣に並ばないままで、我が家だという中級レベルの屋敷に辿り着き、敷居をまたいだ。
 の父親は床に臥せっていた。そばには顔も知らない花が一人いたけど、僕は黙っての隣にいるだけで始終を終えた。
 が花を得たと知って、父親は喜んでいた。
 一方彼自身はそうでもないと分かっていたので、笑っているその顔も作り笑いなんだろうなと思いながら、僕は黙って親子の傍らに座っていた。
 ここがこれから僕の居場所になる。どのくらいいることになるのかは分からないけど、当面は、鹿王院のことを考えずにすむ。
 に屋敷の中を案内されながら、相変わらず隣に並ぼうとしないスーツの背中を眺める。襖を開けて部屋の一つに入る彼に続いて部屋に入って、「ここが今日から恭弥の部屋。狭いかな」と僕を振り返ったに、改めて部屋を見回す。ざっと数えて十畳で、床の間もちゃんとある。「…普通。狭くも広くもない」とぼやく僕に彼は一つ頷いて、「あとは任せるよ」と僕らの後ろに控えていた侍従に目配せしてさっさと出て行こうとする、その手を掴んだ。当たり前だけど、その手はちゃんと人の温度がした。
「なんで何も言わないの」
「何が?」
「僕はあなたを殴ったし蹴ったよ。痛かったくせに、なんで怒らないんだ」
 あー、と視線を上の方に逃がしたが「まぁ、うん。痛かったな。人に殴られたのも蹴られたのもお前が初めてだった」とこぼして、もう片手で僕の頭をぐりぐりと撫でた。なんでか満足そうに笑って「痛かったけど、もう許してるし。できればもう殴る蹴るはしないでほしいけど」と言うその顔を睨みつける。
 笑った顔には疲れが見えていた。そこがあいつとは全然違っていた。違う、ということに少し安心した。
 はじゃあと残して僕を置いて自室に戻っていった。あっさりしていた。今日初めて花を買ったにしては、こだわりも、僕に対しての興味さえないように見えた。
 …は僕のことを気に入ったと言ったけど、それは本当なのだろうか。
 それから僕はお手伝いである侍従にあれこれと世話をさせ、部屋を気に入るよう黒いものを取り入れた家具を用意させたり、黒い着物のもっといいものが欲しいと無理難題を押しつけたりしたけれど、三日たってもが僕のところへやって来ることはなかった。侍従が困り果てて主人を呼んでくるということはなかった。
 ……なぜだろう。構ってこられたらこられたでウザいって思うのに、何も反応がないというのも、すごく、苛々する。
 僕のことを花として買っておきながら、花主になっておきながら、放置するとか。どういうことなんだ。
 だん、と勢いよく立ち上がり、すぱんと襖を開け放つ。三日も大人しくしていた自分が偉いと自画自賛しつつ、板張りの廊下をずんずん歩き、がいるはずの部屋に辿り着いた。すぱーんと勢いよく襖を開け放って「ちょっと」と声を上げようとして、止まった。
 は書机に突っ伏すようにして眠っていた。たくさんの書類に脇を固められて。もう朝食だってすんだ時間なのに。
 気持ち足音を殺して部屋に入り、「恭弥様」と慌てる侍従を遮るように襖を閉める。
 は僕が来たことにも気付かず眠り続けていた。
 ぺらり、と一枚書類をつまんで斜め読みしてみる。
 僕を放置して何をしていたかと思えば。これは会社の業績についての報告じゃないか。つまり、は僕より仕事を選んでいたということか。
 その現実に胸がムカついたので、彼の頭を叩いてやった。起きるまで叩いてやった。「い、いた、いたい」と呻いて伸びた手が僕の手を捕まえる。布団にも入らず眠っていたせいか、その手は冷たくなっていた。
 ようやく顔を上げたがぼやっとした顔で僕を見上げる。「きょーや?」「そうだよ」尊大に見下ろしてやっても彼は怒らない。頭を叩いていたことにも何も言わない。ただ眠そうな顔で僕の手を離して「ああ、仕事が…」と書類に手を伸ばすから、僕よりもまた仕事、とカチンときて、きれいに積んである書類の山を蹴飛ばして崩してやった。ばさばさと崩れて机から落ちる書類を見てちょっとすっきりする。ふん、ざまぁみろ。
 そんな僕に、が行動に出た。書類を蹴飛ばして片足が浮いている状態の僕の軸足、体重を預けている方の足首を掴んで引っぱり転ばせたのだ。おかげで畳に背中を打ちつける無様な姿を晒すことになった。息が詰まって地味に痛い。
 けほ、と咳き込んだ僕に覆い被さるように肩を押さえつけたが「恭弥」と低い声で僕を呼ぶ。負けるものかと近い顔を睨みつけた。僕は悪くない。僕より仕事を取って僕を放置していたあなたが悪い。
 ようやく僕を怒るのかと思ったら、はぁー、と長い息を吐いた彼が、僕に身体を重ねてきた。鎖骨の辺りで肌が触れ合って、なぜか、心臓の鼓動が速くなる。
「重い。退いて」
 早口に言って彼を押し返すけど、僕より体格があるせいか重くてあまり意味がなかった。
 僕に覆い被さったままぴくりともしないに、そろりと前髪に触れてつまんで払ってみれば、また寝ていた。叩き起こしたのに、よほど眠たかったらしい。
 なんだ、と少し落胆した自分が馬鹿みたいだと思う。
 粗相ばかり繰り返してちっとも花らしくない僕を詰ればいいのに。そうされる方が僕は慣れっこだ。逆に、こんなふうにありのままの僕を受け入れているあなたにどんなふうに振舞えばいいのかが分からない。
「…僕は、花になんてなれないよ」
 芸をこなし、華やかに笑い、主人の隣を彩る存在である花というものを思い浮かべる。
 眠っているは僕の声を聞いていない。だからこれはただの独り言だ。
「笑うのも、芸をするのも、無理だ。僕は花としては欠落品なんだよ」
 そんな僕を買って、あなたは馬鹿だね。そうこぼした僕にすっと手が伸びた。寝ていたと思っていたの手が僕の頭を撫でる。目を閉じたまま口元だけで小さく笑って「知ってるよ」とこぼして、本当に眠ってしまった。
 すー、と寝息を立て始めた彼を眺めて視線を逸らす。
 …だったら余計に、あなたは馬鹿な人だ。欠落品なんか買うなんて決めて。本当に、馬鹿な人。