その『闘争心』というものは、小学校一年時の体育の授業の短距離走から始まった。
 たいていのことはそつなくこなしてきた僕は、当然このお遊びみたいな授業でも自分のタイムが一番だろうと疑っていなかった。
 だけど僕のあとに走った奴が僕よりも早いタイムを出した。そのときの感覚は、まさか、というやつだ。この僕が誰かに負けるだなんてありえるはずがないと思った。だけど現実、僕よりもコンマ一秒早くゴールした相手は、教師の褒め言葉を聞き流しながら、明らかに僕に向けて笑ってみせたのだ。
 そのときの胸のムカつきようと言ったらない。
 驕っていた。井の中の蛙大海を知らずとはこのことか。
 ぎりっと強く歯を食い縛り、決意する。次は絶対にあいつを負かしてみせる、と。
 それがとの出会いだった。
 そして、次の短距離走のタイムで、僕は彼を負かした。毎日練習して走り込んだ成果だ。どうだ見たか、と相手を見れば悔しそうな顔をしていた。きっと前回の僕もあんな顔をしていたに違いない。
 油断していたわけじゃないけど、体育で勝ったと思ったら、次はテストで抜かされた。どの教科も僅差で彼の方が僕より上だったのだ。それが分かったらまた悔しくて仕方なくて、猛勉強して、次のテストでは彼を負かした。そうしたら次は体育でまた抜かされた。イタチごっこのように僕らはお互い競い合い、そのままの意識で小学六年生にまでなっていた。
 お互いまともに口を利いたことはない。ただ、それでも常に意識していた。それだけは確かだった。テストの点数も、体育も、授業態度も、僕らは全部を競い合っていた。お互いがとても近かった。隣り合ったことなど決してないのに、誰よりも近い場所にいるのが僕にとっての彼であり、彼にとっての僕であったと思う。
 雲雀恭弥という生涯のライバルと初めてまともな話をしたのは、中学一年のときだ。お互いに女子から受けたくもない高い評価を得てるせいで付き纏われたり、男子にはあからさまな敵意を向けられたりしてうんざりしていた学校生活。ちょっと息抜きしようと抜け出した授業の先で、中庭でぼやっとしている雲雀を見つけた。どうやら俺と同じく授業をフケたらしい。
 全く。運動能力もテストの点数も近くて張り合ってる仲なのに、なんで思考回路まで近いかな。
 どか、と一つ飛ばしたベンチに腰かけると、俺に気付いた雲雀が気怠げに視線を投げてきた。
 確かに女子から人気を得られるだろう美男子であり、勉強も運動もできる雲雀は、一見すると弱点などないように見える。そんな完璧な人間いるはずがないってことに夢見がちな女子は気付かないらしい。もしも完璧に見える人間がいるとしたら、それはよほどの努力の賜物か、はたまたもともとが欠陥品でそう見えるかの二つに一つだ。ちなみに雲雀は後者。
 まぁ、そういう俺も似たようなもんだと気付いてはいるけど。
「女子が泣いてたぜ。お前にフられたって」
 ぼやく程度の声でそう言うと、は、と唇を歪めて笑った雲雀が「誰のことだか分からないな」とどこ吹く風の顔でベンチに寝転がった。
 そんな雲雀の噂なら、小学校からの付き合いで、嫌でも耳に入っている。家が和風の豪邸なんだとか、親はいいところの会社社長なんだとか。その玉の輿とやらを狙ってる女子がわんさかいるわけだ。持ってる奴は本当に色々持ってる。俺とは大違い。
 俺の家は貧乏だし、親はフツーのサラリーマンとパート通いを続ける主婦に、頭も口も悪いろくでもない兄一人とさっさと家を出て行った姉が一人。一軒家はだいぶボロい見た目になっていて、雲雀と成績その他で比較されるとき、自分の家柄まで比較されてるみたいで、いつも気分が悪かった。なんでこんなに不平等なんだと拳を握ったことが何度あったか。
 どれだけ嘆いても怒りを憶えても、それだけでは現実は何も変わらない。それを力に変えて現実へとしていかなくては変わらないのだ。だから俺はそれなりの努力をしている。
 ただ、雲雀にだけは負けたくなかった。それだけの意地だった。
もサボったのか」
 ぼそっとした声に「まーな。かったるいだろ、保健体育とか」教科書に男性器と女性器の違いとか載ってる時点でもう色々めんどくさい。無駄に色めき立つ男女どっちともめんどくさくて、その妙に熱い空気から抜け出したくてサボったのだ。「ああ…」とぼやいた雲雀がそれきり黙る。
 俺も雲雀も、一人でベンチに佇んで、まるで孤高の一匹狼のようだ。
 誇り高いが、それだけに空しく、寂しいいきもの。群れるはずの生き物の中で群れることを嫌った、生まれ持っての矛盾を持った生命。
 ああ全く、なんて、空寒いんだか。
 学年を通してのライバル、という僕らの関係が変化したのは、中学二年の夏休み明けだった。
 今日からまた学校で、またと競い合う日々が始まる。気怠いながらも彼と競い合うことくらいしかまともな事柄がない。退屈な学校という空間も、ウザい女子も男子も、同じような環境に置かれている彼の隣でスタートラインに立てば、全てはどうでもよくなってくるのだ。
 彼と競い合って自分を高めることだけが僕の生き方になっていた。
 それが、唐突に崩れた。いや、崩された。
 が集団暴行にあい、骨のいくつかを折る重傷を負ったというのだ。
 僕はその現実が受け入れがたかった。始業式の間に男子生徒の中に彼の背丈と茶髪を捜したけれど見つからなかった。校長が登下校はなるべく集団で、と強調する声がどこか遠い。
 三日たって、いつまでも隣に並ばないライバルに、スタートラインに立って待つことはやめて、現実を受け入れ、病院に行ってみた。並盛中央病院の病棟に彼の名前が書かれた部屋があり、ノックせずに開け放つと、白い色に埋もれた見慣れた茶髪が見えた。僕に気がつくと「ああ」と相槌のようなよく分からない声で笑う。
「なんだよ。笑いに来たのか?」
「…そんなわけないだろ」
 ピシャン、と扉を閉じてベッドに歩み寄る。は疲れた顔で目を閉じた。常に彼から感じていた気迫が、お前なんかに負けないっていう空気が、なくなっていた。きれいさっぱり。もう僕と戦う気はないと、空気に言われているようだった。
「相手、見たわけ」
「ああ」
「警察に言った?」
「言ったよ。皮を剥いだらびっくりさ。なんと、兄貴のダチだって」
 は? と顔を顰めた僕に何がおかしいのかが声を立てて笑う。それで折った骨に響いたのか、げほげほと咳き込んで胸を押さえる。はー、と引きつった息をする彼に彷徨わせた手でそろりと背中を撫でてみて、初めて触れたな、と思った。
 いつも睨み合うだけ、競い合うだけだった僕らは、お互いに触れたことなんて一度としてなかった。手を差し伸べるなんて、相手を侮辱してるようで、侮辱されてるようで、触れようと思ったこともなかったのに。今のには、触れていないといけないと思ったんだ。
「ようするにだ。俺のデキの悪い兄貴はデキのいい弟が疎ましかったんだよ。ダチ使って襲撃させて、利き手と利き足の骨折るくらいには…それこそ、死ねって思うくらい、ウザかったんだろ」
 そういうことなんだよ雲雀、と掠れた声をこぼす彼が泣いているように思えた。
 なんて言えばいいのか、何も思い浮かばなくて、痛みのせいか、それとももっと違うもののせいか、小さく震えている背中を掌でなぞる。
「俺が脱落して…お前もせいせいしたろ」
「、」
 その言葉にはカチンときた。どんと背中を叩くとげほと苦しそうに咳き込む姿がまた胸をムカつかせる。
 なんだよ。そんなに弱くなって、小さくなって、震えてさ。なんだよ。僕がそんなふうに君のことを蹴落とすと、その程度の存在にしか思っていなかったと、思っているのか。
 そんなわけがない。そんなわけがないのに。
 怒りよりも悲しみが勝った。もしも逆の立場になっていた場合、彼は僕のことを笑って蹴落としていたのかと思うと、泣けて仕方がなかった。
 君にとって僕はその程度の存在だったのだろうか。
 小学校一年から、お互いの実力を認めながらも競い合って、スタートラインに並んでは走って追い越し追い越され、ここまで歩んできて、君が、転ぶなんて。それに僕が振り返らないとでも? 立ち止まらないとでも? そんなわけがないだろう。
がいないと、張り合いがないじゃないか。今まで隣に並んでたくせに…っ、簡単に、そういうこと、言うな!」
 泣いた自分が悔しくてに向けてそう叫んで病室を飛び出した。
 理屈なく信じていた。これからもずっと追い越し追い越されのレースを続けて、競い合って生きていくんだと、思っていた。
 生涯のライバル。最高のライバル。僕と競い合い負かすことだってできるライバル。本気で向き合える人。いつも隣に見えていた彼がいなくなって、僕は途方に暮れて立ち止まる。
 これから。僕は、どこへ向かって走って行けばいいんだろうか。何のために。誰のために。
 中二の秋、暑さが一段落して過ごしやすくなってきた頃。怪我が粗方治ったので学校行きを許可され、ひょっこり教室に顔を出すと、まず女子に出迎えられた。「くん大丈夫?」「大変だったね」「痛かった? 今は大丈夫?」という高い声に適当に笑って「大丈夫だよ」応じつつ、次には男子に囲まれた。「おい、、これからは一緒に帰るか。ほら、せんせーも集団下校しろって言ってるしさ」「さんせー。イテーのは誰だって嫌だしな」と今まで俺を遠巻きにしてたくせに今更なことを言う。「さんきゅ」と笑って答えつつ、チャイムが鳴ったことで人の波から解放され、ようやく席に着く。
 これで一ヶ月と半くらい勉強が遅れた。それに、運動の方はまだ禁止されてる。…どうやってももう雲雀の隣には並べない。
 ごつ、と木目の机に額を押しつけて目を閉じる。

 がいないと、張り合いがないじゃないか。今まで隣に並んでたくせに…っ、簡単に、そういうこと、言うな!

 あの言葉を、泣いてた雲雀を、まだ、憶えている。
 結局雲雀が病室に来たのはあの一回きりだ。
 やっぱりダルいな、と思いつつ授業をこなし、昼休み、雲雀のいる教室を覗いた。相変わらず気怠そうな空気を醸し出して周囲を拒絶している雲雀に一歩教室に踏み込む。ざわり、と揺れる空気の違いにも気付かない雲雀のそばへ行って「雲雀」と声をかけると、切れ長の瞳が俺を睨み上げた。
「ちょっといいか」
「………」
 はぁ、と吐息した雲雀が席を立つ。連れ立って出ていく俺達を興味津々の視線がいくつも追ってくることに笑ってしまう。
 確かに、今までの俺達は、成績で競い合って名前が並ぶだけで、言葉を交わしてるとこを見た奴なんていても数人だろう。目立つ存在同士なのにお互いに向き合おうとしなかった、そんな俺達が連れ立って歩いてれば、目立ってもしょうがない、か。
 ぱたぱたとスリッパでリノリウムの廊下を歩きながら、この一ヶ月半考えていたことを頭の中で整理する。
「退院したよ」
「見れば分かる」
「ああ、そうか。運動はまだ禁止なんだ。授業だけ受けに来た。だけどそれも一ヶ月半差がある。俺はどうやってもお前の隣にはもう並べそうにない」
 ぱた、とスリッパの足音が一つ止まる。足を止めて振り返れば、雲雀が拳を握って俺を睨みつけていた。「わざわざ負け宣言するために声かけたわけ?」と唇を歪めて笑う、その口元が引き攣っていた。泣き出しそうなほどに。
「違う」
「何がだよ。そうじゃないか」
「…お前の方がさ、多分天才なんだ。生まれついての能力が違った。環境も。俺はただがむしゃらに突っ走ってただけなんだ。お前ってライバルがいたから、間違えないで走ってこれたんだよ」
 だから、と口にしかけて、他の教室からもこっちを見る顔がいくつもあるのに気付いた。続けるべきか迷って、今にもどこか遠くへ走って行ってしまいそうな雲雀を引き止めるため、言う、ということを決断する。
「成績はもう並べないかもしれない。それでも、心は、隣に並ばせてくれないか。今までみたいに」
 言葉を吐き出した胸が少し痛んで、手を添える。ああくそ。忌々しいな。呆気なく壊れた自分の身体も。俺を壊した奴らも。
 もう一緒には走れないだろう。昔のように短距離走や長距離走のタイムを競うことはできないだろう。分かってる。これまでのように同じスタートラインに立つことは無理だ。
 それでも。今まで成績だけで繋がってきた繋がりを、心で繋ぐことだってできるはずだ。
 雲雀はぽかんとした顔で俺を見つめた。今まで一度も見たことがなかった間抜けな顔だ。そういう顔してると案外かわいいもんだな、と笑う。
「…心を、隣、に?」
「そう」
「どうやって」
「どうやって、って…それは俺も分からないよ。だから、そうさせてくれないかって話なんだけど」
 理解できてないらしく、雲雀の顔は間抜けなままだった。…おかしいな。雲雀の頭の回転は俺と同じか俺より上のはずなんだけど、なんで分からないんだろう。
 俺達よりも周りの空気の方が騒がしくて、ざわざわと揺れるあちこちの教室を背景に、雲雀が首を傾げる。「」「ん」「…それは、つまり……僕と一緒にいたいって、そういうこと?」わざわざ口にして確認してくる雲雀にあちゃーと額に手をやる俺。あとでどんな噂になっても知らないからなもう。「そうだよそう。それで合ってる」投げやりに言うと、雲雀の顔がどんどん赤くなっていって、しまいには全力で走り出して俺の視界から三秒で消え去った。
 …さすが、早いな。まぁ、いいんだけど。
が雲雀に告ったー!」
 ああ、さっそくそんな声明上がってるし。
 どっかの馬鹿男子のせいできゃあーと女子の色めきだった声が響き渡ってあっという間に隣のクラスへと伝染していく。
 はぁ、と吐息して胸をさすっていた手を離す。
 色んな意味で、今日は記憶に残る学校復帰一日目になりそうだ。