柄にもなく焦りというやつを覚えたのは、二十代前半も終えようとしているのに、未だに恋人の一人も連れてこない僕に業を煮やした両親がお見合い話を持ってきたことが起因している。
 中の上の家柄、一人息子ともなれば、親が口うるさく躍起になるのも頷ける。
 どうせ下手な相手を連れて行っても反応なんて分かりきっている。僕は人柄よりも家柄を考えて相手に接しなくてはならない。そのせいか、それとも単純に恋愛できない体質なのか、これまで男女関係というものを持たずに生きてきた。その方がよほど楽だったのだ。家柄を調べて人柄まで調べるよりも、誰にも興味を向けず、誰にも興味を持たれない、その方がずっと楽だった。
 近視を理由に、わざとフレームの大きい時代遅れの眼鏡を選んだ。
 顔だけ見て寄ってくる相手をそれでシャットダウンする。家柄目当てでやってくる奴には元来の性格と地味な奴という印象を与えるために喋るのを控えて、前髪を少し長めにして表情を隠した。それで半分くらいが僕がどんな人間かを捉えきれずに離れていった。そうしてだんだんと孤立して、僕は誰にもせっつかれないそれなりに居心地のいい場所を得たわけだ。
 それも、二十代前半も終了する、という時点になって揺らぎ始めた。
 お見合い。結婚。…両親は僕の何を見ているのだろうか。これだけ人付き合いをつっぱねている僕にお見合い? 結婚? 果ては子供まで作れと言ってくるのか。
 こんな自分が誰かとベッドにいる姿が想像できなくて深く溜息を吐くと、「先生」とすぐ近くで誰かに呼ばれた。はっとして顔を上げると、やわらかくカールのかかった茶髪の男子生徒がプリントを持って立っている。上にひょろ長くて髪を染めてて制服を着崩している姿はどこか優男っぽい印象を受ける。
「これ、C組に宿題で出してたプリントです」
 どさ、と僕の机にプリントを置いた相手がきょろりと周りを見回して、隣の席の椅子に勝手に座って話しかけてきた。「ぐあい悪いんですか? あんまり顔色よくないですよ」「…別に。そういうんじゃないよ」ふいと顔を逸らして眼鏡のブリッジを押さえる。
 顔色。そんなもの、長い前髪と眼鏡のせいで分かるはずもない。もともと僕は表情を顔に出さないんだから。
「用事終わったろ。帰りなさい」
「えー。先生つれなーい」
 ぎい、と安っぽい音を立てる椅子を軋ませた相手が立ち上がる。つれないとぶうたれたわりにはあっさり引いた。ふわふわした茶髪の男子生徒は「失礼しましたー」と職員室を出ていく。
 およそ標準の生徒だ。成績のいい生徒は顔と名前を一致させて憶えている。素行の悪い生徒、あまりに頭の悪い生徒も同様に顔と名前を憶えている。それなら、顔も名前も思い浮かばない彼は標準的な学力と特に問題のない学校生活を送っているということだ。
 はぁ、とまた溜息を吐いた自分が鬱陶しい。
 これを終えたら帰ろう。そう思ってプリントの山に手をつけ始め、眼鏡のブリッジを押し上げた。
 そろそろ調整してもらわないと、どこか緩んできているな、これは。帰りに眼鏡屋に寄ろうか。
 眼鏡の調整をすませて早足で店を出る。今回女の店員に当たってしまったから必要以上に接客された。そんなにこの顔っていいのかな、と車に乗り込んで溜息を一つ。ミラーに映る自分を眺めても特に思うことはない。
 …ああ、まただ。また溜息を吐いてる。
 お見合いの話をされてからずっとこうだ。答えを濁している自分もまた鬱陶しい。嫌なら嫌と言えばいいのに、嫌だと言ってもどうせ結果は変わらないと言う前から諦めている。
 乗り気でもないのにこのまま流れに流されていくんだ。仕事だってそうだった。親が枠取りした教師という職にとんとんとはまっただけで、なりたかったわけじゃなかったし、今でも、やりたいわけじゃない。
 これはきっと贅沢なんだ。
 望まずともとんとん拍子に進む人生。どこかの誰かが見たら僕のような人生が理想だと言う人だっている。
 溜息を吐きそうになった口に拳を押し当て、エンジンをかけて車を出す。眼鏡屋を出て、そのまままっすぐ家に帰って両親にぶつかるのも嫌で、アテもなく街を走り、気がついたときにはパーキングに車を突っ込んでいた。
 はっとする。そこは所謂夜の街の繁華街の入り口で、まだ夜も早い時間だというのにネオンの色と人で賑わっていた。
 こんなところに教師がいたらマズい。そう分かっていたものの、ハンドルを握る手はエンジンをかけようとしない。
 ……このまま。親の言いなりに流されるのは嫌だ。
 恋はできなくても、せめて、自分から身体の関係を求めていくことはできる。ここならできる。僕は顔はいい方なんだ、眼鏡を外してコンタクトにでもすれば女なんてころっと落ちる。そんな店たくさんある。少し服装を変えるとか工夫して行けば、高校生の盛りの男子生徒とすれ違ったとしても、きっと大丈夫だ。
 ガチャ、と車のドアを押し開けて外に出る。寒いな、とマフラーを口元まで上げた。眼鏡を外す。そうすると視界がぼやけるけど、近視だから遠くは見える。細かい文字を読むとかでなければそう困らない。
 …たとえば、肉体関係を得たとして。それで自分が変わるとも思えないけど。この状況に、この現実に、少しでも、抵抗してみたかったのだと思う。
 帽子を買おう。それでだいぶ誤魔化せる。度の入ったサングラスもいい。そんなことを考えて繁華街の入り口の普通の店で度の入ったサングラスを手に取り、帽子をどれにしようかと選んでいたとき、「あれ?」と聞き覚えのある声がした。「せんせー?」と疑問符のついた声にぎくりと手が固まって毛糸の帽子がぱさりと床に落ちる。
 知らないフリをした。けど、床に落ちた帽子を取り上げて埃を払った姿は知っていた。ぼやけているけど分かる。さっき職員室で会ったあの男子生徒だ。昼間の学校の姿とは違い、若者らしく弾けた格好で茶髪をツンツンさせている。
「やっぱ先生だ。何してるんですか? こんなところで」
「……別に。なんでもない」
 その手から帽子をさらって棚に押し戻し、サングラスも適当に押し込んで踵を返す。逃げる僕を相手は追ってきた。「雲雀せんせー」「先生って言うな」「なんでですか。先生は先生でしょ」「もう勤務中じゃない」「あー。じゃあ雲雀さん。…って、なんか変だなぁ」へらっと笑った相手が僕の手を掴んで止めた。思っていたよりも大きい手だった。僕より背丈もある。
 今の男子って伸びるんだよな。僕は身長でわりと悩んだ方で170ぎりぎりしかないし。イマドキって、僕が生きてきた時代とはまた違うんだろうな。
「雲雀」
 呼び捨てにされてじろりと相手を睨んだ。どうも顔がはっきり分からないと思ったら、眼鏡をしてないせいだ。どこかぼんやりして焦点が合わない。「年上に敬語も遣えないのか君は」「できますけど。年上ってだけで、敬語で媚びへつらう対象になるんですかねぇ?」「はぁ?」顰めた顔と声の僕に相手は笑ったようだ。
「雲雀は遊びに行くの? せんせーなのにこの先へ?」
 笑いを含んだ声が僕の向こうを指さす。つまり、繁華街の奥を。知らずそちらに歩みを進めていたらしいと気付いて気持ちが焦った。
 このパターンは考えられる限りおよそ最悪だ。決定的なところは見られていないにせよ、それらしきところは目撃されて、僕だと確認させてしまった。これがバレたらどうなる。最悪、クビが飛ぶ。
 ぐっと相手の手を掴んで繁華街から抜け出す方向に歩き出すと、ぼやけた視界でさっそく誰かにぶつかった。「いてぇなこの野郎」とドスの効いた声。ああ眼鏡、と足を止めた僕に横から割り込んできた生徒の方が「ごめんなさいお兄さん!」と明らかに中年層相手に笑って謝って、僕の手を引っぱって足早に歩き出す。「雲雀眼鏡」「分かってる」ポケットからようやく眼鏡を取り出してかけると、何度かの瞬きのあとに視界がすっきりした。目の前には僕の手を引く男子生徒の背中がある。
 …そういえば名前知らないな。相手は僕を知ってるのに。
「そういえば、君、誰だっけ」
「えー。今日プリント持っていったでしょ。ど忘れ?」
「それは憶えてる。そうじゃなくて、名前とか、知らないんだよ」
 ああ、とごちた相手が繁華街から抜け出す。アーチをくぐり、足を止めると僕を振り返った。「。憶えておいて、忘れないでよね、雲雀」とにんまり笑った顔に眼鏡のブリッジに手をやる。表情を隠すときの癖だった。こうすれば一瞬でも相手と自分の間が遮られる。それで、自分を落ち着かせ、取り戻す。
 口止め料。そう称して、僕はに夕食を奢った。
 パンと手を合わせたが「やりぃ」と喜ぶ。よっぽど高いものをねだられるだろうと覚悟した僕だったけど、が選んだのはマクドナルドの一番高いセットだった。席がいっぱいだったのでテイクアウトにし、現在、寒さを凌げる僕の車の中でポテトをつまんでいる。
 一方僕はといえば、気が気でないというか、食欲なんて忘れていたのでコーヒーだけを買った。熱いコーヒーをすすってはぁと息を吐く。ハンバーガーにかぶりつくは、歳相応の、男子っぽい顔をしている。
 全部食べ尽くして一息吐くと、「雲雀ー俺ドライブ連れてってほしいなぁ」とさわやかな笑顔と一緒に拒否権のない言葉をくれた。黙ってパーキングから車を出す。「どこ行きたいの」「静かなとこ」「は? …静かな、ね」それはどうしたって郊外になるわけだけど。少なくとも街からは出なくては。
 ナビで地図を呼び出す。ずぞ、とコーラをすすったが何を考えているのか、イマイチ掴みかねる。口止め料にしてはマクドナルドのセットは安すぎるし、僕とのドライブで時間を潰す意味も分からない。
「で、雲雀はなんであんなとこにいたんだよ」
「…僕の勝手だろ」
「まぁそーだけど。俺に黙っててほしいんだろ? じゃあ理由教えてよ」
 ぐっと唇を噛んでナビの画面を指で弾いた。勢い余って遠くに飛びすぎて、位置情報で元あった場所に表示を戻す。
 弱みを握られた。こんな一生徒に。
 これ以上喋ったらさらに弱点を把握されるだけ。だけど、彼はバラされたくないなら言えと言っている。

 なんであんなところにいたのか。教師でありながら売春と紙一重とも言われる夜の街に繰り出したのか。
 僕は、ただ、抜け出したかった。この現実から。ただ知りたかった。僕がまだ知らないことを。
 見合いという場でとんとん拍子に進んでいく話。望まなくても結婚し、子供まで作る過程がありありと見える未来。そこには愛なんてなくていいんだ。僕の顔は好評のようだから、少し甘い言葉でも囁けば女は落ちるだろう。僕を愛するだろう。でも、僕はきっとずっと相手を愛せない。それでも一緒に時間を過ごし、同じ屋根の下で暮らし、子供を作って、育てていかなくてはならないのだ。親の望むとおりに。
 そうなる前に、できることをしたかった。

 が望む静かな場所。そこへ行くまでにぽつぽつとそういった心中を吐露すると、何かしら茶化してくると思っていた相手は静かに黙して僕の話を聞いていた。
 少なくなってきた街灯がときどき彼の横顔を照らす。
 なぜかは分からないけど、歳相応だと思っていた横顔が急に大人びて見えた。
 今が寒い冬であり、天体観測の団体でもいない限り人気のない高台に辿り着く。駐車場の真ん中に街灯がぽつんと一つあるだけの場所はが要求したとおりの静かな場所だ。「はい、着いたよ。これでいい?」と彼の横顔を確認すれば、シートベルトを外していた。外に出るのか。寒いし何もないのに。
「雲雀、エンジン切って」
「なんで」
「なんでも」
 …釈然としないものの、言われるままにエンジンを切る。
 途端にシートをまたいだが僕に顔を寄せてきた。キスされて、呆然としていると、相手が笑う。笑って「これ邪魔」と僕の眼鏡を取り上げた。あっ、と手が追いかけたけどすかりと空を切る。
「返せ」
「キスするのに邪魔だろこれ。当たると痛い」
 ぼす、と助手席に投げられた眼鏡に手を伸ばすと、その手に素早く指が絡んで僕の指を絡め取った。またキスされる。唇をこすりつけられて思わず目を瞑ると、カチ、ともう片手でシートベルトが外されてシートが倒された。
 器用だな、と変なところで感心する。まるで手慣れてるみたいだ。
 ちゅ、と安いリップ音が妙に耳にくすぐったい。
(静かなところって、まさか、このために?)
 冗談じゃない。このままされるがままなんてごめんだ、との胸を突っぱねて押しのける。はきょとんとした顔で僕を見ていた。赤い舌が唇を舐めていく様子が何か生々しい。
 ぼやけている視界の中で、フロントガラスの向こうに一つだけある光と、それをバックにしたがぼんやりと世界の中に浮かび上がっている。
「何、するんだよ」
「何って…こういうことしたくてあそこに行ったんじゃないのか?」
「はぁ? それは、その」
 それは確かにそうなんだけど。僕が考えていたのは適当なところに入って適当に飲んだりして適当な女と寝ようとかそんなアバウトなことしか考えていなかったわけで。こういう具体的なことは何も。第一僕らは男同士だろう。同性相手にこういうことは、普通、しないだろ。
 ぺろり、と唇を舐めたが再び顔を寄せてきた。反射的にその口に掌を押しつけてキスを回避したら、生暖かいもので掌をなぞられてぞわぞわした。は笑っている。僕の反応を楽しむみたいに。
「できないことしたいんだろ? なかなかできないんじゃないか、これ。この状況も、先生と生徒の立場を越えることも、性別を越えるセックスもさ」
 れろ、と掌を舐める舌に、手が逃げ腰になった。その隙を逃さず押し切ったがまたキスしてくる。唇を食まれた。やわらかく味わうみたいに歯と舌で刺激されて背中が痒い。
 頭の中がぐるぐると混乱していた。訳の分からない何かが踊っている。
 どこかが痺れている。頭の中か。それとも神経か。
(性別を越えたセックスだって? それは、確かに、普通に生きていたら、男女間だけを見ていたらできないことだけど。でも。それっていいこと、なのか? この状態は、繁華街で女が客引きする店に入るよりもよほどいかがわしいんじゃ)
 迷う思考が隙間を作る。
 がネクタイを外してシャツのボタンを外し始めていた。肌に自分以外の体温が当たると、何か、背筋が騒ぐ。
 ああ、熱い。
「いい。、いい」
 なんとか彼の行動を止めようとするものの、暗くてぼやけている視界ではなかなか上手くいかない。それに、何か、思うように動かない。自分の身体なのに。僕はこんなうらなり相手に緊張でもしてるのか。「なんで。俺のことなら気にしないでいい」胸に埋まった唇が肌をなぞって、覗いた舌が熱いと感じる温度で舐め上げてくる。
 う、と身動ぎしても、車のシートという狭い場所だ、どうしようもない。逃げられない。
 懸命に首を横に振る。「知らないんだ。セックスとか」震える声でそう絞り出すと、彼の手が止まった。「…怖い?」と訊かれてどうだろうと考え、それでやめてくれるなら、と頷いてみる。
 ぼんやりした視界ではの表情の細かい部分までは分からないけど。ガラスの向こうからの頼りない光の下、優しく笑っていた、のだと思う。
「じゃあ、とびきり甘く、優しく抱いてあげる」
 笑った声がまた胸に埋まった。びく、と身体が跳ねる。胸の突起を口の中で転がされて意識がそこに集中した。もう片方もつまんで弄ばれて、必死に拳で口を塞ぐ。そうしないと声がこぼれそうだった。
 こんなの知らない。こんな感覚、僕は知らない。
 …当たり前か。誰とも付き合ったことがないんだ。誰かに触れることも触れられることもなかった。生理的に仕方がないから自分で抜くけど、それだって事務的っていうか、出すもの出すってだけで、興奮とか覚えるわけでもなかったし。そんな自分がつまらない人間だってことは理解してたけど、関心が持てなかったのがこれまでだった。
「ん…っ、やめ、」
 、と呼んでも彼は行為をやめない。むしろもっと身体を寄せて性を刺激してくる。
 むず痒い。痛痒い。の指も唇も押しのけてしまいたいのに、この刺激がなくなったら物寂しくなるとも感じた。どっちつかずの心。どっちつかずのまま生きてきた僕らしい優柔不断さ。本当、自分が嫌になる。
 腿の間にぐっとの膝が割り入れられた。付け根までじりじりと膝で攻められ、拳に歯を立てる。
 このまま流されたら本当にシてしまう気がする。そのつもりで繁華街に行ったくせに、ここまできてやっぱりと思うずるい自分がいる。
(逃げるな。逃げちゃ駄目だ。今までさんざん逃げてきたじゃないか。もういい加減前を向かないと。僕はお見合いなんてしたくない。連れ立つ誰かなんてまだいらないし、子供だっていらない。だから、そう言わなくちゃ)
 するりと胸を離れた手がズボンのチャックを下げた。アンダーの上から触れられて頬に熱が集まり、それを誤魔化すためにまた拳に歯を立てる。「よかった。雲雀もコーフンした」笑った声に顔を逸らす。誰のせいだと思ってるんだか。
 焦れったいくらいに丁寧に、甘く、と言ってみせたとおりに甘く甘く僕を追い込んでいく彼は、本当に年下なのだろうか。それとも、今の高校生っていうのはこんなことも簡単にしてみせるのか。
 刺激が欲しいなんて、そんなふうに思ったのは初めてだ。
 がり、と拳に歯を立てたとき、その手が僕より大きくて骨ばった手に包まれた。「歯立てるくらいならキスしよう」と唇を寄せられ、もう拒むこともできずに口付けを交わす。
 の指が入り込んでも何も言えず、吐息だけこぼしながらキスを重ね、舌を出して人の肌を舐め、なぞり、同じくらいやわらかくて熱いものに自分を絡めて、ポテトとハンバーガーとコーラの味がするキスをする。添加物の味。僕ならこんなもの食べる気にならないけどな。
 ぼやけてはっきりしない視界が今は助かっている。

 ここでと身体を重ねて今までの自分を打破するか、
 それとも、優柔不断な僕らしく、やっぱりと駄々をこねるか。

 答えは、すでに決まっている。