ふあ、と欠伸をこぼしたところを口うるさいおっさん教師に見つかった。「じゃあ。次の問題を解いて」指名されて仕方なく席を立つ。黒板の前でチョーク片手で問題と格闘してみたけど、結局分からず、適当な数字を書いた。「全ッ然違う」と声を荒げた先生が自分でカツカツと答えを記入していく横で首を竦めて黒板を眺めた。あー、数学苦手なんだよなぁもう。
 もっと真剣に授業に取り組めとか言われたあとに席に戻った。後ろの奴が肘で俺を小突いて「ばっかだな」と笑うから、はは、と控えめに笑って「苦手なんだよね、数学」と言い訳すると、相手は意外だとばかりに驚いた顔をした。「へー。お前って秀才タイプに見えるけどなぁ」「ボクが? まさか。ふつーの頭しかないよ」シャーペンを手に取り、今度欠伸するときは教科書を盾にしようとか考えつつ無意味にかちかち。
 さっぱりついていけなくなったなーと思う数学の時間が終わるまで、もやもやっと、雲雀先生のことへと思考がスライドしていた。
 親にお見合いを強制される前に、してないことをしたい。そう思って教師にはご法度だろう夜の街に踏み込んだ先生を発見した俺は、口止め料としてあの人を抱いた。もともと好みのきれいめだったから気になってたこともあって、性癖も問題なく、すんなりセックスまでいった。
 エロかったなぁ先生。初めてだって言ってたけど、感度もよかったし、反応が初でかわいかった。
 もやもやそんなことを考えてからあー駄目だ駄目だと思考を振り払い、携帯のアルバムから個人的に萎える写真一覧を眺めて昂ぶりつつあった頭と身体に冷水を浴びせかけて落ち着かせる。
 退屈な数学の時間を終えて、あーあ、と伸びをする。学校退屈だなぁ。早く終わらないかな。
 ふわあ、と大口で欠伸をしたとき、「ー」と教室の入口から男子に呼ばれた。「あーい」「先生が呼んでるぜ」「あーい」どの先生だ、と席を立って教室を出ると、長めの黒い前髪にイマドキちょっとださいかなと思う黒縁眼鏡をした雲雀先生がいた。
(ん?)
 首を傾げる。次は科学で先生が受け持ってる教科ではないはず。
「どうしました? 先生」
「…どうって。別に、何もないけど」
 はい、と拳を押しつけられて、何か渡された。「じゃあ」と去っていくスーツの背中を見送ってから手の中を見てみると、四つ折りの紙が一つ。手帳のメモ用紙を破ったもののようだ。
 なんだこれ、と開いてみれば、携帯のアドレスと番号が書いてあった。
 …あれ?
(んー)
 べし、と自分の頬を平手で叩く。痛い。ってことは現実か。
 雲雀先生が俺に個人的な情報を押しつけてきた。ってことはつまり、連絡しろってことだろ。昨日のアレで終わり、そうじゃないって、そう言いたいんだろあの人は。
 ふぅんと笑った口元を掌で隠し、何食わぬ顔でチャイムの鳴り響いた廊下から教室へと戻る。
 今日は実験でもなく普通に授業なのでつまらない時間だ。化学式とかね。計算もめんどくさいし。
 教科書で携帯を隠しつつ記されたメアドにメールを送った。ついでにワン切りしておいた。これで俺からの連絡はいったはずだ。
 昨日のアレは役得であってそれ以上にはならないと踏んでたんだけど。俺が思ってるより雲雀せんせーって欲求不満なのかな。そりゃあ、今まで一回もシたことなかったとか、欲求不満でなかったら驚くとこだけど。
 科学の授業をそれなりに受けつつ昼休みになり、購買戦争で勝ち取ったおにぎり三つとお茶のペットボトルを持って人で混み合う購買を抜けると、いきなりコールで携帯が鳴った。相手は、さっき登録したばかりの雲雀先生。
 購買のおにぎりをかじりながら繋げる。「ふぁい?」『…僕だけど』「分かってますよ。何か用事ですか?」『…用事……』それっきり雲雀先生は沈黙した。購入したおにぎり三つのうちの一つたらこ味を平らげ、混ぜご飯風味の封を開ける。肩と顔で携帯をはさみつつ「同じ校内にいるのに電話って、よく分からないんですけど」とごちる。用があるなら直接くればいいのに。昼休みなんだからどこで誰と昼食べようが先生だって自由、だと思うんだけどな。

「はい」
『帰り、送ってあげるから、帰らないで待ってなさい』
「…はい?」
 携帯を持ち直して「それってどういう」と言いかけたら『じゃあね』と勝手に通話が切られた。
 むぐ、とおにぎりを口に入れながらおいおいと思う俺。
 いや、まさかな。昨日のアレは役得なだけで…でも今日は昨日掘られた側の先生からアクションがあったわけで。アレが理不尽だと思ってた場合俺に携帯番号など寄越すことはありえないわけで。なら、まんざらでもない、もしくはもう一回シたいとか快楽に思考が流された末にこうして俺に連絡してきたわけであって。
 別に、俺はそれでもいいけど。雲雀せんせーがなぁ。ほら、お見合い話とか進んでる人をあんまり弄るのもいけないかなっていうか。お見合いってことはふつーに男女の話なわけでしょ。それじゃせんせー女の人に勃起しなくなっちゃうんじゃ、とか思うわけで。



 そんなはっきりしない思考の中に先生の声が落ちる。
 教室で先生待ちは目立つので校舎裏の北門を指定したら、先生はあっさりやってきた。昨日あんなふうに抱かれたのに俺のこと何も疑ってないんだな、と薄く笑う。
 これが罠とかだったらってせんせーは考えないんだろうな。純情そうだもん。もし俺がさ、ちょっと悪い奴らとつるんで先生拉致って複数で犯すとか、そんな可能性も浮かばない人なんだろうな。
 ま、そんな悪いこと俺もさすがにしないけど。
 とん、と門扉から背を離す。第一陣の授業が終わったらまっすぐ帰宅って生徒はとっくに過ぎ去り、第二陣のちょっとたまってダベりつつの集団もいなくなり、空はもう暮れ始めている。この時間帯、この季節に陽も当たらない人気のない北門を使用する生徒は少ない。それが分かってたからここを指定した。
 相変わらず長い前髪。ださいかなと思う黒縁眼鏡。その下に隠された素顔はすごくきれいだ。地味で目立たないスーツばかり着てくる目立たない教師の一人だったけど、俺の中で、雲雀の位置はだいぶ修正されてる。
「車ですっけ」
「回してくる。待ってて」
「あーい」
 ひらり、と手を振ってポケットに突っ込む。雲雀先生は何か言いたそうにしつつも俺から離れて駐車場の方へと消えた。
 うーん。なんか、やりにくいっていうか。うん。
 …俺は今まで、身体だけのお付き合いで割り切ってたというか。まぁ所謂援交ね。お金入ってヤることヤれるならそれでいいっていうか。そういう無関心に割り切ってる部分は多分雲雀と似てて、だから、このまま終わりたくないって言ったあの人の苦しそうな表情を、快楽で乱して満たしてやろう、と考えたわけで。
 たとえば、雲雀が俺とどうにかなりたいと望んだとして。俺は雲雀とどうにかなりたいんだろうか?
(よく分かんないな……)
 ぼやっと夕焼け空の赤だかオレンジだかを眺めていると、校門の前に車が停まった。昨日と違う黒いのだな、と思いながら後部座席に滑り込んですぐにドアを閉める。外から見て生徒だと分からないようにごろっとシートに転がれば車はすぐに学校を離れ始めた。
 車のにおいで、昨日のカーセックスの情景がぼやっと頭の中に浮かぶ。
「昨日気持ちよかった?」
 何気なくにそう訊いた、途端にギャギャッと車が大きく左右に揺れて驚いた。寝転がってると運転席の雲雀の表情は見えないんだけど、今の揺れは俺の言葉に動揺した雲雀の心中を示していることは間違いない。
 もう学校は出たんだ。雲雀だって先生勤務を終了させてきた。俺だって生徒しゅーりょーだよ。ここにいるのは、男が二人。それだけ。
「動揺するくらい気持ちよかったんだ」
「ち、がぅ」
「ふーん」
 くすくすと笑うと雲雀がダンとハンドルを叩いた。悔しそうだ。ここから雲雀は見えないから想像だけど。
 そういえば、この車はどこへ向かってるんだろうか。送っていくって言ったわりには俺の家の住所とか訊かないし。
 まぁ、どこだっていいけど。純情な雲雀が俺をいかがわしい場所に連れて行くとか罠にハメるとか考えにくいし。
 で、連れて行かれたのはなぜかレストランだった。しかもちょっとお高そうな、少なくとも高校生には敷居の高いレストラン。ホテルの中にあるやつ。女子なら憧れてる子とかもいるかもしれないけど、食べ盛りの男子には無縁そうな場所だ。かく言う俺もファーストフードで手軽にすませちゃう派だし。
 ちょっと待っててと店の前に取り残されて、メニューを眺めて上品だなぁとしげしげページをめくっていると、「お待たせ」と声がした。顔を向ければスーツではなく普通に私服を着ている雲雀がいて、眼鏡も外していた。ハットまで被ってオシャレさんだ。ということは、学校でのあのださい黒縁眼鏡はわざとか。
「へー。雲雀かわいいね」
 なかなか上品なセンス。タイトな黒のズボンに白のチェックのシャツと灰色の厚手のカーディガン、首にはストール。で、頭に黒の小洒落たハット。俺からすれば飾り気にかける主張性のない格好だけど、雲雀って人間には似合ってる気がする。
 しげしげ観察していると、雲雀の視線が泳いだ。「かわいいって、男に言うセリフじゃないだろ…」「え? あー」いかん、営業面が出てしまった。二年も援交してるから男に対しても言うセリフが癖になりつつある。
 へらっと笑って「で、ここ入るのか? 俺浮かない?」「平気だろ」ふーん、とこぼして上品なレストランに男二人で突入です。
 学生であることも特に何も言われずに通され、何食べよう、と財布の中身と相談していると「奢ってあげる」とぼそっとした声。二人席、向かい側に視線を投げれば、雲雀がメニューを睨んでいる。やがて裸眼でメニューを読み取るのは不可能だと諦めたらしく、あのださい眼鏡を取り出した。
 なんていうの、さすが社会人? それともこれは俺への餌付けか?
(って、俺の勘ぐり過ぎ、か)
 好意でさえその裏に含まれるだろう意図を計算してしまう、そんな疑い深い自分がときどき嫌になる。
 このずる賢い世界に呑まれないように生きていくには自分も聡くなるしかないと分かってる。それでも、純粋さが薄れて人を疑うことを知った汚れた自分に、嫌になることもある。
 まぁ、奢ってくれるっていうんなら甘えておくけど。俺の財布はあたたかいというほど中身もないので。
「いーの?」
「いいよ」
「やった。じゃ、お礼にあとでキスしてあげる」
 にこっとスマイルで言ってやったら雲雀の顔が見る見るうちに赤くなっていくのがちょー面白い。そんな自分を隠すように眼鏡を押し上げる雲雀はやっぱり初だ。からかいがいがある。こんな雲雀が俺をハメるとかまずありえない。
 ぺらぺらメニューをめくって、おにぎり三つで減った腹で、遠慮せずに子羊と季節野菜の煮込みってやつを指した。「じゃーこれがいい」俯き加減で顔を隠していた雲雀がちらりと俺の手元を見やって「いいよ」と一言で了承する。
 え。いいんだ。これ三千円する単品なんだけど、いいんだ。じゃあありがたくいただきますが。
 雲雀はすぐにウエイターを呼んで俺が言った子羊の煮込みと、自分はコーヒーだけを頼む。つまり…自分が腹減ってるからレストランに連れ込んだってわけではないってこと、か。
 上品なこの空間に、そっと携帯をバイブに設定した。さすがにここでチャラチャラ鳴るのは避けたい。
 ウエイターが去ってメニューを持って行ってしまうと、途端に手持ち無沙汰になった。雲雀は俺と目を合わせようとしないし。俺はそんな雲雀を観察してるくらいしかすることがないし。
 料理が来るまで暇なので、疑問に思ったことを訊いておくことにする。
「雲雀は腹減ってないの」
「うん」
「じゃ、なんでレストランなんか着たんだよ。俺高いもん選んだのに頼んじゃってさ」
「…別に、あれくらい高くないし…」
 ぼそぼそとそんなことを言った雲雀がちらりと俺を見やった。少し言い淀んでから、「君が」「俺が?」「…嬉しそうにする顔を、見たいなと…おも…」ぼそぼそした声があっという間に消えた。あ、また顔が赤い。かわいいなぁ。自分で言っときながら照れてるのか。ほんと初だなぁ雲雀。
 俺に喜んでほしいから、嬉しそうな顔が見たいから、こんなとこに連れてきて食事を奢ると決めたのか。
 そりゃー高校生で腹減りな男子にはおいしいご飯は結構に魅力的だけどね。これから食べる子羊の煮込みとかね、楽しみだよ。子羊とか生まれて初めて食べるし。
 媚びるでもなく、計算するでもなく、恩を売るでもなく、つけこむためでもなく。今まで恋の一つもしてこなかった雲雀が、俺に笑ってほしいからと言う。
 それってつまり俺のことが好きってことになるんだろうか。少なくとも笑った顔が見たいと思う程度には雲雀の意識の中に俺がいるってことか。俺が半ば無理矢理処女を奪ったから? それが案外とよかったからこその今なのか?
(……やだな。純粋すぎて)
 ふっと息を吐いて目を閉じ、雲雀の姿を、俺には似合わない上品なこの空間を視界から追い出す。
 俺にお似合いなのは商店街の路地裏だ。そこにある狭くてきれいとは言いがたいホテル。ネットの海から俺に援交を申し込んでくる相手を抱くための場所。
 そこがお前の場所だと携帯がバイブ音を鳴らす。メールだ。俺宛に抱いてくれメールが着たんだろう。俺の生活費だ。どんな相手だったとしてもないがしろにはできない。中身を確かめなくてはいけない。
 でも、今は。
 そっと目を開ける。雲雀の窺うような視線にへらっと笑った。
(今だけ、このきれいな空間にいても、いいかな。今だけ、きれいな雲雀と一緒にいても、いいかな)