『せんせ、昼休みに毎日電話してこなくたっていいんですよ?』
「僕の勝手だろう」
『はいはい』
 どこか気力のない声に、片手で教職員向けの弁当を食べつつ眉間に皺が寄る。いつもより声に覇気がない。…そんなことにいちいち気付いて気にかけてしまう自分が馬鹿みたいだと思う。彼の機嫌が悪いと僕まで機嫌が下降気味になる。本当、馬鹿みたいだ。
 ぐさ、と割り箸を卵焼きに突き立てて「なんで今日そんなにやる気ないの」と投げかけると、彼は一瞬だけ黙った。それからはーと深く息を吐き出して『あんまり寝てないから。それだけです』と言う。どこか突き放したような言葉に突き放されたように錯覚して、突き刺した卵焼きに無意味にもう一度箸を立てた。ぐさっと勢いよく。
 卵焼きを一口で口に入れる。いつも同じ味だ。学校側が注文してくれるから楽だと思って今まで頼んでたけど、そろそろこの味にも飽きてきたかもしれない。
 学校にいる間は先生と生徒の立場を守る。彼は学校を出れば僕のことを雲雀と呼んで、年上だろうと遠慮せず対等に接してくる。
 …電話の相手が僕だってバレると面倒だし、電話くらい、いつもみたいに砕けて話せばいいのに。
 そう思いつつも言い出せない。電話の向こうで沈黙しているの様子を耳をすませて窺う。またおにぎりだけの昼食ですませているのか、ビニールの包装紙を破る音が聞こえる。

『はぁい、聞いてますよ』
「おにぎりだけじゃ栄養が足りてない。他にも何か食べた方がいい」
『まぁ、そうできるならしてますけど。ボク倹約家なんで』
 耳に当てた携帯からは依然ビニールのガサガサという音が響く。
 ボク。倹約家。なんか、には全然似合わない言葉達だ。そんなことをぽつりと思う。
「だったら遊びに使う費用を節約した方がよほどいいと思うけど」
 吐き出す言葉に少し刺が混じった。さっき突き放されたと感じた心の錯覚が仕返しをしていた。
 ぐさ、と焼き魚に箸を突き立てる。苛立ちが声以外にも表れている。
 言ってしまったことはもう取り消せない。取り消さない。

 ……冷静に考えて。が車で僕のことを抱いたとき、手慣れている、と思った。そして、彼が夜の通りに私服でいたということを考えるに、出入りしているんだ。夜の繁華街に。盛り時期の高校生男子なんだ、そんなことだってあるだろうと頭では理解してる。僕は無縁だったけどそういう場所で遊ぶ奴だっている。生徒指導係がその辺りを張ったりして苦労してるってことも知ってる。
 は手慣れていた。男相手でも当たり前に身体を重ねた。彼に躊躇いはなかった。知り尽くしていた。初めての相手でも気持よくする自信と腕があったのだ。だからあんなに余裕の表情で僕の快楽を操って揺さぶった。慣れていたから。
 僕は彼に都合よく抱かれた。あの日のことを全て水に流す代わりに、彼は僕の大事なものを奪っていったんだ。
 身体と、そして、心を。

 は何も言わなかった。何も言わないうちに『おおい』と彼が呼ばれる声がして、ああとぼやいた彼が黙って通話を切った。
 ツー、ツー、と通話終了の音を吐き出し続ける携帯を眺めて、衝動的に振り被って床に叩きつけたくなったけど、寸前で思い止まる。そんなことをして無駄に修理代を払うなんて馬鹿でしかない。
 はあぁ、と深い溜息を吐いて携帯を灰色のスチールデスクに転がした。コールはない。
 本当に眠くて機嫌が悪いのか知らないけど、通話切るときくらい一言くれてもいいじゃないか。じゃあとかそんな言葉でよかったのに、無言なんて、ひどい。
 苛立っていたはずの気持ちがずぅんと落ち込んでいた。さっきまで箸を突き立てておかずを食べていたのに、今は力なくもそもそと口に運ぶことしかできない。ああ、おいしくないな。万人に受け入れられそうな弁当の味だ。…おいしくない。
 もそもそと弁当を片付けて午後一番の授業に間に合わせるためガチャンと席を立つ。それまでにポケットに滑り込ませた携帯が震えることはなかった。
 その現実に唇を噛む自分がいた。
 毎日毎日、昼休み、彼と電話することを楽しみにして午前中の授業を乗り切って、午後は何かと理由をつけて彼と会おうとしている自分がいる。ホテルで食事を奢ったあの日以来叶っていないことだけど、それでも何とか繋がりを作ろうとを意識する自分がいる。
 トントンと特に障害もなく生きてきた僕からすれば、それは劇的な変化だった。
 他人なんていらなかった。一人が楽だった。家柄を気にして人を見ることに疲れていた。僕よりも家柄を見る人にも疲れていた。だから誰もいらなかった。誰も作らなかった。結局破綻する人付き合いなら最初からなくていいと思った。それが本音だった。
 あの有名大学出身だとか、立派な企業に管理職で就いている両親がいるとか、そんなものはただの肩書きで、そこに僕がいるわけじゃない。そこに人が成るわけじゃない。そんなものに惹かれるような誰かに僕が惹かれるはずがない。そうやって周囲をシャットアウトしてきた。
 それが覆されてしまった。
 そんなもの全く関係ないところからある日ひょっこりとが現れた。他人が気にするから僕が気にしていたものを蹴飛ばして簡単に場所を開け、そこから踏み込んできて、心のやわらかい部分まで全部にその感触を残していった。忘れられないくらいに鮮烈で、鮮明な、痕を。
 放課後、メールはめんどくさいから用事があるなら電話でと言った彼の言葉を守って携帯に指を滑らせての登録番号を呼び出し、コールしようとして、指が止まった。また冷たくあしらわれたら今度は怒りではなく悲しみを覚える予感がしていた。
 のめり込んでは駄目だ。
 彼は生徒だ。僕は先生だ。その境界を忘れてはいけない。せめて学校ではその線引を守らなくては。僕は彼より年上なのだから。大人なのだから。
 自分を落ち着かせて携帯をポケットにしまうと、「失礼しまーす」と声がしてはっと顔を上げた。長い前髪や眼鏡の太い縁取りがこういうときは邪魔だ。がよく見えない。
「はい、お届けものです」
 まっすぐ僕のところに来てどさっとノートの山を置いたを見上げる。特に、いつもと変わらない。でも、昼休みは人に呼ばれていたとはいえ無言で通話を切ったのだ。彼の機嫌がいいとは思えない。
 ぐるぐる考えていると、ノートの山を叩いたが首を捻った。やわらかいカールのかかった茶髪が揺れる。
「ぐあい悪いんですか? あんまり顔色よくないですよ」
 …それは、確か、初めて君を認識したときに言われた言葉だ。
 君はあの日のことをなかったことにした。それが約束だった。分かってる。あの日あの場所で会ったことはもうなかったことになっている。その事実は死んでいる。死なせたのは僕だ。でも。
 ぐるぐるする頭で「気分は、悪いかもしれない」と吐露すると、彼はますます首を捻った。ノートの山から自然な動作で流れた手が僕の頬に触れて、その冷たさにどきりとした。細められる瞳にどきどきと心臓が早鐘を打つ。
 駄目だ。さっきまでに冷たくされたと落ち込んで、それでもその存在に縋ろうとする自分を精一杯律したところなのに、もう土台が崩れている。君に冷たくされたら悲しい。君に優しくされたら嬉しい。そんな自分になってしまってる。
「じゃあ、今日はもう帰ったらどうですか。次のせんせの授業までにノートが返ってくればみんなそれでいいでしょう。今慌てて片付ける理由、ないと思いますよ」
「…うん」
 僕は彼の言葉にあっさり流された。もう気分なんて悪くないのに気分が悪いということにして早く帰ることを選んだ。はにこりと外向きの笑顔を浮かべて「じゃ、ボクはこれで」とスタスタ歩いて行って「失礼しましたー」と職員室を出て行く。
 さっきまで彼が触れていた頬に触れたくなったけど、ぐっと我慢して、帰り支度をすませて足早に職員室を出る。
 教職員用の下駄箱まで行って、誰もいないことを確かめてから改めて彼が触れた頬に掌を重ねた。もう彼の温度なんてしないし、分からないけど。ひんやりと冷たい手が僕の頬に触れて彼の両目が僕を捉えていたと思い出すだけで顔が熱くなっていた。
 僅かな期待を抱きながら駐車場に出て、やわらかいカールのかかった茶髪の男子生徒を捜したけど、見つからなかった。…当然か。こんなところで待ち伏せしていたら周囲にもろバレだ。
 それなら、もしかしたら北門で待っているかもしれない。また期待を抱いた心で急いで車に乗り込み、北門前まで行ったけど、誰も待ってはいなかった。寒そうに肩をすぼめて足早に下校する生徒がいるだけだ。その中にの姿はない。
 その現実に思ったより落胆している自分がいた。
 …すっかりに振り回されている。あんなうらなりに。まだ高校生の子供に。
 僕は都合よく転がされただけ。彼の性欲を満たしただけ。彼は体よく僕を抱いただけ。
 それだけの現実が痛くて、滲んだ視界で車を発進させ学校を離れる。
 行き先は自然と決まっていた。そう、彼と出会うことになった、きっかけの、あの場所だ。
 パーキングに車を突っ込んで、眼鏡を外し、後部座席に積んであるスーツケースを引っぱり寄せる。中には服や帽子、学校とは違う格好をするための一式が入っている。それに適当に着替えた。気持ちは投げやりになっていた。どうせ最初からその予定だったのだ。あのときはろくな変装もしていなかったからに見つかってしまったけど、ちゃんと着替えて眼鏡を外して髪でも上げれば僕だって分かることはないだろう。そうやって着替えを終えて最後に近場の店で度の入ったサングラスを買おうとしていたとき、「あれ?」と知っている声がして身体が固まった。
 まさか。そんな、馬鹿なことが。
 震えた心で現実を疑い、確かめようとゆっくり視線を辿らせた先で、どこかぼやけた視界の中にが立っていた。今日も弾けた格好だ。彼は眠そうに欠伸をこぼして僕の手からサングラスを取り上げた。そうして笑う。しょうがない人だなぁとでも言うように、困ったような顔で。
「これじゃあ俺と約束した意味ないじゃんか、雲雀」
「…うるさい」
「はいはい」
 サングラスを戻したが僕の手を取った。ひんやりと冷たいままだ。「出よう」と手を引かれて抗えずに店を出てしまう。
 繁華街の一歩手前の店で、この間とは違う店なのに、今度はちゃんと着替えて僕だと分からないようにしてきたのに、またに見つかった。…そんなことが嬉しいと思っている僕はもうどうしようもない。これでまた口止め料として君に抱かれるんだ。そう思って安堵している自分が本当に、馬鹿みたいだ。
 僕よりも背の高い彼のやわらかい茶髪の後ろ姿を見上げる。
(年下のくせに、そっちのことに関しては経験豊富で、僕のことだってこんなふうに転がして。憎たらしいな)
 …本当なら毛嫌いすべきことをされたのかもしれない。それでも、一緒に気持ちよくなってイッたわけだから、そんなことも思えない。生徒と先生としての距離を守るべきだと頭で分かっていても気持ちが先へと走る。
 こんなに人のことで苦しくなったのは、生きてきて初めてのことだ。
 切ないくらいに、僕の頭は君のことでいっぱいだ。
を見ている意識を抑えられない)
 パーキングまで歩いてきたが深く息を吐いて僕を振り返った。どこか呆れている、そういう顔だと感じた。「本当、なんでまた来たんだ。俺また雲雀のこと抱いちゃうよ?」「抱けばいい」投げやりに吐き出すと彼はきょとんとした顔で僕を眺めた。首を捻って「それ本気?」と訊ねられ、きっとを睨んで派手なジャージの襟元を掴む。
 ちっとも分かってくれない。昼休み毎日電話をかけて、放課後だって誘ったのに、どうして気付かないんだ。僕が女でないからか。僕のこと抱いたくせに、そういう目で一度でも見たくせに、なんで。
「冷たく、しないでよ」
 怒って吐き出すつもりが、弱く、縋るようにしか言えなかった。
 くそ、と唇を噛んでジャージの上からコートを羽織っているの肩に額を押しつける。
 駄目だ。ぼやけてる視界なのに、それでも、のことをまっすぐ見られないや。
 遠くの雑踏と人の声がここまで聞こえてくる。若者の笑った声。もこれから僕を放り出してその輪の中に加わるのかもしれない。それが若者らしい姿であると分かってもいる。だけど。
 ああ、沈黙が耳に痛い。
「……俺に、優しくされて。それで、雲雀はどうしたいんだ?」
 ようやく途切れた彼の沈黙。けれど、今度は僕が沈黙する番だった。
 言葉が迷った。どうしたいのか。よく、分からない。分からないけど、もっと一緒にいたい。もっとたくさん話をして、君のことを知って、好きなものとか嫌いなものとか知って、もっと、近づきたい。先生と生徒じゃなくて。もっとちゃんと、人間として。一緒に。
 何も言えない僕に、は、と短く吐息したあとに彼の腕が動いた。ポケットから携帯を取り出して何か操作をしつつ「あーあもー。馬鹿だな雲雀。まぁ、俺も結構馬鹿だけど」とぼやいて僕の背中を叩いた。「車乗せてよ。どっか行こ」と言う彼にぱっと顔を上げる。画面を指でつつきつつこっちを確認した彼が笑う。呆れたような顔で。
「仕方ないから、今夜の俺の時間、雲雀にあげるよ」
 ……そんな言葉に嬉しくなって、胸の高鳴りを抑えきれない僕は、本当、どうしようもない。