ようやく退屈な授業が終わって昼休みになった。
 ふわ、と欠伸をこぼしつつポケットから携帯を引き抜く。俺にはかわいすぎるくらいのペンギン親子がポップ調で描かれてる携帯カバーを指で撫でて、着信を知らせる携帯で通話を繋げた。
 ざわりと風が肌を撫でも冷たさはない。制服を揺らしながら吹き抜けて、桃色の花弁を目の前まで運んでくる。
 すっかり春になった。ひもじくなる季節が去ってくれて何よりだ。これからはあのボロ屋でも幾分過ごしやすくなるだろう。
「さて問題です。ボクは今どこにいるでしょーか」
『…購買の前?』
「ブー、外れです。正解は校庭」
 じゃり、とスニーカーの底で砂を踏んだ。携帯を耳に押し当てている雲雀がなんで校庭と顔を顰めているのが目に見えるようだ。『なんで校庭』ほら来た、思ったとおり。
「桜がもう散るからですよ」
 冬は寒かったくせに、今年の春は早めにやってきて一気に列島の空気を取り換えていった。おかげでいっせい開花した桜は四月半ばですでに散り始めている。次に雨が降ったら花弁は全部落ちるだろう。「で、有給は取れそうですか」訊いたら分かりやすく沈黙された。新学期が始まったばかりで無理だろうと分かってはいたことだ。『…無理っぽい。そりゃあ、強く出れば取れるかもしれないけど…悪目立ちはしたくない』うん、まぁそうだろう。それがいい。少なくとも俺が学生という身分である間は俺達の関係は誰にもバレないことが望ましいのだ。
 ひらりと視界を落ちていく花弁を追いかける。空中で捕まえて、そっと拳を開く。
 小さな桃色の花弁は日本の春の代表格だ。初めて同じ春を過ごすのだからと桜祭に行く予定を立ててたんだけど、この分だと無理っぽそうだ。
 ぱくりと花弁を食べてみた。特に味はしない。春になると桜味のものとか出回るけどあれは本物の味で合ってるんだろうか。
『帰りに』
「はい?」
『帰りに、君を拾って、寄っていくっていうのは』
 携帯からの声にうーんと首を捻る。もう授業は通常稼働に戻りつつあるし、順調に終えて十六時。雲雀の仕事のぐあいが上手く片付いたとしてもこれより早いということはないだろう。上手くいっても合流して会場に着くまで十七時…。
 俺が目星をつけたところは夜はやってない。となると、時間帯の希望を優先させる形で場所を移すしかないか。
「じゃあ、あとで捜しておきます。夜やってるところもあるでしょ」
『…あのさ』
「はい」
『その喋り方、やめない?』
「やめません。学校ではコレって決めてますから」
『なんで?』
「…その方がやりやすいからですよ。人をあしらうのも、作ってるキャラになぞれば痛くも痒くもない。ホントの自分を隠すための皮ってやつです」
『僕と電話するときくらい皮を脱いでよ。僕は本当の君を知ってる』
 はー、と息を吐いて眉間を揉み解す。
 雲雀の言いたいことは分かるんだけど…先生と生徒じゃ同じ学校の中にいても状況が違ってくるんだよ。相変わらずまっすぐというか。「そりゃ、せんせだけが相手ならボクもこんな面倒なことしませんよ。でも、学校は集団生活の場でしょ。ヘタ打てないんです。面倒事は避けたい」まぁ、もう援交は卒業したし、あとは今までに作り上げたキャラを今更崩してクラスで下手に浮くっていうのを避けたいとか、それくらいの理由なんだけど。
 桜を見上げて落ちる花弁を眺めていると、同じく桜を観賞しようと思ったのか、複数の女子生徒がやってきた。スカートの長さで新入生だと分かる。俺に気がつくと「先輩こんにちわ」と揃って挨拶をくれた。へらっと笑って手を振っておく。電話中だということを女子集団も察してくれたようだ。会釈されただけで俺のことは意識から外してくれる。
 集団生活ではどこで誰が何を見聞きしているのか分からない。だから油断ができないのだ。クラスで下方になるのも上方になるのも避けたい。俺がいたいのは当たり障りのない真ん中なのだ。
「人間関係ってね、大変なんですよ」
 言ってから、雲雀は大した人間関係を築かないまま生きてきたんだったなと気付いた。強いて言うなら俺くらい、か。
 携帯は沈黙していた。いや、弁当食べてるんだろう音はするんだけど。機嫌損ねた、かな。
「じゃあ、切りますよ。祭のことは調べてメールしますから」
『うん』
 ぼそっとした声だったものの、やっと返事が聞こえた。胸を撫で下ろしつつ通話を切る。その指でウェブを開いて時間帯を夜にして近場の桜祭会場を調べる。ぺぺぺとタッチして条件を入力、検索をかけつつカメラを起動、桜舞い散る風景をパシャリと撮って保存しておいた。
 俺は高二から高三へ。雲雀は先生のまま、季節は春を迎えた。
 これで雲雀と付き合うようになって二ヶ月ほどになるけど、俺達の関係が周囲にバレている様子はない。
 一千万で俺を買った雲雀の個人的財産というのはすっからかんに近いだろうと思うけど、あいつがそのことについて一度でも何か言ったことはない。相変わらず食事を奢ろうとするし何かと払おうとしてくる。自然な形で俺が払うことを心掛けてるけど、そこんとこが気に入らないようだ。年下のくせに生意気だとか言われた気がするけど、俺はもともと生意気なガキだから、これからも生意気に雲雀にいい格好させないでいく予定。
 俺みたいなガキが一千万の貯金があるのもおかしすぎるので、当面の生活費は現金でアタッシュケースに入ったまま服の山の中に突っ込んである。必要なときに数枚抜く感じ。
 あんなボロアパートに一千万があるなんて誰も思わないだろうと思うけど、0505の鍵番号は簡単すぎる気がしたから新しいのに変えておいた。
 高二から高三になって、本格的に進路についてに悩まないといけない時期になったけど、雲雀はそこのところは考えがあるという。大学も専門学校も就職も考えなくていいとか。
 担任でもない雲雀に何ができるのかは分からないけど、まぁ、信じてみよう。一千万が手元にあるのにしゃかりきに働くような気にもなれないし…。担任にはフリーター生活をしてお金を貯めてから先を考えますとか言えばいいんじゃないか。俺んちの事情は理解してるし、強くは突っ込んでこないはず。
 色々考えつつ、帰り道にスーパーに寄った。籠を手に貼り出してある広告を眺め、今日の売り出し品をチェック。
 援交をバッサリ切ったことに慣れてきた最近は、余った時間を自炊やら家事やらに使うことにしている。今までやる暇もなかったことだけど、やれるようになるに越したことはないだろう。
 最初はカレー作りから入った。初まともな料理は何がまずかったのかシャビシャビのカレーになったけど。
 まだ初めて一ヶ月くらいの調理。徐々に包丁を握るのに慣れてきている。最近は購買戦争には参加せず、自作のおにぎりを持っていく家庭的男子高校生ぶりを発揮中。うん、健康的。まぁおにぎり以外も食べろってしつこく言われてるわけだけどね。
 今日は売り出し品の鮭の切り身を三つくらい買って、一つを今晩のおかずにして、二つはお手製鮭フレークにする計画。フレークはおにぎりの具になる予定。
「好きかどうか、わからないと、君が言うのなら…その頭を二つ、割って、覗いてあげましょう」
 ある曲のワンフレーズを口ずさむ。そんなことを言いながら冷凍鮭を三つ選んでいる俺が変だったのか、おばさんに白い目で見られた。にこりと笑って返すとあっさり顔を逸らされたけど。
 車の中で聞き流していたラジオ。それから流れてきた曲。雲雀がなぜか気に入ってよく口ずさむから俺まで憶えてしまった。

 …二ヶ月付き合って毎週セックスしておいてあれだけど、俺は自分が雲雀を好きなのか、まだよく分かっていない。
 分かってない、は適切じゃないか。好きかどうかの確信が持てない、の方が近いのかな。
 これが好きならいいと思ってる。愛ならいいと思ってる。だけど、偽物の恋と愛を商品化して切り売りしていた俺には、これがそうだと言うことができない。自分の気持ちが疑わしい。また都合よく雲雀のことを転がしてるだけなんじゃないか。そんなことを、雲雀自身もどこかで感じているのかもしれない。
 俺は、まだ一度も、あいつのことが好きだと言ったことがない。
 かわいいと思ってる。まっすぐで、きれいで、俺を求めてきて、かわいい奴だって思ってる。だけどどこかで罪悪感のようなものを感じている。雲雀が好きだと、愛していると伝えられない自分を疑っている。
 きっと好きだと思う。きっと愛してると思う。だけど必ず誤魔化してしまう。ベッドの上で快楽に喘ぎながら愛してると言う雲雀に愛してるを返せない。いつも曖昧に笑って唇を奪ってしまうだけで。
 好きかどうか分からない。俺がそう言ったら、あの歌のとおり、雲雀は俺の頭を二つに割って中身を確かめるのだろうか。ぶちまけられた赤から好きを探すのか。まぁ、そんなことされたら俺は間違いなく死ぬわけですが。

 鮭が三つ入った透明な袋を籠の中に入れる。あとは、肉と、野菜かな。
 肉売り場へと足を向けつつ、違うフレーズを口ずさむ。「変わった気持ちも、馬鹿馬鹿しい言葉も。今すぐ僕にぶつければいいのに…」曲的には、付き合ってた二人が別れていく過程というか、そんな感じ。
 安い鳥の胸肉を籠に入れる。豚の細切れも。牛は安くなかったので断念して野菜売り場へ。今日の売り出しはじゃがいもと春キャベツだ。うーんどうしようかな、キャベツ丸々一つあってもな、と悩みつつ一つ吐息する。
 …きっと好きだよ。きっと愛してる。もう少し時間がたてばそこからきっとって言葉はなくなると思ってる。
 そばにいなくても、こんなに雲雀のことで頭が埋まってるんだから。俺のこれはきっと恋だ。
(きっと、って、いつ消えるかな…)
 本来ならこういうことは詳細をぼかして友達に相談するとかすればいいんだと思うけど。俺はそこまで話のできる友達ってやつがいない。
 無理して言えば嘘になる。それは嫌だ。
 雲雀の想いが本物だってことは痛いほど分かってる。だからこそ煮え切らない自分が自分で腹立たしい。あいつの本気に応えてやれてない。これじゃあ恋人ごっこと同じじゃないか。
 ポテチを籠に放り込んで、雲雀がやってきたときのためにいくつか茶菓子を選ぶ。日用品もぐるりと見て歯磨き粉だけ放り込んで会計、エコバッグにパンパンに物を詰めてスーパーを出た。
 今持ってる金全部が雲雀の愛だ。エコバッグに入ってるもの全てが雲雀の愛から生まれたものだ。
 対して、俺は、あいつに何を与えられてるっていうんだろう。
「好きかどうか、わからないと、君が言うのなら…その頭を、二つ、割って、覗いてあげましょう……」
 サビを口ずさみながら、吹き抜けた春風に髪をなぶられて片目を閉じた。
 恋なんて一度もしてこなかった。好きも愛も切り売りするものだと割り切っていた。自然と覚えるはずのものを捨てていた。因果応報。生活費のために引き換えにしたものはたくさんある。戻ってこないものの方が多い。これも、それ、なのかなぁ。
 ボロアパートに帰宅して、最初に炊飯器をセットする。食材をしまったりして着替えをすませた頃にこたつの上で携帯が着信を知らせた。メールでなくて電話だ。相手は分かりきっている。
「はいはい」
 もう家なので生徒モードは解除。「メール見た? こっから少し遠いけど、恭弥が車で行ってくれるなら学校帰りでも間に合うと思う」…あれ。返事がない。首を捻って携帯を離し、繋がっていることと通話相手を確認。再度携帯を耳に押し当てて「恭弥?」と声をかける。

「ん」
『僕のこと好き?』
 どこか歪んだ声がそう言った。さっきまで俺が何を考えていたのか、見抜いているようなタイミングの言葉だった。
 縋っている声にひっそりと息を吐く。
 俺に拒絶されることを恐れてる雲雀が覚悟を決めて訊いてきたってことは分かる。傷ついてもいいから答えを知りたい。あいつは切実なんだ。俺が、そうさせてる。
 俺の一言で簡単に傷つく雲雀を、傷つけないように。でも、ちゃんと本当のことを伝えよう。
「多分好きで、きっと好き。…ごめん、言えて、これで精一杯だ。お前に嘘吐きたくない」
 ぐしゃっと髪を握り潰す。相変わらずはっきりしない自分が鬱陶しいったらない。
「俺は、好きとか愛とかは切り売りするものだって割り切ってた。だけど、恭弥は俺のことが好きだって言う。俺はそんな恭弥のことを好ましいと思ってる。キスしたいと思うし、抱きたいとも思うし、恭弥のことでたいてい頭いっぱいだし、これが好きで愛なんだろうって思ってる。…でも確証がない。恋とかしたことないから、保証とかできない。だから、きっと好きで、きっと愛してる」
 精一杯の言葉を綴った。これ以上は自分の中にまだ存在しない。それでも、今までの人生の中で雲雀恭弥という人間が一番好きだし、金なんてなくたってキスしてセックスして自分の精を吐き出して汚してやりたいとか思ってる。
 ……あれ?
(あれ。それってつまり、)
 自分の額に手を当てたとき、ふ、と携帯の向こうで雲雀が笑った。笑った声が震えていた。笑いながら泣いている。
 だん、と畳を蹴って立ち上がる。「今どこ」『外、出てごらん』言われるまま古い床板を遠慮なく蹴飛ばしてサンダルに足を突っ込んで外に飛び出す。黒い車が止まっていて、携帯を下ろした雲雀が立っていた。
 抱き締めたいという衝動のまま走り寄ってスーツ姿の雲雀を抱き締めた。カシャン、と雲雀の手から携帯が転がり落ちて、縋るように背中に両腕が回る。
 なんだよ。そうじゃんか。今まで人に好意なんて抱いてこなかった俺が、好意は切り売りするもんだと思ってたこの俺が、好意を抱いたんだ。その時点で答えは出てるじゃないか。
「好きだ」
 吐き出して、キスをした。眼鏡が邪魔でごちっと痛い音がしたけど気にしなかった。このキスを誰も見ていないことを祈った。祈るだけで周囲まで確認する余裕がなかった。雲雀が泣きながら笑った顔がきれいで見惚れていた。
「生きてきた中で恭弥が一番好きだ」
 若い女子よりも、グラマラスな年上人妻よりも、羽振りのいい親父よりも、今まで抱いてきた誰よりも、雲雀が好きだ。
 ああ、気付くのが遅かったな。雲雀を不安にさせた。二ヶ月かかってしまった。最低だな。また泣かせた。
 涙で顔を濡らしている雲雀から眼鏡を奪って、長い前髪をかき上げて、もう一度キスをする。
 雲雀は満足そうに俺の胸に頭を預けて目を閉じた。
「僕も、生きてきた中で、一番、が好きだ」
 あいしてる、とこぼした声に、墨のように黒い髪に顔を埋めて「俺も愛してる」と口にしたことで、ようやく、俺は人を愛しているということに気がついた。