品のいいタルトケーキ

 うちに来ていた家政婦と使用人が一斉解雇されて、代わりにやってきたのはたったの一人。しかも外人だ。金髪と青と緑を混ぜたような色の目をしてる。
 その人はだいたいにこにこと笑ってるんだけど、ある夜居間に下りていってジュースを飲んでたら、ふと投げた視線の先のテラスに人がいるのが見えてどきっとした。びっくりって意味で。誰もいないと思ってたのに、あんなとこで何してんだあの人。
 訝しんで近づく。相手は空を見上げてぼんやりしていた。何かあるのかと首を捻って同じように空を見てみたけど、特に何もなかった。なんなんだ一体。
 放置して部屋に戻ろうと思ったけど、もう二時だ。寝ろ、の一言くらい言うべきか。一応この人はこの家の使用人なんだし。
 仕方がない。本当に仕方がないからガラリと窓を開け放ってテラスでぼんやりしているその人に「寝なよ。風邪引くよ」と声をかけたけど、スルーされた。頭上を見上げたままの相手にずんずん歩み寄ってわしと頭を両手で掴む。月明かりを浴びた金色の髪は、そうしていると輝いているようだった。それにさらさらだ。女の髪みたい。外人ってみんなこうなのかな。
「聞いてるの? 寝・な・よ。いつまでもこんなとこいると風邪引くよ」
「…月が」
「は?」
「月が。きれいだなと思って」
 ぼんやりした声に顔を顰めて空を見てみる。特別、きれいでもなんでもない。いつもと同じだ。見上げ続けるほどの何かはない。
 半分呆れながら「僕は声かけたから」と言い置いて離れる。ピシャリと窓を閉じてから振り返ると、あの人はまだぼーっと空を見上げていた。
 イラつく。なんだよ、僕がせっかく寝ろって声をかけたのに、そんなに月が見たいわけ。毎日夜になれば見られるじゃないか。わざわざこんな夜中に見上げるほどのものでもないのに。
 イラついて部屋に戻る。ぴしゃんと乱暴に襖を閉じて布団に潜り込んだ。
 なんとなく、まだ月を見上げたままなんだろうと思うと、どうも眠れない。引きずってでも寝ろって連れ戻すべきだったか。そんなことを考えているうちに、眠気はやってきた。自分の眠りと他人の眠り、優先するのは、やっぱり自分の方だった。
 朝起きていくと、ご飯はちゃんと用意されていた。今日は混ぜご飯と味噌汁と焼き魚という和食メニューだった。味は文句なし。どうやら料理の得意な二番目の兄に教わっているらしく、洋食以外の料理も食卓に並ぶようになった。「おはよう」と笑いかけられて、ぐっと言葉に詰まってからそっぽを向く。
 昨日あれからいつ寝たのか、そしていつ起きてご飯の準備をしたのか。相手のことを、僕はよく知らないままだ。
「ごちそうさま。弁当」
「ん」
 三番目の兄の催促でその人は慣れたように包みのお弁当を渡した。「じゃいってきまーす。あ、帰り今日は八時ね。バイト一時間早く切り上げることにしたから」「分かった。いってらっしゃい」ほぼに向けられている言葉に、本人は笑顔で答えている。家政婦みたいに嫌な笑顔じゃない。そこは、まぁ認めよう。
 というか、兄がこんな会話をしたのは随分久しぶりな気がする。いつも勝手に出て行ってバイトして帰ってきて、ご飯食べてお風呂入って自室に行って、そしてまた朝が来たらご飯を食べて勝手に出て行っての繰り返しだった。この変化は、間違いなくあの外人が運んできたものだ。
 僕らは顔も名前も同じ兄弟で、年齢はバラバラだけど、見た目的にそう変わらない。親がいい加減でいい加減なまま死んだから。僕らも迷惑してる。同じ名前だなんて、本当に、迷惑極まりない話だ。
「恭くん、でもいいかな。呼び方」
「…好きにすれば」
 こっちを見て困った顔をしている外人の声にぷいとそっぽを向いて味噌汁をすする。アサリが入っていた。そういえば昨日ボールに水が張ってあったな。そういうことか。
 砂の抜け切ってるアサリは一度もじゃりっという食感を残すことなく食べられた。
 時間を確認しながら鞄の中身を見直した。忘れ物はなし。宿題も入ってる。五分くらい余るし、見直すかと数学の宿題を広げると、興味が出たのか外人が寄ってきた。頬杖をついて問題を確かめ僕はその行動をスルーする。
「あ」
「…何?」
「これ、違う」
 骨ばった指先が示した応用問題に眉根を寄せた。それから少しの意地悪のつもりで「じゃあ解いてみて」とペンを渡す。きょとんとしていたその人は困った顔をしてから改めて問題を見た。
 違うっていうんなら解いてみせたらいい。そしたら納得するよ。宿題だから答えがまだないんだ。あなたの回答を参考くらいにはしてあげよう。
 かりかりかりとペンを動かして、最後に解を導き出した相手がペンを置いた。「こうかな」「…これ合ってるの?」「多分」途中の解き方まで丁寧に書かれた数式を見つめてから視線だけ上げる。窺うようにこっちを見ている瞳と目が合った。ふいと顔を逸らす。もう一回宿題を見てみる。…視線がいちいち鬱陶しい。
 一応自分で他のところの確認もしてみた。外人はそれ以上は何も言わなかった。ということは、あとはオッケーということだろうか。それとも口出しはやめたということだろうか。どっちなんだ、イライラする。
 かたんと隣の席を立った弟が「ごちそうさまでした」と重ねた器を持ち上げた。「やるよ」とその手から器を受け取った外人が台所の方へと消える。
 宿題を鞄に突っ込んで、歯磨きをする。弟も歯磨きにやってきた。二人して会話なしにシャコシャコと歯を磨く時間だけが過ぎる。
 鏡に映るのは、ほぼ同じ顔だ。視線を俯けている大人しい弟と、ちょっと目が釣り上がり気味の僕。クローンか何かかと間違うほど僕ら兄弟は顔が似ているし、体型もそう変わらない。僕が成長したら兄達のようになるんだろうと簡単に想像がついた。
 別に、嫌ではないけど。世間一般でいうとこの顔は出来た細工物のようだし。
 鞄を掴んで玄関まで行く。後ろをと弟が並んで歩いてくる。「恭ちゃん、集合時間より少し早いね」「今日は僕が先頭歩く日だから…早めに行って点呼しないといけなくて」「そっかそっか。頑張ってね」「うん」その会話から、どうやら弟のことは恭ちゃんと呼ぶことにしたらしいと分かった。僕が恭くんで弟は恭ちゃんか。まぁ、同じ雲雀恭弥なんだし、呼び方を工夫しないといけないのは仕方がない。くんづけとかなんとなく子供扱いされてるような気がするけど、ちゃんよりはマシか。
 スニーカーに足を突っ込んでガラリと引き戸を開ける。「いってらっしゃい恭くん」の声に振り返ることも返事をすることもせず車庫の方に行き、止めてある自分の自転車のカゴに鞄を突っ込んだ。施錠を外してガシャンと留め具を蹴飛ばして車庫から出て、ちらりと玄関に視線を投げると、歩いて集合場所まで行く弟の背中を見送っている外人が見えた。
 別に、僕は前のままでもよかった。女の使用人はちょっと視線が鬱陶しいし、キモチワルイかもと思ってたのは事実だけど。だからって一人に絞って全部押しつけるっていうのも何か、違う気がした。
 ぱちと目が合う。青と緑の瞳に見つめられて慌てて顔を逸らして自転車に跨って地面を蹴る。
 あの人は、同じ顔の人間が五人もいる家で暮らすことを、なんとも思っていないんだろうか。
 ちらりとそんなことを考えながら、学校までのいつもの道を自転車で疾走した。
 部活にも入ってない僕は早々に帰宅する。ガラリと玄関の引き戸を開けてスニーカーを脱いでいると、とたとた足音がして「おかえり」と声をかけられた。視線だけ上げるとあの外人がにこにこ笑顔を浮かべてそこに立っている。
「おやつ作ったんだ。食べない?」
「…何作ったのさ」
「タルトケーキ」
「は?」
「タルトケーキ。りんごがね、安かったから。ジャムとケーキにしたんだ。恭もおいしいって言ってくれたよ。食べる?」
 首を傾げられて、ぐっと言葉に詰まる。どうして言葉に詰まるのかよく分からないけど、僕は素直になるってことがどうもできないらしい。
 っていうかタルトっておやつなのか。いや、部類的には確かに甘いものでおやつなんだろうけど、なんかレベルが高いような気がする。おやつ=ホットケーキが僕のレベルだ。確かにこの人の食事はおいしいけど。そこに文句を入れる余地なんてないんだけど。なんか、もう少しできないって面を見せてくれてもいいのにな。
 居間に顔を出すと、二番目の兄がいた。いつも湯飲みを傾けていることが多いけど、今日はカップを手にしていた。「おかえり」という声をスルーしてどさりと鞄を椅子に置いて食卓に頬杖をつく。洋柄のかわいい感じのお皿にアップルパイと生クリームがのっているおやつが用意されて、写メして自慢できるくらいのレベルだな、と思いながらまずは一口、先っぽをフォークで切って食べてみた。その間じっと注がれている視線は無視する方向で決めた。
 タルトはさっくり感がほどよく、煮てあるりんごは品のいい甘さで、カスタードクリームもベタつきがなかった。思わずじっとタルトを見つめてしまう。これが、本当に手作り? 買ってきたんじゃなくて?
 僕の疑問に答えるように兄が言う。「文句のつけようがないくらい上手だよね」と。独り言なのかどうなのか、その言葉に浅く頷いておいた。「そうかな」と笑う青と緑の瞳の持ち主にちらりと視線を向ける。
 そういえば、朝違ってると指摘された応用問題、本当に僕が間違っていて、この人の書いた解が合っていた。ということは、中学生レベルの勉強はこの人の方が上ってことか。なんか悔しいな。料理がこんなに上手にできるのもそうだけど、まるでなんでもできるみたいで、なんか悔しい。
「紅茶は飲む?」
 ことりと首を傾げた相手に緩く頭を振る。「オレンジジュースちょうだい」「ん」コーヒー紅茶なんて大人の飲み物は僕にはまだおいしくはない。ジュースの方がずっといい。…この時点で僕は子供すぎるのか。どっちかでいいから飲めるようになった方がいいかな。でもコーヒーは苦いし、紅茶もそうおいしいとは思えないんだけど。兄達は平気な顔で苦いものも飲むんだよな。なんでだろう。
 机に置かれたコップを手にしてオレンジジュースを飲む。添えられている生クリームをケーキの上にのせて食べると、またおいしかった。こっちは少しさっぱりしてる。レモンでも入ってるのかもしれない。本当、カフェにでも来たみたいだ。
 前までだったら用意されててもおやつは市販品が多かった。ケーキは日持ちしないし、誰が食べるとも知れないから、プリンとか、そういうものが冷蔵庫に入ってることが多かった。それを適当に食べるだけだった。こういうふうに用意されて食べたのなんて、初めてかもしれない。
 僕が完食してお皿を空にすると、外人のニコニコ度が上がった。なんでそんなに笑ってるのかとこっちは呆れてしまう。
 …せめて一言。言うべきか。でも兄がいるし。いや、いてもいなくても同じなんだけど。逡巡してから口を開いて「おいしかった」と言うと外人は笑った。「ありがとう」と言われてなぜかこっちが照れてくる。照れ隠しで鞄を掴んで立ち上がってずかずか居間を出て行く。ああ宿題しなきゃ。今日は英語のがあるから時間もかかるだろうし。
 からりと襖を開けて部屋に戻ってから気付く。
 そうだ、英語。あの人英語できるんじゃないだろうか。何せ外人だし、見た目的に。
 逡巡して、使えるものは使うだけだと決めて部屋着のスウェットに着替えてから筆箱と辞書を片手に居間に顔を出す。兄の方はいなくなっていた。華道の先生なんて特殊な仕事をしている兄は家にいたりいなかったりする。一番上の兄はもっと特殊な仕事をしているからだいたい家にいない。いても夜だ。今日なんかまだ見かけてない。多分、ろくでもないことをしてるんだろう。
 外人の方はいた。机の上に雑誌を広げている。ぼんやりしてるイメージの抜けない相手が何かをしている姿は珍しかった。
 一回だけ深呼吸して居間に入る。僕に気付いた相手がにこりと笑顔を浮かべてなぜか言葉に詰まる。悪意も害意も媚びもない笑顔は、ある意味新鮮だった。いつも人に向けられる笑顔には何か他の成分が含まれていて、それが滲んでいることが多かったから。
「何読んでるの」
「恭がくれたんだ」
 ばさりと持ち上げてみせた雑誌は、茶道や華道のことが載っている月に一冊定期で出てる雑誌だった。毎月うちに届くやつだ。しかも一番最初の号。今じゃ何号まであるのか知らないけど、全部読むとしたらかなりの冊数になる。そのこと、この人は分かってるんだろうか。
 まぁいいけど。僕は茶道にも華道にも興味がないし。
 本題である英語の宿題をばさっと机に落とす。仕方なく外人の隣に腰かけて「英語はできるの」と訊くときょとんとした顔をされた。「俺?」「そう」「うん、できるよ。これは宿題?」「そういうこと」筆箱からシャーペンを取り出してかちかちとノックする。年組番号氏名の欄を埋めながら雲雀恭弥と書いた自分の文字を睨みつける。
 問題に取りかかりながら気付いた。別に、やり始めからここにいる必要のなかったことに。一通りやって分からなかったら訊きにくればよかったわけで、ここで並んでる必要は全然、なかったような。
 隣でじっと手元を見つめてる相手に口を開いて閉じて、開いて閉じて。こほんと小さく咳払いして「分からなくなったら訊くよ。だからそれ、読んでていいよ」シャーペンで雑誌の方を示すと、こくりと頷いた相手の青と緑の瞳は僕の手元から雑誌の方へと流された。
 なんとなく落ち着かない。そりゃ、まだよく知りもしない他人の隣で宿題なんてしてるせいか。馬鹿だな僕も。二番目の兄みたいに頭がよければよかったのに。そんなことを思いながら英単語を睨みつける。発音が同じものを選べ。…はっきりいってスペルを見て自分で発音してみる限り、どれも同じにしか思えない。電子辞書ではないから、紙の辞書は喋ってはくれない。
 ちらりと隣に視線を投げる。ゆっくりした動作でぺらりとページをめくった細い指を見つめてから視線を外し、やっぱりもう一回見る。そういえばこの人、日本語は読めるのかな。ばっちり日本語の雑誌だけどそれ。
「ねぇ」
「ん?」
「発音、の問題なんだけど。ちょっとここ喋ってみて」
 この単語の発音と同じものを選べ、でさらに単語が四つ並べられている文を示す。一つ瞬きした相手の口からすらすら英語が流れてだいぶ聞き逃した。僕の顔色を見てか、首を傾げた相手が「もう一回?」と訊くから頷く。すらすら流れてくる英語を聞きながら親指の爪を噛む。「もうちょっとゆっくり喋れる?」「うん」気持ちスローになった英単語を聞きながら、一つに印をつけた。多分これ、だと思う。
 やっぱり英語できるんだな、この人。そんなことを思いながら次の問題に移った。特に何も指摘がないところから、どうやら僕の回答は正解らしい。青と緑の瞳が僕から雑誌へと戻った。随分ゆっくりなスピードで読み進めている。僕ならそんなもの流し読みで終わらせるな。
 そうやって、英語の宿題を終わらせるのに三十分。僕は雑誌を眺めるの隣に座り続けていた。