(暑い…)
 ミーンミーンミンとどこかの木から叫んでいる蝉の声を聞きながら行きがかりのコンビニに入って一息吐き、せっかくだから、とへの手土産にジュースとお弁当、自分の分の炭酸飲料を手にレジで会計をすませ、覚悟を決めてコンビニを出る。途端にミーンミーンミンと突き刺さる蝉の声と、全身の倦怠感さえ感じさせる熱気に包まれた。
 春を過ごし、夏になり、僕は二十代ど真ん中の歳になった。
 暑い、と長い前髪をかき分け、シャツの袖を額に当てる。そこで、が暑いときは茶髪の前髪をくくってピンで止めているということを思い出した。
 あれ、変だと思ってたけど、髪がぴよってしてるのがちょっとかわいいんだよな。…でも、僕がやったら変なんだろうな。若者だから許されるっていうか。いっそ髪を切ろうかな。が見えなくて邪魔だと思うこともあるし。夏は肌にはりついて鬱陶しいし。でも切ったら無駄に人目を集めて面倒くさいことになるかもしれないし。
 暑いと眼鏡すら邪魔なのだ。普段は身体の一部と化しているこれすら汗で滑ったり手入れに気を配ったりしないとならなくなる。眼鏡だって邪魔なのに、髪まで邪魔なんじゃ、鬱陶しいったらない。
 まぁ、それでも切らないのだけど。少なくともが並高に通っている間は。
 暑さに負けて、髪を耳にかけた。前髪も多少流す。少しはすっきりしたので、黒のキャスケットをかぶり直して、炭酸飲料のペットボトルを開封して中身を呷る。一つ息を吐いて歩みを再開し、早くのところへ行こう、と歩幅を大きくする。

 並高は夏休みに入った。僕は補習が必要だと定められている教科の担当ではないため、世間が夏休みという期間中もそれなりに融通が利く。非常勤で学校へ行かなければならない日もあるけど、基本的に仕事は少ないし。
 今年の休みは、その空いた時間を、全て、といることに使える。
 こんなに嬉しいと思った夏休みが今までにあったろうか。
 どこへ行っても子供がいて、家族連れが、恋人が、友達集団がそこら中に溢れているって、夏は嫌いだった。ただでさえ暑くて気分は滅入る一方だというのに、集団の中で一人だという自分が嫌で。今思えば、寂しくて、それを知りたくないから、人で溢れる夏を嫌っていたのだ。
 でも今年は違うんだ。僕にはがいる。まぁ、それでも暑いものは暑いんだけど。
 風は生ぬるいし、陽射しは痛いし、目に眩しいし、アスファルトからの熱気は酷くて上からも下から蒸されて、蜃気楼も見えるし。本当、暑くて嫌になるな。

 なんとかのいる木造アパートに辿り着くいて、古くてところどころ錆びた鉄扉の前で一つ息を深呼吸。ああ疲れた。
 今日は父が休みだったから、僕の行動に目を光らせているかもしれないと思って車を断念して歩きにしてみたんだけど。やっぱり無謀だった。普段から職員室と教室を行ったり来たりだけで運動してないせいだ。あと、暑いせい。素直にバスを待つべきだった。
 ゴンゴン、と扉を叩く。チャイムさえない古いアパートなのだ。大きな地震がきたら一発で倒れそうで、このアパートを視界に入れる度に、が普通にここに住んでいることが信じられないと思うと同時に怖くなる。なるべく早く、彼をここから引き離さなければ。

「あーい、開いてる。入って」
 扉越しに聞こえた声に、不用心だな、と吐息しつつノブを回して古い扉を押し開けると、こたつ机の前に半袖半ズボンのジャージ姿の彼がいた。「これ、差し入れ」ガサリとビニール袋を揺らした僕に首だけで振り返ったが苦笑いをこぼす。また前髪をぴよぴよさせている。「いいって言ってるのに」「僕の勝手だ」バタン、と大きな音を立てる扉を閉めて、歩くとギシギシ音を立てる短い廊下兼キッチンを突っ切って畳のワンルームへ。そこまで来てようやくがジャージの上着を引っかけているだけ、という事実に気がついた。
 …いくら夏だからって、着ないのはどうかと思う。何より、肌色率が多い。僕の目に悪い。
 ガサ、と机にビニール袋を置く。は熱心に携帯をいじっているだけだ。「…ご飯食べたの?」「いやーまだ。どうしようかなって思ってたら恭弥が来たからさ」「じゃあ、食べて。適当なの買ってきたから。ジュースもある」ようやく携帯を置いた彼が「恭弥は?」と訊くから緩く頭を振った。「暑いと、食欲なくなるんだ」ぼそぼそ説明すると彼は首を傾げた。ふーんとこぼすと、身長のわりに痩せすぎている君のためにと僕が選んだ762キロカロリーあるカツとからあげの弁当を開封し始める。
 すっかりぬるくなっている炭酸飲料を呷る。僕はこれで十分お腹が膨れる。
 ぱき、と割り箸を割った彼がつまんだからあげ。それがなぜか僕に差し出される。「はい」「…、」ペットボトルの口を離して「食べないって言った」「少しは食べなさい。俺があーんしてあげるよ」…それは、魅力的な申し出だけど。それで折れるのも何か悔しい。
 ぷいと顔を背ける。「いらない。が食べればいい」なおも僕が言い張ると、彼は諦めたらしい。「じゃーいただきまーす」とあっさり引いてぱくんとからあげを一口で食べる。
 …いらないって意地を張ったのは僕だけど。もうちょっと粘ってくれてもよかったのに。
 吐きそうになった溜息を押し込めてぬるい炭酸のボトルを机に置いたときだった。がよいしょと立ち上がる。ぬるいコーラが気になって冷やしにでも行くのだろう、と思っていたら、なぜか僕の横に来た。何、と言おうとして顔を上げた先でキスされて舌を捩じ込まれる。かっと一気に顔が火照った。逃げないようにしっかり両手で頭を固定されて、しかも噛み砕いたからあげを舌で押し込んでくるから、拒否するにしきれず、数秒の舌での攻防の結果、結局飲み込むことになってしまう。
 ごくん、と喉を通ったからあげの感触。
 するりと手が離れて、は何事もなかったように弁当の前に戻った。僕の前を離れる、その瞬間の、生々しい色を放って弧を描いた唇の動きと、細められた瞳。僕はまた手玉に取られている。それが分かってるのに何も言えない。
 つっと額を伝った汗に前髪をかき上げてシャツの袖を押しつける。暑い。いや、熱い、のか。
 口移しで何かを食べたことなんて、憶えている限りでは初めてだ。まるで餌を待つ雛鳥みたい。ああ、でも、年齢的にも僕が親鳥の役なのにな。待ってるのは僕の方、か。
 は普通の顔で胡座をかいて座ると、今度はカツを口に入れる。もくもくと咀嚼してから今度は膝立ちでこっちにやってきて僕の肩を掴む。唇を押しつけられて、抵抗もせずに熱い舌を受け入れる。さっきはからあげで今度はカツ。油っぽいし、いつもの夏だったら胃が受けつけないのに、が噛み砕いてやわらかくしたものだからか、今のところ胃からの抗議はない。
 ごくん、とカツを飲み込む。離れようとする彼の顔を今度は僕が両手で掴まえた。舌を捩じ込んで求めると、すぐに応えられた。
 何もしていなくても暑いのにさらに暑くなる。汗で湿っぽいシャツを脱ぎ捨てたくなってくる。そしてそのまま肌を重ね合わせてしまいたい。
 身体が密着して吐息が熱く肌を掠って、どちらからともなくバランスを崩してどさっと畳の床に倒れ込んだ。の胸に手を突いて上の位置を取る。いつまでも年下にいいようにされてたまるか、という意地がこんなところで働いた。
 たとえ上を取られたっては動じない。むしろ面白いものを見るように僕を眺めてるだけだ。
 くそ、と唇を噛んでキスを仕掛ける。
 を下敷きにしてる分僕の方が有利なんだ。自由に動ける。が参ったっていうまでキスしてやる。
 そうやって唇を奪ったのに、はちっとも崩れないし、僕の分の唾液が上から下へと流れ込んでるわりには上手に飲み下してるようだ。…やっぱり慣れてるな。僕だってだいぶ上手にできるようになったつもりだけど、に教え込まれたものでしかないのだから、それで彼を越えようっていうのはやっぱり無謀かな。
 そんなことを考えていたとき、足の付け根をぐっと擦られてびくんと身体が跳ねた。
「っ、」
 よく考えれば、の上を取ってのしかかっているということは、僕は彼を跨いで四つん這いでキスを仕掛けているということで。そんな無防備な僕にが仕返しとして何を考えたのかなんて瞬時に理解した。顔を上げようとする僕を拒むように頭に腕が回って固定される。その間もキスが続いて、膝で擦り上げられて、意識してもしなくても身体が跳ねてしまう。
「ん…ッ」
 なんとかの胸に手を突いて引き離すことに成功し、転がるように距離を取る。はといえば、畳に寝転がって起き上がらないままへらっと笑ったところだ。
「俺の上を行こうなんて、まだまだ甘いよ、きょーや」
 熱くなった顔と身体がまだ脈打っている。
 くそ、と顔を背けて胡座をかいてくるりと背中を向ける。を視界に入れていたら治まるものも治まらない。中途半端に浮ついた身体を落ち着かせないとまずい。
「さっさと食べてよ。僕はもういい」
「えー? 口移ししてあげるよ?」
「いいっ」
 中途半端に反応しかけた身体に追い打ちなんかかけたらどうなるか、知っていて、は笑っているのだ。くすくすとおかしそうに笑う声が鼓膜をくすぐる。
 ああ、もう。こんなうらなりにいいようにされるなんて。
 一番厄介なのは、言いなりになってしまう自分より、それも悪くないと思っている自分がいること、か。
「バーベキュー行かないか?」
 がそう切り出したのは、ようやく身体が落ち着いてきて、こたつ机の前に座り直したときのことだ。そのときにはもう弁当箱は空になっていて、ぬるくなったろうコーラを呷ったの喉仏がごくんと大きく上下するのが見えて、反射で目を逸らしていた。
「…バーベキュー?」
「そう。まぁ、恭弥の運転がいるんだけど」
「……バーベキューって何?」
 首を捻った僕に、「えっ」と驚いた彼が目を丸くする。「バーベキュー知らない?」「知ってたら訊かない」「そうか…恭弥んちはバーベキューとかしないんだな」ううむ、と腕組みして考え込む彼の頭でぴよぴよと結ばれた前髪が揺れているのが面白い。
「バーベキューっていうのは、そうだなー、焼肉屋みたいな感じ。あれを外でやるんだ。自然の溢れてる場所で。肉とか魚とか野菜とか、イカでも貝でもいい。焼き網や鉄板の上で直火で焼いて食べるんだよ」
 想像してみて、さらに首を傾げる。現実味のない話に僕の想像が追いつかなかった。そんな僕にがそれまでいじっていた携帯を見せてくる。画面には厚さ一センチはあるだろうステーキや野菜が金網の上でごろごろしていた。…何を熱心に見てるんだと思ったら。
「…こんなの、普通に焼いて出してくれるお店に行くか、君の言うように焼肉屋に行けば…」
「分かってないなー恭弥。一から用意して自分で火起こしたりして食べるのがおいしいんだよ。キャンプとか最高だよ?」
 コーラを呷った彼に、キャンプ、と記憶を辿る。あれだろ、確か、テントを張って寝袋で寝るとかいう…。
(キャンプ…したことないな。避暑地で夏を過ごしたことはあるけど、普通に別荘でバンガローだったし、それに、両親が自分で火を起こしてバーベキューなんてするとも思えないし。わざわざ火を起こして自分達で全てやるってことにあまり意味も感じないし。手間暇かからない分店に行って弾めばそれでいい気がする)
 考える僕と、考え込んでいた。パンと手を叩いて顔を上げたのは彼だ。「よし、恭弥。バーベキューしに行こう。新しいことへの挑戦。俺と一緒に」ね、と笑いかけられると、僕は何も言えなかった。そんなの面倒くさいとか言えなかった。君がそこまで言うんなら、と了承している自分がほとんどで、結局僕は自分から、のいいようにされることを望んでいるのだ。
 三日後、がいい場所があって予約も取ったというので、両親の目を盗んで車を出してを拾い、言われるまま道なりを走る。
「恭弥何が食べたい? 俺はおいしい肉がいいな」
「…なんでもいいけど。どうせあまり入らないし」
「俺が口移ししても?」
 危うく狂いそうになった手元で赤信号でブレーキを踏む。ギャッとタイヤを鳴らして停まった車にはにこにこいい笑顔を浮かべて笑っている。
「……それなら、食べるけど」
 それで、ぼそぼそとそんなことを言う自分も自分だ。
 はにやりと笑って「強がっていいのに」と言い、次にはやわらかい笑顔で「かわいいなぁ」とぽむぽむ僕の頭を撫でた。…かわいいって、男に言うセリフじゃないだろ。
 これじゃあいけないと分かってるのに。誰にも甘えて育ってこられなかった彼のために、僕が彼を甘やかしてあげなければ、と思っているのに、いつも立場が逆転している。言うならば、彼がペンギンの親で、僕は彼のあとをついていく雛鳥のような。
「青だよ」
 はっとしてアクセルを踏んだ。行き先はデパートだ。
 バーベキューなんだから、まずは食材が肝心だ。クーラーボックスは家の中をあさって三つくらい持ってきた。肉も魚もなんでも入るはず。スーパーじゃあ普通の食材しか置いてないだろうし、デパートで彼が食べたいと言ったものを買おう。
 ふわ、と欠伸をこぼしたがシートに背中を埋めつつ「恭弥さぁ、暑くない? 袖あって」と何気なく伸ばした手で僕のシャツの袖を引っぱった。その指先から二の腕まで全部が肌色だ。そのことを意識すると動悸がうるさくなるのでなるべく見ないようにする。夏だからって、肌出しすぎじゃないのか。
 麻のサルエルに大きめのタンクトップと夏全開な格好の彼に対し、僕は黒いクロップドパンツに紫の長袖シャツと、春でも秋でもあまり格好は変わらない。薄手のものを選ぶけど、基本的に肌を晒すことはないに等しい。…ベッドの中以外は。
「ないと落ち着かないんだ。はよくタンクトップでいられるなって思うよ」
「だって暑いし」
 車の中はクーラーが入っているけど、フロントガラスから射し込む光は強い。陽射し避けの薄いタオル地のブランケットを肩までかけた彼に少しほっとした。いつまでも肌を見せられていると僕が落ち着かない。
「そういえばさぁ」
「うん」
「告られたよ。クラスの子に」
 ぼそっとした声に頭が真っ白になった。
 告られたって、つまり、告白、されたってこと?
「恭弥ブレーキっ!」
 反射でブレーキを踏んで、危うく赤信号に突っ込むところを回避する。ワンテンポ遅れて急ブレーキで固まった身体がシートに沈んだ。「おま、危ない…!」「だ、だって、」ようやく頭が動き始めて、告られた、と言ったに顔を向ける。いつもと同じだ。いや、僕が赤信号に気付かず急ブレーキを踏んだことにどこか青い顔をしてるけど、それ以外はいつもと同じ。
「それで」
「それでって、別に何も。ごめんって断ったよ。報告しといた方がいいかと思って」
 普通の顔でさらっとそんなことを言われても納得がいかない。
 の表情の変化を見逃さないようにつぶさに観察しつつ、「男? 女?」ふ、と笑ったが「女子だよ。俺は学校ではフツーの男子なの」と手をひらひらさせる。
「なんて言われたの」
「ずっと好きでした、付き合ってください」
「…なんて答えたの」
「さっきも言った。ごめん」
「それで納得した?」
「お、鋭い。どうしてって訊かれたよ。だから、付き合ってる子がいるからって言った。そしたら引いてくれた」
 むぅ、と眉根を寄せた僕に「信号青だよ」と言う。仕方なく前方に視線を戻してアクセルを踏み込む。
「…付き合ってる子って僕だよね?」
 ぼそっとそんなことを確かめる僕に、は困ったような笑顔で「俺は恭弥のつもりで言ったんだけど。違った?」「違わない」我ながらくだらないことを訊いてしまった、と視線を伏せる。
 デパートの駐車場に車を入れて、そこで眼鏡を取り上げられた。視界の焦点がぼやけて世界がくらりと揺れる。「何す、」追いかけた手を捕まえられて、ぼす、とシートに落ちた眼鏡と、キスしてきたに、目を閉じる。
 くだらない確認をしたものだと思う反面、君が告白されたと聞いて、落ち着かない心があることも事実だった。
 どうやら僕は、結構嫉妬深いというか、にこだわっているというか、そういうのがあるらしい。
 は僕が告白されたなんてことになったら嫉妬してくれるんだろうか。いや、でも、お見合い話だって要はそういうことだろ。僕はそれを蹴ったけど、彼は、僕の好きにすればいいとしか言わなかった気がする。
 あのときはこういう仲ではなかったから…今なら、蹴ろって、言ってくれるのかな。
 そんなことを考えながらエンジンを切って暑い車内でキスを交わし、舌を奪い合って、こめかみ辺りを伝った汗が目に入ったことではっとする。目的が違う。今はデパートに寄って食材を買って、が調べたバーベキューできる場所へ行く途中だ。こんなところでこんなコトしてられない。
 ぐっとの肩を掴んで引き離す。「目的が、違うだろ」と。彼はぼやけた視界の中であっさり笑って「そーだね。恭弥が寂しそうだったからつい」と僕の顔に眼鏡を戻した。ぐっと目を閉じてから何度か瞬きすると、視界がはっきりしたものに戻る。
(寂しそう、か)
 ああ暑い、と車外へ出ても当然暑くて、「あっち。早く中行こ」と歩き出す彼の背中を追いかけてドアを閉めて車をロックした。