寄せては返す波が足元を濡らす。寄せた海水にパレオがゆらりと揺れて、引いていく波に引っぱられて伸びて、やがて水の流れに見放されてぺったりと砂浜にくっつく。その繰り返し。
 夕方になって、家族連れがいなくなり、同年代くらいの男女も更衣室へと引き上げていく中で、僕とは隣り合って砂浜に座っていた。あれだけ人のいた海岸沿いも今は静かで、僕らのように寄り添うカップルが何組かいるだけだ。海の家も営業を終了し始め、人気はなくなりつつある。
 目の前には海が。そして、夕暮れ時を迎えて赤く燃えるような海面が揺らめいている。
 陽が沈み始めようが、まだ全然暑い。夏だ。どうしようもなく。
 夏。僕が、彼に出逢って、取り返しのつかない罪を犯した季節。
「……話、してもいい?」
 波に掻き消されそうな声でぽつりとこぼすと、僕を見たが首を捻った。「いいよ。何、改まって」「……うん」抱えている膝を離す。にくっついて彼の背中に腕を回して、ごくん、と覚悟の唾を飲み込んだ。

 言ったらもう戻れない。分かっている。それでも、もうに隠し事はしたくない。
 僕が消えない罪を背負っているのだと告白しても、優しく抱き止めてほしい。ならきっと大丈夫。こんなどうしようもない僕でも、愛してくれるはず。…そうだと信じたい。

「僕なんだ。五歳のとき、両親を殺したのは」
「…へ?」
 僕の頭を撫でた手が止まる。
「お墓参りの日にあなたに会ってから、両親に何度も頼んだんだ。あなたに会わせてほしいって。でも取り合ってくれなかった。忘れなさいって、そればっかり言われた。だから僕は、あなたと両親を天秤にかけて、を、選んだ」
「ちょっと待て恭弥。ストップ」
「帰り道の、車で。わざと甘えて母親の膝に乗せてもらって、一番カーブの大きい道で、運転してる父親の視界を奪って、暴れ回って、車をガードレールに突っ込ませて、」
「恭弥」
 強く呼ばれて肩を掴んで引き離された。彼の顔を見るのが怖かった。どんな顔をしているのかと不安で仕方なくて、俯いたまま、「僕は、窓から投げ出されて助かった。あなたを選んだんだ。ねぇ、選んだんだよ。どうしてもあなたの声が聞きたかった。どうしても、もう一度、抱き上げて、触れて、ほしかった」言ってるうちにぽろぽろ涙がこぼれて、そんなのはずるいと目をこすると、海水で痛くなった。余計に涙が滲んでしまう。
 嫌だな。こんなのはずるい。自分でやったことにあなたが欲しかったからなんて理由をこじつけて、泣いて。そんなの、ずるいだろう。
「恭弥。俺を見なさい」
「やだ」
「どうして」
「やだ。こわい」
 こわい、と震えた声をこぼす自分がずるいと思う。
 覚悟したんじゃなかったのか。なら大丈夫だって思ったんじゃないのか。やっぱり否定されるかもしれないなんて思って泣くなんてなんてずるい。なんて卑怯。僕はなんて。
 はぁ、と息を吐いた彼が下から僕を覗き込んでキスしてきた。唇にも、頬にも、鼻にも、額にも。甘い口付けだった。まるで、泣かないで、と言われているよう。
 ぺろりと涙を舐め取る舌は生ぬるく、やわらかく、僕に泣き止めと言う。
「……今言ったことが本当だったとして。俺は、多分、どっちでもいいんだ」
「…?」
 彼の言いたいことが分からない。首を傾げた僕の涙を拭いながら、彼は小さく笑った。
「お前だけが俺を求めてたんじゃないってコト。…俺はさ、五歳のお前に変なことしたろ。あのときから俺の頭はイカれてたんだ。お前に。十七歳が五歳児の男の子にかわいい格好させてイケナイことしたいとか考えてたんだよ。どうだ、この変態ぶりは」
 …そう、だったのか、となんだか恥ずかしくなって視線を伏せた。
 僕が一方的に手を伸ばしていたのだとばかり思っていた。だから、僕の世話に飽いたあなたが家を出て行ったのだろうとばかり。
 じゃあ、が家から出て行ったのは。僕に抱く思いを誤魔化すため、だったのか。
 ……誤魔化す必要なんてなかったのに。
 むしろ、逆だ。誤魔化さないで伝えてほしかった。そうしたら、もっと早くからこうやって触れ合えた。
 あなたで壊れたかった。あなたで満たされたかった。
 強引にしてくれたってよかったんだ。そうしたら、もっと早く、こうして抱き合えたのに。
 視界の横から突き刺さる赤い光が僅かに滲んでいる。
 寄せては返す波の音。海の音が耳に心地いい。
「だからさ。イーブンっていうの? 俺は俺でお前に犯罪してるし、お前はお前で俺のために犠牲にしたものがあるっつーのかな。んー、上手く言えないな。ごめんな、馬鹿で」
 ふるふると首を振る。そろりと顔を上げると、困ったように笑っているがいる。
 ちゅ、と唇にキスされて張りつめていた気が緩んだ。安心して彼の胸に頬を押しつける。
「そりゃあ、驚いたよ。驚いたけど…その事実があっても、俺は恭弥を手離したくない」
 そう言われて、完全に気持ちが緩んだ。じわじわ視界が滲んで「うー」と声を殺して泣く。そんな僕が泣き止むまで、彼はいつもと同じように僕を抱き締めて宥めていた。
 その手に躊躇いはなくて、拒絶もなくて。それにまた安心した僕は、肩を震わせながら、涙が涸れるまで泣いた。
 泣いたせいか、セックスしたせいか、その両方のせいか。帰りのバスの中でうつらうつらしてしまって、気付いたときにはにおんぶされてアパートへの道を辿っていた。「あ…」とこぼして目をこする。いつの間にか気を失っていた。
「だいじょーぶ?」
「うん。歩く」
「いいよ。背中にいたら。安心するだろ」
 はは、と笑った声に言われて顔が熱くなった。バスの中でもベッタリだった僕のことを言っているのだ。
 …でも、確かに、広い背中に身体をくっつけていると、安心する。本当に。
 海で着ていたパーカを羽織っている彼からは磯の香りがしていて、背中に頬を押しつけると、知っている体温と海の香りがした。
 重いだろうに、は僕をおんぶしたままアパートまで行って、部屋の前で下ろした。いつもと同じ顔で「たでーま」と扉を開ける彼。その背中に続いて「帰りました」と言う僕は、彼の両親という存在に負い目のようなものを感じている。そのせいか会話は受け身がちで、積極性がない。もともと積極的に人と話をするタイプではないけど、の両親なのだから、もう少し愛想よくできればいいんだけど。
 先にいいよと言われてシャワーを浴びて、さっぱりしたら眠気が襲ってきた。そんな僕にが苦笑いをこぼして「あいあい、オネムだな」と僕の背中を押して部屋へと連れて行く。
「寝ていいよ」
「…は?」
「さすがにまだ早いかなぁ」
 ベッドに寝かしつけられて、細長い指を握った。「」と呼べば、ん? といつものように首を捻る彼がいる。その現実の幸せなことと言ったら。
「あなたを、愛してる」
 声だけじゃない。指先だけじゃない。体温だけじゃない。僕を貫く熱だけじゃない。あなたという存在を、昔から、気付いたときから、愛している。
 そう吐露した僕に、きょとんとした彼が僕の額に唇を寄せた。「俺も愛してる」と囁く声が嬉しくて笑みがこぼれる。

 ああ、なら、もう大丈夫。
 あなたが僕を愛してくれるのなら、僕は、生きていける。
✙  ✙  ✙  ✙  ✙
(…寝たか)
 すー、と寝息を立て始めた恭弥の黒い髪をそっと撫でる。一度も染めたことのない傷んでない髪はするりと指の間をすり抜け、絡まることもなく俺の指から逃げていった。
 網戸にした窓から入り込んだ風が夜色の髪を揺らす。
 眠った恭弥を眺めながら、何となくその髪を弄んで、今日知った衝撃の真実を一つ一つ思い出し、噛み締める。
 五歳の恭弥が犯した罪。出会ったときから俺を求めていたという話を聞いて、色んな意味でショックを受けた。五歳児の恭弥がそこまで思いつめるほど俺を望んでいたということもそうだし、恭弥の両親は本当は事故死ではない、ということもそうだ。
 恭弥は取り返しのつかない過ちを犯したのかもしれない。それを一人胸の内に抱えていることが苦しくなって俺に打ち明けたのかもしれない。泣きながら。俺に拒絶されるのではないかと恐れながらも。
 だけど、俺はこう思ったわけだ。
 恭弥にそんな過ちを犯させてしまったのは、他でもない、この俺だ、と。
「……ごめんな」
 ごち、と恭弥の額に自分の額をぶつける。
 九年間も一人で抱えてきて、苦しかったろう。それなのに一人にしたりして、俺はお前にひどいことをしてしまった。自分のことで手一杯で、お前の真実になんて気付けていなかった。二十六歳が聞いて呆れる。
 もしかしたら、俺の心の成長ってのはお前に出会った十七歳の頃から止まっているのかもしれない。お前に心を奪われたあの日に、俺の中は、お前に釘付けで、止まってしまったのかもしれない。
 お盆の墓参りの日、偶然出会った、歳の離れた親戚同士。それだけでしかなかった俺が恭弥の黒い瞳の引力に囚われ、恭弥が俺に惹かれて、俺達は、握った手を離すことができなくなった。
 俺の想いと恭弥の想いが結ばれた結果生まれた罪という子供は、無邪気な手を伸ばして俺達を繋いでいる。
「愛してるよ」
 ちゅう、と額にキスを残して立ち上がる。恭弥は起きなかった。疲れたんだろう。ゆっくり眠るといい。
 リビングに戻るとちょうど父親が帰ってきたところだった。「おかえりなさい」「ただいま」と言葉を交わし合う二人を眺めて、もしも俺達が普通に男女のカップルだったなら、と思う。そうしたらどんなに犯罪だと非難されても添い遂げることができた。籍を入れることも。恭弥の家族になることも。子供を作ることも。恭弥に家族がなんたるかを教えることも、できたかもしれない。
「…なんだ? 何かついてるか?」
 じっと見ていたら食卓についた親父が俺の目を気にして掌で口やら頬やらを拭った。緩く頭を振って「なんもついてないよ」と返してソファに腰かけ、テレビのスイッチを入れる。音量は控えめで。恭弥寝てるから。
「恭弥くんはもう寝たの?」
「ん。海ではしゃいで疲れたみたい」
「あんたと違って繊細な子なんだから、あまり連れ回しちゃ駄目よ」
「へいへい」
 おふくろの小言を左から右に聞き流し、適当にテレビのチャンネルを替えていく。
 俺も恭弥も男だった。それでも惹かれた。性別を越えて、年齢の差さえ越えて、お互いに惹かれ合った。
(愛してるよ。愛してる)
 手を止めたテレビでは適当なドラマがやっていた。それを眺めながら、今頃部屋で眠ってるだろう恭弥の寝顔を思い浮かべて、今まで誰にも言ったことのなかった言葉を胸の内で繰り返す。
 恭弥に愛してると言われたことでしっくりきたその言葉を、今なら迷わず伝えることができる。口にすることができる。キザっぽいし、普段から言えることでもないけど、それでも、お前が望むなら、いくらだって言ってあげようじゃないか。
 愛してるよ。愛してる。お前の手が汚れていたとしても愛してる。
 俺の欲望全部受け止めて、女の子みたいに笑う恭弥のこと、誰よりもかわいいと思ってる。
 お前が罪を犯したと泣くのなら、俺がお前を抱き止めて、一緒にその罪を被ろう。それで踏み出す一歩が重くなったとしても、そうしてだって生きてみせる。お前を愛で狂わせてしまったのは俺だ。なら、最後まで責任取ってみせるさ。
 眠っているだろう恭弥を思って目を閉じる。

 愛してるよ。愛してる。
 俺が尽きるまで、お前が求め続ける限り、愛し続ける。