僕にとっては夏休みの真ん中でしかないお盆は、にとっては仕事が忙しい時期に当たる。
 ただでさえ毎日暑くてバテ気味で、昼間暑い中を凌いでの夜からの仕事だ。働きに行くが元気が出そうなご飯を意識して作っていたんだけど、同じものを食べていたにも関わらず、僕の方が先にバテてしまった。
 豚のしょうが焼き。酢豚。マリネ。夏野菜のピクルス。親子丼にとろろをたっぷりのせた丼ご飯。冷しゃぶサラダ。夏バテにいいとされるメニューばかり作ってきたのに、これか。
 カラカラ、と耳元で鳴る氷の音が心地いい。
「じゃー行ってくるけど…恭弥ほんとに大丈夫?」
 僕の額に氷水で絞ったタオルを置いたが心配だなぁと首を傾げる。「平気だよ。ただの夏バテだもの…」強がって返してはみるけど、あまり大丈夫ではない。正直喋ることも億劫だ。連日猛暑日続きでがバテはしないかと心配していたら自分が先にダウンするのだから、本当、情けない話だ。
 腕時計で時刻を確認して、僕を気にしつつも鞄を掴んだ。行かないと、とこぼして。「なんか食いたいもんある? コンビニにあるものなら買ってこれるけど」「…ない」「ケーキは? クッキーは? あーアイスは?」「……じゃあ、アイス」「ん」行ってきます、と唇にキスされて、舌で舐めて返した。いつもならもっとってねだるところだけど今はその気力もない。
 後ろ髪引かれつつも居間を出て行った彼の足音、玄関の引き戸の開閉音、鍵のかかる音を最後に、音が消えた。
 ミーンミーンミーンとうるさい蝉の叫びは聞こえている。涼が取れるか分からないけど、と縁側に取りつけられた風鈴がチリーンと風に揺れている音も聞こえる。
 でも、僕の世界からは音が消えたも同然だった。
 ミーミーミーとうるさい声さえどこか遠い。身体がバテたから頭もバテたのだろうか。
 縁側に続く障子戸は開け放っているし、扇風機はつけっぱなしで前髪をなぶっている。テレビもつけっぱなしだ。内容は頭に入ってこない。手の届く位置にあったリモコンの電源ボタンを押してスイッチを切り、諦めて吐息して、ぼんやりと縁側に視線を投げる。
 和風の家にはこれが合う、とか言ってホームセンターで火をつけるタイプの蚊取り線香と豚の蚊取り線香入れを買って、縁側にその豚がいて、おかげで扇風機の風は蚊取り線香くさい。慣れてしまったけど。陽射しを遮るためにかかっているすだれが微かに揺れていた。あと、風鈴。どれもこれもホームセンターで買ったものだ。せっかく和風の家なんだからって、が言うから。
 …去年はこんな景色はなかった。すだれも、蚊取り線香も、風鈴も。
 僕は何かの我慢大会の最中みたいに暑さを耐えて一人でテレビを見ていた。それだけ、だった。
 チリーン、と揺れる風鈴の音にゆっくりと瞼を下ろす。
 今日一日の暑さの峠は越えたはずだ。あとは水分摂取に気をつけて楽にしていれば、少しはマシになるはず。
 案の定、夜も半ばになれば体調は回復した。
 チリーンチリーンと鳴る風鈴を横目で眺めて、今夜は風があるんだなと思いつつスポーツドリンクを呷る。あまり食欲がなかったのでしょうが醤油につけておいた鶏のささみを焼いて、あとはそうめんですませた。
 調子も戻ったし、昼間ダウンしていた分何かしたい気もするけど、することがない。
 もう宿題はすませてしまった。自由課題は読書感想文という無難なところに落ち着いたし、そちらもすませてしまった。
 あまり早く宿題を片付けるのも考えものらしい。がしきりに感心してたから、調子に乗って全部やってしまったけど…どうせ彼が仕事の間は暇なんだから残しておいたって片付いたのに。
 チリーン、と風鈴が揺れるのをぼんやり見つめて、テレビをつけて適当にチャンネルを回し、大した番組もなかったのでグルメ特番で手を止めた。
 冷房は昼間の暑い時間帯だけと決めているので、扇風機の生ぬるい風に前髪を泳がせつつ、後ろ髪をゴムでくくった。首にかかる微妙な長さになってきたのが少し鬱陶しいけど、外へ行くときおしゃれする分には少し長いくらいがアレンジができるから、我慢だ。
 …それにしてもすることがない。
 この暑いのに焼肉だのスパゲッティだのと食い倒れしている番組に惹かれるはずもなく、テレビはBGMとして放置して、携帯に指を滑らせる。
 ホーム画面はこっそり撮ったの横顔で、お祭りで射的をやってたときのタンクトップ姿が映っている。他にも『』のフォルダにはこっそり撮った寝顔からピースしてる姿まで様々な彼がいて、寂しくなったときは彼の写真を眺めては心を満たしている。
 他にも、と食べた食事を撮った『food』、立ち寄ったカフェや店、何でもない公園とかのいいなと思ったところが撮ってある『place』、との思い出を保存してある『memory』、ファッションやメイクで参考になるものを適当に放り込んだ『reference』など、僕のライブラリにはとの様々な思い出が詰まっている。枚数はもう千を突破した。ときどき見返して整理してるけど、あまり減らない。
 消したくないのだ。との思い出全部を消したくない。それがどんな些細なものであろうとも。
 動画は容量を食うからあまり撮らないけど、観覧車に乗ったときとか、水族館のレストランで食事したときとか、いくつか撮ってあるものもある。
 することがなくて思い出を振り返っていると、デジタル時計の表示が二十二時になった。が三十分の休憩に入る時間だ。お盆だし、仕事はまだ忙しい時間帯だろう。メール、来ればいいな、と思ったところで携帯が鳴った。ぱっと自分の表情が明るくなるのがよく分かる。画面は着信を知らせていた。メールでなくて電話だ。きっと出て行くときダウンしていた僕の心配をしてくれたのだ。
 通話を繋げると『きょーや大丈夫?』とさっそく僕を案じる第一声が聞こえた。「調子、戻ったよ」と返す自分の声が安堵とか喜びとかで緩んでいるのがよく分かる。
 思い出の中の彼を振り返ることだって好きだけど、やっぱり、今を生きていると一緒にいたいのだ。ここで、今で、この現実で、一緒に生きていきたいのだ。
「仕事、忙しい?」
『んー思ったほどではない。全体的におっさんが多くなってるくらい』
「ふーん」
『飲み屋じゃなくてバーに来るくらいだからさぁ、だらしない人はいないし、おしゃれな人多いんだけどさ。やっぱり加齢臭は増すなー』
「ふぅん」
『きょーやのきれーな顔が恋しいよ…』
 しみじみ、自然にそうこぼした彼に、頬が熱くなった。さっきまでの写真ばかり眺めていた羞恥心というかなんというかが胸をぐるぐると渦巻いて埋めていく。
 恥ずかしい。けど。嬉しい。本当にそう思ってくれているなら。にとって僕が恋しい存在なら、冥利に尽きる。
 そこにいるわけでもないのに彼が目の前にいる気がして視線を伏せた。テレビから空虚な笑い声がするだけで、そこにはいないのに、『今何してんの』と聞こえる声がすぐそばだ。携帯を耳に当てているせいじゃなくて。もっと、近くに感じる。上手く言えないけど。吐息まで耳にかかるみたいでくすぐったい。
「テレビつけて、適当に見てた」
『今の時間だとドラマやるんじゃないか。今季のわりと面白いってさっきおじさんが言ってたよ。暇潰しで見てみたら』
「うん」
 CMになっていたテレビのチャンネルを変えると、ドラマは二つあった。「なんのドラマ?」『えー、あー、んーと…適当に流してたからなぁ。なんだろう。忘れた』そんなことだろうと思っていたのでとっつきやすい刑事物にした。途中から入ってもだいたい事件→解決という流れなので分かりやすいし。
 バリ、と袋か何かを破る音がしてテレビから携帯に意識を戻す。「何食べるの」『ん? 小腹減ってさ。これからの頑張りにこれ一本! ってチョコバーかな』通話してようがバリボリ食べ始めた。夕方ご飯を食べてから出て行くとは言っても、基本的に立ち仕事だと聞くし、お盆は混むから忙しいと言っていたし、小腹だって減るだろう。電話しながら物を食べるなんてあまり行儀がいいとは言えないけど、そもそも行儀がいいなんて言葉とは無縁の人だった、と思い出して、諦めた。
 こういう人だからこそ好きになったんだ。もしあの夏の日に出会ったのが行儀よく制服を着こなした誰かだったなら、当たり障りなく僕に接してくる人だったなら、気にも留めなかったろう。
 金髪で、ピアスやシルバーアクセをジャラジャラさせて、だらしなく制服を着崩していた、無遠慮な人だったから、好きになったんだ。
「ねぇ」
『んん?』
「髪、茶色にするって、あれ本気?」
 思考に引っかかりを憶えたままのことを訊ねると、彼が首を傾げたような気がした。『俺ってそんなに金髪のイメージなの?』と不思議そうに訊いてくるから、ぼそぼそっと「だから、僕は金髪以外のを知らないんだ」と言うと、彼はますます首を捻った。気がした。
 電話とテレビのドラマ、両方をちゃんと理解するほど器用でもなかったので、テレビを眺めつつ意識を通話へと傾ける。『俺さぁ、中学までは黒髪だったよ? 高校からずっと金だけど』「…写真とかあるの?」『ええ? 卒業アルバムってこと? どうかなー捨てた気もする。もしかしたらどっかの押し入れで眠ってるかもしれない』ふぅんと気のないふうに返して、今度掃除のついでに押入れを整理しようと決めた。僕と同じくらいのがどんなふうなのか、興味がある。
 金から茶色になった彼をもやもやと思い浮かべつつ、似合わないことはないだろうけど、と首を傾げる。この電話が終わったら試しに写真を加工してみようか。イメージしやすくなる。
『あのさ、恭弥』
「何?」
『恭弥はさ、俺のことすっごい好きだよな』
「…好きじゃ悪いの?」
『いやいや悪いって話じゃない。たださ、十四歳からしたら二十六歳ってすっごいおっさんだろ。恭弥が高校生になったら俺はさらにおっさんに近づくしさ…アラサーってやつ…で、そんなおっさんを恭弥が好きだって言うのがよく分かんないかな、とか』
 …なんだそれ。何を言うかと思えば。
 呆れて吐息して、携帯を持ち直した。テレビでは死体が発見されるお決まりのシーンだ。
だって言ってたじゃないか。五歳の僕にイケナイことしたいって思ったって」
『言いました』
「同じだよ。そりゃあ、が同年代だったら学校でも一緒にいられたなとか、思わないわけじゃないけど。でも、あなたがあなただったから僕らの今はあるんだし…だから、年齢とかこだわってない」
 ぼそぼそこぼして、恥ずかしさに任せてピシャッと「だいたいね、あなたが女関係にだらしがないことを知ってても好きだったんだよ? そんな僕にアラサーだからどうとか馬鹿みたい。そんなことで嫌いになれるならよっぽど楽だよ」吐き捨てると、は笑ったみたいだ。『なんだそっかぁ。っていうか、それもそうか。嫌いになるならもう嫌いになってるよなぁ。うん』うん、と一人納得している。…なんなんだ一体。そんな今更なこと確認して。
『じゃーきょーや、俺お仕事後半に入るから。おやすみ』
「…おやすみ」
 最後は定例句みたいにおやすみで通話は途切れた。
 風はあるみたいだけど、今夜も暑い。就寝時間も起床時間も違う僕らは、基本的に別々の部屋で寝る。お互いの睡眠に負担をかけないためだ。でも、今年の夏は暑くて寝苦しい夜が続くから、最近は居間に敷き布団を二つ並べて冷房をつけて寝ることが多い。それぞれの部屋でつけていたんじゃ電気代が馬鹿にならないので、これも節約の一つだ。
 確かに、が帰ってきて寝つくまでの間に起きることもあるけど、起こされることはむしろ嬉しいので、僕にとっては少しもストレスになっていない。朝起きたらが横で寝てるんだから毎朝起きるのが楽しみなくらいだ。よく寝顔を撮っては保存してるのは内緒。
 刑事ドラマを眺めつつ、二人分の敷き布団を並べて、が帰ってきてすぐ眠れる状態を作っておく。
 まぁまぁ面白かったドラマを見終えたら二十三時前だったので、それからシャワーを浴びて歯磨きをすませ、乾いている肌に化粧水やらクリームやらをパタパタと叩いて、甚平に袖を通す。
 ホームセンターに置いてあるようないかにも男向けの暗い色合いのやつではなく、通販で買ったレディース向けの甚平だ。黒地に紫と金の花が散っていて、男の僕が着てもそう不自然ではない。うっかり誰かに見られようものなら親戚のおばさんのお下がりなんだとか言えば通ってしまいそうだ。これの他にも黒地に蝶が舞っているものもあって、片方が洗濯のときはもう片方を着る、というサイクルで回している。
 彼にかわいいと言ってもらうことが僕の喜びなので、寝間着にも気を遣っている。化粧水その他もそうだけど。
 ふあ、と欠伸をこぼしつつ居間に戻って、寝苦しいので少しだけ冷やしてからと思って冷房をつけた。障子と襖戸を締め切る。
 いつまでも障子戸に防犯性の薄いガラス戸ではいられない。そろそろ家全体の見直しをしないといけない気がする。キッチンも古いコンロのままでいい加減汚いし。
 今度そういう話をしてみようかな、と思いながら敷き布団の上に座って柔軟体操をする。身体をやわらかくしたくてお風呂のあとに取り組んでいる。理由は、やわらかい方がシやすいから、だ。腰が痛くなるのも多少予防になるし。やわらかくて困ることはないし。
 ネットで調べて自分なりに組み立てた体操を順番にやって、十五分後、寝転がってタオルケットを被った。
 パチン、と電気を消して、携帯の画面を点灯させると、日付が変わっていた。
 まだ二週間も休みがある。何をするか、決めないといけないな。今日はバテてたしぐだぐだするのも仕方がないけど、ずっとこれじゃいけない。
 家の見直し、改善点をリストアップしてサイトで調べて値段を弾くのもいいかもしれない。は休みの日以外まとまった時間が取れないし、買い出しの品のメモだけじゃなくて、もっと色々、僕がしないと。
 家事炊事してくれるだけで助かってるよって、は笑うけど。僕にだってもっと色々できることがあるはず。
(アイス…何を買ってくるだろう)
 目を閉じて、コンビニでアイスを選んで急いで返ってくる姿を思い浮かべる。それだけで自然と笑みがこぼれている。
 アイス、だったら何を選ぶだろうと予想して考えているうちに、僕は眠りに落ちていた。