モノクロからへの道

 五人兄弟の末っ子である僕は、兄さん達に気後れしている部分がある。
 一番上の兄さんは説明するまでもない。喧嘩を生業とする人で、その喧嘩でお金を得てきている。面倒くさがりで、気紛れ。使用人や家政婦を雇ったかと思えば一斉解雇したり、人を拾ってきたり、奔放な人だ。
 次男の兄さんは、華道の先生をしている。茶道も得意だ。日本文化を重んじる人で、家でも外でも着物姿が多い。庭の日本庭園もこの兄さんの趣味だ。僕はこの人と一番喋る。多分、似ているからだろう。
 三男の兄さんは高校生だ。僕ら兄弟の中で一番喋る。嫌なものははっきり嫌だっていう意思のはっきりした人だ。最近は学校のあとバイトに行ってるから、あまり言葉を交わす機会はなくなった。高校生っていうのは大変らしい。
 四男の兄さんは中学二年。僕の二つ上で、年齢的には一番近い。でもあまり喋ることはない。
 基本的に、僕ら兄弟はお互いに干渉することはあまりない。
 同じ顔、同じ名前の、まるで自分のような相手に、言うべき言葉も見つからないから。
 その日は休日だった。相変わらず言葉のない朝食を終えて、「ごちそうさまでした」と席を立つ。次男の兄と僕と使用人であるさん三人での食事はこれが初めてではない。多分、長男を除いたあとの二人は休日だからとまだ寝てるんだろう。食器を運ぼうとしたら「やるよ」と伸びた手に取り上げられた。使用人なんだな、と改めて思いながら手持ち無沙汰になった手で拳を作る。
 休日だ。でも、するべきこともない。どうしよう。何をしよう。考えながら部屋に戻って机の上に広げたままの白い紙を取り上げる。転がっている鉛筆と消しゴムは、勉強のためではない。絵を描くためのものだ。何か描こうと思っていたのに結局何も描けずに昨日は眠ってしまったんだった。
 家の中にいても描けるものは少ないだろう。なら外へ行こうか、と考えて、やめた。外で一人絵を描き続ける度胸のようなものは、僕にはまだない。
 仕方なく先に宿題を終わらせた。それも一時間もかからなかった。次に部屋の掃除をしてみた。それも一時間もあれば終わってしまった。
 仕方なく、白い紙と筆記類を持って部屋を出る。居間から通じるテラスからの景色でも描こうと思ってそろりと顔を出すと、あの人がいた。さん。頭を押さえて唇を噛んでいる姿に、あの人は記憶喪失なのだったと思い出した。普段はにこにこしてるしそういう印象を受けないけど、そうだった。頭が痛いのかもしれない。
「あの、大丈夫?」
「…恭ちゃん」
 そろりと声をかけると、口元だけで笑ったさんが軽く頭を振った。「大丈夫」と笑顔を浮かべる相手になんとなく眉尻が下がる。それが本当ならいいんだけど、この人はどこか背伸びしているように感じるから、不安だ。
 僕が持っているものに気付くとさんが首を傾げた。頭から手を離して「それは?」と訊ねてくるから、遠慮がちに「あの、絵を描こうと思って」と打ち明けると目を丸くされた。「恭ちゃんは絵を描くんだ」「落書き程度だけど」「そっか。へぇ、すごいね」にこにこ笑うさんから逃げるようにテラスに行く。遮るもののないテラスで陽射しを浴びながら、ちらりと居間の方を見てみた。遅い時間に起きてきた三男の姿が見えた。兄さんに笑いかけているあの人が見えた。もう頭は痛まないのか、手を添えてはいない。
 何を描こう、と紙に視線を戻す。鉛筆を取り出してじっと景色を観察していると、日本庭園の手入れをしに次男の兄さんがやってきた。着物姿の兄さんは手に小さなハサミを持っている。それでパチンと少しずつ枝葉の手入れを始めた。今日は仕事がないらしい。
 絵になるな、と思った。僕も将来はあんなふうに背が伸びるのかな。着物がよく似合ってる。着物以外も似合うのだろうけど。
 視線を移して、いつもと違うものを見つけた。プランターだ。日本庭園に似つかわしくないプランターがテラスの下にたくさん並べてあった。土は入っているけど何か植えてあるんだろうか。
 じっと見つめていると、「バジルとか香草系だよ」と声がして顔を上げた。パチン、と細い枝をハサミで切断した兄さんがこっちを見ないまま「が植えたんだ。買ってくるよりも安上がりだからとね」「ふぅん…」その説明にまたプランターに視線を落とす。本当、なんでもやるんだな、あの人。料理だけじゃなくて。
 なんとなく、この光景を描いておこうと思った。外用のサンダルでぱたぱた階段を下りて庭に立つ。納得する場所で芝生の上に腰かけて、まだ芽も出ていない白いプランターが並ぶ景色を描いていると、だんだん夢中になってきた。
 あの人が来る前までなら絶対になかった景色だった。ただ白いプランターが足されただけなのに、新鮮だった。少し違うだけで景色はこんなにも違うものなんだなと改めて実感した。
 納得いくまで描き上げた頃にはすっかりお昼の時間になっていた。「恭ちゃん? いる?」とテラスの上からの声に「いるよ」と顔を上げると、手すりに手をついてこっちを覗き込んださんが見えた。陽の光と風を受けて金の髪がさらさらと流れて輝いて見えて、目に眩しい。
「ご飯だよ。雲雀がお寿司取ったから、おいで」
「お寿司…」
 雲雀、で言われているのは多分一番上の兄さんだ。少し複雑になりながら白い紙をたたんで筆箱を重しにして居間に行くと、兄弟全員が顔を揃えていた。なんとなく、遠慮したい気持ちになった。でもお寿司は食べたいのでここは我慢するしかない。
 会話のない食事風景が展開されている食卓の端っこに座る。手を合わせて「いただきます」をしてお手拭でしっかり手を拭いてから箸を取り、まぐろを選んだ。わさびは避ける。辛いものはまだ苦手だった。
「で、話なんだけど」
 そう言って口を開いたのは長男の兄さんだ。僕はちらりと視線だけで兄を見た。兄はよく分からない顔でお寿司を食べているさんを見ていた。その表情から、お寿司は食べ慣れていないのかもしれないと考える。
「使えるでしょ、は」
「…まぁ。料理うまいし、家事もやってるみたいだし。いいんじゃないの」
 憶えている限りでは、さんがここにいることに一番反対していたと思う三男の兄がそう返した。不承不承という感じではあったけど、不満で爆発しそうってことはもうないようだ。
 次に彼についての意見を言ったのは四男の兄で、「僕も文句ない」とだけ言ってかんぱちのお寿司を口に入れた。次男の兄は湯飲みを傾けて「僕も賛成だ」と言ってゆるりと視線を僕に流した。意見を言え、ということらしい。視線を俯けつつ卵焼きのお寿司を箸で挟む。「僕も、別にいいと思う」ありきたりのことしか言えなかった。みんながみんなさんのことを悪くはないというのに、僕だけ違う意見も言えない。それに、別に不満もないし。このまま家にいてくれた方がいい、気がする。
 僕らの意見に長男の兄は満足したようだ。口元を緩めて笑うと「だそうだよ。よかったね」とお寿司を頬張っているさんに顔を向けた。こくこく頷くさんがごくりと口の中のものを飲み下してから笑う。「みんなありがとう」と。「俺頑張るね、何でも言ってね」なんてにこにこしているその人に三男と四男はそれぞれ違う方向に顔を背けた。次男がやんわりと笑い、長男は無表情に湯飲みをすする。
 麦茶の方に口をつけて、考えた。何でも言ってね、という言葉は本当なのかな、なんて。
(画材がほしいって言ったら、なんて言うかな…)
 兄さん達は僕が絵を描くことになんて興味を抱かないだろう。でもあの人はきっと違う。さっきは絵を描くと言った僕にすごいねと笑ってくれた。
 ぐっとコップを握り締めて、ダメでもともと、言ってみようかと考える。
 買い物に付き合ってほしいと言ったら、彼はどんな顔をするだろう。
 お昼を食べて、絵を完成させて、さんに見せてみた。「上手だね。すごいや」と僕の絵を褒めたさんに遠慮がちに「あの、お願いがあるんだけど」と声をかける。首を傾げた相手に「画材とか、買いたいんだ。ただの紙じゃなくて、絵を描く紙がほしいっていうか…だから、あの」どうしても視線が下がる。僕はこういうことを言い出すのは苦手なのだ。向いてない、というか。いつまでたっても慣れない、というか。
 視線を俯けている僕を覗き込むようにさんがしゃがみ込んで見上げてきた。なんとなく一歩下がる。そういう行動は、なんというか、外人らしい。
「お店の場所は、分かるのかな」
「うん、それは大丈夫」
「ん。いいよ。帰りに食材の買い物してもいいかな」
「あ、うん」
「ありがとう」
 にこりと笑顔を浮かべたさんが立ち上がる。「じゃあ着替えて用意するね」と言って居間を出て行った。
 随分あっさり許可されてしまった。なんだ。緊張していた僕が馬鹿みたいだ。
 着替える、の言葉で自分の格好を見下ろす。七部丈の黒いズボンと白いシャツだ。別にいいよね、これでも。
 画材屋さんの場所をメモしてある紙を鞄に入れて、財布も入れる。携帯はまだ持っていない。特別連絡を取る相手もいないのだからまだ必要もないし。
 上から襟のある上着を羽織って玄関に行く。靴を履いて待っていると、ほどなくして彼がやってきた。「ごめん、待たせた」申し訳なさそうな顔をするさんに緩く首を振る。
 家では白いエプロンをつけてるし、動きやすそうな格好とか楽な格好が多いけど、あれは家事炊事を優先したものなんだろう。今はジーパンにTシャツを重ね着している。背中にはもののよさそうなリュックを背負っていて、兄が買ったのだろうな、と想像した。中にはエコバック類が詰め込まれているのだろうとも想像する。僕ら兄弟五人と、さんを入れた六人分の食材を買うには、それくらいの大荷物にはなる。
 誰かと一緒に出かけるのなんて、随分と久しぶりだった。
 晴天の下、自分と一回りくらい離れている人と並んで歩く。少し、だいぶ、不思議な感覚だった。
「お金はあるの? 恭ちゃん」
「スケッチブックとか買うくらいならあるけど」
「せっかく行くなら、色鉛筆とかはいらない? カラーにすれば恭ちゃんの絵もっときれいになる気がする」
「…色鉛筆か。でも、お金足りない気がする」
「雲雀から預かってるから、俺が出すよ」
「え」
 ぴたりと足が止まる。遅れてさんの足も止まった。不思議そうに首を傾げる彼に「兄さん、あなたにお金預けたの?」「? うん」こくりと頷く相手に一番上の兄を思い浮かべる。あまり金銭に頓着する人ではないけど、だからって無用心なわけでもない。この人にお金を預けたということは、それだけ、信頼を置いているということか。
 そもそも、この人が本当に家事炊事全般を担うのなら、当たり前に買出しだって行くだろう。当然お金がいる。出所は兄だ。
 あんな無法人みたいな人でもそんなことがあるのかと驚いて、立ち直る。
 あんな人でも、人間だ。これだけ従順な人がいたら、思うところだってあるのだろう。今はそう思っておくことで納得する。
 歩き出すと、さんも歩き出した。コンパスの違いで、さんはゆっくり歩いている。僕は少し大きめの歩幅で歩いている。それでようやくつり合う。
「…さんは、絵を描くの?」
 なんとなく訊いてみた。彼が困った顔をする。それではたと気付いたというか、思い出した。そうだ、この人は自分に関する記憶がないんだった。馬鹿なことを訊いた。
「ごめんなさい」
「んーん。そうだな、今度恭ちゃんと一緒に描いてみようかな」
 やんわり笑ったさんの顔を見られない。すごく無神経な質問をしてしまった。馬鹿だな僕は。
 黙った僕に、さんは困った顔をしていた。
「俺は、恭ちゃんの絵、色がついたの見たいな」
「…ありがとう」
「だから色鉛筆買おうね」
 にこりと笑う彼にどうにか笑って返す。彼は僕の失言を気にしていないのか、気にしないようにしているのか。
 今度からは僕も言葉に気をつけよう。こんなに喋ることがそもそも久しぶりだったんだ、なんて自分に言い訳しながらふと視線を向けると、道行く主婦の人が無遠慮に彼を見ていた。見た目が外人そのものだからだろう。彼の隣を歩いていると僕にまで視線が移る。見返して愛想笑いもできないし、睨むこともできない僕は、視線を俯けて逃げる。いつものことだ。人目はあまり好きじゃない。
 でも今は少しだけ、胸を張る努力をする。背筋を伸ばす努力をする。
 今は一人じゃない。一人の道じゃない。僕は歩いている。さんが隣にいる。だから、今くらい、胸を張ろう。