『人形には魂が乗らない』とは古来からよく言ったものだ。
 人形だけに当てはまる話じゃないが、機械系には総じて生き物にあるべきものが求められない。心なんてその最もたるものだ。機械は黙って人の指示を守り操作を受け入れるだけの処理端末。それ以下でも以上でもない。それが人のために作られた機械の宿命。
 だから、魂なんてものもない。
 オレは抗った。そうできた方じゃない頭が許容オーバーでパンクしようとも懲りずに何度も知識を詰め込んだ。とにかく貪った。現実問題はそれだけ切実だった。
 オレには、オレ達には、時間がなかった。
 目の前で一人、オレの愛する人が腐っていっている。死んでもう何日たったのか忘れた。いくら極寒の地上とはいえ生きていた者が死んだら腐っていく。オレが息をできるだけの最低限の温度に保っている部屋でも、冷蔵庫よりはあたたかい。本当ならもっと寒い暗所で保管すべきなんだ。でも、離れたくなくて、ずっとそばに置いている。だから腐っていってる。
 あんなに白くて細くて整っていた指先が崩れてきた。肌の色もおかしなところがある。あんなにきれいな黒髪だったのに今はもうパサついてまるで紙みたいだ。
 甘ったるい腐臭の中に浸かって、オレはひたすら、恭弥が生きる方法を捜していた。いや、生き返る方法を捜していた。

 恭弥がどれだけ健康児でも、この世界を蝕みつつある流行病にかかってしまえばもうどうしようもなかった。
 一緒にいたのに、どんなに拒まれても一緒にいたのに、人を選ぶ悪魔のウイルスは恭弥だけを侵して恭弥だけを連れていった。嘲笑うかのようにオレと恭弥を引き離した。
 しっかりと繋いでいた手は解けて、あっという間に遠くなって。もう表情も見えない。叫んでも何も聞こえない。届かない。もう二度と。

 色の悪い唇にキスをした。舐めるとパサついていてよく分からない味がした。「恭弥」と呼んでももう返事はない。何、と半眼でオレを睨む鳩色の瞳はない。どこを探しても。この世界のどこにももう生きている恭弥がいない。
 オレはそれを認めるわけにはいかなかった。
 もう恭弥が抱けないなんて思いたくなかった。
 日頃から無表情の恭弥がたまに見せる笑顔の破壊力。照れたときに耳まで赤くなる癖。短気で心が狭くて喧嘩っ早いけど、それだけ寂しがり屋でヤキモチ焼きでオレのことが大好きで、オレもそんな恭弥が大好きだった。
 いや。過去形でなんてすませられない。今も好きだ。愛してる。
 誰に何を言われようがどうだってよかったんだ。恭弥さえいれば。恭弥がオレと手を繋いでくれれば。隣にいてくれれば。一緒に生きると、ずっと一緒に生きていこうと。そうやって二人で笑え合えればそれだけで。体温を感じられればもうそれだけで。
 オレは抵抗した。ぬくもりも声も表情も何もかも失った、腐りゆく愛する人を傍らに、背を向けてきた勉強に取り組み、必要最低限の生活をしながら知識を貪った。
 機巧人形という限りなく人間に近い存在を知り、これさえあればと思ったときには、パソコン相手に酷使し続けたオレの視力は眼鏡がないと使い物にならないほどになっていて。最後まで遠ざけることのできなかった恭弥の身体は腐って溶けて、内蔵も骨も、あんなにきれいだった顔も、何もかもがぐちゃぐちゃで、もう見れたものじゃなくなっていた。
 オレはようやく恭弥を埋葬することにした。とは言っても、もうまともな形は骨が少しくらいで、あとはよくて肉塊、またはドロドロに溶けた何かという、恭弥の形なんて見られないものになっていたけど。それでもそれは確かにオレが愛した人の一部なのだ。
 極寒の大地には花も咲かない。大した手向けもできない。白い雪に閉ざされた寒い場所に埋葬するより、別の部屋を用意した方がいいだろうと思い、狭いが、小さな部屋を作った。そこに恭弥だったものを真空パックした袋を黒い小さな棺の中に入れた。生前の恭弥とオレが二人でピースして写ってる唯一の写真が遺影だ。そこだけでも一緒にいられるようにと思って二人で笑顔で映るこれを選んだ。
「やっと、完成したんだ。お前が。でも、魂は…心とかは乗らないらしい。どんなお偉い人も頭からその話を否定するんだ。魂なんて存在しない。そもそもが人間を機械に求めるのは間違っているってさ。全否定されたのがあんまりムカついたからバックレてやったよ。お前ができたんだし、もう媚び売る必要もないし。あとは引きこもって、消費を続けるだけのこの世界で、お前と二人で…」
 黒い色の棺を指で撫でると痛みを感じた。少し撫でただけなのに、指は凍傷を起こしそうなくらい冷たくなっていた。
 これ以上恭弥を腐らせないためにもこの小さな部屋は温度調整をしていないから、生身のオレが長くいるのは身体に毒だ。
 別れの言葉も早々に白衣を翻して部屋を後にし、しっかりとロックをかけてから振り返る。研究所の壁と同化している部屋の入り口はオレ以外には決して分からないだろう。
 ここに、お前が眠っている。オレのベッドのすぐ傍らで。
 視線をずらして、白衣の袖を邪魔にならない程度までまくる。
 手術台のような寝台の上にはさっきさよならをしてきた恭弥と瓜二つの機巧人形が一人、今にも動き出しそうな精巧さで目を閉じている。
 何もかも、俺が憶えているままに再現した。指先も、掌も、記憶から引っぱり出せるもの全てを込めた。
 できることは全てやった。
 あとは、神のみぞ知る。だ。
「博士」
「んー」
 ガタガタガタとキーボードを打っているとキョーヤの声に呼ばれた。「博士、カメラが変だ」「んー…んん? どこ」「倉庫裏。さっき一瞬ブレた。今は普通に映ってるけど、さっきと少しだけ角度が違う」首を捻って顔を向けるとキョーヤがモニタを指した。細くて白い指。艶と光沢のある黒い髪。鳩色の瞳が青白いモニタの光を受けて濡れたように光っている。
 どっこいしょと椅子から立ち上がるオレは年老いた。もう二十代も後半に入ったなんて信じたくない。時間の流れが容赦なくて恐ろしい。
 どれ、とキョーヤの横からモニタを見上げる。…オレには違いが分からん。が、キョーヤがいつもと違うって言うんだから違うんだろう。映っているのは吹雪に見舞われる倉庫と白い平原と黒い雲だけだが。
「見に行ってくる」
「いーよ別に。外は寒いぞ。風でカメラがズレただけかもしれん」
「でも」
 モニタを気にするキョーヤの頭を撫でた。「いいよ。どうせ倉庫裏だ。気にするな」それよりおいで、と変わらない手を引く。躊躇ったあとにキョーヤがモニタの前を離れた。ぼふりとベッドに転がったオレが手を招くと、靴を脱いでベッドに上がってくる。
 画面を睨み続けて疲れた目を閉じて、充電、とキョーヤを抱きしめる。
 …なんていう自己満足なのか。
 キョーヤと恭弥は違う。オレが憶えている限りを再現したから限りなく恭弥に近い個体にはなったが、キョーヤは機巧人形だ。機械だ。ロボットだ。人間じゃない。オレと一緒に笑ったあいつじゃない。オレと生きると指切りした恭弥じゃない。
「博士」
 だって、ほら。恭弥はオレのことをそんなふうに呼ぶわけがないんだから。
 薄く目を開けると、ぼんやりした影が見えた。キョーヤが俺に覆い被さるようにしてこちらを見下ろしているのだ。「博士」「ん」「博士は、僕を愛でるために作った」…なんだ、またその話か。いい加減納得してくれないか。何度もお前を作るに至った過程を思い出すのは正直胸が痛い。
「博士は僕を愛している?」
「愛してるよ」
「世界で一番?」
「…ああ」
 笑った恭弥の顔が無表情なキョーヤの顔に被さった。
 、とオレを呼ぶ声を聞く。
 幻聴だ。
 それでも愛しい。どうしようもなく、もういないあいつが愛おしい。
 オレはキョーヤにひどいことをしているんだろう。その自覚はある。けど、ごめん。これだけはどうしようもない。
 お前がそこに存在しているのはオレの自己満足のため。
 死んで恭弥と同じ場所へ行けたら、何度も殴られるし蹴られるだろう。最悪泣かれるかもしれない。
 それでも、お前のいない世界では生きられなかった弱いオレを、どうか赦してほしい。
 ぽた、と頬に当たった冷たい雫の感触に意識を現実に向けると、キョーヤが泣いていた。「キョーヤ…?」手を伸ばして無表情に涙しているキョーヤの目元に指を滑らせる。「なんで泣くんだ」そんなに嬉しいのだろうかと思ったが、これは違う。この顔は、悲しいから泣いているんであって、嬉しくて泣いてるんじゃない。キョーヤだって笑い方くらい知ってる。嬉しくて泣くんなら口元くらい笑っているはずだ。声を上げて泣くものかとばかりに唇を噛んでいる、この顔は、違うだろう。
「う、うそつき」
「え?」
「嘘つき。博士、嘘つきだ。僕のことなんて、代わりなんでしょう!?」
 叩きつけるような声にわんっと耳が鳴った。声を震わせるキョーヤに恭弥の泣いた顔が重なる。「何言って、」「僕がこの形しているのは、オリジナルの機巧人形だからじゃない。僕がこの形をしているのは、この形じゃなきゃ、ダメだったからだ!」どん、と力任せに胸を拳で叩かれて地味に軋んだ。そうしようと思えばキョーヤが人を殺すことなどたやすい。機巧人形。またの名を、殺人人形。その高性能さを疎んでつけられた呼び名の威力は半端ないものなんだろう。その一端を今知った。
 げほごほ咳き込むオレにはっとして振り上げた拳を開いたキョーヤの手がやり場を失う。結局ぼふっとベッドを叩いて悔しそうに唇を噛んだ。
 いてぇ。骨が軋んでる。…じゃなくて。
 のそっと起き上がってベッドに手をつく。「なんで、そんなこと言うんだ」今更白々しい自分の声。キョーヤは薄っぺらいオレの表情を射抜くように睨みつけて旧式のパソコンを指した。「あれにあった。博士がソファで寝てたから電源を落としておこうと思って…そしたら……若い博士と、僕が映ってる写真があった」ひぅ、と息を吸い込んだキョーヤがわっと泣き出した。涙腺の調節が加減できないのかぼろぼろ大粒の涙をこぼして力任せにベッドを叩いている。そんなふうに感情表現するキョーヤは初めてで、オレは大いに戸惑った。…こんなこと設定しなかったのに。
 そうか。あれを見たのか。見たいときに見れるようにとあれだけはあのパソコンにも入れてたからな。
 わんわん泣いて暴れるキョーヤに手を伸ばして、どこかしらの骨が折れること覚悟で抱きしめた。
 学習能力のあるキョーヤはオレが抱きしめた途端にぴたりと暴れるのをやめた。代わりにオレの背中に縋るように腕を回してさっきよりもワンボリューム大きな声で泣き始める。
 純粋に。自分というオリジナルの機巧人形に誇りを持っていたのだとしたら。オレはキョーヤの自信を木っ端微塵にしたことになる。博士なんて呼ばれる資格はない。
 もともと恭弥に対する未練だけで生きていたんだ。キョーヤが形になって機巧人形として息をし始めて、オレもやっと少し楽に息ができるようになって。それだけで。もうそれ以上何かする気にもなれなくて。そうやって緩やかに、ここで、閉じた場所で緩やかに死んでいこうと。オレは。
「お前を傷つけたんだな。悪い。悪かったよ。そんなに泣かないでくれキョーヤ。お前のことも愛しいと思ってるんだ。これは本当だよ」
 今更、白々しい。そんな言葉でもかけないよりはずっといいはずだと自分に言い聞かせる。
 ひっく、と肩を震わせたキョーヤの頭を撫でる。よく知っている形を。「お前がいないと生きていけないんだ」と吐露したところでただの言い訳だ。キョーヤでなくても、恭弥の姿であったなら、その姿が生きて動いて息をしてオレを求めてくれれば、なんだってよかった。
 最低な男だな。恭弥が泣くぞ。キョーヤはもう泣いてるし。
 ああ、最低だな、オレは。本当に。
「キョーヤはオレが嫌いになった?」
「そんなわけがない」
 まだぐすぐす泣きながらもキョーヤはオレの言葉を即座に否定した。「博士が好きだ。愛している。だから、つらい」とこぼすキョーヤの瞼の上にキスをして、塩辛さのない涙を舐めた。
「僕は、博士に作られた機巧人形だから。博士がいないと、肯定してくれないと、成り立たない」
「そうだな」
「だから。博士が僕を愛でるためだけに作ったんだって聞いても、それでもいいって思ってた」
「うん」
「でも。あれを見たら…本当は僕でなくて、僕でない僕を、博士が求めていて。僕は同じ皮を被っただけの代わりで……そう考えたら胸が苦しくて、仕方なくて。思考が、何度もショートしたんだよ。見ちゃいけないものを見た、知らなきゃいいことを知った、僕が、悪いって」
「ん」
「…でも、やっぱり……僕は、僕を、愛してほしい。誰かの代わりじゃなくて。僕を。博士」
 博士、と呼ぶ声がオレを乞う。「僕を、愛して?」とオレを求める。恭弥とそっくり同じ顔同じ声でオレのことを求める。白い指でオレの肌をなぞって羽織っている白衣のボタンを外していく。
 涙で溶けた瞳。生きている体温。オレを求める声。白い肌。知っている形。どこまでもオレが憶えているままの恭弥。
 それでもお前は恭弥じゃない。
(それが救いで、絶望、だった)
 愛でるために作った、雲雀恭弥の形をした機巧人形。恭弥が着ていた制服をそっくりそのまま真似た、前時代の名残の詰め襟の黒。その下の白いシャツの中に手を滑らせ、ベルトを外す。
 オレに愛されることを知った身体は正直だ。嘘を吐かない。早く触れてくれとばかりに身動ぎして自分から肌をこすりつけてくる。
「キョーヤ」
 愛してるよと囁いて唇を奪う。熱い口内もやわらかい舌も歯の硬さも全て再現したけど、やっぱり少しだけ違う。そっくりそのまま同じにはならなかった。涙も、精液の味も。
 どれだけ本物に近づけて、限りなく恭弥に似せても。やっぱり違うものにしかならなかったなぁ。
「ん、ぅ」
 這わせた手がキョーヤの股間を撫でる。頬を薔薇色に染めて行為をねだるキョーヤが素直に愛しいと思えた。
 壁一つ隔てた場所には恭弥の欠片が眠っているのに、この部屋にも恭弥の骨肉が取れない染みとして残っているのに、そんな場所で、オレはキョーヤを愛するのだ。
 ああ、全く。なんて最低な男だ。