僕にとってというのはただの馬鹿でしかなかった。
 なぜか、って? それはあいつの日頃からのへらへらした顔だけでもそうだと言い切れるけど、この僕に向かって「好き」だの「愛してる」だのと平然と口にする様からも言える。あいつは本当に馬鹿だといつも思う。
 それから。あいつの馬鹿を真に受けてしまう自分も馬鹿なんだろうなと思う。
「恭弥。恭弥、きょーや」
「…何度も呼ばないで。聞こえてる。何」
 休み時間の十分の間に寄ってきたに半眼を向けると、相手は今日もへらへらした顔で「オレさぁテストの点がヤバいんだけど」とちっとも緊張感のない声でさっき返却された紙片を見せてきた。ひったくるように奪って上から下までざっと目を通してを睨みつける。「真面目にやる気あるの?」「これでも頑張った」胸を張るにはぁと溜息を吐いてテスト用紙を押し返す。…これじゃあ落第も時間の問題だ。なんとかしなくては。この場合、彼だけじゃ真面目に勉強なんてしないだろうから、僕がなんとかしなくてはならない。
(そりゃあ、こんな世界でまともに勉強しようなんて気が起きないのは分かるんだけどね…)
 視線を投げれば、密閉されたそう広くもない教室があり、その息苦しさから少しでも解放するためにと教室の壁には外の様子が映し出されている。それは寒々しい白に閉ざされた街の風景。そんなものでもやはりないよりはあった方がよく、僕は無感動に外の景色に視線を投げて、「なぁなぁきょーや」とうるさいを片手で押しやった。
 人手としての労力など機械やロボットが作業に充てられるのが当然であるこの時代、運動が取り柄の人間など必要とされない。もうスポーツを楽しむなんて平和で余裕のある時代でもなくなったし、運動能力が評価されるシステムも失われた。人間に求められるのは機械にはできない柔軟な思考性と処理能力、その他専門的な知識だけであり、運動能力なんてものは問われなくなって久しい。
 機巧人形という従来の機械より遥かに高性能の新しい規格が蔓延るようになってからというもの、人間はさらに機動性を失った。
 僕らが知っている世界は、太陽の弱体化により雪と寒さに閉ざされた、機械での国力の潰し合いを続ける馬鹿な世の中だ。
 差し迫った問題は多大だというのに、それを解決するよりも目先のことを大事として捉え、それこそどうでもいい問題ばかりを取り上げて重要なことは先回し。責任と面倒を負いたくないからと、誰もが自らの首を緩やかに絞めていっている。
 そんな馬鹿な世の中、地上の寒さから逃れるために人は二通りに別れた。
 地上にドーム型の大きな建物群を造りそこに住まう者。地上よりは地中の方がまだあたたかいと完全に世界の現状に背を向け地下に逃げた者。僕らは前者だ。毎日雪国の格好をして、同年代ばかりが集められたせせこましい部屋で将来を担う子供として面白くもない授業を受けていた。
 誰だって理解している。だからこそ、ありえない平和を説くこの教科書の内容が馬鹿馬鹿しくてやっていられない。
 このまま現状維持に徹していたって何も変わらない。状況は少しずつ悪化していくだろう。太陽が今より弱体化すれば地球も終わりだ。寿命が訪れ太陽が死滅するならそれに呑み込まれて地球も終わる。太陽がなければ太陽系は成り立たない。
 たとえ現状維持が何年何十年と続いたとして、何しろ食物が育たないから、食糧問題も今より困窮することだろう。最低なところでは人間も食用として提供されていると聞く。それを考えればここはまだいい方だけど、その目線で見ていられるのだってあとどのくらいのことか。必然、食料の配分を考えれば人口問題も併発する。面倒事は湧くほどあるのに、いいことは一つもない。
 ふっと息を吐いて目を閉じたとき、コツ、と頭に何か当たった。じろりと視線を投げると一つ席を挟んだ向こうでひらひら手を振っている馬鹿が一人。頭に当たったのは丸められた紙のようだ。
 溜息を吐いて紙くずを広げると何も書かれていなかった。なんだよ、わざわざ投げてきたくせに、と睨めば丸められた新しい紙くずが投げられた。ぱし、とキャッチしてこっちに注意を払うでもなく黒板に教科書の要点を書き出している教師の背中に視線を投げ、紙くずを広げる。今度は文字があった。
『終わったらシよう』
「………、」
 ぐしゃぐしゃぐしゃ、と必要以上に紙くずをさらなるクズにしてポケットに突っ込む。
 は馬鹿なのか? ああ馬鹿なんだろうな。こんなもの授業中の教室で書いて投げてへらへら笑ってるくらいだもんな。どうかしてる。馬鹿じゃないのか。いや、知ってたけど。あいつは馬鹿だ。馬鹿以外の何者でもない。
 ……このままじゃ、この世界に生まれた大多数の人間にとって『いいこと』がないままで終わるだろうけど。幸運なことに、僕らは『いいこと』を見つけた。
 とっておきの、僕ら二人だけの、二人だけで幸せになる、甘いものを。
 最初は勉強で凝った身体を動かそうということでお互い適当に拳を打ち出したりして喧嘩のまね事をしていた。
 僕が先手、受けるのが。ワンセット繰り返して交代。
 今の世の中じゃ労働力としてカウントされない人間には不必要な運動能力。僕らにはそれが備わっていた。ただ腐らせるのがもったいないってお互い話して、適当に調べて始めた適当な喧嘩のまね事。それでお互い少し汗をかいて身体があたたまった頃にベッドに入る。
 意味も中身もない、将来役に立つのかどうかさえ不確かな勉強よりも、手に残る実感がほしかった、僕らは子供だった。だから求めた。こいつならいいかな、とお互いに思ったから、求めて、応えた。
「恭弥はきれいだなぁ」
 今日もは馬鹿みたいにへらへら笑っている。僕の手の甲にキスをして「きれいだ」と告げる、その表情の方がきれいだと、思うだけで言ってやらない。ふいと視線を逸らして「ばーか」と軽口で罵るだけ。そんな僕に慣れているはへらっと笑って僕の鎖骨にかじりつく。
 普段からへらへらしてるくせにこういうときだけ独占欲の強いは、痛みを感じるくらいには僕の肌に歯を立ててくっきりと痕を残す。ようやく離れた唇は赤い色をしていて、その赤に、噛みつかれた鎖骨には血が滲んでいるんだろう、と思う。
 唇を飾った赤い色を艶かしい動きでやわらかそうな舌が拭って、いつもよりへらへらへらへらムカつくくらい笑っている相手が言う。
「恭弥おいしい」
「…君の頭はもうちょっとどうにかした方がいい。言葉が貧相だ。いつも同じことしか言わない」
 早口でまくし立てた僕に、だっておいしいよ、とさっきまでの笑顔とは別物でにこりと外面顔で笑った。それに違和感を感じて手を伸ばして作り物の顔をバシンと一つ叩く。「いへっ」痛くしたんだから当たり前だ。途端に情けない顔になって「痛いよ何すんだよ」と主人に怒られた犬みたいになるがいっそ鬱陶しい。
「どうせまた母親に何か言われたんだろう」
 僕が突きつけた言葉にの動きがぴたりと止まった。一瞬だろうと見逃さない。繕うような笑顔を浮かべて「なんで?」なんて言葉で誤魔化そうとしたって無駄だ。僕だってもう憶えた。いい加減に身に沁みた。君は、僕を求めてくれるけど、その行為の代償はいつも君のマイナス要素からきているってことくらい。
「毎度のことじゃないか。君は何か嫌なことがあったらその分いいことで埋め合わせをする。もういい加減憶えたよ。で? 今日は何?」
 突き放すように問い質すと、が口をつぐんだ。だいたいへらへらしてる君には珍しく表情が乏しい。
 …いつもならこの辺りで実は今日こういうことがあってね、と白状して僕を求めるのに。だから恭弥、抱かせて、と卑怯な声音で僕の耳を孕ませるくせに。
 睨みつけていると、ふっと肩の力を抜いたが服を脱ぎ始めた。ぷち、とシャツのボタンを外し始める指に誤魔化されるものかと声を上げかけ、絶句した。
 彼は僕の追求を誤魔化すためにそうしたのではない。僕の疑問に答えるために脱いだのだ。
 お互い肌を晒すことなんてもう慣れたのに、シャツの下に隠れていた彼の肌を見て、僕の身体は凍りついたように固まって動かなくなった。
 おびただしい。そう呼んでも間違ってはいない。それくらいにつけられた、赤い、痕。
 知っている。よく知っている。僕らがお互いにつける痕と全く同じものだ。肌を吸い上げて残すキスマーク。それがあんなにたくさん。胸にも背中にも腕にも腹にも、服で隠せる場所に、あんなに。
 は、と諦めたような笑顔を浮かべたが微笑する。全てに諦めた世捨て人みたいな空気で身に纏うもの全てを取っ払って、上も下も隙間なく赤に埋められた身体で、動けない僕の頬を掌で撫でた。
「かーさんが、とーさんに捨てられたんだってさ」
「……だから? 男のカタチしてれば子供だろうと構わない、って?」
「そうなんだろうな。おかげでこの様だよ。…オレがこーいうこと誰かとしてるってのは気付いてたんだろう。それを取り上げない代わりに…今までどおりに見逃してあげるから…だから、」
 ぐ、と両頬を挟んだ掌が震えていた。「だから、ごめん恭弥」と謝る彼にかけるべき言葉が見つからない。泣きそうだ。が。いつもへらへらしてるが。「オレ、最低な汚れ方しちゃった」と唇を噛む君が震えている。鎖骨の下から咲き乱れる赤い痕。母親につけられた所有印が僕の視界をちろちろと這って、嗤う。
 頬を挟む両手に掌を重ねた。「で?」と眉尻をつり上げた僕にが困った顔で笑う。「こんな汚いオレは嫌だろ」「僕、そんなこと一言でも言ったっけ」「…言ってないけどさ」「じゃあそれは君の気のせいだ。ただの思い込み」僕以外を抱いた手をぐっと強く握りしめる。精一杯の虚勢。それでも嘘じゃない。嘘ではない。そう受け取って、君は安心したように笑って僕にキスをした。

 君が僕以外を抱いた。それが致し方ない理由からだったとしてもやっぱり痛い。胸が苦しい。
 それでも嫌いになんてなれない。
 僕は、君が思う以上に、君のことが大好きだ。
 それに考えてもみろ。もしも君と僕の立場が逆だった場合。君は、致し方ない理由で汚れた僕を軽蔑しただろうか?
 そんなこと絶対にありえないと断言できる。
 だから。僕も、そんなことは絶対にありえないと、君に言ってあげる。
 君が傷つきながら誰かを愛したと泣くのなら、僕が同じだけの愛で君のことを慈しんであげる。君の傷が癒えるまで、飽きることなくこの腕に抱いて、ずっと頭を撫でていてあげる。君が安心して眠れるようになるまで。
 僕らの世界は相も変わらず雪と寒さに閉ざされたまま。唯一あたたかいのは二人でベッドに入るときだけ。
 の母親は新しい男を作ったとかで彼に頓着しなくなり、そこだけが平和に戻って、僕らは何を気にかけるでもなく空いた時間を二人で過ごした。

「好きだよ恭弥。大好きだ。愛してる。オレはきっとお前を愛するために生まれてきたんだね。誰よりも、愛するために」

 そいつは平然とした顔で当たり前のように愛を告げて笑う。
 冬に閉ざされた終焉の近い世界。一歩外へ出れば極寒の大地で機巧人形が国力を疲弊させ合っている。まるで意味のない茶番を大真面目な顔で論争するテレビの映像。差し迫った食料問題。
 二人でいるときだけは周りを取り囲む全てを忘れていられた。笑っていられた。

「君のそういう口説き文句はどこで憶えてくるの? 教科書に書いてないだろう。愛なんて、この時代で口にするの、馬鹿げてるってみんな言うのに。政略結婚と計画的な子供の育成、意識的な人口の操作…そんな時代で、君は僕を愛してるって言う」

 ほんと、馬鹿みたいだよ。僕にはもったいないくらいに、まっすぐで。笑顔をくれて。愛をくれて。愛しいと、求めてくれて。そんな君の笑顔につられていつの間にか僕も笑っている。そんな時間がとても大切だということに気付けた自分が少し誇らしい。
 もういらないと人の世から捨てられた様々なスポーツに二人で勤しんで、競って、その度に勝ち負けでこだわって意地になって、馬鹿みたいに喧嘩したこと。
 真面目に授業を受けていなかったがクラスで最下位を取ってしまい、その汚名返上のため、僕も一緒になって追試の勉強をしたこと。
 無駄にできない加工食品を二人で調理してみようと試みて大失敗して、大目玉を食らったこと。
 それなりに平和で、緩やかに閉じていく未来の中、抗うように手を繋いで、二人で笑ってばかりいた。
 緩やかに。いずれ終わる世界でも。最後には寒さに震えて凍死する世界だとしても。隣に君がいるのなら、僕の心までは凍らないだろう。きっとずっとあたたかいまま溶けていける。そんな確信がある。
 馬鹿みたいな話だけど、僕は、君のいない自分というのがもう考えられないんだよ。
 君が隣にいてくれるのなら、死ぬのだって悪くない。…そんなふうに無責任なことを本気で思っていた罰が当たったのかもしれない。
 僕は流行病にかかった。感染すれば致死率は90パーセントという高い確率で発症する病はまず神経を侵して身体の自由を奪う。自立できなくなった頃には神経を伝って内蔵を破壊し始める。そんな化物みたいなウイルスは一部の人間を除いて猛威を振るった。感染予防に徹底した医者か徹底させた官僚、またはウイルスに見逃された人間しか生き残らなかった。
 僕は侵されたけど、は生き残った。…それだけが救いだったと、最初は思った。この痛みや苦しみを君は知らない。知らないままでいられるなら、それがいい、と。
 思うように動かない手で変わらない彼の肌を撫でて、かわいそうなくらい震えている君が縋るように僕の手を握っているのを見て、分かった。それは、救いなんかじゃない。ただの絶望だと。
 この先、僕を失った未来に、君が思うことなんてきっとない。あったとしてそれはすごく限られている。
 もしも立場が逆だったのなら? 僕を置いて死に行く君に僕は何を思ったろうか? もう生きていく意味なんてないと、自暴自棄にならないと言えるだろうか? 一緒に死のうと、そう思わないと言えるだろうか?
…」
「ん」
 干からびてきたと思う声でなんとか君を呼ぶ。泣いた顔をぱっと笑顔に変える君の芸当には感心する。こんなときでも笑おうと気を遣うのだから。「だきしめてよ」と乞う僕に彼は迷ったように視線を泳がせ、ぐったりとして動かない僕の身体を見た。と同じサイズのTシャツのはずなのに、もうぶかぶかだ。
「でも、寝てるのも辛いんじゃ」
「うるさいな。いいから、さっさと、だきしめて」
 ほら早く、と変色してきている指に力をこめての頬を叩いた。その反動だけで落ちそうになる手を支えた掌は熱い。僕の体温が低くなってきているからそう感じるのだろう。
 時間がない。
 声だってまともに出なくなってきている。僕はもうじき死ぬだろう。
 あんなに一緒にいようと約束したのに。僕は君を置いていかないとならない。
 ぽた、と肌に当たった雫の感触に目を凝らすと、が泣いていた。さっきまでの繕った笑顔はどうした、と呆れてしまうくらいにみっともない泣き顔。まるで捨てられた子供のような。そんなみっともない顔で「きょーや」とやわらかい声音で僕を呼んで、壊れかけている僕を抱いた。当然身体は軋んだ。
 ただ寝かされているだけでも辛いのが本音だ。これ以上痛みなんていらない。ほしくない。
 けど。最後に感じる痛みは、愛故のものでありたかった。
「愛してる。愛してる。愛してる」
 愛しい声が耳朶を打つ。何度でも何度でも飽きることなく同じ言葉を繰り返す。繰り返し繰り返し、身体にその愛が染み込んで、僕を救うとでも思っているかのように。
 身体はもう救いようがないけれど、その言葉で僕の心はふっと軽くなった。気のせいか痛みも和らいだ気がする。
 …愛さえあれば世界を救えるってアレ、案外本当なのかもしれないな、なんてこんなときにどうでもいいことを考える。
 ごめんねと、ありがとうを。百万回言えたらよかったな。飽きるくらい、呆れるくらい、君への感謝と謝罪の気持ちを口にできる時間があったなら。
 つっと目尻を伝った涙に知らないフリをする。
 呆れるくらい、二人の思い出で埋め尽くされた部屋。写真、思い出の品、隅に積まれた埃を被った教科書類。お小遣いを貯めて二人で買ったお揃いの防寒着がハンガーにかけられて僕らを見守っている。
 寝台に寝かされ、愛しい人に抱きしめられ、その体温を感じながら、ゆるりゆるりと瞼を閉じて最後の息をする。
 目を閉じてしまえば、全てが泥のような暗闇の中。
 それに呑まれていくことが心地よいと感じる。
 これが覚めない眠りへの容赦ない誘い。母親の胎内へ戻るかのようなぬるい心地よさ。
 愛しい人の体温がもう分からない。



 彼がどんな声をしていたのか。どんな顔をしていたのか。どんなふうに笑ったのか。泣いたのか。全てがセピアに色褪せて砂のように崩れ黒い色に呑まれていく。
 僕は最後の息をする。
 名前すら忘れてしまう前に、全てなくなってしまう前に。呼んで。最後に。伝える。
 心より。君へ。
 僕は、僕という存在をかけて、君を、

「あいしてる」

 最期まで残ったその想いが、黒い色に掻き消される、その前に。
 僕はお伽話とか夢物語を信じるようなロマンチックな思考は最後まで持てないままだった。
 がどこかから発掘してきた絵本のような、ガラスの靴を履いて王子様に見初められるシンデレラとか、ちっとも信じられないし、非現実的だと思う。
 …それでも。もしも君が、僕への想いを執念に変えたのなら。そんなカタチでも僕のことを愛して求めてくれるのなら。僕はきっと君のもとへ帰るだろう。どんなカタチになっても。雪の一片でも、君を満たす合成食品としてでも、ただの電子記号になってでも、必ず君のもとへ帰る。
 それこそ非現実的だ、って?
 うん。自分でもそう思う。
 けど、なぜかな。僕の世界も未来もここでおしまいなのに、やっぱりのことが心配でね。あんなに心地のいい揺りかごの中にいても、どうしても気になってしまうんだ。僕を欠いた彼のことが。
 だからさ、ここでおしまいなのに、やっぱりまだ終われないって、そう思ってしまうんだ。
(まだ終われない……)
 身体は泥に浸かったように沈んでいる。もう自分のカタチすら分からない。手も足もない。意識だけが浮いている、眠りに落ちる寸前の、危うい思考。
 それでも君を想う愛しさだけが消えずにずっと僕を燻らせている。
 シンデレラは、王子が開催した舞踏会に行って、王子と踊って、十二時の鐘で魔法が解けるのを怖れて家に帰った。王子は彼女を探した。ガラスの靴を頼りに一軒一軒家を当たって彼女を探した。それこそ執念で、一目惚れした女を探した。度重なる邪魔が入ろうともめげなかった。
 ただ待っているだけなんて性に合わないから、僕も、自分の王子様を捕まえにいかないといけない。

 引きずるように鈍い意識は思うように回らない。
 恭弥、と僕を呼ぶ君の声を、もう思い出せないけど。君の笑った顔も、泣いた顔も、怒った顔も、全部思い出せないけど。それでも、僕が君を愛したことだけは知っているから。君が僕を愛したことは憶えているから。分かっているから。大丈夫。きっと辿り着いてみせる。僕は諦めない。死んだくらいで諦めたりしない。
 君の名前を憶えている。
 だから、そこで、もう少しだけ、待っていて。
 きっとすぐにそばにいけるから。だから、あと少しだけ。もう。すこしだけ。ぼくをしんじて、あいして、まっていて。