外出には手袋とマフラーが鉄板となった冬の季節。街路樹は丸裸で枯れ葉を数枚残して寒そうに佇んでいるだけで、ネオンの色が寂しい風景を誤魔化すかのごとく視界でチカチカと騒がしい。
 寒さにかじかむ手をポケットに突っ込んで、外気からなるべく肌を遠ざけようとマフラーに半分顔を埋める。
 いつまでも暑いと思っていたら急に秋がやってきてさっさと通りすぎていき、あっという間に夏から冬だ。一ヶ月前はまだ最高気温が25度を切らなくて暑いと言い合っていたというのに。

 そのうち日本からは春と秋がなくなって夏と冬だけになるんですって。それってちょっと、あれですね。極端すぎて身体はついてこないし、何より、寂しいなぁ。俺、日本の四季はすごく素敵だと思うし、詩的で好きなのに

 どうにも適当で当てずっぽうな内容のサイエンス番組を見ながら彼がしみじみとそうこぼしたので、横で本を傾けて斜め読みしていた僕はそうかもねとか曖昧な言葉を返したっけ。
 どうでもいいようでそうでもない日常の風景がきれいに切り取られて自分の中に保存されている。その事実が少し、いや、結構おかしくて、危うく一人で笑うところだった。
 この僕が。つまらない仕事に就いてつまらない日々を過ごして、代わり映えのしない退屈な日々をグルグルと繰り返す理由がここにある。
「本日はMerry Christmasです! ケーキはいかがですかぁ!」
 駅のデパートがうるさく呼び込みをかけていて、その声で意識を現実に戻した。足は勝手に歩んでいたしいつもの通勤電車のホームを目指していたけど、気紛れに立ち止まる。「今ならワンコイン五百円オフの価格となっております! 早い者勝ちです!」と声を張り上げるのはこの寒いのにミニスカートのサンタの格好をした女子だった。クリスマス当日のこの時間帯にケーキの叩き売りとなれば間違いなく売れ残りだろう。
 五秒ほど考えた。ケーキなんてデリケートな食べ物を持って電車で揺られるのは手間だ。
 けど、サプライズでケーキを買って帰った僕を迎えた彼が顔を輝かせるのなら、見てみたい。
(…仕方ないなぁ……)
 スーツの内ポケットから長財布を引っぱり出し、客引きに懸命なミニスカサンタに声をかけて、人生初のケーキのホール買いをして、いつものホームへと爪先を向けた。
 駅の隅で寒そうにボロ布を纏って蹲っている男。その前を通り過ぎるのは有名ブランドのコートから靴までをフル装備している金髪の女。僕のように景色に馴染むスーツを纏っている人間が大多数。その中にぽつぽつと学生服の男女がいてそばで物乞いする黒人の子供など視界から消し去っているかのように談笑を続け笑い合っている。
 ああ、嫌に時代になったものだと、駅に来る度に思う。
(早く帰ろう)
 ケーキというデリケートなものが入った紙袋をぶら提げた手を意識して、僕もまた、自分にとって不快だと思うものを視界から削除して、いつもの改札を抜けいつもの電車に吸い込まれ、揺られ揺られて、自分の家へと帰る。
 雲雀という家は昔から続く優良な日本人の血族らしい。だから仕事に困らないしお金にも困らない。昔から続く血筋が、僕らの優良性を保証しているから。それはこの現代でもまだ続いている。…要するに、汚い政治家の子供は汚い政治家にしかならないし、金儲けしか考えない医者の子供はやっぱりそういう子供にしかならないというやつだ。
 権力も財力もある雲雀の人間に生まれ、そうあるのが自然なように、僕もまた傲慢な人間に育った。
 先進国と発展途上国の落差と格差が歴然としてきた現代では、発展途上国の人間、あるいは色んな意味で先の望めない人間が先進国の人間に取り入ろうと媚びるのが当たり前。
 烏が増えすぎたから減らす。猿が増えすぎたから減らす。パンダは減ったから増やす。けど、人間は増えても増えても増やし続ける。
 そんな矛盾は当たり前の現実を呼び、世界的な人口の増加によって水と食料不足が深刻化。法なんてものあってないような地域は略奪や殺戮が蔓延り、なくなった国は一つや二つなんてものじゃない。
 バランスを崩した世界が転ぶのにそう時間はかからなかった。
 日本は水には困っていなかったし、食料自給率は年々改善が進められ現在も高い水準を保ったまま、自給がままならないもの以外は不安定な海外との接触を絶っている。それで何とか保たれている平穏は薄っぺらく、皮を一枚剥げば、駅には浮浪者が溜まっているし物乞いだって増えた。『ルールは守るもの』という日本人の良心が崩壊すれば、この国も終わるだろう。
 電車という交通手段は毎度僕をこうして憂鬱にさせる。
 僕は傲慢な人間だった。駅に浮浪者が溜まっていようが誰が誰に脅されていようがどうでもよかった。たいていのことは何でもできたし解決させるだけの力があった。一人で何でもできた。一人でいることに疑問は持たなかったし連れなんて面倒だと独りを受け入れていた。
 それが、変わった。たった一人の子供が泣いている姿を見ただけで。いつも笑って愛想よく物乞いしていた子供が俯いて泣いている姿を見ただけで、震えている小さな身体に自分のコートを被せていた。
 僕が憂鬱な通勤を乗り越え退屈な日々を繰り返す理由。寒さを堪えてケーキの入った紙袋を抱え、足早に夜の風景を横切り、マンションの最上階を目指す理由がある。
 こんな憂鬱な、傾きかけた世界だからこそ見つけたもの。こんな時代だったからこその出逢い。今となってはもう切り離せない僕の半身。
 少し上がった息をエレベーターの中で整え、鏡面仕様になっている扉に映る自分を確かめて、微妙に皺の寄っている眉間を指でほぐす。マフラーと手袋を外して、仕事用に行くときだけつけている眼鏡を外した。
 ポーン、と音を立てて最上階への到着を告げたエレベーターが口を開けばいつものエントランスが僕を出迎え、不格好なガラス細工のランプがオレンジの光を灯した。順番にぽつぽつと灯りを灯していく、その全てがガラス細工で、彼が趣味でやっているものだ。だからあまり上手じゃないけど、僕は芸術とかよく分からないし、これでいい。量産されたような整ったものより、個性的で味のある、世界に一つのものに出迎えられた方が気分がいい。
 すっと息を吸い込んで左手でケーキの紙袋を背中側に隠す。そして、右手の人差し指を銀色の扉に押しつける。『雲雀恭弥様。お帰りなさいませ』合成された男とも女とも思える声が指紋から僕を識別し、扉のロックを解除する。
 僕が開ける前に内側から扉が開けられた。「おかえりなさい!」と元気よく飛び出してきたのは見慣れたグレーの髪と薄いグリーンの瞳。成長期のせいか僕を追い越しそうなほど背が伸びたのに、横幅が追いついてない、どこかアンバランスな細さ。
 彼はアメリカの国籍を持っていたけど、除外された。住んでいた州が家柄だけを重んじる制度に転換したんだとかで、そのとき捨てられたのだそうだ。このままでは体格がいいわけでもなく頭のいいわけでもない自分は生存競争に負けるだろう。早くにそう察知した彼は、だから、生きる可能性の残っている日本までどうにかこうにかやってきたのだ。
 ふわりと香ったのは独特の染料のにおい。…また趣味に夢中になってたんだろう。クリスマスくらい別のことをすればいいのに。
「…ただいま」
 帰り道で抱えた胸のつかえを吐息一つで全て吐き出し、後ろ手に隠していた紙袋を掲げると、彼は目を瞬かせた。「なんですかそれ?」「なんだと思う?」「えー、あー…ああ、ケーキだ。クリスマスだから」紙袋に書かれたMerry Christmasの文字を見つけて忘れてたとばかりにぽんと手を打つ彼に半ば呆れ、その手に紙袋を押しつけて革靴を脱ぐ。コートを脱いでる間にケーキの箱を抱えた彼はまっすぐキッチンへ。
「今日も遅かったですね」
「仕事だよ」
「そうでしょうね。恭弥さんはいつも引っぱりだこですね。あれ、今の使い方あってます?」
「いいんじゃないの」
 日本語って難しいなーと笑う声に肩を竦めて返し、コートを壁掛けハンガーへ。スーツのネクタイを解いて上着のボタンを外し、ベルトを解いて、部屋着のシャツとスウェットに着替える。
 クリスマスまで拘束されたけど、これでしばらく休める。スーツとシャツはまとめてクリーニングに出そう。
「…、フライパン」
「はーい」
 じっとこっちを見て手を止めている彼にコンロの上にフライパンを指すと、視線はあっさり離れて調理に戻った。
 白と黒のチェックのエプロンをつけたひょろ長い後ろ姿を眺めてから僕も視線を外した。
 彼は、所謂メイドみたいなものだ。僕の世話係。普段の家事炊事は彼に任せている。そのかわり、僕は彼の衣食住と趣味を保証している。僕らはそういう関係なのだ。今この時代の日本だからこそ確立した関係。
「恭弥さんは、普段は気にしないですよね」
 ジャッ、と小気味いい音が空腹を意識させる。その言葉に「何が」と返しつつキッチンに寄ると、準備を終えているサラダと、一つのフライパンではあたためられている鳥のトマト煮込みと、今フライパンでいい香りを漂わせているのはハンバーグだ。しかも大きい。「…肉が多すぎじゃない?」指摘すると彼は明るく笑った。
「最近恭弥さんの体重が落ちたので。俺ももうちょっと大きくなった方がいいんでしょ? ならたくさん食べましょ、お互いに」
 さらっと言われたことを理解するのに三秒かかった。「…君は大きくなるんじゃなくて太ればいいんであって…あと、僕は別に変わってないよ」「嘘吐いてもダメですよ。スーツ着た姿見れば一発でわかります。毎日見てるんですから。甘くみないでください」め、と長くなった指が僕の眉間を小突く。
 …なんだよ、その子供を叱るみたいな仕草は。馬鹿じゃないの。僕はもういい大人だっていうのに。
 背丈は伸びたくせに外人の童顔だからやはりどこかアンバランス。見ていて危うい。何かの拍子にぐらりと崩れ落ちそうだ。そうやって世界が転んで起き上がれないように。
 分かったよ、とこぼして僕を追い抜きそうな細い身体を抱き寄せる。「分かったから、君も食べるんだよ」ワイシャツから覗いている鎖骨の出っぱりが不安を煽るほど浮き出ていて、何が変わるわけでもないけど、唇を寄せて鎖骨に押し当てた。
 ついこの間まで子供の背で僕に抱きついていた君が、今は僕より少しだけ低い目線で僕を捉え、困ったように、どこか照れくさそうに笑う。
「大丈夫ですよ。ちゃんと食べてますから。そんなに心配しないでください」
 ついこの間まで子供でしかなかったのに、あっという間にこんな顔をするようになった。僕を気遣って笑うようになった。この間まで、こんなに小さくて、僕のネクタイを締めるのに台を使ってた君が。僕よりずっと小さな手だったくせに、今は僕とそう変わらない長さの指で僕の指を絡め取る。
「今年のお仕事は今日でおしまいですね」
「そうだね。やっとだ」
 有名なパティシエが手がけた台数限定のケーキなんだとか何とか、入っていた案内を律儀に読み上げたが包丁を手にしてケーキを切り分けた。花が咲いてるみたいに見えるチョコレートのコーティングを崩さないよう熱した包丁手に真剣な顔つきでケーキを見つめる様は、あれだ。趣味のガラス細工で専用に作らせた工房にこもって汗水流してガラスと格闘してる横顔と同じものだ。
 ……僕はそういう顔はできないな。何に対してもいつも物足りなさを感じているし、これは満たされることのないもの、あるいは満たされることの赦されないものだと理解している。僕にはきっと一生そういう顔はできないだろう。だから、君が僕の分まで色んなことをして生きてくれればいいと、最近よく思う。
 彼が生きること。それが僕の生きることにも繋がる、と。
「…紅茶? 珈琲?」
「俺は紅茶で。恭弥さんは?」
「珈琲。用意するからいいよ。君はケーキを上手に切り分けて」
 ケーキと向き合っている彼の代わりにお茶の用意をして、カップを二つ並べ、紅茶のポットを用意する。これくらいのものを作れるようになりたい、と彼が見本として欲しがった耐熱ガラスのポット。今のレベルじゃまだ遠い話だろうけど、いつか、彼の作ったポットからお茶が飲める日が来ればいい。
 ポットの紅茶を用意してる間にケーキの準備は終わったらしく、一切れずつ小皿に載せたが珈琲の準備にやってきた。「豆からでいいですか?」「ん」慣れた手つきで軽量スプーンで豆をすくってミルに投入、粉砕し、彼は手際よく珈琲を淹れていく。
 故郷であったろうアメリカにいい思い出はないようで、アメリカンコーヒーなんてよく聞く単語でも、彼は眉間に皺を刻む。だから紅茶を好む。アメリカの文字を思い出したくもないとばかりに頑なに。
 食べるものが甘いケーキだからと苦い珈琲を選んだけど、眉間に微妙に皺の寄った横顔を見ていると、僕も紅茶にすればよかったかな、と思う。まぁ、もう今更だけど。
 お茶を用意して席に着き、クリスマスにクリスマスケーキを食べる、ありふれた食卓の風景が僕らのリビングダイニングでも再現された。
 ケーキを一口食べるなり彼は感激に目を潤ませた。「お、おいしい…!」「…そう?」同じケーキを食べたはずなのに僕は大して感動もできず、食、というか感覚に敏感な彼の言うことなら本当においしいんだろう、程度の意識でオレンジケーキを食べて、安物よりはマシだけどやっぱり甘いそれに苦い珈琲をすする。
 微妙に顰めた顔をしてしまう僕とは違い、彼は幸せそうな顔でフォークを揺らした。
「いいですねぇ。真冬になったのにあたたかい部屋であたたかいハロッズの紅茶、デパートのおいしいケーキ。俺しあわせです」
「…大げさだな。いい加減この暮らしにも慣れていいのに」
 ぼやいた僕に、ふふ、と笑みをこぼした彼の額を長くなった前髪が滑り落ちた。幼さの消えかけた微笑みは子供の無邪気さをなくし、大人への兆しを感じさせる。
「慣れないもんなんですよ。最低限の生活してた頃がまだ身体に染み付いてとれないんです。忘れ去るには時間が足りなくて……でも、本当、夢のようなんです。俺みたいな人間を、恭弥さんみたいにきれいな人が拾ってくれて。愛してくれて。本当に、しあわせなんです」
 幸せなんですよ。そう繰り返して彼は微笑う。
 その唐突な愛の言葉に視線が泳いで、甘いケーキをフォークで切り分けるために視線を落とすことで逃げた。
 …これだ。照れもせずにそうやって僕に思いの丈を伝えてくる。そういうストレートなところが少し苦手だ。僕は言葉なんて重要視していない生き方を続けてきたから、力で物事を支配することばかりしてきたから、彼のように言葉を尽くすことは苦手だ。昔よりは上手になったのかもしれないけど、今もまだ、彼よりずっと喋れないままでいる。
 僕が黙ってケーキを片付けて珈琲をすすっていると、大事に一口一口ケーキを食べていた彼がやっと皿をきれいにした。「ごちそうさまでした。とてもおいしかった」と律儀に手を合わせてガタンと席を立つ。家事炊事が俺の仕事ですから、と徹底する彼にしては珍しく食器を片付けることなく僕の隣にやってきて、何、と視線を上げた僕の顎に指がかかる。逃げる隙のないスマートな流れるようなキスをされて、いつから彼はこんなにキスがうまくなったのか、と束の間考え、やめた。別に拒否するつもりもなかったので目を閉じる。
 触れるだけで少し離れた唇は僕にこう囁いた。
「今日はクリスマスなんですよね。子供な俺に、大人な恭弥さんはプレゼントをくれますよね?」
 ねぇ、と甘える声が僕の耳に甘くこびりつく。
 その甘い声に流されそうになって、そんな自分が少し情けなくて、悔しくて、僕は抵抗するように無感情な声で返した。「何が欲しいのかによるんだけど。物によっては無理だ」受け取り方によっては突き放したと取られる声の本音を見分ける君はくすりと笑って僕の唇を舌で舐め上げる。ぬるくてやわらかい感触が精神を煽って昂ぶらせてくる。分かってそうしているのだから質の悪い子供だ。
「そんなつまらないコト言わないでくださいよ。俺が欲しいものなんて決まってるじゃないですか」
 俺はね、あなたが欲しいです。そう囁いた声は甘く、さっき食べたケーキよりも甘く、くらりと僕の意識を揺らした。目を閉じていると上下左右の感覚を忘れて本当に倒れてしまいそうだ。
 ちろちろとくすぐるように唇をつつく舌と、「ひょーやしゃん」と甘える声がおかしくておかしくて。吹き出して笑ってしまってからべちんと彼の頬を両手で押さえて顔を離させ、目を開ける。プレゼントを期待する子供は餌を待つ忠犬にも似ていて、期待に満ちた目でこちらを見ている。
(…しょうがないなぁ)
 そんなに僕が欲しいなら、仕方ないから、あげようか。