(退屈……)
 毎日何十回と思うことを今日もまた思った。
 一度目、朝の起床時。どうせ今日もいつもどおりの毎日が始まる。そう思っただけで退屈という言葉を連想した。変わらない毎日。代わり映えのしない日々。周囲に言わせれば、穏やかで、平和な。僕にすればただの怠惰でしかない時間。
 二度目は朝食の席で。今日も今日とて大した議題もないのにわざわざ朝食の席で国政についての話をする。僕が少しでも関心を持つようにという無駄な配慮らしいけど、今日の僕も右から左へ話を聞き流すだけで何も頭に入ってこない。
 三度目はつまらない音楽の時間に。四度目は流し読みするだけの歴史の教科書に。五度目はティータイムのときに。六度目は昼食のときに。
「恭弥、父と狩猟に行かないか」
 七度目の退屈を思い浮かべたとき、父が馬と狩猟用の銃を用意してやってきた。僕に誰も勝てる相手がいないという意味で退屈だった剣の稽古の時間が終わる。
 どうせまた小うるさいことを言ってくるんだろうと思いつつも僕は二つ返事で行くと言った。どうしてかって、そうでもしないとまた退屈に溺れるからさ。それ以上に理由はない。
 どうせなら馬なんか使わないで自分の足で歩いて走った方がよっぽど運動になるのに。最近この人お腹が出てきたみたいだし。と、言わないで黙って馬に跨ってさっさと腹を蹴った。退屈しのぎに行ってあげるだけだ。コミュニケーションなど取るつもりもなかったので、ルールの確認だけしてさっさと父と別の道を行く。
 いつもと同じ、先に獲物を仕留めた方の勝ちだ。そのときは空砲を空に撃つことになっている。言うまでもないけど毎回僕が勝っている。喧嘩事で僕の右に並ぶ奴はこの国にいない。
 さっさと離れていく僕に「たまには手加減してくれよ」とやる気のないことを言って父は茂みの中に入っていった。…手加減をと言う前に自分の腕を上げることを考えた方がよっぽど前向きだ。
「はぁ……」
 ガシャ、と銃を構える。照準するのはいつもと同じ森の風景。この辺りは兵士が常時管轄している森だから許可された人間しかいないし、あとは狩猟用に放たれた動物と野生動物くらいで……なぜだかやる気がなくなってきた。どうせ僕が勝つんだ。本気でやったらこれもすぐ終わりだ。
 やる気なく手綱を緩めて適当に歩けと馬の腹を蹴る。ぱかぱかと適当に歩き始めた馬の足に行き先を任せ、馬上でぐっと伸びをする。…雲行きが微妙だ。雨でも降るかもしれない。
 ぱか、ぱか、ぱか。馬が平和に歩き続け、どことも知れない場所で足を止めた。足元の草を食み始めたらしい。
 顔を前に戻すと、どこからどこへどう抜けたのか、目の前に紫色が広がっていた。花だ。群生している。
 ざく、と馬から下りて足元の草を踏み潰した。ざくざく踏んで適当なところでしゃがみ込む。紫の花はそれなりにきれいだった。城では明るい色の花ばかりが目立つ。どうせ飾るなら僕はこれくらい大人しい色の方がいい。
 眺めていると、ぽつ、と額に雫が落ちた。仰げば、ここだけぽっかりと空間が空いていて木々の枝葉が邪魔をしていない。なんでだよ、と舌打ちしてキャップを深くかぶり直す。全く面倒だ。退屈も嫌いだけど、面倒なことはその次に嫌いだ。
 ぽつぽつと布地を打つ雨粒の量が増す。この雨なら父だって諦めるだろう。僕も城に戻ろう。
 草花を踏んで立ち上がったときだ。僕が出す音とは別に、しゃく、とやわらかい音がした。とっさに構えにくい銃よりも使い慣れた剣の柄に手をやり視線だけで音の原因を探すと、すぐに見つかった。狩猟の動物、ではない。眠そうに欠伸なんかしている。「雨かぁ…」参ったなぁ、とぼやいてのろりと起き上がった相手がそこでようやく僕に気がつく。
 金髪碧眼。この国の人間、じゃないな。一般人…はここに入れないはず。普通の方法なら。忍び込んだっていうなら話は別だけど、それならコイツは侵入者で、兵の前に突き出さないとならない。
 僕は相手のことを睨んでいたけど、向こうはぼやっとしたどうにもはっきりしない表情で僕のことを眺めていた。
 ざあ、と一気に雨が降り始める。
「…ここは一般人は立入禁止だよ。国が所有してる森だ。知らないの?」
 念のため訊ねると、えっ、と目を丸くされた。初耳ですって顔だ。「え? そうなの? つい逃げ込んじゃったから…じゃあ追ってこなかったのってそのせいか」なるほど、と頷いた相手のフードがずれた。この国では目立つ金髪碧眼に、ばさ、と落ちた分厚いフードの下に隠れていた首輪が顕になる。
 異国民の、奴隷か。話から推測するに、奴隷商の手から自力で逃げ出してこの森に逃げ込んだ。
 考えている僕に向こうは構わず、奴隷の彼は紫の花を摘み始めた。無防備というか相手を警戒しないというか…。聞いたことのない歌を口ずさみながら、ひたすら花を摘んでいる。
「君、奴隷?」
「そうなりますねぇ」
「逃げた先がここだったってこと?」
「うーん。夜だったし、闇雲に逃げたから、偶然来ちゃったんだけど。侵入者だね。捕まっちゃうなぁ。せっかく逃げたんだけど」
 手を止めることなく摘んだ花をいじっていたかと思えば、「でーきた」と手を掲げた。紫の花輪が雨粒を受けて煌めいている。
 その手首を拘束する鉄の色がとても似合っていなくて、ジャラ、と鎖の音がしたことでそれが現実だとわかった。
 さく、と立ち上がった相手に剣を抜きかけたけど、足枷までしてる相手に意識が惑う。
 剣を抜くまでもない。何をされようとも一撃蹴飛ばして転ばせば、相手はとっさに起き上がることもできず僕の勝ち。
 鎖を引きずって歩きにくそうにしながらやってきたそいつは僕の頭に花輪をのせた。「よく似合うね。いい組み合わせ」一人うんうんと頷いて満足そうにしたかと思えば、どさ、と急に座り込んで「腹減ったなぁ」と情けない声を漏らす。一人で忙しない奴だ。
(何か持ってたっけ…)
 よく見れば、彼は憐れになるくらい痩せ細っていた。そんな痩躯に手枷足枷をつけて首輪までされている。さすがの僕でもかわいそうだと思ってしまう。
 ポケットを探ってみたけど余分なものなど持っているはずもなかった。ち、と舌打ちして草を食んでいる馬に跳び乗って手綱を取る。
「雨の当たらない場所で待ってるように」
「え?」
「二度は言わない」
 雨に濡れて泣いているように見える顔を残して馬を駆り、飛ぶように城に戻った。父とは会わなかった。その方が都合がよかった。
 食料庫の見張り番の兵士を押しのけ古そうな扉を蹴破って天井からぶら下がった干し肉の塊をぶんどる。乾燥させた野菜と果物もいくつか皮の袋に突っ込んだ。「恭弥様っ」と慌てる兵士がうろうろしている。止めるでもなければ外に知らせるでもない怠惰。しかも鍵を携帯してないって言うし。
 この国は腐っている。城のお膝元でのさばる奴隷商を見つけられないくらいには。
 この国が平和なんじゃない。あまりに腑抜けで犯罪を見抜けないだけなんだ。…僕も含めて。
 最後に水の入った瓶を掴んで馬に跳び乗り、雨に煙る森の中へもう一度走る。
 僕の馬は賢いから、ちゃんとさっき行った場所に向かった。紫の花が群生している少し開けた場所。
 彼は木の根っこに頭を預けてぐったりしている。
 花がぐちゃぐちゃになるのも構わず馬で近くまで行った。ざくざくと花が潰される音で薄目を開けた彼が僕を見上げる。「あれ? なんで戻ってきたの?」「うるさい」少し雨を吸ってはいるけど彼の雑巾みたいな生地の服よりマシだろ、とコートを放る。受け取ることもせず頭から被った相手は僕の行動に戸惑っているようだった。
「きみ、お城の人なんだろ? オレのこと捕まえなくていいの?」
「君は何も悪くないんだろ」
 恐る恐る、という手つきで僕のコートをつまんだ手はまるで年寄りのものみたいに節くれだって荒れていた。一体どんな扱いを受けていたのか、想像に難くない。それなのに笑うということをしてみせる相手に感心もする。
 一発殴ったら折れそうな細い身体は、僕のコートを着ても同じだった。
 水の瓶と、革袋から乾燥野菜と乾燥果物、干し肉の塊を取り出すと彼は顔を輝かせた。金色の髪と明るい瞳のせいか本当にキラキラして見えるから不思議だ。
 ナイフを預けるとさっそく干し肉と格闘を始めた。そう硬くはなかったようで、布地みたいに避けた肉片を口に放り込んでもごもごしてる顔はとても満足そうだ。
「にふほふぁ、ひふぁひふふぃ」
「…食べてから喋って」
「ふぁーい」
 硬い肉を噛みながら喋ろうとする彼をジト目で睨んで一言言ってからシャツをさする。コートがないとさすがに寒いな。雨だし。とりあえずの食料は届けたし、一度城に戻ろうか。いい加減父も帰ってきているはず。
 とん、と地面を蹴って立ち上がった僕を青い瞳が追いかけてくる。「帰るの?」「寒いからね。それは全部あげるから、雨の避けられるところにいるんだよ。花の中とか論外だ」「あはは」笑った相手がとんとんと自分の頭を叩いた。「よく似合ってるよ、それ」と紫の花輪のことを言ってくる相手にふんとそっぽを向いて馬に跨り帰城する。
 あれこれ世話を焼いてくるメイドその他を鬱陶しく感じながら、濡れた服を着替え、食料庫の扉をぶち壊したことを母に怒られ、持ち出したものをどうしたのかという問いかけには全部食べたで押し通し、僕が早々に狩猟に区切りをつけたというのに一人で狩っていたらしい父がカモを獲ったと自慢してくるので適当に流して、やっと部屋に戻った。
 ぼふ、とベッドに転がる。やわらかくて清潔なベッドは、花の中に転がっていた彼を自然と想起させた。彼は今頃硬い地面の上に寝転がっているのだ。それか、まだ夢中で干し肉をかじっているのかもしれない。

 都合のいい出逢い方だと思った。
(ただの偶然。僕が狩猟のために森に出向いたのも、奴隷の彼がこの森に逃げ込んだのも、ただの偶然だ)
 かわいそうなくらい痩せ細っているのに、手枷足枷首輪までつけて、憐れだと思った。
(人を憎み恐れるなら当然のことなのに、明るくて、よく笑う。僕よりもずっと)

 メイドに取り上げられそうになって死守した花輪が投げ出した視界の中で一際色を放っている。派手な色じゃないのに、地味なくらいなのに。
 一度横になった身体を億劫ながらも起こして、命短いだろう花輪を頭にのせて図書室を訪れ、紫の花のことを調べた。理由なんかない。ただなんとなくだ。
 彼が花輪として僕の頭に飾ったあれはクレマチスと言う名前で、『精神的な美しさ』『貧弱』といった意味があるらしい。どちらも花の見た目からきているだけの言葉だ。見た目からきた言葉じゃ花言葉って言えないんじゃないか、と文章を流し読みして、『あるいは企み』という付け足されたような一文に目が留まる。
 同情を誘えるみすぼらしく痩せ細った身体。手枷、足枷、首輪。奴隷という境遇には似合わない自然な笑顔。
 都合のいい出逢い方。
(考え過ぎだ。違う)
 一つ頭を振ると、ひらり、と紫の花弁が舞って図鑑のページに落ちた。
 …退屈だったんだ。ちょうどいいじゃないか。かわいそうな奴隷を証言者にして奴隷商を叩き潰して、平和を説く父の鼻っ柱を折ってやって、平和だと嘯く周囲を切り崩してやろう。